窓のない部屋 風鈴
 ファンタジーというのがよく分からなくて悩みました。
 とりあえず、人は悲しすぎると現実逃避しようとするので、そこのところを題材にしてみました。


 決して嘘をついているわけではない。
 この年齢の子供は、自由に空想し、何の悪気もなく現実の世界にそれをもちこむのだ。
「今日ね、ぼく、公園でママより大きいうさぎを見たよ」
 いつもそうするように、私はベッドの脇に座り、目で笑いかけながら息子を膝に抱く。
「そう、なんか言ってた?」
「ぼくのこと、すっごく好きって言ってた。だから、ぼくも好きだよって言ったんだ」
 あんまりうれしそうなので、私はつい困らせてみたくなる。
「ママと、そのうさぎと、どっちが好き?」
 彼の笑顔が一変して、とてもあわてた顔になる。
「そりゃあ、ママさ。きまってる」
 この子は私の顔色を見ては敏感に反応する。わざと寂しそうな視線を投げかけてみる。
「ほんとだってば! ‥‥えっとね、本当はぼく、うさぎはあんまり好きじゃないんだ。大きいのはとくにね」
「あら、そうなの?」と、少し笑ってみせる。彼は調子づく。
「うん! 本当は嫌いなんだよ、あんなやつ」
 私は、彼を抱いた腕に力を込めて言う。
「そう、じゃあオオカミに食べられちゃうといいわね」

 部屋にノックの音が響いた。
 とたんに彼は私の腕から逃れて、扉の陰へと身を潜める。ドアがゆっくりと開かれると、その隙間をするりと抜けて出ていってしまった。
「ご機嫌いかが?」
 ああ、またこの顔、この言葉。彼女はいつもきまって、最初にこう言う。
 首の上にぺったりと貼り付けたようなその笑顔も、野暮ったい服も私は大嫌いだ。もっと家政婦らしくフリル付きのエプロンでも着ればいいと思うのだけれど、それもまた似合わないのは目に見えているので、あえて助言はしない。
「いつもどおりよ。私の気分がいいのも同じ。あなたのせいで坊やが出て行っちゃったのも同じ」
 彼女はクスリと笑った。悪びれるようすもない。
「気分がいいなら、少しお庭にでてみませんか?」
 思わず悲鳴を上げそうになるのをグッとこらえる。
「いいえ。外には出ないわ」
 明るいところは嫌い。私が掻き集めた真実のかけらが、一瞬にして暗闇に閉ざされてしまう。
 ここがいちばん安らげるのだ。この部屋には窓がない。私は話題を変えた。
「今日、彼は来ないの?」
「いいえ、きっと来ますよ」と、彼女はうれしそうに微笑んだ。
 私がそのことをよろこんでいるとでも思っているのだろうか。この女は自分の恋人を平気でここに連れてくる。そして3人で話そうとする。私は少しも楽しくない。どんな魂胆があるのだろうと思いながら、ずっと黙っているだけだ。
「では、またあとで」
 彼女はそう言いおいて、部屋を出ていった。

 しばらくすると、坊やが戻ってきた。
 私の顔を見るなり、泣きながら膝に飛びついてきた。
「あのうさぎ、オオカミに食べられちゃったんだ。ねえ、どうして? うさぎはオオカミを食べたりしないのに!」
 怒りながら泣きじゃくる。傷ついた小さな胸が愛しくてたまらない。
 彼を両腕で抱えながら、私はなぐさめの言葉を探した。
「あのね、うさぎは死んじゃったれど、そのうさぎを食べたオオカミもいつかは死ぬの」
 彼は大きな瞳をくるりとまわし、一瞬だけ空想の世界に飛んだ。そこで何かを捉えると、ゆっくりとまばたきをして私に視線を戻した。
「猟師に撃たれるんだね?」
「そうかもしれないわね」
 けれど彼は満足しなかった。唇を尖らせると言った。
「やっぱりそれもずるいよ。オオカミは猟師を撃ったりしないのに」
「撃った猟師もいつかは死ぬのよ」
 私は坊やの髪を指で梳きながら言った。「‥‥神さまはね、最後に死を与えることでしか、平等の帳尻を合わせられないの」。言ったとたん、頭の奥が痛みが走った。
 彼は私の膝から離れ、部屋を歩きまわりながら考え込んだ。
「よくわからないよ。ぼく、神さまに会ってくる。うさぎを返してもらうんだ」
 そういうと彼は部屋を出ていった。
 頭の奥の痛みは漠然とした痺れに変わっていた。いま自分が言った言葉‥‥あれは何かで読んだ言葉だ。‥‥いやちがう、私の日記‥‥そう、誰かが死んだときに、悲しくて悲しくて、‥‥そのときに書いたんだわ「神は、すべての命を必ず壊す」。そのことに救われると思った。神を許せると思った‥‥‥‥あれはいつだったかしら。誰を失ったとき?

 いつのまにか、坊やが戻ってきて、私の前に立っていた。
「神さまに会ってきたよ」
「どんなふうだった? 神さまは」
「うさぎは返してもらえなかったよ。神さまね、泣きながら何かをこわしてたんだ。ずっとこわし続けなくちゃいけないんだって、泣きながら言うんだ」
 ああ、この子は理解したんだわ。私の言ったことを。空想の世界で‥‥。
「神さま、かわいそうね」
「ママも会いに行って、抱きしめてあげるといいよ」
「そうね、そうするわ‥‥」

 いきなりノックの音が鳴り、ドアが大きく開け放たれた。
「来ましたよ」と、家政婦が男を連れて入り込んできた。
「出てって! また坊やが逃げちゃったじゃないの。あなたたちが嫌いなのよ、どうして分からないの!」
 ふたりは顔を見合わせている。けれど戸惑うようすはない。それがよけい気に入らない。
「デートならよそでやってちょうだい! 私の部屋でしないで」
 いきなり、男が私につかみかかってきた。
「うんざりだ、いいかげんにしろよ! よく見ろ俺を! この人は担当医、子供は事故で‥‥」
 女が男の腕をつかんで私から引き離した。
「やめてください! 奥さんは病気なんですよ、幻想の世界で生きてるんです!」
 息を整えて、彼女が言った。
「決して嘘をついているわけじゃない、何の悪気もないのですから‥‥」
                                        (了)