みちのべ 北郷博之
 ファンタジーという言葉は、本当に難しいですね。

「こんにちは」
 少女は言った。
「こんにちは」
 クロネコは応えた。
 うららかな春の昼下がりである。

 一人と一匹が対峙しているのは、路地と呼ぶには少し広いぐらいの道路であった。
 ブレザーの制服を身につけた、年の頃一六、七といったあたりの少女と、彼女の前を横切りかかったクロネコとの距離は三メートルほどある。
 見つめる少女の、肩先までの黒髪に包まれたかたちのよい輪郭の中では、柔らかな笑みが咲いている。
 一方のクロネコは、表情の選択に戸惑った風で、少女を見上げている。
 やがて、
「驚かないのですか?」
 おずおずとクロネコが言った。
「驚く? どうして?」
 笑みをさらに咲き誇らせ、少女が言った。深いえくぼが印象的だった。
「しゃべるネコなどというものは、ここそこにいるようなものでもないと思うのですが……」
「うん……あ、危ないよ」
 少女はクロネコの後方を指し、そのまま駆け寄ると、サッとクロネコを抱き上げた。
 その数十センチ横を赤い車が駆け抜けていった。道幅に不相応なこと甚だしい速度で、である。
「危ないね」
 舌打ち混じりに見遣った少女だったが、その半瞬後には、先程までの笑顔に戻って、
「ねえ、あなた、今、おひま? よかったら、少しお話しましょうよ」
 と、問いかけている。
 しっかりと抱きかかえられた腕の中で、しばらくクロネコは沈思していたが、
「そうですね」
 と、頷いた。
「じゃあ、西グラウンドに行こう」
 少女は歩きはじめた。

 出会いの道路から五〇メートルも歩くと、左手が大きく開けて、そこに西街区運動公園という名称の更地――西グラウンドがある。
 土日ともなればサッカー小僧やら野球少年やらに占拠されるこの場所も、平日の午後では閑散としたものだ。
 グラウンドの四方に配されたベンチのうち、入り口から最も遠いベンチに少女は陣取った。
「誰もいなくて良かったね」
 ぐるりと見回して、少女は太股の上のクロネコに声をかけた。
「ええ」
 クロネコは頷きつつ、チラリチラリと、少女の顔を盗み見ている。
 小さく縮こまっているのは、いざとなれば、すっ飛びだして逃走しようというのだ。
「うちにもしゃべるネコがいたのよ」
 おもむろに少女が言った。
「おばあちゃんが飼っていたネコでね、タマさんっていうのよ。白くて、ちっちゃいネコ」
 言いながら、少女の掌がクロネコの身体を優しくなで上げる。色艶の鮮やかな毛並みだった。
「だから、ね、私にとって、しゃべるネコは、全然、変じゃないの」
「そうでしたか」
 深い吐息とともに、クロネコは、そう呟いた。
「いや、先ほどは……」
「ん?」
「先ほどは、しまった、と、思いました」
「どうして?」
「あなたに声をかけられて、つい、返事をしてしまいましたが、これは、また、騒ぎになってしまう、と」
 のどの奥で少女は笑い、今度は、クロネコの頭をコネコネとなで回した。
「そうね。気をつけなくちゃね。タマさんも、おばあちゃんと私の前でしかしゃべらなかったもん」
 コクリと頷いたクロネコは、のったりと少女の太股にしなだれかかった。
「あの……」
「なぁに」
「私が、そういうネコだということをご存じで、お声を?」
「ううん。私、ネコを見ると、とりあえず話しかけちゃうの。そういうものよ、ネコ好きって」
「はぁ」
「あ、でも、なんだか、ちょっと雰囲気のあるネコだなとは、思ったけどね」
「ははぁ」
 惚けたような応えに、うっふっふ、と、少女は笑い、
「そうなのよ」
 と、言った。

「あ、これ、食べる?」
 思い出したように言いながら、すでに少女はポケットから掌大の小袋を取り出していた。表紙には子猫の絵が刷られている。キャットフードだ。
 しかし、クロネコは、それを見ると、フルフルと首を横に振った。
「申し訳ありませんが……」
「嫌い?」
「いえ、前に、一度、そのようなものを食べたことがあったのですが、あの、下痢を起こしまして」
「そう」
 少女は拘らず、そのまま小袋をポケットに戻した。
「タマさんは大好きだったよ、これ。じゃあ、おうちでも、こういうのは食べないの?」
「ええ」
 ふーん、と、少女は頷いた。
「なにを食べてるの?」
「肉とか、魚とか……」
「日持ちのしないものばっかりじゃないの」
「はぁ」
「飼い主泣かせねぇ。労ってあげなさい。結構、お年なんでしょう」
 言われて、クロネコは首をすくめた。が、すぐに、ひょこっともとに戻すと、
「どうして、私の主のことがわかるのですか」
 と、問うた。
「ネコは、いつでも一緒にいる人の言葉を少しずつおぼえていって、いつかしゃべれるようになるんだって」
「ははぁ」
「五年や、一〇年じゃないよ。もっと、ずっと、長い時間を、一緒にいなくちゃいけないの。だから、あなたのご主人様は、お年なんじゃないかなって、思ったの」
「なるほど……」
 なにやら感じ入ったらしく、クロネコはしきりに頷いている。
「だからね、タマさんは、おばあちゃんと同じしゃべり方なのよ」
 そう、少女は言ったのだった。

 それからしばらくの間、少女とクロネコは互いに無言だった。
 それは、西グラウンドに、五歳ぐらいの男の子と、その母親がやってきて、しかも、二人が一人と一匹の方に向かってきたからだ。
 男の子が突進してくる。お目当ては、もちろん、少女の腕の中のクロネコである。
 次の瞬間、クロネコは少女の腕からすり抜けると、グラウンドの隅の方の草むらに逃げ込んでしまった。男の子も追いかけたが、捕まるものではない。
 べそをかく男の子に、ネコさん、びっくりしたのかもねぇ、などと愛想の良いことを言って、少女は親子連れを送った。
「……もう、いいよ」
 少女が言うと、クロネコが姿を見せた。スタスタと寄ってきて、少女の太股の上に乗っかる。
「いや、失礼しました。どうも、子供は苦手でして」
「フフ、人間の子供が好きな動物って、あまりいないんじゃない」
「いや、まったく、なんとも、度し難い輩で」
 と、クロネコは鼻息が荒い。
 少女は苦笑しながら、クロネコののどの下に指を差し入れて、そこを擦った。
 クロネコは、その愛撫に、ピンと尻尾を立てて応える。
「私も、ちっちゃいころは、タマさんに嫌われてたな。私が近づいていくと、逃げちゃうの」
「すると、あなたにも、先ほどの子供のような頃がおありであったと」
「うんうん。でね、あんまり私がしつこいと、タマさんたら、攻撃してくるのよ。体当たりで、ドカーンって」
「ほほう」
 少女はクロネコに左手の甲を見せた。そこには、消えかけた幾筋かの傷跡があった。
「これね、タマさんに一度だけ、引っ掻かれたときのなの」
「それは、また、何故に?」
「おばあちゃんが、五年前に死んだの」
 少女の声のトーンが、グッと低くなった。
「すごく悲しかった。私、おばあちゃんっ子だったから。しばらく、ご飯とか、食べられなかった」
 ここで、少女の顔には、潤んだ微笑が浮かんだ。
「そしたら、タマさんに叱られたの。食べなくちゃダメって。食べないと引っ掻くって。タマさん、本当に私を引っ掻いたのよ……」
 クロネコは顔を寄せると、二度、三度と、少女の手の甲を嘗めた。
 そんなクロネコの身体を、少女の右手が、ギュッと抱きしめた。
「……あなたのご主人様は元気?」
「かくしゃくとしたものです」
「うん、うん……」

 風が出てきた。
 一人と一匹は黙りこくっている。
 いつしか空にはいくつもの雲塊がある。風に誘われたのか。
 陽光が、少しずつかげり始めてきた。
 そして、
「時に……」
 クロネコは続けた。
「タマさんは、お元気で」
 応えまでには、ずいぶんと間が空いた。
「……いなくなっちゃった」
「いなく、なった」
「もう二週間。ノラの暮らしなんか、したことないはずだから、心配なの」
 と、少女は嘆息し、
「どこに、行っちゃったんだろ」
 また、嘆息だった。
 少女はずっと、まっすぐを見つめている。
 クロネコも、まっすぐを見つめている。
 一人と一匹の眼差しの高さは違う。けれど、それぞれの瞳に映っているものは、たぶん、同じものだった。
「……あなたはもうご存じなのかもしれない」
 クロネコだった。
「タマさんは、もうお亡くなりになっていることでしょう。ネコは、己が死期を悟ったとき、主のもとを去るのです」
「どうして?」
「ネコはひとりで死にたいのです」
「どうして!」
 それは、怒号だった。少女の瞳は、熱くたぎっている。
「ひとりで死んでどうするの。そんなのさびしいだけじゃない。そんなことしないで、私とずっといればいい。そしたら、そしたら……」
 駄々っ子の口調を、ギュッと強くつかむ少女の指の理不尽を、敢えてクロネコは受け止めた。
「どうして……」
 もう一度、少女は言った。その頬を、一滴のきらめきが滑り落ちた。
 クロネコは少女の腕をすり抜け、後足を支えに立ち上げった。そして、少女の肩に前足を乗せ、その横顔を見つめた。
「タマさんは、あなたのこんな顔を見たくなかったのですよ」