甲 斐 武 藤 氏 に つ い て




上杉越後守影虎 甲斐国の武藤氏についてご教示願いたいのでござる。
真田幸隆三男の昌幸が武藤氏を継いで武藤喜兵衛を名乗っていたことは周知のごとくでござるが、実はそれがしの甲斐国出身の知り合いに武藤なる人物がいて、ルーツを知りたいのだというのでござる。それがしは甲斐の名族としか分かり申しませぬ。何か分かっていることがあれば、また九州の少弐氏とかとの関連性とか存じ上げていたらご教示頂きたく候。


石野真琴 甲斐国志によれば←もはや私の枕詞と化しています。
 武藤氏はかなりの旧家でありますが、本州にある武藤氏のその始まりは、明らかになっていないとあります。東鑑に元暦元年一条次郎忠頼が誅される時、その郎党に親平太・同甥武藤与一なる者が闘死せり、また承久記には安田三郎義定の家人、武藤五郎ありとあります。 これより、古くより本州の各地に散った家であろうと想像出来ます。甲斐の武藤氏に関しては、武田小五郎信政の郎党に武藤新五郎(幼名)と言う荒武者がおり、何か活躍を見せたらしいが、その後断絶となった模様です。
 信玄の時代となって、その母瑞雲院の弟大井三郎左衛門尉に武藤家の家督を継がせるが、その息子与次なる者が夭死した為に他に子が無く、真田源五郎(昌幸)が武藤の家督を継いだ。
 他に信州下之郷起請文に、武藤新左衛門常昭(この起請文は永禄九年閏八月二十三日で花押には武藤神右衛門尉常昭とある、従ってこの新左衛門は間違いらしい)この人物は後に三河守又入道、松月斎と称し、これは瑞雲院の弟である。
 武藤三郎左衛門は喜兵衛と改名する前の名前かとも思えるが、典厩信豊(古典厩信繁の息子)の手書に武藤左衛門とあるので、別人らしい。他に武藤大膳亮・修理亮も一手の物頭であるが、詳細は不明。
 この甲斐国志と言う本は、江戸時代に書かれた物で、従五位下松平定能と言う人物の編集によるものです。その当時の古文書の中から甲斐の人物について、調べ上げた事が書かれていますが、全てが正しいとは言えません。古い家でありますが、真田昌幸が継いだ武藤家は、一度武田信玄の叔父が継いだ家のようですね。武藤とは、その漢字が示すように、武者所の藤原一族、あるいは武蔵の国の藤原氏と言う意味だそうです。


上杉越後守影虎 武藤三郎佐衛門尉とは一体どのような人物だったのでしょう。戦国人名辞典で調べましたが、見当たりませんでした。しかし、武藤喜兵衛が真田を継いだあと、武藤常昭なる人物がそのあとを継いだようですな。かれは武田滅亡後徳川に仕えたとのことですな。


石野真琴 武藤三郎左衛門尉は、謎の人と言うわけでは無いのですが、その事績はほとんど伝わっておりません。
 信玄の母瑞雲院は大井氏の出とされます。この瑞雲院の弟に大井左衛門尉と言う者がいて、大井左衛門尉を持って武藤氏の家督を継がせたとあります。武田信玄の叔父に当たる人物と言う事でしょうか。三郎左衛門尉には男子が一人いたが、夭死した為に後継ぎが無く、真田源五郎(昌幸)に武藤家を継がせたらしいです。武藤常昭なる人物が信玄に起請文を捧げたのは永禄9年閏八月二十三日で武藤神左衛門尉常昭とあります。武藤三郎左衛門は、後に三河守を名乗り、入道して松月斎と名乗っているらしいです。それで永禄末年頃の文書に武藤三郎左衛門とあり、これは喜兵衛を名乗る前の昌幸の事ではないか?と言う事です。家督を継ぐ寸前に義父の名を名乗り、家督を継いで喜兵衛と名乗りを変えたと言う事でしょうか?



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