甲 冑 の 値 段



野崎 相馬野馬追い祭の甲冑を製作しておられる方に聞いたのですが、「十字軍の時代に甲冑を着て馬に馬鎧を着せ、従者と予備の武器や換え馬をつれて出陣する費用を当時の小麦の価格を基準に出してみたら、1950年代のイギリスでセンチュリオン重戦車を調達する位の金がかかっていたとイギリスの金属史学者エイチソンが言っている。
 相馬でも、『家の新築は三代の稼ぎ、甲冑の新装は五代分の稼ぎが吹っ飛ぶ』といい、殿様と城代家老くらいしか代替わりに甲冑の新調は出来なかった。
 野馬追いの甲冑も調べると兜の鉢が鎌倉、胴は室町、籠手脛当は江戸後期、と言うように各時代の改造と寄せ集め。戦国時代の中級以下の武士も同じ様な物で仕返し(scrap and build)に、倒した敵の甲冑のパーツを組み合わせたりして適当にやっていたらしい。黒沢 明の『七人の侍』に出てくるように不揃いだったと思う」との事でした。
 ちなみに相馬藩は武田流の軍学でしたから、野馬追いで軍使の役になるとムカデの旗指物を付けるそうです。


三浦  小生も過去に「甲冑の値段」を割り出したことがあります。最初は「スーツよりは高いだろう」くらいの思っていました。「まあ車一台分」くらいか。車といってもカローラもあればベンツもある。小生の場合は米価で換算しました。当時米は高級なたべもので、庶民の口にはなかなか入るものではなかった。こうしたことを踏まえて考察を重ねた結果「豪邸一軒」買える分と分かり驚きました。また物資が乏しい当時では、今では想像もつかない程大変なことだったでしょう。
 このために相当な階級の武士でも「仕返物」を当然のように使っていたでしょう。鎌倉期の兜を戦国期に用いた代表的遺物として和歌山県淡島神社蔵(重文)「二十四間二方白星兜」があります。古今東西を問わず、戦争とは何とお金のかかることでしょう。
 『七人の侍』、ありゃいい映画です。当時黒澤明の若かった。だから聞く耳を持っていたのです。時代考証にも当時の相当な研究家が携わっていたと聞いております。若くしてあれだけのものを撮りながら晩年の『影武者』や『乱』なんてものは… これ以上は誰がご覧になっているか分からないので言いませんが(笑)


野崎 木下籐吉郎が松下之綱の家来だった時に「尾張では桶側鎧でなく胴丸というものを使っている」と言って興味を持たせ、之綱から胴丸の購入代として金六両を預かって尾張に行き、そのまま織田信長の家来になってしまう話があります。胴丸が金六両ですから高いですね。
 馬を飼育するのも大変だったそうです。故末永雅雄先生の随筆に、騎兵将校だった末永家では乗馬の為に退役軍人の飼育係を雇用していたとありました。ガソリンいれれば走る自動車と違い、24時間グルーミングや餌やりの手間がかかるから、専門の飼育係が住み込みで世話をしないと駄目だそうです。

(間話休題)「甲斐の駒」

「ぬばたまの甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒」
  『日本書紀・雄略天皇紀』 処刑が決まった猪名部工匠(いなべのたくみ)を赦すため甲斐の黒駒に使者を乗せて派遣し間に合った時の歌。
 おがさ原焼野の薄(すすき)角ぐめば すぐろに迷う甲斐の黒駒 (藤原俊成)
  『夫木和歌抄』
 「厩戸王子(聖徳太子)の甲斐の黒駒」
   『異制庭訓往来』

甲信越の古代の牧
『延喜馬寮式』
 御牧 甲斐国 柏前牧、真衣野牧、穂坂牧
信濃国 山鹿牧、塩原牧、岡屋牧、平井手牧、笠原牧
    高位牧、宮処牧、植原牧、大野牧、大室牧、猪鹿牧、
    萩倉牧、新治牧、長倉牧、塩野牧、望月牧
御牧はこの他武蔵国、上野国にありました。
 逢坂の関路にけふや秋の田の穂坂の駒をむらむらと牽く(堀川院百首)
 あしひきの山路遠くや出つらむ 日高く見ゆる望月の駒(平 兼盛)
平安末期からは陸奥の駒のほうが有名になります。
みちのくの安達の駒はなづめども今日逢坂の関までは来む
みちのくの小渕の駒も野飼ひにはあれこそまさめなつくものかは(後撰)
綱絶へて離れ果てにしみちのくの小渕の駒を昨日見しかな(相模)
 信玄公、謙信公、信虎公、及び家臣の名馬は『甲陽軍鑑』に見えますね。「鬼鹿毛」とか。


三浦  「桶側鎧(胴)」とは「横矧胴」の俗称で、鉄板もしくは革板を上下に矧ぎ合わせて作られた胴をいいます。一般にこうしいた胴の形態は当世具足に多くみられ、言うまでもなく江戸期のものがほとんどです。天正後年に東国で漸くこうした形態を示す最上胴が発生します。少なくても天文や永禄の頃には発生していないと思います。当時は尾張に限らず胴丸、腹巻が流行した全盛期であります。
 馬について一言。当時の馬は一度に何十キロも走れるものではありません。その点、我々が自動車と混同している節が確かに認められます。これが幕末に西洋から蹄鉄が伝えられ、軍馬として飛躍的に向上したといわれています。蹄鉄が無かった当時では草鞋をはかせるなど、蹄の保護に大いに気を付けたそうです。しかし、戦場などで激しく運動すると蹄を割ることがあり、馬はその時点で使い物にならなくなったといいます。それとキン抜きをしていないから発情期には大変だったでしょう。これは日清戦争の体験談ですが、これ以後は西洋に習ってキン抜きを行うようになりました。


野崎  桶側胴と胴丸の話は頼 山陽の『日本外史』豊臣氏上、に出てくる話です。山陽先生の時代はまだ甲冑の研究は進んでおらず、復古様式の大鎧のつもりで胴丸を作ってしまったりしていた時代ですから。
 伊達政宗の甲冑は現存するもの4種、実際に着用していたのは瑞鳳殿の墓所に副葬、控えが仙台市博物館、家来で政宗公より拝領というのが菅野家と水沢市駒形神社にありました。袖と細部以外はほとんど同じ物です。伊達家は旗本も同じ甲冑で、兜の前立てが大将は三日月、旗本は上弦の月と定めていました。
 「負けた時は前立を外して家来に紛れ込んで逃げるためサ」と考証した人もいます。


三浦  頼山陽の時代に武士がいかに堕落していたかということになります。当時はヨロイの着用法はもとよりカブトの被り方ですら知らない武士がごろごろいたのです。そんな時代に書かれた軍記物なんてまるっきり信用できませんよね。


野崎  兜は「一頭」と数えるんですか?『貞丈雑記』に「味方の兜は一頂、二頂と数え敵の兜は一刎(はね)、二刎と数える」と恐ろしい事が書いてありますが。
 江戸の軍学者は史料もない過去の戦を勝手に脚色していますが、自分の殿様を悪く言えない事情もあったようです。戸部正直『奥羽永慶軍記』は主君の佐竹氏を誉めちぎり、滅亡した最上義光は極悪非道の領主にされています。まあ、山陽先生の『外史』執筆目的は別にあったのですが。


三浦  伊勢貞丈の時代の研究は未だ模索の段階であり、その評価はなされているものの現在とは比較になりません。奈良、平安期の文献には「一枚」と書かれたものもありますし、この他にも沢山の数え方があります。しかし、現在の研究においてはこれらとの混同を避けるためにも「一頭」でほぼ統一されていることをご認識下さい。
 江戸期の書物に神君家康のことを悪く書いたものはありません。これと同様で徹底した検閲があったものと推測しています。


野崎  『貞丈雑記』も批判に耐えませんか、そうすると緑川さんの『甲冑便覧』なども駄目でしょうね。


三浦  『甲冑便覧』、『武用辨略』等に書かれていることには理屈に合わないことが沢山あります。また、『単騎要略』等が刊行された背景をお考え下さい。この時期に書かれた軍記物のレベルが分かるでしょ。甲冑の研究は現物を見て歩くことだとよく先輩に言われました。




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