甘 利 氏 に つ い て



篠崎 武田軍団が好きな篠崎と申します(今年も信玄祭を見に行きました)。僕の知り合いに、甘利備前守の末裔だという人が居ます。塩山に旅行をしたとき、知り合いの祖父(甘利という名字をお持ちでした)にお会いしたとき、柿をたくさんいただいたときは、とても感動しました。
 甘利と言えば、虎泰と昌忠の二人だけ分かるのですが、甘利の系図とかエピソードなどを記載した本は何処で手に入るのでしょうか?甘利に関することを、色々知りたいと思っています。よろしくお願いします。


宮下帯刀


>甘利の系図とかエピソードなどを記載した本は何処で手に入るのでしょうか?

 坂本徳一著『武田二十四将伝』新人物往来社発行(P134〜140)が一番詳しい本と思われます。甘利氏の研究は史料不足ゆえか、されていないと言っても過言ではなく(調べたところ黒田基樹氏の「武田氏の西上野経略と甘利氏」『戦国期東国の大名と国衆』という論文がありました)、前掲の本に頼らざるを得ません。「甲斐国志」人物部第五に甘利虎泰、昌忠、信康、信恒、次郎四郎某、次郎三郎郎某、彦五郎某が載っておりました。



篠崎 昌忠は虎泰の長男、信康は虎泰の次男(設楽原に墓があるそうですね)でしたっけ?記憶違いでしたら、ご指摘願います m(−−)m
 信恒、次郎四郎某、次郎三郎郎某、彦五郎某も、虎泰の子供達でしょうか?またまた質問をしてしまいますが、教えて下されば幸いです。本屋に行って、坂本徳一著『武田二十四将伝』があるか見てきます。



宮下帯刀 わかる範囲内でご返答申し上げます。

>三郎次郎信恒・・信康の男。(「武田三代軍記」)
>次郎四郎某・・・甘利氏の家督を嗣ぐ。昌忠の男か。
>次郎三郎郎某・・虎泰の二男か。(「後風土記」)
>彦五郎某・・・・甘利采女の子。小姓衆。田野で討死。


といったところです。



石野真琴 忙しい御屋形様、及び質問された方の為に、手元の甲斐国志より甘利氏を見てみます。
 甘利氏は一条次郎忠頼の後より出るとあります。一条氏と言うことであれば、甲斐源氏の血を引く一族と言う事でしょうか。甘利備前守虎泰の父はわからないそうです。
 甘利左衛門尉昌忠は諸記に晴吉とあるそうで、虎泰の息子だそうです。この昌忠は甲陽軍鑑では馬より落ちて永禄七年に死す三十一才とあるが、八年、九年、十年の書状が見つかっているので永禄十年以降に死んだものと見られます。
 軍鑑によればこの昌忠には二人の妹があり、安中左近(上野碓氷郡安中城の安中左近大夫景繁)、万西左衛門(万西は坂西の当て字で、信濃伊那郡飯田城の坂西左衛門尉)に嫁ぐとあります。
 甘利郷左衛門尉信康は、昌忠の子か弟か判明しないが、永禄十年の起請文、及び武田信玄の手簡に一徳斎(真田幸隆)、金丸筑前守と連署がある。したがってこの時期に甘利の家督を継いだものか。
 甘利三郎次郎信恒は永禄八年、栗原藤三郎後家を甘利備前守の息子に嫁すとある。従って郷左衛門は弟、信恒は息子であろうか。
 他にも甘利次郎四郎、甘利乙吉時光、甘利三右衛門、甘利彦五郎の名があるそうです。


宮下帯刀 甘利氏について少々補足します。
 甘利虎泰は譜代家老衆、同心衆150騎持だったそうです。武田家中きっての軍事巧者でしたが、天文17年2月14日の信濃上田原合戦において討死を遂げました。その後、嫡子昌忠(後に信忠と改名)が家督をついだといわれています(『武田信玄大事典』)。 
 甘利信頼という人の書状(天正3年6月9日付・三科権右衛門尉宛)が残されていますが、人物の詳細は不明です。



SHIN太郎


およね 甘利信康について「長篠、設楽原合戦の真実」雄山閣 名和弓雄著に載っていましたので紹介します。
 信康は武田軍鉄砲大将として高名で、長篠合戦前は長篠地区で住民の宣撫工作をしていたが、住民が敵についてしまったので、それをうらみ、長篠合戦に敗北すると庄屋の門によりかかって、立ち腹を切ったという話がのっていました。



宮下帯刀 逸話をご紹介下さり有難うございました。甘利氏に限らず、また何かお知りのことがございましたらご教示ください。


およね 甘利虎泰亡きあとは、若年の昌忠が後を継ぎ、当時武名の高かった米倉重継が甘利衆同心頭として甘利衆を強力に補佐していました。


宮下帯刀 そのようですね。知っておられるとは思いますが『甲斐国志』に一族の詳細な記述があります。また米倉重継は、竹束を創始したことであまりにも有名ですね。
 米倉六郎右衛門尉種継が慶長五年四月二十日に信玄の位牌を高野山に建てていることはご存じでしょうか。



およね 知りませんでした。
 種継の墓は、神奈川県中井町の米倉寺にありますが、地元では、寂しいかぎりではありますがほとんど知られていません。種継は信玄没の時25歳で、その後89歳まで生きたので信玄を直接知る数少ない武田遺臣でありました。



宮下帯刀

「武州大里郡住米倉六郎右衛門尉種継建之、
 月、甲州守信玄大居士 神儀、
 慶長五暦卯月廿日 逝去三(四)月十二日」

 上記のものが、高野山持明院所蔵『武田家過去帳』に収められている記録です。何故か没した月を間違えて位牌に記していますが、この行為には敬服致します。



およね 米倉種継は、数ヶ月後に迫った関が原合戦を前にして建てたのですね。記録には見当たらないながらも、種継と信玄の密接さがうかがわれます。
 種継は中井町に来る前は、武州大里郡に住んでいたのですね。(大里郡ってどこいらへんかわからないけど)



野崎 武蔵の国大里郡は熊谷氏発祥の地で、今の埼玉県熊谷市だったと思います。


宮下帯刀 武田氏滅亡直後の米倉氏(武川衆)は、家康によって遠江国桐山(静岡県金谷町・榛原町)に匿われていたようですね。


SHIN太郎 甘利・板垣と言えば両職として有名ですよねぇ。前々から疑問に思っていたのですが、家督を継いだ者(昌忠・信康(板垣はどなたが継いだか知りません…))は武田家中において、どのようなポジション(役職・立場)になっていたのでしょう?
 信長の野望 将星録では大名の実子でも足軽頭からスタートしますが、実際にはそんなはずはないと愚考するのですが…。ゲームとは違ってはっきりとした役職があるとは思いませんが、やはりそれ相応の兵を指揮する立場に就くのだと思うのですが…。
 武田家と言えば「合議制」というイメージがあるのですが、若年で家督を継いだ昌忠等の発言力はどうだったのでしょう?皆さんのご意見をお聞かせ下さい。



宮下帯刀 甘利昌忠は父の死後、「両職」の地位と同じ軍役(150騎役)を継承しています。

>板垣はどなたが継いだか知りません
 板垣信方が上田原合戦で討死すると、嫡男の信憲が継ぎました。所領・同心衆はそのまま安堵されたようです。しかし「諏方郡代」の地位は、幼少のため継承されませんでした。
 
>武田家と言えば「合議制」というイメージがあるのですが
 信玄は家臣の言葉によく耳をかたむけたようですね。


石野真琴 武田家には、確かに「合議制」と言うイメージがあります。これは甲斐国内に小山田氏を初めとする幾つもの大豪族がおり、武田家と言えどもこれらの大豪族を無視しては、甲斐国内の治安維持さえ不可能であった為だと考えられます。
 一説によれば、板垣信方は晴信の守り役であったとされます。守り役と言えば父信虎に変わって晴信を育て、弓矢を教える師匠でしょう。そう考えると家督を継いだ晴信に、換言する役目を担っていた事は想像できます。
 甘利虎泰も信虎時代に軍功があり、信方が強い信頼を寄せていたのでしょう。
 その板垣・甘利が死した後、若く軍功を持たぬ者が後を継いだからと言って、その言葉を聞くか、と言えば聞かないのでは無いでしょうか?
 その結果、飯富・馬場・古典厩信繁等の発言力が強くなったと考えます。
 父の家督を相続しても、父の発言力をそのまま維持したのは、陣馬奉行原昌胤や小山田出羽守信有(父は越中守信有)あたりでしょうか。
 戦国期の武将の理想は、ある程度の年齢となると、仏門に帰依して法体となり、家督を子に譲り、後見として子の戦を見守り、子に戦功を立てさせ、発言力を維持する。
 真田一徳斎こと幸隆は、そのような手順で嫡子信綱に家督を譲り、真田家の権威を保ったのだと推測しています。



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