大 筒 と 火 縄 銃 に つ い て




上杉越後守影虎 米沢上杉祭りの中で一番よかったのは本物の火縄銃の実演射撃が見れたことです。大音響が轟くさまは圧巻でした。これは米沢駅前と河原での川中島合戦の時に行いました。肝心の合戦の方は人が多すぎてあまり満足に見れなかったのが残念でしたが、ある程度写真を撮れたのと射撃を見れたのでよかったと思います。


宮下帯刀


>本物の火縄銃の実演射撃が見れた・・・
 私は石和で大筒の轟音を聞きましたが、もの足りませんでした。やっぱり火縄銃ですよね!



野崎 普通の火縄銃は2匁か4匁玉ですが、稲富流30匁は普通の持ち方で打てる最大級の銃だそうです。発砲の瞬間に銃手の周囲直径3メートル位の地面からボッと土煙が上がる、大砲並の迫力だったと思います。今度は近くで聞いてご覧になることをおすすめします。



上杉越後守影虎 いや、米沢駅前では結構至近距離で見れましたぞ。迫力が半端ではありませんでしたな。宮坂考古館では実際銃を持ってみることが出来ましたが、重いですな。普通の銃は何とか持ってましたが、大筒はきちんと持つのは至難の技ですな。


三浦一郎 若い頃は毎年のように長篠のぼり祭で見たものです。ものすごい爆音に耳を塞いだものです。しかし、今思えばこれには何等の実用性も無いことが分かりました。それは、ただのこけ脅しにすぎませんし、まさに江戸期の発想から生じたものなのです。大筒が使われたのは大坂の陣以降ですよね。それも、確か偶然天守に命中したとか。
 聴きますが「これが実用期の鉄砲だ!」ってもの見たことがありますか。以外に無いものなのです。恐らく残存する数の99パーセントが江戸期のものでしょう。言うまでもなくほとんどです。すでに慶長期のものが無いんです。よく薩摩銃が古い形式っていいますよね。しかし、朝倉一乗谷遺跡で鉄砲の機関部が発見され、その説が駄目になったんです。当時の鉄砲って変な形していますよ。

 
野崎 戸部正直『奥羽永慶軍記』に、摺上原の戦いで伊達政宗の軍に葦名方が30匁銃を発砲し片倉小十郎の旗本三騎を一度に射殺したとあります。まあ、同時代史料ではありませんが、銃手は坂太郎兵衛だったとまで書いてあります。
 私はむしろ敵の騎馬隊を驚かす効果があったのではないかと思いました。馬は高音に弱くて、伊達家でも鉄砲の音に驚かないよう馬を訓練していましたが、それでも落馬事故があったようです。


金吾右衛門 大筒に関してありましたので、自分も発言させてください。大筒を指す定義が他にあったのならスイマセン、でも大坂の陣で徳川方が使用したのはカルバリン砲という石火矢ではないでしょうか?またそれ以前は使用されていないとの事ですが、北条氏が天正十七年十二月晦日に、配下の職人に二十挺の大筒製造を命令した文書が残されています。これは、年代的に豊臣氏の来襲に備えて緊急に出されたものとされています。その文書の中には、二十挺の大筒製作をそれぞれ担当する鋳物師の名前が記されています。また、『相州文書』の中には、「中筒」を製造する為の土(鋳造鋳型のためと思われています)を小田原に運搬するよう命じた伝馬手形が残されています。また、信憑性はイマイチですが、『北条五代記』などには、北条水軍の船に大鉄砲が備えられていた事があります。また銃身は出てませんが、山中城の調査では大型の弾が2発ほど出土していたと思いますが、それが「中筒」にあたるのか「大筒」なのかは、自分はわかりません。
 ただ、炸裂弾でない単数の大筒は、戦闘においてはやはりコケオドシ(敵味方双方に、心理的効果はあったのかもしれませんね)に過ぎないのでしょうね。また当時の鋳造技術で、繰り返しの使用に耐えるものが作れたかも疑問なのですが。



宮下帯刀

>野崎さま
 石和の大筒は結構迫力ありましたよ(最初は耳を塞ごうかと思いました)!でもなんだか海戦さながらの両者の撃ち合いが展開されていたので、違和感を感じたのです。火縄銃を連射したほうが戦国を彷彿とさせるような気がします。

>金吾右衛門さん
 大筒とは違うんですけど「北条白貝」ってご存じですか?北条氏直が黒田如水軒へ送った法螺貝です。



金吾右衛門 「北条白貝」。氏直公(氏政父子?)が黒田如水軒へ送ったということは、彼が小田原城開城にあたっての和議(ま、実際は降伏勧告でしょうね)に尽力した礼の品の一つですよね。日光一文字とか東鑑とかみたいに・・・。そいうえば、北条家の法螺貝も、なんかで読んだ記憶が・・・。
 また、この白貝と同じか分かりませんが、「薩摩」という銘の大貝が氏直出陣の時を告げる貝として『北条五代記』にありますね。大山の学善坊という山伏が旗本にいて吹いていたそうです。法螺貝の音って、聞き比べた事ありませんけど、やっぱり個性があるんでしょうねー。



宮下帯刀 「北条白貝」(福岡市美術館蔵)は「日本三ツの名貝」の一つに数えられるものです。氏直が小田原の役後、「東鑑」と本品を黒田氏へ贈ったようです。「日光一文字」は、北条家から贈られたのではなく、秀吉が如水軒に下賜したらしいですね。


野崎 宮坂考古館には上杉家伝来の甲冑が多数蒐集されています。関東管領上杉家の兜とか、家臣直江山城守の客将前田慶次の具足とか。宮坂コレクションの銃の中には「仙台筒」も入っているそうです。近世の仙台は銃工が多数いて、独特の鉄砲を作っていました。


三浦一郎 「大筒」の定義ですか? 難しいなあ。ただ元来あの手のものは、直接手で持って撃ったもんじゃないと思います。その多くは城門等に備え付けられいたものでしょう。その逆に城攻め等に使う場合でも、何らかの装置があった上で用いたのではないかと思います。あんなものを手で持って撃つという理屈が納得できません。抱き抱えるように構え、あれでは十分に狙いも定まりません。
 また「撃て!」とか「放て!」とかいう号令がありますが、これは嘘でしょう。爆音と黒煙が棚引く戦場で、そんな声が耳に届くとは思えません。それは、いかにも江戸期の演習そのもです。泰平が戦を意図的に忘れさせたのです。互いに敵が前に来れば撃つ。ただそれだけです。 
 宮坂考古館へは二度行きました。上杉家の具足は景勝所用と言ってももいいでしょう。前田慶次の具足って赤塗りのだったでしょうか。あれは胴だけ古いんですよ。ああいったものを関東具足って呼んだのでしょうか。中央では当世具足を使っているのに、未だ古風なものを関東以北では使っていたのでしょう。



宮下帯刀

>関東管領上杉家の兜とか
 総覆輪阿古陀形でしたね。臑当の蒔絵が素晴らしかった記憶があります。

>あれは胴だけ古いんですよ
 ということは、あの甲冑はモノがいいのですね。とんがり帽子のような張懸兜に朱塗のマンチラ?、おまけに鱗札・・・なんか後世につくられたような・・・(笑)



野崎 山形県教育委員会編『山形県の甲冑』によると宮坂考古館の前田慶次郎の甲冑は同型の物が県内の個人蔵としてもう一両あるとされています。二つも作ったのでしょうかね。 
 よく戦国大名の甲冑は同型同大の品が複数あり、伊達政宗公のものも4領あります。着替え用とか影武者用とか言われていますが、本当の所はどうなのでしょうか。
 火縄銃は「天正十一年」のと、信玄公を野田城で狙撃したという銃身だけのものと、種子島家の伝来鉄砲の写しと言われている物が古い代表とされている様ですが、種子島の伝来銃は薩摩筒から推定復元したような形ですね。一条谷のは外カラクリになるのでしょうか?図面と写真ではそんな感じですが。

 種子島以前に鉄砲があったというのは戦前から言われていました。最近問題になっているのは手銃(火槍というのは中国で鉄砲全体をさしていますから『もののけ姫』で火槍と言っていたのはおかしい)という杖の先に円筒形銃身を差し込んだ様な物が入っていたという説だったと思います。李朝ではもう使われていましたから。指火点火して使いました。『もののけ姫』の最初で狼を撃っていたのがこの手銃です。


三浦一郎 「召替具足」という用語があるように身分によっては複数の甲冑を所持していたでしょう。
 「信玄筒」は一度見たことがあります。普通見るものよりかなり太かったことを覚えています。野田城云々の伝承は別にしても古いものだと思いました。銃身が先端にいくほどラッパのように開き、先目当の形もいたってシンプルです。一乗谷出土のものは当然外カラクリです。内カラクリのものは江戸前期以降にしか作られておりません。



吹雪 鉄砲は南蛮より種子島へ伝わったというのが定説ですが、昨今それよりも、若干早く中国から鉄砲が伝わっていたという新説を最近聞きました。信玄筒は設楽原歴史資料館にある信玄砲のことでしょうか?
 それに関連してなのですが、ひょっとして設楽原歴史資料館にある信玄砲みたいな物が中国伝来系火縄銃で?よく種子島とも呼ぶ、よく見る火縄銃が、いわゆる種子島銃?なのかなと、読んでいて思いましたが、知ってる方いらっしゃいましたら、その点ご教授下さい。
 関ヶ原歴史民族資料館に地元民家から発見された鉄砲で、全長2.3m 重さ30s 安土・桃山時代の堺鉄砲鍛冶士 芝辻理右衛門の銘があり、弾丸は3q飛んだらしい。地面に置いて使ったとのことだか、関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。


野崎 文禄・慶長の役では李氏朝鮮と明の石火矢・大砲と闘い、日本軍も使っています。石火矢の他に「大鉄砲」ともいい、青銅の大砲なのに「鉄」砲と書かれているので誤解された事もあるようです。関ヶ原は慶長16年ですから大砲が使われてもいいのですが。


宮下帯刀 関ヶ原合戦の際に家康が所持していれば、小早川勢に火縄銃ではなく大砲をもって威嚇射撃をしたと思いますが、如何でしょう?


野崎 たしかあの時代の大砲は車輪の着いた台もなくて、土嚢を積んでセットしたのだと記憶します。
「かまわん!小早川の陣に鉄砲を撃ちかけい!」
なら大砲より鉄砲の方が早い。




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