「バイバイ・エデン」 コロ助
おおぅ、独創的なテーマが浮かんだぞと思ったのも束の間、実際に出来たものは、どこかで読んだような作品……。
仕方ないのでミヒャル・エンデやラリー・ニーブンに対する私なりのオマージュということにしておきます。
……あー、言い訳がましい。


「祝福された子、光の子ミルフィーユよ。今から大切な話をします。良くお聞きなさい」
 神官長のママ・ロゼはいつになく厳しい顔をして、そう告げた。ミルフィーユは薄い唇をきゅっと結んで、真剣な面持ちでうなずいた。
「世界に危機が迫っているのですね」
 ミルフィーユの言葉に、ロゼは驚いたように深い皺に覆われた目を見開いた。
「ミルフィーユ、あなたには分かってしまうのですね。なんということ」
 ロゼは憂いに満ちた表情で首を振る。
「本来ならば、あなたのような幼子に託す問題ではないのです。我々神官達が頼りないばかりに、まだ巫女にもなっていないあなたに苦労をかけなければならない。……許してください、ミルフィーユ」
「そんな……面をお上げください、ママ・ロゼ」
 ミルフィーユは膝をついた神官長の手をとり、そっと両の手で包み込んだ。神殿の中は薄暗く、風が吹く度に灯火が揺れ、彼ら二人の影を揺らめかせた。
 ミルフィーユは今年で14になる。肩のところで短く切りそろえられた、内巻きの赤毛が愛くるしい少女だった。生まれたときに右肩にスティグマ(聖痕)が確認され、彼女は巫女となる人生を決定づけられた。以来、俗世との関わりを断ち、ひたすら研鑽を続け現在に至る。両親の顔など知るよしもない彼女にとって、時に優しく時に厳しく彼女を導いてくれたママ・ロゼは母とも言える存在だった。
 ミルフィーユは申し訳なさそうに視線を落とした。
「ですが、私にもそれしか分かりません。世界に危機が迫っている。放っておいては大変なことになる、と。でも、未熟なためでしょう。いかなる危機が起こるのか。どうすれば良いのか、肝心なところになると、啓示が下りないのです。お教えください、ママ・ロゼ。私に何ができるというのですか?」
 ロゼは溜息をつきながら立ち上がった。籾の木で作られた杖を手に取ると、深い井戸の底のような瞳をミルフィーユに向けた。
「ついてきなさい、光の子。あなたに見せたいものがあります」

 ミルフィーユが連れてこられたのは、神殿の最上階、通称エクリプスの尖塔と呼ばれる、塔のテラスだった。
 開けた視界に、夕刻を迎えた世界の姿が飛び込んでくる。地平の果てには大いなるティタンの山脈がそびえ、その麓に鬱蒼と生い茂る死の樹海が見える。放射状に広がっていく細い筋は、偉大なる大帝の名が冠されたジェファソン街道だ。それらはまっすぐ彼女の眼下に収束し、神殿の城下、バスクの町の南大門につながる。
 バスクの町。それは大陸でも有数の大都市だった。夜半にともる無数の灯りは地上の星空とも称され、その眺めに心奪われた無数の吟遊詩人達によって唄われている。町の中央部を貫く大通りには人通りが絶えず、夕刻ともなれば、食材の買い付けに訪れる人々で溢れんばかりの賑わいを見せているはずだった。
 ミルフィーユは無言のまま、テラスから乗り出さんばかりにして城下を眺めていたが、次第に足が震えてくるのを止めることができなかった。どういうことだろう、これは。これでは……
「ママ・ロゼ!」
 彼女は悲鳴のような声を上げた。
「人が、人がいません!」
 ミルフィーユはもう一度、目をこらした。外に出ることを禁じられているが故に、こうして城下を眺めることは少ない。だが、2年前の星祭りに、同じようにテラスに出ることを許されたときには、城下では無数の人々が生み出す活気と賑わいが渦を巻いていたものだった。だが、今眼下に見える町並には、人の気配すらない。しんと静まりかえった街路を、時折吹く風が土埃とともに撫でていくだけだった。
「ミルフィーユ」
 震える彼女の肩に、ロゼが手を置いた。
「1年前のことです。神殿に奇妙な報告が寄せ始められました。家族や知人が次々に姿を消していくというのです。最初は家出の類と思って放っておいたのですが、日を追うに従って消えていく人々の数は増え、ついには神殿内でも姿を消す僧侶が出始めました」
「……そんな」
 知らなかった。ミルフィーユは拳をぎゅっと握りしめる。ロゼはそんな彼女に優しく微笑みかけた。
「知らせなかったのですよ。あなたは神の子です。研鑽を続け、一刻も早く神の声を聞けるようにならなければいけない身。このようなことで心騒がせてはいけないと判断しました。しかし……」
 ロゼは天を仰いだ。
「僧侶達が全力を注いでも、事態は変わりませんでした。人々は1人、また1人と姿を消し、姿を消したものは二度と帰ってきませんでした。どこに行ったのか、それすら分からぬままに時を過ごした結果が、これです。もはや神殿の中に残っているものもわずか。このままでは、大陸から人の姿がなくなるのも、遠い未来の話ではないでしょう」
「ママ・ロゼ!」
 ミルフィーユは衣の裾を翻して、ロゼにしがみついた。身体の震えが止まらない。昨日までも漠とした不安はあった。何かが起こる。恐ろしいことが起こるという不安。だが現実に見せられたものは、彼女の理解を超えていた。なぜ? なぜ、こんなことに。
「教えてください、ママ・ロゼ。なぜ、こんなことになってしまったのですか? 先程、ママ・ロゼは私にできることがあると仰いました。このような恐ろしい出来事を前に、私に何ができるというのですか?」
「ミルフィーユ、私は古来より伝わる全ての文献に目を通しました。過去にこのようなことがあったかどうかを。残念ながら、書庫に眠る全ての本を探しても、この事態を説明してくれるものはありませんでした。ただ……」
「ただ?」
「一つだけ、気になる記述がありました。我々は、この世界を生み出したのは神々だと信じてきました。ですが、実際にはその神々すらも生み出した、創造主ともいうべき存在がいたらしいのです」
 ママ・ロゼは一歩前にでると、杖で床を打ち、その年齢からは想像もつかないような良く通る声で語り出した。

『そのもの、全ての根源にありし。彼方より来たりて、大地と空、神々を生み出す。そは全て、偉大なるものの思惟によるべし。思惟によりて生じた世界は、偉大なるものの忘却により無に帰す。全ては混沌から混沌に』

「これがどういうことだか分かりますか?」とロゼはミルフィーユに視線を向けた。ミルフィーユはごくりと唾を飲み込んだ。
「全ては創造主の思いによって作られた。だから、創造主が忘れれば、この世界もまた消える……」
 ミルフィーユは衣のヒダをぎゅっと握りしめた。それじゃあ、まさか……
 ロゼは悲しそうに「ええ」とうなずいてみせた。
「この世界は、全てを生み出したものによって、今、まさに忘れ去られようとしている。私がたどりついた結論はそういうことです」

                 ※

 ミルフィーユは額から流れる汗を衣の袖で拭う。
 何が起きているかは理解できた。そして、彼女が果たすべき役割も聞いた。それが彼女にしかできないことも。
 だが、震えが止まらない。
「良いですか、ミルフィーユ。あなたには、これから世界を超え創造主の元に赴いてもらいます。そこで創造主に私たちの世界のことを思い出してもらうのです。それができるのはあなたしかいません。光の加護を受けて生まれたあなたならば、きっと使命を果たせるでしょう」
 ロゼの声が遠くから聞こえてくる。
 ミルフィーユは、方陣の中央に立っていた。彼女を取り囲むようにして、12の魔術文字が刻まれ、その周囲にもう一重の方陣が形成されている。
 生き残ったわずかな僧侶達が詠唱する声が、周囲の空間を満たし、重苦しいプレッシャーとなってミルフィーユにのしかかってくる。
 自分にできるのだろうか? いや、やらなければいけない。失敗すれば、この世界は消え失せてしまうのだ。彼女を育ててくれた大事なママ・ロゼとともに。

 フェオ・ウル・ソーン・アンスール・ラド・ケン・ギューフ・ウィン!

 ぐにゃりと方陣が歪む。いや、正確には方陣が歪んだ訳ではない。ミルフィーユを包む空間自体が変形し、彼女の目に入ってくる光の向きをねじ曲げたのだ。
 だが、彼女が正気を保っていられたのはそこまでだった。次の瞬間、裂けた空間の間から、膨大な光が流れ出して彼女を押し流した。やがて一際眩しい閃光が弾けたとたん、ぷっつりと糸が途切れるようにミルフィーユの意識は途切れた。

                 ※

 雨が降っていた。
 身体が冷たい。濡れた衣が皮膚に張り付いて、気持ちが悪かった。
「おい、あんた大丈夫か?」
 太い声がかけられる。
 ミルフィーユは、小さく呻きながら、首を回した。焦点の合わない視界に、複数の人影が見える。
 ここはどこだろう? どうやら自分は横になっているらしい。氷のような地面に頬を押しつけて倒れている。身体の節々が痛い。私は……
 徐々に記憶が蘇ってくる。夕食の準備をしていた途中に、ママ・ロゼから召還されたこと。エクリプスの塔のテラスで、世にも恐ろしい光景を見たこと。その後、儀式を行って……
 そうだ!
 彼女はばっと身を起こした。
 彼女は創造主を捜しに来たのだ。危機に瀕した彼女の世界を救うために。
 周囲を見渡すと、奇妙な出で立ちの人々が驚いたように彼女を見つめている。中の1人、彼女のすぐ前に立っている男が、先程言葉をかけてきた男性だろうか。ミルフィーユはすがるように彼の上着をつかんだ。
「あなたが創造主ですか?」
「は?」
 男は呆気に取られたようにミルフィーユを見つめる。ミルフィーユは必死に言葉を継いだ。
「バスクの町の神殿から来ました。私たちの世界は消える寸前なんです。あなたがもし創造主なら、私たちの世界を忘れないでください。お願いします!」
 男は口を真一文字に結び、困ったように傍らの友人と思しき人物に首を振って見せた。心配そうに彼女を取り囲んでいた人々も、あるものは苦笑しながら、あるものは頭を掻きながら散っていく。
 男はミルフィーユのもとにしゃがみ込むと、彼女の手に紙切れのようなものを握らせた。
「なぁ、あんたどんな宗教に入ってるのかしらんけど、俺には力になってやれない。今日はもう帰りな。親御さんも心配してるだろう」
 それだけ言うと、男は友人と連れだって、雑踏の中に消えていった。
 ミルフィーユは手元の紙切れに目を落とした。横長の紙面に、のっぺりとした中年男性の顔が印刷されていた。
(……こんなもの!)
 彼女は路面に紙切れを叩きつけた。
 降りしきる雨はいよいよ強くなり、投げ捨てた紙片を水に浸していく。彼女はよろよろと歩道の脇によると、膝を抱えて座り込んだ。
 目に入る風景は異様なものだった。天を突く無数の構造物にきらびやかな灯りがともり、巨大な鉄の陸橋の上を、高速で四角い物体が走り抜けていく。どこから来て、どこへ行こうとしているのか。彼女の前を行き過ぎる人の流れは途絶えることがない。だが、その中の誰1人として彼女に気をとめるものはいなかった。
 ミルフィーユは両膝を抱く手に力を込めた。
「おーい、彼女どうしたの?」
 不意に声がかけられた。
 見上げると、二十歳くらいの若者が3人、彼女の前に立っていた。いずれも、身体の線の浮き出るぴったりとした服を着込み、1人は女のように長く髪を伸ばして後ろで結んでいる。
「やめとけよ、ケンジ。こういうところに1人でいる女なんてやばいっつーの」
「あんまし、やばそうにも見えないじゃん。ヤクザのイロってにゃ、若すぎるし」
「ねぇ、君家出でもしたの?」
 ミルフィーユは声を出しかけて、躊躇した。先程の男の反応が脳裏に蘇った。彼女はうつむき加減に言った。
「人を……人を捜してるんです……」
「ふぅん、住所とか電話番号とか分かんないわけ?」
「………?」
「いや、わかんなきゃいいんだけど……」
 小首を傾げるミルフィーユを見て、ややとまどったようにケンジと呼ばれた男が頭を掻いた。3人の中では一番背が低く、幼そうに見える。短く刈り込んだ前髪を無造作に上げているせいで、広い額が露わになっている。丸い団栗のような眼が人なつっこい印象を与える男性だった。
「とにかくさ、風邪ひいちまうだろ? どっか行くところあるわけ? 君」
 ミルフィーユは首を振った。
「じゃさ。うち、この近くだからちょっと来なよ。俺1人暮らしだから雨がやむくらいまではいてもらっていいし……」
 そう、ケンジが言ったとたん、残りの二人がギャーとおどけた悲鳴を上げた。
「ケンジ君、手早すぎ」
「お嬢ちゃん、絶対ついてったらあかんぜ」
ケンジは苛立たしげに後ろの二人をじろりと睨みつけた。
「やかまし、貴様らみたいな欲ボケ野郎と一緒にすな。俺は、困っている女の子には紳士的なんだよ!」
「どうだか、警察に届けた方がいいんじゃないべ?」
 ケンジは困ったように眉をひそめた。逡巡した後、肩をすくめてミルフィーユに問いかける。
「君はどうよ。警察に保護してもらうのがいい?」
 ミルフィーユはしばらく考えた後、小さく首を振った。その警察というところに連れていってもらっても、彼女の話をまともに聞いてもらえるとは思えない。ならばか細い希望であろうとも、ここで出会えた彼らとの関係を断ち切りたくなかった。
「じゃ、決まった! うんじゃ、俺この子連れてくから。後のことはお願いな」
「お願いって、……おいこら、どうしろっていうんだよ!」
 仲間二人の罵声を浴びながら、ケンジはミルフィーユの肩に手を回した。そして軽くウィンクしてみせる。
「行こうか。だいじょぶ、さっき紳士的って言ったの、あれ嘘じゃないから」
 ミルフィーユにはうなずくことしかできなかった。

「服、ここに置いておくから」
 扉の向こうから、ケンジの声が聞こえた。「Tシャツとジーパンしかないけど」と少し心配そうなつぶやきがその後に続いた。
「……かまいません。どうもありがとうございます」
 熱湯が身体の冷たさを和らげてゆく。雨と泥で汚れた身体を綺麗にすると、ミルフィーユの心に再び焦りが沸き起こってきた。
 こうしている間にも彼女の世界は破滅に向かって、刻一刻と突き進んでいるのだ。それを止められるのは彼女しかいない。だというのに、彼女は創造主につながる手がかりを何もつかんでいなかった。
 どうしたらいいのだろう……
 このどこともしれぬ異界で、彼女はたった1人だった。知り合いもおらず、創造主の名を出しても笑われるだけ。ケンジはどうなのか? 彼もまた彼女の話を聞いたら笑うのだろうか。
 扉を開けると、床にきちんと折り畳まれた衣服が置いてあった。身体を拭いた後、怖々袖を通してみたが思ったより着心地は良かった。
 居間と思しき部屋で、ケンジは飲み物を準備して彼女を待っていた。勧められるままに飲んでみると、やや苦みはあるものの彼女の知っている茶の類と味が似ていた。乾いた喉が潤されると同時に、張りつめていた意識がようやく弛緩した。
「ミルフィーユって変わった名前だよなぁ」
 彼女の顔をじっと見つめていたケンジがぽつりとそう言った。
「そうですか」
「外人さん? どこの国の人?」
「……国はオークです。でも、バスクの町は神殿による自治を認められていますから」
 ケンジは眉をひそめた。しばらく考える目をしていたが、やがて「地理は嫌いなんだよなぁ」と肩をすくめた。
「それよりさ、人を捜してるって言ってたじゃん。住所や電話は分からないって言ってたけど。他に分かることないの? どの沿線に住んでるとか。なんの職業してるとか」
 ミルフィーユは首を振った。
「じゃ名前は?」
 ミルフィーユは無言のまま下唇を噛んだ。ケンジは少し苛立ったように首を傾げた。
「それじゃあ何もわかんねぇじゃんかよぉ。興信所に頼むっても、名前も分かんない人探しちゃくれないし……」
「……創造主」
「え?」
「創造主を捜してるんです」
 ケンジは目を瞬かせた。
「なんだ、そのソウゾウシュってのは」
「全てをお作りになった方です」
 ミルフィーユは心を決めた。そして、全てを話し出した。彼女の世界のこと。異変のこと。ママ・ロゼが立てた仮説のこと。そして、彼女がやらなければいけないこと……
 ケンジは最初、呆気にとられたように聞いていたが、やがてその厚い唇が小刻みに震えだした。
「ちょっと……」
 押し殺した声がその口元から漏れる。
「ちょっと待てよ。……バレル、バレルの町……そうだ、思い出したぞ。神殿を中心に作られた自治都市だ。オークの国の全ての街道はそこに延びている。大神殿には3つの尖塔があって、それぞれ……なんだっけ。そうだ! エクリプス・ドーン・トワイライト!」
 ケンジは声を上げて笑った。
「魔王を倒す7本の剣があって、そのうちの1本が神殿にはあるんだ。全ての剣を集めると、伝説の聖剣ルーン・ブレイドが蘇る。でも確か、そのうちの1本は折れて使い物にならなくなってて……」
 ミルフィーユは目を見開いた。震える声でケンジの後を継ぐ。
「ティタンの山脈に住む、岩妖精達が持つ魔法の槌、ボイドだけがそれを鍛え直すことができる……」
「そうそう!」
 ケンジは懐かしそうに天井を仰ぎ見た。
「いやぁ、ママ・ロゼって言われて何か聞いたことがあるような気がしてたんだよな。うん、ありゃ俺が考えた。なんか、死にかけの爺さんより優しそうなお婆さんの方が、神に仕えるものって感じがしてイイじゃん。あの頃はドラクエとかゲームブックとか流行っててさ。俺達もサークル作って、いつかは自分達の世界を作ってやろうって頑張ってたんだ。休日になると図書館にこもってさ、トールキンとかエンデとか読みながら、アソコがアアだ、ココがコウだって。いやぁ、あんときは楽しかった……」
 ミルフィーユは泣きそうになりながら、ケンジの言葉を聞いていた。この人だ。この人がそうなのだ。全てをお作りになった創造主。確かに忘れかけていたのかもしれない。でも覚えている。ちゃんと覚えている!
「忘れないでください! お願いします。昔みたいにちゃんと私たちの世界を気にかけていてください。そうすれば……」
 そうすれば、彼女達は救われる。消えた人々は戻って来て、バレルの町には元通りの賑わいが訪れるだろう。
 だが、彼女がケンジの手を握った瞬間、彼はふと我に返ったようにミルフィーユを見た。困ったように口元を歪める。
「ね、これ何の冗談?」
「え……?」
「冗談だろう。なんで俺が昔やってたサークルのことなんか君が知ってるわけ? ……思い出したよ。ミルフィーユってさぁ、昔俺が好きだった子をモデルに作ったんだよ。聖女として育てられてさ。すっげぇ純粋で、可愛らしい女の子っていう設定。でも結局、その子とはうまくいかなかった。そのとき俺、決めたんだよ。こんなのはもう止めだ。俺は更正するってね」
 ケンジの目に限りなく猜疑の色が広がっていく。先程見せた無邪気な喜びはどこにもない。ミルフィーユは息を呑んだ。
「だから、これすっげぇ悪い冗談だよ。おまえ、誰かに頼まれたんだろう。あのときに俺と一緒にサークルやってた誰かに。……それで何か? また昔みたいに、ゲームつくって遊びましょうって? 嫌なこった。俺はね、卒業したんだよ、卒業。奴らとは違うんだ。もう、あんなのには近寄りたくねぇ!」
 ぐい、と手首をつかまれた。そのまま凄い力で引きずっていかれ、有無を言わさず玄関の外に放り出される。「かわいそうだからと思って優しくしてやったのによ! さっさと帰れ!」
 ミルフィーユはしばらく呆然と手すりに寄りかかっていたが、やがてそのままずるずると崩れ落ちた。
 訳が分からなかった。
 かつて、あれだけの情熱と喜びをもって作り上げた世界。それを記憶から抹殺することが、なぜ更正になるのだろう。なぜ卒業になるのだろう。
 雨は止んでいた。
 だが、彼女の頬を伝う涙は止まらなかった。
(卒業……卒業ってなによ……)
 玄関先に無造作に放り投げられた服をかき集めると、彼女は立ち上がった。戻るべき世界が既にないことを、彼女は知っていた。
 この異界。夢を持ち続けることがまるで悪夢のように語られるこの世界が、彼女の新しい故郷だった。
 ミルフィーユは顔を上げた。
 雨降り後の空は綺麗に青く澄んでいた。
(ここでも空は青いんだ)
 それだけのことなのに、なぜだか彼女はわずかに心慰められたように思えた。
 ミルフィーユは歩き出した。灰色の町並が彼女の前に広がっていた。