映 画 『 風 林 火 山 』



Yamakan 山本勘助(菅助)は『日本外史』では「三河の人、眇目萎僻、兵を尾形某に学び今川氏に仕える。義元奇とせず。板垣信形これを武田晴信にすすむ。晴信喜び、即日二百貫の邑を与え名を晴行と賜う」とあります。川中島合戦で討ち死にしたとありますが、同時代史料に見えず、「晴」字は将軍足利義晴より「一字拝領」したもので家臣に勝手に与えてはいけない筈だが、などと存在が否定されていた時代もありました。
 まあ、正体が分からない方が脚色自由自在で、井上靖『風林火山』では策を立てて誤ることなしという、三国志の孔明のような軍師にされています。映画では三船敏郎が演じていました。あの映画は三船プロ昭和44年で監督は稲垣浩ですが、信玄が萬屋錦之介、謙信が石原裕次郎、由布姫が佐久間良子、板垣信形が中村翫右衛門、少年武田勝頼が中村勘九郎、槍持ちが尾形 拳という、ため息の出る贅沢なキャストでした。もう富士山麓では馬が集まらず相馬野馬追祭の騎馬隊を動員して撮影されました。この時代、相馬藩の農兵制度もまだ記憶にあり、戦前の騎兵隊の実戦経験者もいたからそれなりの迫力があったのでしょう。その後のテレビや映画は騎馬パレードのようで迫力が今ひとつです。


宮下帯刀

>「晴」字は将軍足利義晴より「一字拝領」したもので・・・
 とんでもない説を唱える人がいるものですね(笑)。江戸期の一部の歴史家の著述を見ると、現在では通用せぬことが平気で書かれていますね。

>映画『風林火山』
 私はこの映画(ビデオ)を見て育ちました。いま改めて見ますと時代考証に不服が残りますが、当時はなんて武田軍はカッコイイのだろうと、胸ときめかせて見ていたものです。萬屋錦之介の信玄役は良かったですが、石原謙信は似合ってなかったですよね〜。そう思うのは私だけでしょうか??


野崎 
石原裕次郎は何と言っても現代劇の人でした。歌舞伎の空気を吸っている中村錦之助にはかなわないと思います。
 山本勘助は『甲陽軍鑑』編纂の小幡勘兵衛景憲の先祖だとされていますから、近代史学が入ってくると風当たりが強くなったのだと思います。



吹雪 映画、風林火山の時代考察を手伝った人の中に、「鎧をまとう人々」著者 藤本正行氏もいたらしいです。その時武田の家紋は花菱のみと、気づいたとも書いてあったような気がします。


野崎 相馬中村藩は一応武田流の軍学を採用していました。あの映画は当時としては当世具足や面頬をそれまでの歌舞伎や村芝居的な考証よりリアルに扱っていました。少しは戦国時代の感じになっていたと思います。御乱舞(能)上演の場面など秀逸でしたね。確か諏訪氏暗殺の段でしたが。あと雑兵が野太刀を三人がかりで振り回す場面を記憶しています。


三浦 小生の世代の映画です。ほぼ同じ頃NHKの大河ドラマでは「天と地と」を放映していました。元禄以来の信玄、謙信の大ブームでした。次のブームが十二年程前にありました。どの映像を見ても『甲陽軍鑑』さながらで「カッコイイ」の一言です。
 因みに聴きますが戦争ってカッコイイですか?殺し合いですよ。戦前の嫌な教育のことは一寸は知っているでしょ。小生は長年古武具を見てきて思うんです。戦争を忘れてから起こる戦争ってさらに大きな戦争になるのだと。
 江戸期に書かれた書物に、以前に行なわれていた戦闘をまともに伝えるものは何一つとしてありません。これは、幕府が行為的に行なった政策だと思います。そこで新たに生まれた武士道、忠孝の思想は明治になって天皇崇拝へと繋がっていきます。日清、日露の戦争を経て大陸へ侵攻。そして太平洋戦争へと続きます。この間に先の思想は脈々と受け継がれ、強いて言えば「戦艦大和カッコイイ」ということになったのです。「特攻」などという目茶目茶な攻撃は、江戸期の軍学に見られるとおりです。忠義を尽くすことを強制し、そこに美と説いたのです。
 その点、戦国期はどうでしょう。嫌なら次々に主君を替えられます。野戦において陣城を構えることなど、江戸期の書物には書かれてありません。それは、まさに上官の「撃て! 放て!」の世界です。戦争は絶対にしてはいけない。そのために真の戦争を忘れてはいけない。


Yamakan 左様でござるか。拙者、古き戦は歴史の鑑(かがみ)と思ってござる。カッコの問題でなく、人間はどのように生きどのように闘い、死後どのように後の世に評価されてきたか、今同じ様な状況に置かれた時、自分は人間としてどう行動するべきか。
 『書経』『史記』の昔から先人の行いを明らかにするのは今の生き方を学ぶためでござろう。


三浦 歴史上のことを人生の参考にするのはいいことだと思います。死後に後世の人が己を評価してくれるのは喜ばしいことですし、生きている間にそれだけ価値のある仕事をしなければなりません。それって凄く大変なことです。
 古今の東西を問わず、人類の歴史は戦争の歴史といってもいいでしょう。そこに己の意思で戦った人はどれだけいるでしょう。多くはこれに反してイデオロギーによって洗脳され、強制的に戦場へ狩り出されたのです。ある戦争体験者の言葉です。「初めて出会って、名も知らぬ人を殺さなくてはならない。これが戦争だ!」 
 今同じ様な状況に置かれないように、歴史を正しく認識し真の戦争を伝え、戦争のない世界にしていくことこそ、後世の人が評価してくれる人になれると思います。
 日本甲冑を研究していると、ついそんなことを思うんです。


猛馬飼育係 三浦先生のおっしゃる通りですね。戦争は常に民衆を大変な不幸に陥れることを、認識しておく必要があります。民衆が戦争にかりたてられる時、そこには時の権力者や煽動者の力が介在していることが多いと思います。ボスニア・ヘルツェゴヴィナやコソボなどでも、民族が異なってもそれまで近隣の住民同士仲良く暮らしていた人々が、突然殺し合いを始めたことも多かったと聞きます。やはり権力者や煽動者の力も大きく作用していたのでしょう(もちろんそれだけが原因ではないと思いますが)。
 自分は自衛戦争は否定しませんが、それだってぎりぎりまで回避する努力はすべきでしょうし、本当の意味の“自衛”か、“自衛”の名をかりた“侵略”かどうかを見極める必要があります。我々庶民が彼らの煽動にのせられることなく、自分の頭で考え真実を見極め、平和で幸福な社会を築いていくためには、様々な事柄を学ぶ必要があると思います。そして歴史を学ぶ意義もそこにあると考えます。



上杉越後守影虎 確かに三浦さんの言う通りですな。
 歴史絵巻などで見るのとは違い、戦争など本当に悲惨なものであります。ことに一般民衆は一番悲惨です。有事には兵隊に駆り出され、最前線で犠牲を強いられる。それでいて年貢は容赦なくとり立てられる。敵方の民衆は家を焼かれ略奪にも逢う。この当時は為政者たちは民衆を自分たちと同じ人間とは考えておらず、人の命は信じられないほど軽いものだったんですな。否、民衆だけでなく家臣たちもちょっとした落ち度やその時の動向の変化ですぐに手討ちになったり、詰め腹を切らされることになったりします。歴史を見てみるとこれらの為政者の身勝手さ、民衆蔑視にとても腹が立ちます。ことに京都の天皇、将軍などはその最たるものと言えましょう。都合よく利用しておいて少しでも意のままにならないと切り捨てようとするあたり、ずるい人種の見本といえますな。そうした恐るべき民衆蔑視、人権軽視の時代が何百年も続いてきたのですが、その中にあって民政に心を砕いた為政者の存在は特筆すべきものがありましょう。今思いついたものだけで北條5代、直江兼続公、上杉鷹山公があげられます。
北條氏の小田原城は町全体を城郭で取り囲んでおりますが、これを北條氏の民政に対する考え方の一端が現れていると見るのはそれがしだけでしょうか?


宮下帯刀

>人の命は信じられないほど軽いものだったんですな。
 話がそれて申し訳ないのですが、私は昨晩『五条霊戦記』という邦画を見ました。そこでの映像は殺戮の数々でした。遮那王が小気味よく平家の武者を殺害していくのですが、それは人命軽視にも繋がりかねないと思いました。近頃のゲームセンターの格闘ゲームもしかりだと思います。実際に試してみたくなるものですよね。



上杉越後守影虎 ゲームで人命の軽視に繋がりかねないものは結構ありますな。ある意味では怖いかもしれませんな。
 あと、上の発言で誤解のないように付け加えておきます。上で京都の天皇、将軍は、と申しましたが、あくまで当時のことについて申したのであり、天皇制の反対とか何とかをあえていうつもりはないです。かといって、熱烈な尊王思想を唱えるつもりもありません。それがしにとっては天皇家は長く続いた旧家といった認識しかないです。


三浦 かつてこんな曲を世界に向かって歌った人がいました。
 思ってみろよ 天国なんてものはないと
 やってみればわけないさ
 おれたちの足の下に 地獄なんてあるものか
 頭の上には空があるだけさ
 思ってみろよ 今日のために生きている
 すべての人々のことを…
 彼は人権や反戦を訴え、人生半にして1980年12月8日に当局によって洗脳された若者にニューヨークで射殺されました。彼のが残した曲は、死後二十年経った今でもよく聞かれます。そこには彼の魂を込めた命懸けの訴えがあったと信じています。生きる勇気と感動を与えてくれた彼の突然の死に世界が泣きました。
 人は永遠には生きられません。しかし、魂はこの歌のように永遠に語り継がれるのです。「今日のために生きている」ということを認識し、この掛け替えのない命をどう生かすかは、各々の自覚にあると思います。



野崎 Yamakan氏は歴史は鑑(かがみ)だと言っておりましたが、いったい「歴史」とは東アジアの人々にとっては何だったのでしょうか。
 昔の中国では君主には「右史」「左史」の役人がついて右史は君主の行状を、左史は発言を記録し、その「史」を編纂することを「歴史」といいました。史の記録は冷静かつ公平に真実を記録しなくてはなりませんでした。
 『紀元前548年、斉の王は暴君で、家臣の崔予は殺されそうになり、遂に王を暗殺して新王を立てた。大史が記録したのを見ると「崔氏は主君殺しをした」。崔予は激怒してこの史官を死刑にし、その弟を大史に任じた、彼も「主君殺し」と記録したのでこれも死刑にした。下の弟を大史に任じ「お前は何と書くか」「私も主君殺しと書くしかございません」崔はこれを赦した』(春秋左氏伝)
 正確に記録して後の時代に客観的な資料を残す。そのためには死刑になっても筆を曲げず真実を記録しないといけない。これが東アジアの歴史記録の主眼です。
 ですから『甲陽軍鑑』、『川中島五度合戦記』、『信長公記』の類もそのような態度で記録を伝えようとしています。
 その内容からランケ、フィヒテ、マルクスを引用するのはご自由ですが、そもそもアジアで歴史というのはこういう物であったという基本的知識は理解しておいていただきたい物です



石野真琴 歴史は、英語でヒストリー、すなわち彼の物語であります。その視点で歴史と言うものは読まねばならぬと思います。彼とは誰か?すなわち征服者の事です。他国を征服した者、あるいは天下を取った者。その歴史書を書いた者。征服者によって敗者の事実は消え去った、あるいは巧みに隠されている、と見るべきでしょう。甲陽軍鑑に関して言えば、様々な問題が指摘されており、現在では武田家の実情を知るには最良の資料とはされず、高白斎記との矛盾に付いては、高白斎記の方が正しいとされます。むろん、私は甲陽軍鑑そのものを読むほどの根性はありませんが、現代語の甲陽軍鑑の中には江戸時代の思想、作者とされる高坂弾正賛美の内容が、数多く取れるからです。その一方で高白斎記の方は、歴史的な事実に関しては、感情を込めず日記として書かれているだけに正しいように見えます。
 ここでヒストリー、すなわち甲陽軍鑑は高坂弾正の物語である、あるいはその資料を編纂した者たちが作りだした、そのような視点に立って読まねばならぬ、と言う事では無いでしょうか?歴史の真実と言う言葉がありますが、まず疑ってそれらの物語を読み、その中から真実を追求する事こそ、正しい姿であると思います。


野崎 死刑にならない程度に書いておこうというのも人間ですからね。


三浦 歴史小説は決して真実ではありません。そこには作家の意図するものが必ずあるからです。そうじゃないと本が売れない。作家はそれで飯を食い、とにかくいい話を作り、売れて何ぼの世界なのです。歴史小説はあくまでも娯楽としての認識をもって読むべきだと思います。映画、テレビに至ってもそのとおりです。
 よく「真実は小説より奇なり」といいますが、まさにそのとおりだと思います。真実を探求していくと作り事では到底あり得ないことが沢山見えてもきます。小生は長年武田氏の武具を調べていますが、そこには「風林火山」や「天と地と」では決して描くことのできない世界があったのです。それは現代人では理解できない中世というファジーな世界です。こうした実感が持てる発見や体験をするには、歴史を一層厳しく見る必要があるのです。小説を読むのもいいことです。しかし、本当に信玄や勝頼が使った甲冑を見て下さい。そして、川中島や設楽原の現地に立ってみるのです。そこには作家が描いた画像とは、まったく異なる真実が浮かび上がってくるものです。
 『高白斎記』もいいですけど『妙法寺記』もいいですよね。


宮下帯刀

>『高白斎記』もいいですけど『妙法寺記』もいいですよね。
 
それに加え、『塩山向岳禅庵小年代記』、『一蓮寺過去帳』、『守矢頼真書留』、『王代記』あたりも参考になりますね!




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