我が主(あるじ)よ、風の声を再び聞け 和 杜尊
 これ以上現実からはなれることが出来ませんでした。


 神代 鞍之佑は、2軒目の焼き鳥屋を追い出されるように出た所で、急に足元が定まらなくなってしまい、二三歩よろけて目の前の「2450円飲み放題」と書かれた看板にしたたか頭をぶつけてしまった。しかし酔っているので痛みは感じず、テーブルに置かれたカードをめくるように180度裏返えり、またよろけてぶつかるように電柱に抱きつく。
 抱きついた拍子に電柱に腹を押されて急にこみ上げてきてしまい、電柱に報復としてゲーゲー吐きかけながら、神代の頭はもう一軒回らなければと思っていた。今晩もこのままでは眠れそうもないからだ。かといってもう一軒回ったからといって眠れる保証もなかったが、一人でアパートの部屋にいると、例えテレビを点けていても仕事のことを思い出してしまい、憂鬱になってしまうだけなのである。

 神代の仕事は、医療機器メーカの営業マンである。成績は毎月トップ。給料は止まることを知らずに増え、来期には25歳の若さで課長代理に抜擢される噂が聞こえ始めている。
 周りからみれば神代は羨望の的である。
 しかし、彼は自分の時間がとれれば今晩のように、酒に溺れている。
 神代の憂鬱は、新入社員の頃上長の持国と得意先の国立病院の訪問から始まる。応対をしてくれた外科部長は、ろくに役に立たないことを承知していながら、150万円のリベートを条件に旧式の人工心肺装置を3台も購入してくれた。しかもリベートの話を持ち出して来たのは相手の外科部長の方からである。
 上長の持国は、その席ですぐ快諾した。
 それから、神代に「裏金」という金の存在とその引き出し方を教え、外科部長への支払いを指示した。
 外科部長の件がかたづくかいなや、某私立有名大学付属病院の教授より電話で呼び出され、これまた今時技術的に5年は立ち遅れている超音波検査機を200万円のリベートで5台契約に持ち込んだ。
 そして、今挙げたような屑野郎は神代の仕事に次から次からと群がり今日に至っている。
 言うまでもなく、医療機器とは、人々の命を守るためにこの世の中に存在しなければならない。しかし神代は、人命を救うことに貢献しない医療機器を不正な手段で売り続け、自己の栄達を図り続けてきた。
 大学の卒業を目前にした神代は、自分が身命を注ぐ仕事の意義について考え尽くした上で現在の会社を選択したのである。にも関わらずこのていたらくである。神代は日々、自分を貶め、否定しようとする自分と闘っていた。

 最初は駅前のシート張りの屋台のおでん屋で、今日の全レースの予想を外してしまい、二度と自転車を見たくないという、取り壊しビルの土台のコンクリート砕きの親爺と管を巻いた。
 そして今ガード下で、いつも生焼けのもつ焼きを平気で出すばばあがやっている焼き鳥屋を、酔い過ぎているため摘み出されたところである。
 神代は金には不自由していなかったが、美しい女が居て美味い酒を出す快適な店には行かない。
 そんな店に居る奴らは、自分と同じく人の腐肉を食らって生きているような匂いがするからである。そして、自分のような仕事をしている人間には、ドブ臭く、油臭いトタン張りの店が相応しいと思い込んでいた。
 
時計は23:00を回っていた。
 中央市場という名前だけ市場でありながら、実は安い飲食店が長屋のように軒を連ねている狭い路地を過ぎると、全校生徒数が1000人程のこぎれいな小学校の白い校舎が見えてくる。
 良く出来ている。ちょっと考えると同じ土地に飲食店街と小学校があるなんておかしな組み合わせだが、実にうまく共存しているのである。
 なぜなら、二つの場所で人々が活動する時間帯は、決して重なることはないからである。
 以前、中央市場の中の店に立ち寄った時、店をやっている爺さんが言っていたが、中央市場の店の経営者達は、皆火災保険に入っていて、火事にならないかと内心願っているそうである。
 古い建物を一掃し、かつ再出発に十分な資金を手に入れることが出来るからである。
『火事になったら小学校は困るだろうな』
 酒のせいか別に母校でもなんでもない、通りすがりの小学校のことが、急に神代は心配になった。
 アルミのフェンスにレリーフで魚や熊や鳥の形をこしらえた小学校の塀に沿って歩いていると、アルコールで定まらない神代の視界の右隅に白いものがよぎった。
 神代の右側は、フェンス越しに小学校の校庭になっている。
 町中にある小学校のせいか校庭は余り広くない。その上予算が潤沢なのか、ちょっとうるさいくらいにジャングルジムやらサッカーのゴールなどの器材がひしめいており、余計に窮屈な印象を与える。
 その校庭のど真ん中に何か白いものが立っていた。真っ暗な校庭の真中でコントラストも鮮やかな白いかたまりは人のサイズほどであり、しかも神代の方を凝視しているようである。
『幽霊』
 白い人形(ひとがた)の怪異は動かなかったが、炎のように揺らめいていた。
 ありていに言って神代は幽霊が恐い。しかし、人間とは変なものであり、恐くてもとりあえず目前に怪異があるならば確かめずには居られない。心ならずも一分ほど対峙してしまう。
 神代が酔った自分の頭が、照明か何かを見誤ったのではと思い始めた時、その白がいきなり横に流れた。大人3人分ほどの幅に広がったかと思ったら、右上に尖り、左下に伸びて徐々に形を整える。
『馬?』
 正体不明の白い光は、風もないのに白く燃え立つたてがみと尻尾を蠢かせながら口を天に向けて突き出し、力強く地面を踏みしめている白い馬に変化した。
『マスター。マスターーー』
 いきなり神代の頭の中に声が響いた。
「なんだ、俺はスナックなんかやっていないぞ。マスター呼ばわりするな。俺はもっぱら客の方だ」
 突然のことに、神代は、訳のわからない返事をしてしまう。
「そうか、お前馬みたいな格好しているが、宇宙人だな。俺をたぶらかして誘拐するつもりだろう」
『マスター落ち着いて下さい。私です。あっ、しまった』
 そう言うと、白い馬は元の白い人形(ひとがた)に戻り、やがて実体化し明確な人間の女の姿に変化した。
『話すことに集中し過ぎて、人間の形に戻ってしまった』
 女は少し慌てて自分の姿を確認しながらつぶやく。
 神代は、相手が見た目だけ変なだけではなく、直接頭の中に語りかけてくることから、最早逃げ切れないと直感した。
 しかし、正体不明の白い怪物が、人間の女の形になったことから、転機が訪れたことを感じ、状況を好転させるために、近づいてみることにした。フェンスの馬のレリーフの部分に足をかけ、小学校の敷地に飛び込む。が、着地に失敗して顔から突っ込んでしまう。何とか起きあがり、顔に付いた砂を払い落とすと、目の前に白い女が立っていた。一見すると美しいが面長の顔立ちと長く伸び切った美しい四肢から、白人の女に見えた。髪は真っ白だが白髪などではなく艶やかに光っており、金のヘアバンドをしている。服装はシンプルで、冬だというのに、真っ白でノースリーブのミニのワンピースを着ている。
 いっしょに顔の砂を払い落とそうとする女の手を払いのけながら、神代は女に向かって叫んだ。
「なぜ、俺のことをマスターと呼ぶ。俺は神代という名ののんだくれだ」
 近くで見ると女は、日本人のように黒い瞳を持ち、優しい目をしていた。
 女はその目を悲しそうに細めながら、呟くように神代の言葉を否定した。
「いいえ。あなたの名前は、ベレロフォン。コリント王グラウカスの息子です」
「なんだ。ベレなんとかって誰だ。俺の顔を良く見ろ。俺が外人に見えるか。俺は日本人だ」
「あなたの牢獄であるこの世界では、あなたは20世紀の日本民族の男性として存在しています。私が人間の姿でいるように」
「牢獄?俺はムショなんかには入っていないぞ。それにお前は紛れもなく人間の女だ」
 しかし、女は神代の言葉には答えず鋭く辺りに目配ばりをする。
 続けて問いただそうとする神代の口を押さえながら、再び直接心に話しかけてきた。
『少しの間静かにして下さい。どうやら、奴に私がこの世界に来た事を知られてしまったようです。奴に三方から囲まれてしまいました』
『何も見えないぞ。それに言葉の使い方を間違えている。取り囲むなら奴ではなく、奴等だ』
『いいえ、奴という言い方でいいんです。なぜなら奴には頭が三つあるのですから』
『なんだあ。ちょっと待て。取り込み中というのは何となく俺にも分かる。しかし、この質問だけには答えてくれ。奴とは誰だ。そして俺をマスター呼ばわりするお前は誰なんだ』
 女は左手で神代の右手首を掴むと急に校舎の方に走り出した。走り出しながら、言い放った。
『奴の名前はキマイラ。そして私はペガソス。ゴルゴンの一人メデューサの血から生まれし者です』
 神代は、名乗った女に返す言葉を見つけられなかった。ギリシャ神話の世界である。こんな状況では、どんな説明でも簡単に納得は出来なかったに違いない。しかし、ギリシャ神話である。まだ、我はエイリアンであると名乗ってくれた方が落ち着けるような気がした。
『この女は頭がいかれているのか。しかし、馬に変身したり、ただの気違いではない。それにキマイラといえば詳しく覚えていないが滅茶苦茶な怪物のはず。頭が三つあるみたいだから、さしずめ現代で言うところのキングギドラといったところか。この女は俺をマスター呼ばわりしていることでもあるし危害を加える気はなさそうだが、注意しなければならないのは、キマイラの方だな』
 自己保身の本能からやっとそこまで神代が考えることが出来た時、女が急制動をかけてその場に立ち止まった。
「ドラゴンヘッド」
 ペガソスと名乗った女が吐き捨てるように呟きながら前方の闇を睨む。 
 神代も引きずられるように、女の凝視する闇に目を凝らすと男らしい人影が見える。その人影は徐々に神代達に近づき、二人の目の前で立ちはだかった。
「持国部長」
神代達の前に立っているのは、神代の上司の持国だった。
「そうか、神代君。その女に会って全てを知ってしまったのだね。今までは大神ゼウスに逆らう訳にも行かず、苦しめるだけに止めて来たが、決着をつけるときが来たのだな。この世界でお前を殺すとゼウスの作った精神の牢獄の規範を破ることとなるため、ゼウスの怒りに会い折角復活したこの身が滅びるのが怖くて、直接手を下せずにいたが。最早この身は惜しまぬ。どうせ一度は滅びた身。ともにハデスの治める地へ行くことにしようか」
 持国の言葉が終わるとともに、神代は背後に気配を感じて振り返る。
 そこには、かつて神代がリベートを渡した外科部長と大学病院の教授がいつまにか立っていて、持国とともに三角形を作っていた。神代と女は、三角形の中心に立たせられていることになる。
 不意に後ろからオーという叫びが聞こえてくる。
 再び神代が振り返ると、持国が空に向かってオーと吠えている。その叫びとともに持国の耳が消え、髪が消え、口が耳まで裂けた。持国は竜人へと変化する。
「マスター。後ろの二人もそれぞれ獅子の頭と山羊の頭に変化しました。」
 想像はしていたが、女から聞きたくもない情報が伝えられる。
 唐突に目の前の変身を終えた竜人が、大きな口を空けて大気を吸い込み始めた。
『いけない』
 女の心の叫びが突き刺さるようにもたらされるとともに、神代は女の口で上着の首元を咥えられてしまう。そして、体を宙に浮かせながら、一番近くの小学校校舎一階の教室へ女と共に窓ガラスを割りながら飛び込む。
 神代が体中で苦痛を感じていると、不意に教室の外が明るくなった。
 痛む体を起こしてみると、三匹の怪人が、二人の居た位置の辺りをめがけて、猛烈な炎と煙を口から吐き出しているのだった。
「ありがとう」
 反射的に神代は、女に礼を言っていた。そしてとにかく逃げなければならない。
 二人は、痛いからだを引きずりながら、教室の出口に突進する。そこから校舎の外への出口を目指すが、山羊頭の怪人が立ち塞がっていた。背後で山羊頭の怪人が息を吸い込む不気味な音を聞きながら、隣りの棟に向かう廊下に飛び込む。廊下の両側には窓ガラスがはめ込まれていて、校舎の外が見えるようになっているが、ふと神代が左の窓を覗くと赤い小さな光が見えた。
『ライオンヘッドが息を吸い込んでいる』
 神代の心の声を聞いたペガソスは、窓の外を確認もせず神代を掴むと、反転して今入ってきた廊下の出口から校舎に飛び込む。
 さっきの教室の出入り口が左に見えたかと思うと、左前方と背後から同時に津波のような火炎と煙が押し寄せてくる。
『こっち』
例によってペガソスに引きずられるように右側の階段に飛び込む。最早一階は火炎地獄となっており、上の階に何があろうと上るしかなかった。
 神代は二階に駆け上がりながらペガソスに尋ねる。
『君はさっきペガソスと名乗ったね』
『はい』
『ペガソスって確か鳥のような翼を備えた白い天馬のことだよね』
『確かに私はそんな姿をしております』
『それで、さっき俺をベレロフォンと呼んだね』
『はい』
『ベレロフォンは確かさっきのペガソスに跨って英雄として活躍した男のことだ』
『その通りです。私とあなたは、今私達を追っているキマイラ退治や、アマゾン族の討伐などの冒険を成し遂げました。』
 神代は、直ぐには二の句が繋げられなかった。
『こんな、惨めで弱くて情けない男が英雄なわけないだろう』
『それは・…』
『それに一度退治したはずのキマイラがなぜ再び襲ってくるんだ』
『ゼウス、ポセイドン、ハデスで世界を割譲しあう際、ハデスは冥界の王とされてしまったことを不服に思い、特にゼウスを恨み続けています。そこで、怪物キマイラが退治された怨念に満たされていることを利用し、ゼウスの統べる世界に混乱を起こすため奴を復活させたのです。しかしハデスは、こんなことでゼウスの覇権が覆せないことを知っています。だから今回のことも、先の兄弟間での遺産相続に端を発した嫌がらせ、いや悪戯といった所でしょう』
『迷惑な悪戯だ』
 神代がそこまで説明を受けた時、目の前に屋上へ出る鋼鉄の扉が見えて来た。二人は屋上へ出ると鋼鉄の扉を閉め近くにあったガラクタを利用してバリケードを築く。
 神代が一休みしようとその場に座り込んだ時、空から糸で吊り下げられているかのように、ゆっくりとキマイラの一人ドラゴンヘッドが降りて来た。着地するとすぐさま神代に掴みかかろうとする。
 ペガソスはドラゴンヘッドに対するように立っていたが、くるりと時計周りに回転して背中を見せると右足でドラゴンヘッドを蹴り飛ばす。ドラゴンヘッドは、屋上の金網を破って飛び出し、闇の中に姿を消した。
「やった。ドラゴンヘッドを倒した。」
「いや、こんなことで倒れるキマイラではありません」
 ペガソスの言葉が終わらないうちに、今通ってきたばかりの鋼鉄の扉に何かが体当たりする音が響いて来る。扉は今にも破れそうである。
 神代とペガソスは扉から離れ、金網の傍まで逃れる。
 ほどなく扉は破られ、獅子の頭と山羊の頭の怪人がなだれ込んで来た。そして、再び上空から竜の頭の怪人が降下して来て、三人は三角形に立つ。
「手強い。一気に力を集中するぞ」
 三匹の怪人達は、一度離れて三方に距離をとった。それから勢いをつけて衝突する。
 爆発するような炎が四方に走った。強烈な炎である。そして、その炎の中心にキマイラは立っていた。大きさはざっとアフリカ象の二倍、山羊のような体に山羊と獅子と竜の頭が生えており、竜のような尾が伸びている。
 その怪物が三つの頭を二人の方に向け、睨みつけていた。
 神代は、キマイラの姿を見たときに、高圧電流が流れたかのような衝撃が走った。
『俺はこいつを知っている。こいつは俺の敵だった』
「マスター。思い出して来てくれたんですね」
 ペガソスが嬉しそうに叫ぶ。
 そんな神代の姿をみたキマイラは、益々荒れ狂い出す。三つの頭を揃えて息を吸い込み始める。
「ペガソス、何故そんな姿をしている。君は天馬なんだろう」
 神代が叫ぶ。
 瞬時にペガソスは白馬の姿に変身した。尻尾で神代を持ち上げると自分の背に乗せ、先刻ドラゴンヘッドが壊していった金網から宙に走り出す。
 同時に背後で強烈な熱と赤い光を感じたが、神代は振り返らなかった。
 ペガソスは、宙に踏み出すと共に首の根元から翼を広げる。
「なんだ、天馬の姿になれるんだ。なぜ、今まで変身しなかった」
『あなたが、私を呼んでくれたから。天馬の私を必要としてくれたから本当の姿で、この世界に存在することが出来たのです。ゼウスの作ったこの科学の世界では天馬など存在しないのです。誰かが強く願わなくては』
「よし、とりあえず奴の炎が届かない空からキマイラの様子を見てみよう。校舎の上を旋回してくれ」
 校舎の屋上は、さして燃えるものもないはずなのに、火勢は衰えていなかった。そして、キマイラの姿が屋上に見当たらない。神代は急に不安に襲われた。
『ペガソス、以前はどんな手段であの怪物を退治したんだ』
 自分のやったことを他人に尋ねるのはおかしな気分だなと思いながら聞いてみる。
『先の戦いでは、地上から火炎攻撃を仕掛けてくるキマイラに対して、上空から急降下し、一度に一つずつ山羊、獅子、竜の順に頭を槍で突き刺し殺しました』
『今の俺の体力じゃ無理だな。槍もないし、こりゃ逃げの一手だな』
 神代がペガソスの背で逃走先を考えていると、突然左のこめかみが痛み出した。危険を知らせるイメージが神代の頭の中で回り出す。
『ペガソス。右だ。右に急旋回しろ』
 ペガソスが神代の言葉に即座に反応して飛行コースを変えると、神代たちの横を真っ赤な火球が通り過ぎてゆく。
 振り返った神代は、呪いの言葉を吐き出した。キマイラがペガソスとほぼ同じ速度で空を飛んでいたのだ。しかも奴は、後ろをとっており、飛び道具も持っている。
 逃げることは、出来なくなった。奴は復活の際に性能強化まで果たしていたのだ。
 ペガソスは、神代の指示に従い右に左にコースを変更しながら飛び、なんとか火球を避けることに成功していた。しかし、長い逃走の末、見た目にもペガソスの消耗はピークに達し、二人は追い詰められつつあった。
『奴は火の属性のモンスターだ。すると奴の弱点は…』
「ペガソス、作戦を授ける。説明は面倒だ。俺の頭の中の考えを読め。急げ」
 神代の策を受けたペガソスは、下方に進路を変更する。やがて広大な敷地を有する施設の上空に達する。道路に沿って掲げられている看板には「○○大学 工学部」と書いてあった。
 ペガソスは、敷地内でひときは高くそびえている円筒形のタンクのある建物に向かう。ペガソスのスタミナは尽きかけていた。息も沸騰したヤカンから噴出する蒸気のようである。
 キマイラは、神代達の後ろ約五メートルの位置にまで迫っていた。
 ペガソスは、円筒形のタンクに向かって全力で飛び続ける。衝突コースである。
 キマイラは、二人の直ぐ後ろまで迫っていた。
 あともう一息、二息でタンクに衝突すると言う所で、神代が叫ぶ。
「今だ」
 ペガソスは、タンクに衝突する寸前に左に旋回し、回避した。しかし、大き過ぎる質量から慣性力が付き過ぎている上に、今まさにとどめの火炎を浴びせようとしていたキマイラは、そのまま円筒形のタンクに突入してしまう。タンクが破れ、中の透明の液体が激しい白煙を上げながらキマイラを襲う。
 辺りにキマイラの苦悶の叫びが木霊した。キマイラはボロボロに崩れ始めている体を引きずり、地面の上でのたうっている。
 破れたタンクの破片には液体窒素の文字が見えた。マイナス196度の低温の液体である。
 ここは神代の母校である。学生時代の夏に工学部の友人を実験棟に訪ね、不埒な友人が暑いだろうと神代の周りに液体窒素を撒いてくれたことから、ここに液体窒素があることを知っていたのだ。
 神代とペガソスは、キマイラの傍に舞い降りた。神代は殆ど動かなくなったキマイラの最後を見とどけようと、ペガソスから降りる。
 すると、今まで突っ伏していた竜の首が急にもたげて、神代に口を開けた。
『危ない』
 ペガソスはそう叫ぶとともに翼を広げ、キマイラと神代の間に翼を差し入れる。
 ゴーという音と共に、竜の首は最後の力で炎を吐き出した。しかし、ペガソスの翼が炎を遮る。
 神代は後ろに吹っ飛ぶようにして炎を避けたが、ペガサスの助けがなければ、焼死していたに違いなかった。立ち上がると急いで近くの赤い箱から、消火器と取り出す。再びペガソスの傍に戻り、掃うように粉を吹き付け、ペガソスの翼の火を消した。
 しかしペガソスは、地面に横倒しとなり、片翼の付け根辺りから血を流し悶え苦しむ。
 無惨な愛馬の姿を見た神代は、自分の中にこれほど激しい感情があったのかと驚くほどの怒りが全身から噴き出るのを感じた。
「おのれ、おのれ、よくも我戦友ペガソスを」
 神代の口から自分でも驚くような言葉が発せられる。続いて神代の服が全身で裂けるように破れてゆくのを感じた。上背が1.5倍、腕と脚は痩せた女性のウエストサイズほどに成長する。最早顔には弱々しい日本人の面影はなく、金褐色の髪とへイゼルの瞳そして意志の強さを窺わせる突き出た顎を持っていた。
 ベレロフォンは、一蹴りで鎖の錠前の付いた扉を破ると、タンクと棟続きとなっている建物に侵入した。中に入ると直ぐ右側にある「液体ヘリウム貯蔵庫」と書かれ鍵のかかった鉄の扉をひきちぎるように開ける。間髪いれずに中に飛び込み一本が100キロはあろうかというステンレスの容器を二本ずつ抱えて外に戻る。
 キマイラはまだ生きていた。起き上がろうとじたばたしている。
「貴様のような外道の怪物が、二千年後の人間の知恵をも身に付けた我を害そうとは笑止。これはその報いと知れ」
 ベレロフォンはそう叫ぶと拳の一撃でステンレス二重構造の容器に穴を穿ち、次々とキマイラに投げ付ける。
 液体ヘリウムは、マイナス268度の極低温の液体である。キマイラに断末魔の叫びはなかった。瞬時に崩れ去り、後には砂のような氷の粒が小さな山を成していた。

 全てが終わり、一時の怒りが治まるとベレロフォンは再び神代の姿に戻っていた。
 やはり、人間の女性の姿に戻っているペガソスに駆け寄る。
「キマイラは消滅したぞ」
「お見事、流石はマスター」
「傷の具合はどうだ」
「どうやら死は免れたようです。ですが、もしかしたら、二度とマスターを運ぶことは適わないかもしれません。傷が大きくなるので、しばらくは人間の姿で治癒を待ちます」
「そうか」
 とそれだけ答えて、心の中でペガソスに感謝の言葉を述べる。
「一つ聞きたい。どうして危険を冒してまでこの世界にやって来た。天界にいればゼウスの雷を運びながら天馬として暮らせたろうに」
 ペガソスは、ちょっと言葉を噛み締めるように返事を抑えたあと語り出した。
「女神アテナの金の馬具の力も当然あります。しかしなにより、マスターが天界に上ろうとされた時にゼウスの使いの虻が私を刺したことはご承知でしょう。あの虻は私の精神を支配したのではなかったのです。虻は私にマスターを殺すように命じました。私はマスターを殺すことも出来ず、されどゼウスの怒りは恐いで、途方にくれ、マスターを振り落としたのです。マスターはその衝撃で自我をなくされている内に、ゼウスがマスターの精神と肉体を奪い、二十世紀のこの世界に囚人として繋いだのです。私は馬ですが、幾多の苦難を分かち合ったマスターを権力者に売り渡したことに悩みました。そして悩み抜いた末にこの世界にやって来たのです」
「そうか、よく来てくれた」
「全てを取り戻された今のマスターは、望めば元の世界に戻ることが可能です」
神代は、少しの間閉じ篭るかのように目を閉じ、無言を徹した後に続けた。
「お前の負傷のこともある。それにどんな世界に居ても、自分を捨てず信じて生きれば、そう易々と滅びることはあるまいよ。もうしばらく留まることにする」
 ペガソスは女性の姿をしているが、異性を感じることはない、ただこの世で一つしか存在しない自分を分かち合える貴重な魂に対して募る愛しさに、ベレロフォンはペガソスの銀色の髪をなで続けた。

おわり

本作品の作成にあたり、以下の資料を引用させて戴きました。
「ギリシア神話」串田 孫一 著
「ギリシャ神話」山室  静 著