武田二十四将の24って?



和泉 この間、本を読んでいたら、武田二十四将の24とは、江戸中期にできた浄瑠璃?の「本朝廿四孝」にちなんで出てきたとありました。この本朝廿四孝とは、武田信玄と上杉謙信の争いを描いたものらしいのですが、何分不勉強のため、はっきりと内容は知りません。
 武田二十四将と言えば、メンバー、人数共に人によってバラバラで面白いと言えば面白いのですが、そもそも、24とは何処から来たのか?みなさんは、どう思われますか?


宮下帯刀 武田神社発行『武田二十四将略伝』の「武田二十四将について」に詳しく記載されています。高い本ではないので、購入されることをお勧め申し上げます。
 同書には「24」という数字は「二十四気」や「二十四孝」などの名数から取られていることや、江戸中期に「四天十八将」、「甲陽二十二将」などの呼び名もあったことが記されております。


石野真琴 御屋形様が忙しいそうなので変わって、本朝二十四考について調べてみました。江戸時代の浄瑠璃及びこれに基づく歌舞伎劇、近松半二他の合作で、1766年竹本座で初演、武田信玄、上杉謙信の抗争を背景に、信玄の子勝つ頼と謙信の息女八重垣姫(?)の恋愛や、両家の軍師山本勘助、直江山城守の活躍を描いたもの(十種香)(狐火)などの場面が有名とあります。これはマイペディア電子辞書より抜粋です。
 同じくマイペディアより、二十四考と言うのは、中国古来の代表的な孝子24人の伝記と詩を記した教訓書とあります。
 以下は私の想像ですが、2の倍数は縁起が良く、4方・四季と言うように、4の倍数も縁起が良いみたいなので、十二神将とかが生まれたものと推測できます。その倍の24という数字も縁起が良く、現代まで生き残ったのでは無いでしょうか。
 ただし、武田二十四将の選出に関しては、幾つか疑問があります。例えば、真田関連では(御屋形様と違って私は真田が専門)真田幸隆の選出は当然としても、嫡子で真田の家督を継いだ信綱は、第四回川中島合戦以降、真田家の家督を継いで信濃先手方として活躍したとして、永禄四年から天正元年までの十二年間に過ぎません。
 武藤喜兵衛(真田昌幸)の選出に関しても、元服後軍監として活躍したとしても、信玄配下としては十年たらず。手柄は花沢城の二番槍と、三増峠の一番槍程度で、信玄配下としてはそれほどの手柄は無いはず。
 それに較べて、真田幸隆は天文十三年頃(信玄が武田家の家督を継いだのが天文十年)に武田家に随臣し、信玄が死ぬまでのおおよそ三十年間に渡り、信玄の配下として武田家の戦を支えて来ました。
 真田の名が何人も二十四将に入るのは、江戸時代に真田昌幸・真田幸村の名に人気があった為と、推測できるのです。
 また、当然入るべき荻原常陸介昌勝や、小山田信有(信茂の父、祖父)、小宮山丹後守昌友、原加賀美守昌俊(昌胤の父)等が抜けている。まあ、息子が入っているから良いかという説もあるが、これには甲陽軍鑑の影響によって、信虎時代の勇士を作為的に抜いているのではないか、と感じてならないのです。
 荻原は信虎時代の勇者で、信虎に弓矢を教え、晴信にも弓矢を教えた人物とされます。信玄が武田家の家督を継いだ裏に、重臣板垣と荻原がいたとされる程ですが、信玄の時代にはほとんど活躍せずに病死しています。しかし、信玄が生まれた頃に今川勢を追い払った功績は、武田家臣団の中でもトップに君臨するはずなのです。
 そう言った点で、二十四将の選出は江戸時代であり、その時の思想を大きく受けていると判断する事が出来ます。問題は二十四将に選出された武将に関しては研究が進むが、選出されていない武将については思った以上に研究されていない点にあると思っております。
 ふと、思い当たる事があったので書きます。真田信之(信幸)は、浄瑠璃の作者であった、小野お通と深い関係があり、2代目お通(娘)との間にはたしか子供があり、後に松代藩の家督を継いだ信弘であったと思います。
 真田家と浄瑠璃とは意外な関係があったのです。それを考えると江戸時代に作られた武田二十四将が、浄瑠璃を元に作られたものであるならば、真田の名が複数あるのも、頷けるような気がしてきました。
 うーん、真田信之が京都で付き合ったと言うお通との関係が、後の武田二十四将と関係してくるとは・・本当かな???まあ、眉に唾付けて読んで下さい。


和泉 話は変わるのですが、『武田二十四将略伝』には、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光は、後三年の役での功で、甲斐国主に任じられたとありますが、大治(1130)12月30日の『長秋記』によると、義光の孫の清光濫行を理由に清光の父義清、そして、清光が甲斐に流罪になったとあります。結局、「甲斐」という場所に行くというのは、当時の人にとって、喜ばしいことなのか、不幸なことなのか、どっちなのでしょう?
 甲斐は、確かに金山には恵まれましたが、山に囲まれ決して、便利な土地ではなかったと思います。それを、開墾していっていくというのは、戦の功というのとは、違う気がしました。私自身が『長秋記』をきちんと読んだ訳ではないので、何とも言えませんが、何方か、ご存じの方、いらっしゃいませんか?


石野真琴 うら覚えなので、はっきりとは言えませんが、かなり昔、六十四州には上国と中国?とかの区分けがあったように思います。甲斐国はどう見ても上国とは言い難いので、甲斐国司より信濃国司に任命されるほうが、良いのではないでしょうか。
 とは言え国司となれば、それはそれで充分な名誉でありある事には違いない事でしょう。伊賀国や飛騨国よりは、甲斐国は生産量は多いでしょうし・・、しかし越後や尾張、美濃よりはかなり小さい。(半分ぐらいか)


野崎 古代の国の上中下は郡の数で、行政範囲の広さを示しています。遠隔地だと大きな国でも税を都まで運ぶ交通費がかかりますから必ずしも国司が儲かるとは限らないわけで。
 甲斐の国は名馬の産地として知られていましたから、穀倉地帯ではなかった様です。高柳光寿博士は武田氏が上洛より先に関東、信越に軍を出したのはその前に穀倉地帯を何としてでも支配下に入れたかったからだとされています。黒川金山の開発は少しでも経済力を付けたかったからでしょうか。


石野真琴 なるほど甲斐は名馬の産地ですね。
 古代から戦国時代までは、馬は重要な武器、牧場は軍需生産地ですから、名馬の産地と言う事はそれだけ巨大な軍事力がある、潜在的に持っていると言う事になりますよね。
 武家の棟梁である新羅三郎として甲斐国を賜る事は、大変有り難かったのかも知れません。
 時代にもよりますが、関東すなわち3関より東はまだ未開の地であり、流刑の地であった事もあったと思います。しかし、国司として任命されて赴くのと、流刑で流されるのでは、天と地程の差がありますよね。普通。


和泉 少し話は戻るのですが、甲斐には『武田二十四将略伝』に有るように、新羅三郎義光が後三年の役での功で、甲斐国主に任じられたのか、義光の孫の清光濫行を理由に清光の父義清、そして、清光が甲斐に流罪で来たのか・・・・・・。それによって、功績(国司に任命)か、流刑かが変わるんですよねぇ?でも、流刑だとしても国司になったのなら、「刑」にはならないですよねぇ。おっしゃるように、名馬の産地として儲けていたのなら、得はしても、損はしていないはずですし。と言うことは、流刑というのは、間違いになるのでしょうか・・・・・


石野真琴 僕の持つ資料によれば、義光の祖父源頼信が甲斐の国主として着任したのは、長元(1031年)春三月の事だそうです。
 この頼信は平忠常の乱を鎮定して美濃守となって甲斐を去ります。
 上記の内容より推測すると、やはり甲斐より美濃の方が上らしい。
 そして頼信の孫義光が、甲斐国主として赴任します。
 ここからは推測です。
 ここで甲斐国主と言えば、そのまま甲斐一国を貰ったように思えますが、甲斐国主と言っても、世襲制の大名になったわけではなく、あくまでも朝廷より甲斐国の管理を任された。そう言う存在であると言う事です。
 確かその頃は、1年毎更新であったように思います。何年かの任期を終えて蓄財し、義光は京に戻ったのではないでしょうか?
 つまり、この時点で義光が甲斐国主となった事は、なんら問題がないと思います。
 この時、義光は国主として私腹を肥やした財を、甲斐国のどこかに置いてきたとか、腹心の部下を置いてきたとか。いずれ子孫が甲斐にやって来ても、決して困らないような、細工をしたのではないでしょうか?甲斐の人々に義光の子であると宣伝すれば、それなりの扱いをしてもらえるとか。
 それで、義清・清光は流罪として甲斐に流されるように何か策を練ったか、残された財を使って、甲斐の市河庄・青島庄の管理人となれるように運動し、とにかく甲斐へ赴きます。表向きは流罪でも良かったのかも知れません。
 甲斐へとにかく渡って、そこに居着くことを選んだのでは無いでしょうか?
 この時代の京における彼らの立場が解りませんが・・、それほど酷い状態であったのか・・
 なんで、このような推測をしたかと言うと、信濃国は戦国時代には、信濃国主として小笠原家が代々任命されていますが、一度だけ小笠原家では無く、村上家が信濃国主となっています。国主には任命期間があったはずで、江戸時代の大名のように生きている間は、その地位が安堵される、そのようなものではなかったのではないか?と言う事なんです。
 父と曾祖父が何か残していった甲斐へと、向かった気持ちが分かるような気がします。
 甲斐国内に土着した甲斐源氏は、逸見氏、一条氏、板垣氏、曾根氏、八代氏等へ別れて行って根を張り勢力を増やした。
 やがて中央政府も無視できない勢力となり、同じように根を生やした平氏である小山田氏を押さえて、やがて世襲制の国主の座に上った。こんな所でしょうか。 




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