蛤刃の時代の太刀について



三浦 以前より不思議に思っていたことを二つ程質問させて下さい。
 現在、蛤刃を残す実用期に太刀、薙刀、刀の類をご存じでしょうか。もしあれば、個人蔵以外で公にされているものの所在を教えて下さい。
 愛媛県大山祇神社蔵、山梨県法善寺蔵のような大太刀や大薙刀に焼をどのようにして入れたのか。またその設備について教えて下さい。


法城寺
 
蛤刃の時代の太刀類が置いてある美術館なり博物館はどこか、という趣旨でよろしいでしょうか?
 蛤刃は鎌倉中期頃に時代が限定され、有名どころでは来派の二字国俊、備前では一文字系で助真あたりですね。この工の関連であれば蛤刃であると思います。
 常設展示ではなく、入れ替え制となりますが、東京区域では東京国立博物館、刀剣博物館、静岡の佐野美術館、近畿では兵庫の黒川古文化研究所などがあります。国立は刀剣室の展示は18口のみですので順番が回ってくるのにかかるかもしれません(蔵刀数は太刀・刀だけで600口もあるのに)。代々木の刀剣博物館は古刀を中心に常時35口程度展示してます。1〜2ヶ月で入れ替えしますので、問い合わせの上、展示品を確認して鎌倉中期のものがどれくらいでてるかを知った上でいかれるといいと思います。兵庫の黒川古文化研究所も相当な名品の蔵刀がありますが、展示というか一般公開の時期が限定されてますので、問い合わせは絶対必要になります。上記博物館はいずれもHPを持ってますので、ご確認ください。
 ただ、研磨状態によっては、はっきりと蛤刃が感じ取られるかどうかは見てみないとわかりませんが、重文・重美指定品であれば大丈夫だと思います。
 私も以前七尺太刀を国立博物館の特別展示で見たことがあります。どうやって焼入れをしたのか、通常の道具類・什器でよいのか?この正解を出せる人は現在いないのではないかと思います。と、いうのも江戸時代に入り刀の寸法統制があり、このような大太刀を作刀することはまったく出来ませんでした。こうした技術は口伝によるものが殆どですので、徳川300年のなかで途絶えてしまいました。現代刀工で、このような大太刀を作刀できる刀工がいれば、その方のやり方が正解ということになりますが、まず、いないでしょう。七尺太刀のときも「どうしたらこんなに均一に焼入れができるのだろう」と首をかしげるばかりでした。とにかく、冷却にしろ数人掛かりで抱えて行ったとしかわかりません。答えになりませんで申し訳ありません。


野崎
 長大な刀に焼きを入れる方法は人間国宝の故宮入行平刀匠の方法を高弟の方から教えて頂いた事があります。
 フイゴも火床も使わず、金網の炉に刀を入れて木炭で加熱、全体を一気にオーステナイト結晶域まで持っていき、川の水で焼き入れするのだそうです。
 送風は大勢で団扇を使ってやるので「田楽焼き(煮込みオデンでなく焼き田楽ですね)」というのだそうです。


法城寺 
ふ〜む、そのような方法があるんですか。初めて知りました、いや、ビデオで見たような見ないような・・・。とにかく貴重な助言ありがとうございます。
 しかし、焼入れの温度は川の温度しだいということになりますねえ。長寸のものを一気に冷却するには確かにそれくらいのやり方がいいのかもしれません。問題は加熱ですが、七寸太刀(吉備津神社蔵、法光作)は研究の結果、火床による焼入れを施した事だけは解っています。また、当時は木炭の色を見て温度判断をすることから、焼入れは夜間でしたので、今の方法をもって正解とはいえないと思いますが、現在行える一つの手段ではあるようですね。当時の技術はどうしても解明できてないとのことです。火床は大きくすれば良いというものでもないようですし。
 まだまだ、刀剣については再現できない技術が山積みされているようです。


野崎 古武器、古武具の研究書で「科学的検査の結果」とあるのはどこまで信用できるのでしょうか。
 私は「研究の目的、実験の方法、実験の結果、考察」の説明抜きで「研究の結果」と言うのは信じないことにしております。「川の温度次第」と言われますが、水の沸点は硬水・軟水でも殆ど違わないし、伝説で大秘密のように言われている焼き入れ水の温度は実際には問題ではない、と宮入刀匠も、熱処理の専門家も書いておられます。
 古刀剣について分からないのは鉄という金属はppm単位の不純物によって組織も色調も熱処理の結果も大きく変わってしまうので、原始的製鉄法で作られた鎌倉室町の鋼で作った刀剣の鍛えや肌を復元するのは難しいという事に集約されて来ているようです。


三浦 貴方が言われる蛤刃とは違うかも知れませんが、以前に室町後期の在銘で産の太刀に見たことがあります。これは江戸期に一度も研がれることなく、実用期のままの刃が見られる貴重なものでした。
 小生は長く甲冑の研究をしています。現実に甲冑を装着した状態で斬り合いをするとどうなるか。慶長期頃のもので兜の筋や合当理が断ち切れたものを見たことがあります。現状の刃(いわゆる柳刃?)では刃毀れで済まないように思います。まさに鉈で叩き斬ったという感じでした。
 大太刀や大薙刀の製作についてももっと緻密に計算された方法があったと思います。そうじゃないとあれだけのものはできないと思います。
 江戸期に刀の寸法が統制され、こうしたものの作刀が途絶えたとのこと。同時に実用期の研刃も途絶えたと思うのです。すなわち実戦に関する過去の事実を抹消したかったのでしょう。幕府の権力維持のためのプロジェクトの一つと考えております。


法城寺 
三浦様の仰るのは、蛤刃も含めた、いわゆる「刃肉(平肉)」の乗った刀で、しかも「生刃(うぶは)」という貴重なもののことだと思います。刃肉はご存知の通り鎬から刃先にかけて、こんもりと曲線を描いたような厚みをとってあることですね。生刃というのは、作刀時の研ぎは刃区(はまち)、要するに鍔元と考えてください、に研ぎを入れてないのが普通です。研磨を重ねることで徐々に刃区まで研ぎを広げざるをえないので、必然的になくなっていきます。実は、こうした生刃は未だ見たことがありません。
 また、江戸時代はほとんど甲冑を使用する戦闘はなくなり、素肌剣術に移行したこともあり、蛤刃ほど刃肉を極端に必要としなかったための変化でしょう。こうした平肉も研磨か重なればどうしても落ちていきます。

 野崎様、要は金網をほどに見立て、川を水槽に見立てたということでしょうね。それで、七尺のような太刀に焼入れが出来たとしたら、現在における方法としては正解ということにならざるを得ませんね.ただ、古刀期にその方法を採っていたかはやはり不明と思います。その意味で正解は出せないのではないか、というのが私の趣旨です。
 現代刀と古刀・新刀を持ってみて漠然と感じるのは、現代刀はやたらと重いということです。当然同じ重ね・反り・寸というのは微妙に違いますから比較するのもおかしなことですが。打ちあがったばかりだからとも言い切れない、なにか違いを感じます。単に冶金学的なものではないように思えます。それが何かといわれると回答に困っちゃいますが(笑)。
 水温自体の影響については野崎さんの仰る通りです。しかし、それは現代における知識だと思うのですよ。水温が焼入れに関係ないことがわかっていれば昔の刀工もそうしたでしょう。ところが、温度計も何もない状況下では知りえる知識でもなかったのではないかと考えます。
 昔の刀工が水温に固執したのは、道具を除いて焼入れに対して目安として一定基準を設けられる唯一のものが水だったのではないでしょうか?水温を一定化(これも勘といってしまえばそれまでですが)することで、一振り一振りがすべて違う刀の冷却の時間・度合いを調整する目安としていたのではないのでしょうか。それが、刀工独自の秘伝のように伝わったことは否めませんけど。
 しかし、それほど水温に固執した当時の刀工が簡単に川に移行すればという発想ができえたのだろうか、というのが私の「水温」発言です。
いかがなものでしょうか?
 ところで、私も縁をつたって、現代刀工の作刀風景をかねがね見たいといろいろやってみたんですが、ダメをくらいました。野崎様のつてで、可能であれば、砂鉄の精錬(たたら)は別としても、現在の焼き入れはなんとか見たいのですが、無理でしょうか・・・。


                     戻 る