信濃小泉氏について



孫六 はじめまして私は武田家家臣の末裔です。先祖の名前は分かっているのですが、有力家臣ではないため、詳細がわかりません。誰か教えてください。引治2年配下になって信濃国(今の飯島町)に300貫をいただいた小泉五郎左衛門です。ちなみにその子、石曽根新左衛門は武田家滅亡時に高遠で戦死しています。誠に勝手な申し出ですが、何とぞ宜しくお願いいたします。


石野真琴 甲斐国志によれば、小泉氏は源氏の末裔、室賀に近き所に地名有り、信州下の郷の起請文に、小泉喜泉斎重成、同匠助宗貞・同新五郎高貞とあるそうです。
 小泉隼人正忠李と記せり書があるが、未だに不詳、他に起請源本には喜泉斎重永とある、小泉新五郎高貞は尾崎衆に見えるそうです。駿州大宮神馬奉納記に小泉讃月斎・紅葉斎などありますが名前はないそうです。一応仮名混じり漢文を意訳しました。


宮下帯刀 書き込みして頂いた内容は『南信伊那史料』の「小泉氏ノ館跡」に載っていますね。
 「引治2年に配下になった」という記述は誤りであることは確かです。たぶん『伊那武鑑根元記』にそう書かれているのでしょう。


孫六 石野様、貴方が教えてくれた小泉氏は村上氏の一族ですね。
何か関係あるのかもしれませんが、なんとも断定できません。宮下様、以前拙者が書き込みした内容は、姓氏家系大辞典2巻 太田亮 角川書店 の「引治2年本国御手に入る、これにより家臣、小泉五郎左衛門、知行300貫を領し...」と同じく角川書店の、正確な題名はいまちょと忘れましたが、長野県姓氏辞典とかいう本の「石曽根」からとりました。あとは長野県地名辞典などの飯島町石曽根を調べると同様の事が書いてありました。どうか御参考にしていただければと思います。ちなみに昨日県立図書館へ行って武田信玄辞典なるものを見ましたところ信濃先方衆にも先祖の名前が載っておらずがっかりいたしました。300貫を領する家臣というのは、したっぱのほうなのでしょうか?


石野真琴 村上一族の小泉氏ですか・・。済みません、それしか甲斐国志に載ってないので・・。
 領地300貫文が、しったぱであるかどうか?これは断定する事は難しいので、知っている範囲の領地を書きます。真田幸隆が上野に向かう前、その領地は(七ヶ村)1600〜1700貫文ぐらいであったとされます。砥石城を攻略して本領を安堵され、また真田の地にあった曲尾氏が移封され、その地も賜ったものと推測できます。それとは別に上田の地に1000貫文の領地が与えられます。また別に真田子(後の昌幸)を甲府に送り、350貫文の領地が与えられます。加増は1350貫文に加えて曲尾氏の領地分、1850貫文程度だと推測しています。曲尾氏は200貫文で移封。滋野三家の一つ望月家は、幸隆によって武田家に臣従しますが、この時700貫文の本領が安堵されたとあります。
 この時代の取れ高を石高に換算するのは難しいのですが、700貫文はおおよそ1500石程度とありますので、300貫文は700石程度でしょうか。望月家はむしろ本領が半分あるいは3分の1以下になっていると思われます。小泉氏がどのような過程で、武田家に臣従したのか解りませんが、新たに領地を貰ったのだとすれば、300貫文は決して少なくないと思います。問題はその後の働きで、加増があったのかどうかでは無いでしょうか?村上氏に味方し、村上の滅亡によって武田に臣従し、本領から懲罰的移封されたのであるとすると、それまでの本領は1000貫文ぐらいであった、とも考えられます。
 ちなみに200貫文の移封を受けた曲尾氏は、その後の歴史上ほとんどその名が見られません。懲罰的な移封を受けた家は、その後の立身は難しかったのかも知れません。
 この辺の判断は難しいですね・・。


孫六 石野様、さすが鋭いですね。拙者が考えていたのも引治2年という年なのです。村上氏はそれ以前に、信濃を退去しているはずですし、なぜその年に300貫の領地を貰ったか?なるほど懲罰的加増ですか...はじめて知りました。拙者の先祖もやはり村上氏と関係があるのでしょうか?


石野真琴 弘治2年と言うと、第2回川中島合戦の翌年、第1回川中島合戦が天文22年だから、村上家滅亡後、3〜4年後ですか・・。可能性としては村上流小泉氏が移封された可能性は充分にありますね(^o^)。


宮下帯刀 >可能性としては村上流小泉氏が移封された可能性は充分にありますね(^o^)。
 
私もそう思います。『下之郷起請文』には「小泉重永」「小泉宗貞」の名が見えます。また、元亀三年の武田氏朱印状・天正三年の勝頼書状の宛名が「小泉昌宗」となっています。
 弘治二年十月下旬、秋山信友に伊奈衆が配属されていますので、その時に小泉氏の庶流が小県郡から移封された可能性があります。




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