ささ(H)
 初めての投稿なのでかなりどきどきしています。
 率直な感想お待ちしております。


 ゥセには翼があった。彼の一族は広げると背丈以上にもなる白い大きな翼持っており、その姿から翼人と呼ばれていた。ゥセは今年で25になる。翼とは、18年間共に暮らしてきた。
 翼人はある地域でしか発生せず、そこは翼人の街と呼ばれていた。翼は誰にでもあるものではない。翼人の街の生まれであっても、子どもには翼がなかった。この街では自分が大人になったと思うとき、街のばずれにある森の「認めの場」に行く。木々に囲まれた小さな広場の中で祈っていると、どこからか翼が現れる。その翼が祈るその人間の背に共生すれば、翼人の街では成人として認められるのだ。そうした翼のほとんどはその人間の意思に従い、その人間の一生に貢献するのだ。
 翼は共生する人間を選ぶ。翼人の特徴として、その容姿以外に「善良である」ことがあげられる。翼は人間の心の奥を見、そして、その心の美しいものに棲むと言われている。また一方で、翼は心を浄化するのだとも言われている。だから翼人は善良でいられるのだと。
 多くの翼人はその能力でもって生活を得る。強靱な翼は大海をも越える力を持つ。例えば、渡り鳥のように陸を、海を渡り、手紙や荷物を運んだりするのだ。量こそは運べないものの、その速さは馬車や人力船よりよほど早い。ゥセもその中の1人であった。
 ゥセは戦地に食料や物資を運んでいる。世界では未だにあちらこちらで戦いが繰り広げられていたが、翼人の街は中立を保っていた。翼人はどの国につくでもなく、求められれば協力をする。ただし、人殺しに関わる協力は決してしない。仕事は主に、薬品や食料の調達である。
 ゥセはもう、18年もそんな仕事をして生きて来た。戦地以外でも仕事はいくらでもあったが、ゥセは敢えて戦地での仕事を選んだ。仕事は危険で、命を落とすことさえあるが、他よりも報酬が高いためである。始めは、二つ下の小さな妹を養うためであった。しかし病弱な妹は10才で天に召されてしまった。それでも、ゥセはこの仕事を続けていた。

 ゥセの翼はよく彼になじんでいた。翼は話こそはしないものの、その感触でもって翼の気持ちが分かる、とゥセは思っていた。何より、翼は彼の思うように羽ばたき、彼を助けた。高齢の部類に入るゥセの翼は、色こそ褪せつつはあったものの、大きく美しく、ゥセにはそれが誇りであった。
 その日、ゥセの仕事は小さな村に薬品を届けることであった。その村は争う二国のちょうど交わる場所にあり、つい2・3日前までは戦渦のまっただ中であった。戦場は移動したが、いまだ危険の多い場所である。ゥセはそのような場所に進んで志願し、そしてこなしてきた。「危険な場所へ」その傾向は彼の妹が死んでからより顕著になった。多くのものは彼の勇気を褒め讃えるのみであったが、中にはそんな彼を制するものもいた。
 ガゥイは7才の小さなゥセが仕事を始めた頃から、彼をかわいがってきた。彼には子どもがおらず、成人を認められていたとはいえ、小さなゥセの、そのか弱い姿が気にかかってしょうがなかったのだ。ゥセに気づかれぬよう、こっそりとその仕事を見守ったこともあった。
 「安全だと思っても、気を抜くなよ。」
 ガゥイはゥセが出かけるたびに、そんなことを言った。耳にたこがでるように思いながらも、ゥセもまた、その気持ちがうれしかった。
 ゥセは今、そんなことを思い出しながら昼食をとっていた。目的地はあと半時も飛んだ場所である。低い焼けた木の下で、彼は作ってきた握り飯を頬張った。辺りは争いの跡を残し、黒く焦げた野が広がっていた。死体はもう埋め立てられたのだろうか、人の形をしたものは何一つ目に入らない。
 「こんな景色は見慣れることがない・・・そう思わないか?」
 ふ、とゥセは小さくため息をついた。多くの人々が命を奪い合い、奪われる。いや、人間だけではない。戦いの後には動物も草木さえも姿を消す。全ていずれはどこからか戻ってくることは分かっているが、それはかつてあったものとは全く同じものではない。
 こうして荒れた地に座っていると、今はただ、翼と、自分だけがここにいるような気がしてくる。1人での仕事が多いこともあってゥセは独り言が多くなった。・・・と言うより、何かと翼に話しかける。1人ではないと思うと、安心するのだ。
 「さて・・・っと。」
 ゥセは上半身だけ背伸びをしてから、す、と立ち上がった。翼の間にたすき掛けにベルトを通し、体の前でとめる。
 「あと一踏ん張りがんばるかぁ?」
 翼が、小さく震えた。ばさり。大きく一度、はばたいてみる。ほんの少し、浮游感を感じて、ゥセは気分が少し明るくなった。
 「頼むよ?」
 ばさり、もう一度大きくはばたく。
 不意に、翼がゥセの意識に逆らって、はじけるように大きく開いた。次の瞬間、ゥセの左肩に鋭い痛みが走る。反射的に向けた目には鏃の突き抜けた肩が見えた。ゥセは何も考えることができなかった。痛みの中で、気が遠くなる。ただ、ばさり、と鳴って目の前で閉じていく翼を、自分を包む翼の感触を感じていた。
 遠のく意識の中で、遠く誰かのささやきが聞こえた気がした。「・・・・・大丈夫。」と。

 ゥセは寒さで目が覚めた。すべらかな、冷たいものが自分を包んでいる。それを押しのけて体を起こした。肩に鈍い痛みが走る。思わず体をかがめたそのとき、大きな繭のようなものが目に入った。そしてそれが自分を包んでいたものであることを、次にそれが何であるかを理解した。赤黒いまだらのある翼。さなぎの抜け殻のように硬く閉じた翼がそこにはあった。赤黒いシミを中心に無数の矢が突き出している。紅い夕日が、よけい痛々しく翼を照らし出している。
 一瞬、ゥセは何が起こったのか理解できなかった。ただ分かったのは、今まで感じることのなかった、背に感じる風の冷たさ。翼の不在。死。翼の死。・・・・・誰もいない荒野。
「何だよこれ・・・・」
 左手に残された乾いた血の流れに目をやる。そのすぐ横にちぎれたリュックのベルトが転がっていた。荷物の入った袋はどこにも見あたらない。野盗か、それとも飢えた住民か、どっちにしろ自分が襲われたということは分かった。初めて仕事が遂行できなかったことも。
 ゆるゆると顔を上げる。
「どうすれば・・・」
 ・・・良いだろう? 翼に言いかけて、ゥセは言葉を止めた。翼はもう動かない。その冷たい硬さが、それを物言わず主張する。よろり。立ちあがってゥセは辺りを見回した。景色が、無機質に心に流れ込んでくる。
「帰ろう・・・」
 呟いてから、翼に向かって屈み込むと、刺さった矢を抜き始めた。そっと、いたわるように引き抜いていく。表情なく、ただ淡々と、最後の矢まで取り去る。作業が終わると彼は翼をそっと抱き上げ、ゆっくりと歩き始めた。
 ゥセが見つかったのはそれから五日後だった。ゥセが出かけてから四日目に、二日もあれば終わるはずの仕事に帰らない彼を心配して、ガゥイが探しに出たのだった。ゥセは瓦礫の間で翼を抱えて座り込んでいた。表情のない顔に汗の結晶がこびりついていた。肩に刺さった矢は背中の方だけが折れていた。
 街に連れ帰るまで、ゥセは一時も翼を離さなかった。ベッドに寝かされてからも、翼を抱えるように抱いたまま、治療を受けた。だが、治療が終わってから、ガゥイが翼に手をかけると、ゥセはすんなりと翼をガゥイに引き渡した。
「埋めてよ」
 ただ一言だけ言って、ゥセは目を閉じた。それから目が覚めるまでの丸二日かかった。目が覚めてからの彼は、以前と何の変わりもないように見えた。ただ一つ、翼がないことを除いては。

 「認めの場」に入り、翼を得ることができるのは新月の夜だけである。いつもより明るい星の光に照らされて、翼は淡い光を反射しながら舞い降りてくる。翼が共生する人間から離れるのは、基本的に人間の方が死ぬときである。共生する人間の死と同時に翼は離れ、溶けるように消える。翼も死ぬことはあり、死んだ翼は生き物と同じように冷たくなり、いずれは腐ると言われている。しかし、そんな事は百年に何度かあるかないかで、現在、翼の死を経験した者はいない。
 ゥセは新しい翼を手に入れようと積極的だった。街に帰ってきて初めての新月の夜、彼は自分から「認めの広場」へと向かった。果たして、翼は現われ、彼の背に降り立った。しかし、翼が彼の背に居たのはほんの一時だった。ゥセが翼をはばたこうとした瞬間、翼は空気に溶けるようにかき消えてしまったのだった。そんな事が何度となく繰り返された。
 何度目の夜だっただろう。ゥセはうんざりした気分で広場へと向かった。ゥセは翼が欲しかった。理由のない焦燥感が彼を苛立たせた。傷の治りは思うように進まず、いまだ痛むこともあったが、ガゥイに養われているような、安穏とした生活にも我慢できなかったのである。そして今は、もう一つ、ゥセを苛立たせる要因があった。
 ゥセが広場に行くと、何回か前の新月で翼をたはずの少女が広場の隅にうずくまっていた。もう一つの要因とは彼女のことである。その背には確かに翼が折りたたまれている。少女は翼を持っているにもかかわらず、新月の夜には誰よりも早く広場に来ているようだった。ゥセはガゥイに彼女のことを聞いたことがあった。少女の名はリィといい、高く飛びすぎたために気を失い墜落したのだそうだ。翼がクッションになり、けがは軽くて済んだが、翼はその場で消えてしまったと言う。
 ゥセはリィから離れた場所に座りこみ、その晩も翼を待った。結果は相変わらずで、ゥセはまたうんざりとした。辺りを見まわすと、リィはまだ広場の隅でうずくまっている。堅く組んだ手を額にあてたまま、動かない。黒い塊のような感触が、ゥセの胸に生じた。ゥセが近づいても、リィはぴくりとも動かない。重い、踏みつけるような歩調になる。少女の前に立ち、ゥセは低い声で言った。
「なぁ、あんた、何でここにいるんだよ?いつもいつもいつも・・・あんたの背中にくっついてるモンは何だよ?」
 小さく少女が震えた。ゆっくりと顔を上げる。その目にたまった涙が、かすかに光った。ゥセは狼狽えた。仕事で女性に関わることなどなく、話をする機会も、妹をのぞけばそういない。ましてや、泣いている女性を前に、何をすべきかなど全く知らなかった。
「・・・だって、この翼じゃダメなんだもの」
 リィは小さな声で言った後、腕で涙を拭いた。
「ジェイは生きてるもの・・・・だから私、ジェイを待ってるの」
「ジェイ・・・?」
「ジェイは私の翼なの。私のせいで怪我して・・・だから待ってるの」
 それを聞いてゥセはまた苛立つ自分が分かった。
「あんた、もう翼持ってるじゃないか!!」
「だってあたしの翼はジェイだけだもの!!他のじゃダメなんだもの!!」
「子どもみたいなこと言うんじゃねぇよ!」
 びくり、とリィの体が震えた。はっとしてゥセは小声で「悪かった」と、もごもご謝った。なぜ自分がこんなにも苛立っているのか分からなかった。
「ごめんなさい・・・私も悪かったわ。あなた・・・ゥセでしょ?私あなたのことよく聞いたことあるわ。最年少で翼に認められた人だって。私すごいと思って・・・」
「そんなの何にもすごかねぇよ・・・そうするしかなかったからだ。それで・・・俺の翼が認めてくれたから・・・」
 ゥセはストンとリィの横に座り込んだ。
「なあ、聞いていいかな・・・?」
「いいわよ?」
 リィが薄く笑った。ばつの悪い気がしてゥセは地面を見つめた。
「あんた、どうしてそんなに前の翼にこだわってんだ?・・・聞いちゃまずいか?」
 リィはふ、と小さく笑って首を横に振った。
「あのね、私すごい鈍感なの。でね、ジェイ・・・私の翼とね、私、すっごく気が合わなかったの。私が飛びたいって思うでしょ?それでね、3っつくらい数えないと翼は動かないの。私ね、始めは翼が悪いと思ってた。でもね、飛んでるときに思ったの。そのときすごい気持ちがよくってね、風とかもあったんだけど、私たちは上手くやってた。でね、どっちが悪いなんて分かんないなって思ったの。それからは私たちすごく良くなった。他の人達みたいにうまくはいかないけれど、だんだん気が合うようになってって、それがまたうれしくってね。・・・それでずにのっちゃた・・・あんなこと、しなきゃよかったのに」
 リィの声が震えたので、ゥセは焦った。慌てて話をそらす。
「なぁ、何で名前なんてつけようと思ったんだ?そんなコトするやつ見たことない」
「そうだよね・・・でも、あのね、」
 リィは遠い星を眺めるように目を細めた。
「ジェイが私に棲んでくれたときすっごいうれしくって、名前を付けたのね。私だけの翼だと思って。お父さんやお母さんが一人しかいないように、私の翼はジェイだけなんだ・・・って思って。変かな?でもね、ジェイと仲良く・・・あ、思うように動いてくれるってことなんだけど・・・そうなってからはもっとね、そう思うようになったな・・・」
 一息ついてからリィはゥセを見て微笑んだ。
「変かな・・・?」
「変じゃないさ」
「そっかなぁ・・・?そう言ってもらえるとうれしいな」
 リィの笑顔を見ながら、ゥセはなぜだかせつなくなった。自分はどうだったろうと、初めて考えた。
「ねぇ?ゥセの翼はどんなのだったの?」
 急に聞かれてゥセは驚いた。心を見透かされたような気がしたのだ。頭をぽりぽりとかいて、そっぽを向く。
「・・・そうだな・・・。俺は・・・俺の翼は俺の一部・・・違うな・・・そう、俺自身、俺そのものって感じだったから、名前とか・・・は・・・考えなかったな。あんまりずっと一緒にいたから、別、とかは考えなかった」
「そっか、すごいねそれ、」
「そうかな?」
「そうよ!」
 当たり前に思っていたことをすごいなどと言われてゥセは何だか照れくさくなった。しかしすぐに、今、自分にその翼がないことを実感した。背中が涼しいのにも慣れてしまっている自分に気づいた。
「それなのに、どうして他の翼が欲しいの?」
 不思議そうにリィが聞いた。ゥセは何でそんな当たり前のことを聞くのか分からなかった。
「それは仕事しないとならないからだろ?」
「そんなの、翼がなくたってできる仕事はいくらでもあるよ?」
 それはそうだが、ゥセはそんなことを考えたことは一度もなかった。リィはゥセを見つめながらさらに続けた。
「だから、ゥセの翼が帰ってくるまで待てばいいじゃない。私みたいに」
 自慢げに言う。ゥセはいらだちを覚えた。それは翼が帰ってくる可能性があるから考えられることだ。
「・・・・俺の翼は死んだんだ。」
 かろうじて聞き取れるほどの低い声。ゥセの言葉にリィは息をのんだ。
「ごめんなさい」
 何度も謝る。
「ごめんなさい。でも、・・・でもね、私だったら、もう他の翼はいらないよ?とっても一緒になんていられない・・・。泣いて、暮らすわ」
「虫がいいな」
「何でそんなこと言うの?ずっと、自分みたいに動いてくれていたんでしょ?なくなったからって、そう直ぐに別のを探すなんて変だわ!」
「それは、人ごとだから言えるんだ!」
「・・・そうかもしれない・・・でも!」
「は!きれい事ばっか言ってんなよ!」
 ゥセは立ち上がって広場を出た。
「ごめんなさい。でも・・・」
 振り向かずに歩く。後ろから、リィの小さくなった声が聞こえた。
「私、毎日、ずっといるから、ここに。来て。また来てね」
 ・・・もう二度と来るかよ。そう思いながら、足を早めた。

 街に戻ってきてから、ゥセはずっと考えないようにしようと思っていることがあった。翼の死についてである。今それを、考えざるを得なくなっていた。リィとの会話が、ゥセの頭の中をめぐっていた。
 一週間経って、ゥセは心に決めたことがあった。そして今、ゥセは翼が埋められている場所に来ていた。翼はガゥイが埋めた。場所は広場に近い森の片隅である。ゥセは広場を通らないように回り道をしてここまで来ていた。ずっといると言ったリィの言葉は信じていなかったが、出会ってしまうことを考えたくなかった。
 ざくり、シャベルを土に突き立てる。ガゥイが植えたのだろう、小さな紫色の花が咲いている。ゥセはそれを気にもとめずに土を掘り返していく。抉れた土から濡れた土の匂いが立ち上がる。むせるような薫りにもゥセは表情を変えない。十分ほど掘り返しただろうか、かつり、シャベルが硬質な音を立てた。ゥセは何にかにとりつかれたように、手で土をよけ始めた。小さな、ゆるくとがった塊が姿を現す。服の裾で土をこすり落とす。それはベージュの小さな骨であった。以前は翼の先を構成していたはずのもの。
 ゥセは胸に抱くようにその骨を握りしめた。しばらくしてから、その骨をそっと、胸のポケットへとしまった。それから、土を元に戻す。無惨に土をかぶった花を拾い出し、その土を払いのける。
「ごめんな」
 呟きながら、ゥセはその場所をもとのように埋め直した。そして広場へと向かったのだった。
 果たして、広場にはリィがいた。やはり祈るようにうずくまっていたが、ゥセの足音を聞いて、顔を上げた。目は腫れ、頬は涙に濡れている。それでも、リィはゥセの顔を見て微笑んだ。立ち上がり、ゥセに駆け寄る。
「来てくれた。・・・ありがとう、それで、ごめんなさい」
 ゥセの前に来ると、リィはぺこりと頭を下げた。
「私、自分の意見ばかり、ごめんなさい。あなたの気持ちなんて考えていなかったわ」
 ゥセは広場の隅に座ると、リィにとなりへ座るように促した。
「いいよ」
 胸から掘り返したばかりの骨を取り出す。
「俺さ、あんたと話をして、確かに腹は立ったんだ。でも、何だろな、違う気持ちもあった」
 ゥセは小さな骨をリィに見せた。リィははっと、口元に手をあてた。
「俺の翼。やっぱり死んでた。でも・・・すっきりした。あんたのおかげだ。どこかで、翼が生きてるんじゃないかって、俺はきっと思ってた」
 リィは黙って、じっとゥセの顔を見ている。胸の前で組んだ手の指先が白く冷たい。
「ごめんな、俺、ずっと来なくて。あんた、つらかったろ?」
 ぱっと、リィは顔の前で手を振った。指先にピンクが戻る。
「違うの、これはね、あなたが来ないからじゃなくて、ジェイのこと、考えてたから。私ね、無理して高く飛んで、気を失っちゃったの。馬鹿よね?」
 何て答えて良いのか分からなくて、ゥセは思わず頷いてしまった。言ってしまってから焦ったが、リィは何とも思っていないようだった。
「それで、落っこちちゃったの。下に落ちる前に気が付いたんだけど、着地には間に合わなくって、ジェイは下敷きになって・・・骨が折れたんだと思う、そういう音がしたから。でも私は全然痛くなくって・・・ジェイは消えちゃった・・・だからね、忘れちゃ行けないと思って、ジェイがいない悲しい気持ち。だから、毎日ここに来て、泣いてるの」
 えへ、と悲しそうに笑う。
「・・・それって、違うんじゃないか?」
 ゥセは自分を思った。翼がいなくなっても、悲しいと思ったことはないと思った。新しい生活をまた始めなければ、と。
「間違ってないよ?ジェイは痛い思いをしたんだから、私も罰を受けないといけないと思うの。ジェイがいないのは、その罰なの。自分のやってしまったことを反省して、あの時の気持ちを忘れないようにしないと。胸に針が突き刺すような痛さ。・・・分かる?」
「わかんね。」
 ゥセはきっぱりと言った。ゥセは気が付かなかったが、リィは一瞬哀れむような瞳をした。「・・・・それは、きっと、嘘よ?ゥセは自分で気が付かないようにしてる・・・本トに痛くないなら、それはひどい人だよ?」リィはゥセにそう言いたかった。しかし、言葉にはしなかった。ゥセの気持ちに気が付かなければならないのはゥセ自身であって、自分が言うことではないと思たのだ。それに、ゥセは自分よりも辛い思いをしているのに違いない。
「ね、ゥセの翼の話を聞かせてよ」
 リィは笑顔でゥセに言った。翼人が翼を失うことは非常に稀であるのに、今、ここには翼をなくした翼人が二人もいるのだ。リィはゥセの気持ちを知りたいと思った。そして、その中で、ゥセがゥセの気持ちに気づけばいいと思った。
 ゥセは少し不可思議そうな顔をした後で、握っていた骨を指でもてあそびながら、話し始めた。
「俺が七歳の時、父さんと母さんが死んだ。戦争に巻き込まれたんだ。何でもないところへ何でもない荷物を届けに行く途中だったのに。間抜けだよな。怪我してるヤツ見捨てられなくって、助けて、それで・・・もろとも巻き込まれて死んで・・・家には俺達、いたのに」
 リィはゥセの指を見ていた。ゥセの下を向いたまま、しばらく何もない宙を見ていた。
「・・・そんなこと聞いてんじゃなかったか」
 ぼそり、とゥセが誰へともなく言う。リィの瞳に、ぼんやりとした表情のゥセが映った。
「それで、俺には妹がいて、妹を養わなくちゃならないだろ?助けてくれる人はたくさんいたけど・・・・哀れみの目なんて受けたくなかった。だから俺は翼が欲しかったんだ。・・・それで、「認めの場」に行った。翼が現れるなんて思っていなかったけどな・・・・でも、現れた。それがこいつだった」
 ゥセは手のひらで転がる滑らかな骨を見つめた。
「驚くほど思う通りに動いた。俺は宝物を手に入れた気持ちになった。親なんていなくても翼さえあれば俺達は幸せになれるような気がしたんだ。なのに…」
 ゥセは口元を自嘲じみた形にゆがめる。両手を後ろについて空を見上げると、深呼吸をした。空気を胸に満たさないと、胸が内側へと絞めつけられて苦しくなりそうだった。
「俺もバカだな…結局親と変わんねぇや。妹を一人っきりにして、寂しいまま死なせちまって…それからは、俺はずっと一人で、…ガゥイは親切にしてくれたけど、やっぱ、家族とは少し違うと思うんだ」
 妹が死んでからの生活が思い出される。もう、自分には何の価値もないような気がして、生きる気力がなくなったこと、危険な地域で仕事をすることで、感謝されることで、生きているという実感が得られたこと。翼に話しかけることで、ささやかな安心感が得られたこと。
「それにしても、…なんで翼は俺を認めたんだろうな?」
 独り言に近い小さい言葉に、リィは微笑んだ。
「それは…翼にはあなたの気持ちがわかったんじゃないかしら。だって、一生懸命になっている人を、助けようと思わない人なんていないもの。…それに、翼はあなたの家族になろうとしたんじゃないのかしら?」
「そうかな…?」
「そうかも、ね」
 二人は草の上に寝そべると、空を見上げた。それぞれ自分の翼に想いをはせた。ゥセは涙が自分の目からあふれるのを感じたが、しばらくの間、涙をふくこともせず、涙が流れ出るままにしておいた。熱い目頭が、頬を伝う温かい感触が、心地よかった。

 それから二人は時々広場で会うようになった。ゥセはやはり翼を欲しがっていたし、リィも相変わらず翼を思っては泣いたりしていた。ただ、ゥセは以前ほど早急に翼を手に入れようとはしなくなり、翼が棲んでいない自分にいらつくこともなくなっていた。翼の骨は、あの日以来ゥセの胸にペンダントとしてかけられている。翼が死んでから、1年が経とうとしていた。
 その日はからりとよく晴れていた。今晩は新月である。ゥセは日の明るい内から、「認めの場」へと向かった。予想通り、リィが先にきていた。ただ今日は、いつもの祈るスタイルをしていない。座りこんだまま、空に顔を向けて目を閉じていた。唇が穏やかなカーブを形作っている。ゥセ近づくと、リィは目をあけて、微笑んだ。
「今日はなんだかあんまり天気がよすぎて、下を向いているなんてもったいない気がしたのよ」
 言いながら、笑う。ふわり、と柔らかい風が二人の前髪を揺らした。
「明日からね、私、働こうと思って…」
 リィは立ち上がって両手を上に上げると、背のびをした。笑顔が、途絶えない。
「待ってなくていいのか?諦めるのかよ?」
「ううん、違うの。あなたと話をしていて思ったの。私、逃げてただけなんだわ。泣いてるだけ、悲しんでるだけなんて、誰でも出来るじゃない?悲しみを忘れないで、笑っている方がよっぽど償いになるんじゃないか…って、うまく言えないけれど…そう思ったの。それに、周りの人達に心配もかけられないわ。自分の都合で。みんな私の好きなようにさせてくれたけど・・・いつまでも甘えていられないわ。ね、間違っているかしら?」
「いいや…」
「よかった」
 リィはまた、ふわりと笑った。
「ゥセにそう言ってもらえると、なんだか心強いなぁ…それでね、だから、今日はずっとここにいて、ジェイにね、もう毎日ここには来ないよ、でも忘れないよ、新月の夜には来るから、よかったら会いに来てって、思っていたの」
「そっか…」
「うん。この翼だって…」
 ぱさり、とはばたいて見せる。しなやかな白が、小さな風を作った。
「せっかく来てくれたのに、私、このコのことなんにも考えてなかった。こんな私に棲んでくれたのに、ね。私、ジェイだけって言いながら、心のどこかで翼を欲しがっていたのかもしれないわ…」
 ストン、と座りこむ。
「ああ、でも本当にいいお天気!!」
「そうだな」
 言いながらゥセは思った。自分はどうだろう?翼の死は認めたけれど、翼に対して何を考えただろうか。翼を失ったときの虚無感、あれは、かつて妹と二人っきりになったときに味わった絶望感とあまりにも似すぎていた。心にできた黒い大きな穴が、考えることも、悲しむことすらも吸い込んでしまった。
 ずきん、胸の間がきしんだ。
 不意にそのとき、リィが立ちあがった。
「ジェイ!!」
 大きく叫ぶ。
 ゥセがそれ見上げると、そこには一対の翼が風に乗って、弧を描くように旋回していた。リィが翼を目で追いながらゥセの腕を揺さぶる。
「あれ、ジェイよ!ジェイだわ。帰ってきてくれたんだ。ねえ、見て、あそこに確かに飛んでるの!!」
「おいおい・・・本トかよ・・・」
 青い空に浮かぶ翼を見つめながらゥセは走り出したくなるような高揚感を感じていた。昼間に翼が現れるなど、前代未聞のことだ。
 「やっぱり、あたしの翼はジェイだけなの!・・・あたしの翼は、」
 リィの背中で翼が、ぱさり、と鳴った。高く羽ばたく。空高く、広場の中央に翼はゆっくりと、羽ばたきながら留まっている。リィがそれを抱きしめた瞬間、彼女の背に居た翼がかき消えた。一瞬の静止の後、リィの体が傾く。息を飲むゥセの瞳の中で、リィの体が重力に逆らって、ふわりと浮上した。ゆっくりと、彼女の背中から、若い双葉が開くように翼が開く。太陽の光を反射して、翼が薄く発光した。
「ジェイが帰ってきたよ!ジェイが戻って来た!!やっぱり私の翼はジェイだけだわ!」
 遙か高くでリィが口に手を当てて何かを言った。あたし、飛んでくる、と叫ぶのが小さく聞こえた。ゥセは急に体中の力が抜けたように座り込んだ。
「はは・・・・」
 力無い笑いがこみ上げた。ゥセにとっても、彼女の翼が戻ってきたことはうれしいことだった。しかし、彼の肩のふるえは、次第に細かく、笑い声は小さくなった。
「は、・・・そうか、そうだよな・・・俺だってそうなんだ」
 顔に当てた手のひらを、指の間を涙がゆっくりと伝った。
「そうだ・・・俺の翼も、あれだけなんだ・・・。俺も、ずっと・・・」
 最後の言葉は飲み込んだ。自分の翼は消えたのではなく、確かに死んだのだから。土から出た骨は今もゥセの胸にかかっている。胸にかかった翼を見つめると、胸が痛んだ。
 だが何故だろう、心は今日の空のように高く、澄みきっているようだった。
 「ありがとう」
 小さく呟いて、ごろりと寝ころぶと、ゥセは誰も飛んでいない空を一日中見ていた。

 それからゥセは森に住むようになった。小さな畑を耕し、そこで育つ野菜を糧にひっそりと暮らした。翼はどこから飛来するのか、知る者はいない。ただ、ゥセは翼達に近い場所で暮らしたいと思ったのだ。しかし、もう二度と翼を得ようとすることはなかった。
 ある日、ゥセの背に小さな翼が生えた。ゥセが思うと動く翼は、どこからか飛来したものではなく、ゥセそのものだった。

<エピローグ>
 森のはずれに、今は誰も住んでいない小さな小屋がある。そこに住んでいた青年を知る者は少ない。青年をよく知るという、ガゥイとリィは言う。「彼は、旅立つことになるだろうと言っていた。・・・・・最後に彼に会った日、幼くなったようにも見える彼は、澄んだ光のような笑顔をしていた。私たちは彼の進もうとしている道が正しいことを直感し、ただ、彼の幸せを祈った。・・・そして今も。不思議だが、私たちは彼が今、幸福であることを確信している」と。
 以後、彼の行方を知るものはいない。
 後に何百年をかけて、翼人は人々の前から姿を消す。しかし、それはまた別の物語。