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「カレーライス」萬忠太
   先ほどまでの、ぼうっとした、曖昧で不安定な感覚が消えて、朦朧としていた僕の意識は、濃い霧が晴れるようにだんだんと鮮明になっていきました。朝の空気のように澄んで、冷ややかな落ち着いた心もちと言うべきでしょうか。曖昧なリアリティーと言うべきか、不思議な感覚です。
 この感じは、いつの間にかここに連れてこられてから、何度かあったことですが、今回は特にさっぱりとして綺麗な気持ちになった気がします。そして僕にとって、とても重要なものを置き忘れた気もします。でも今の僕は何を置き忘れようと、驚くことはないような気もします。
 僕が今、突っ立っているのは、色とりどりの矢印が描かれた廊下。向こうの方からペタリペタリと先生達が歩いてきます。ここは病院です。僕は真紀が逝ってしまってから、ずっとここにいます。
 僕は、病室から抜け出たことがばれないように、廊下の中に入り込んで、じっとしていることにしました。見つからないように、見つからないように。こんなことをするときは心臓が高鳴って、手に汗をかいて、とてもじっとしていることなど出来ないのですが、今は心が冷たく澄み渡っているので、平気で出来ます。まるで心臓が無いみたいに。
 やって来たのは、お世話になっている二人のお医者さん。不健康そうな南先生と恰幅の良い草間先生でした。
「316号室の患者は、もう助からんか」
 草間先生は、僕のことを話し始めました。ぼそぼそ喋るので、シュッ、シュッ、っと言う息の抜ける音が異様に目立ちます。南先生が中指で眼鏡を押し上げると続けました。
「はい、幽体離脱現象が起きる頻度が非常に上がってきています。もはや何時死亡してもおかしくないところまで来ています」
「そうだな、魄(はく)を無くしてしまった今、魂(こん)が抜けてしまうのも時間の問題だ」
 残念そうな草間先生の顔を見ようともせずに、南先生は続けました。
「死亡する前に、出来る限り資料を残しておこうと思いまして、昨日、患者自身にここ最近の記憶を話させました。録音してありますが聞きますか? なかなか良い語りですよ。ちょっとした小説ですね」
 南先生の人を食ったような口調は、どうしても好きになれません。録音のことは初めて聞きました。いや聞いたことがあるかも知れません。つい最近凄く朦朧とした意識の中で、やたらと口が勝手に動いていた時があったような気がします。たぶんその時のことでしょう。
「ほう、才能ある青年だったのかな? まぁとにかく聞かせてもらうよ。これから私は昼休みだし。いや君はカレーライス屋に行くんだったかな?」
 草間先生は、すれ違う看護婦さんに視線を走らせながら呟きました。南先生はまた眼鏡を押し上げながら、
「いえ。最近あのカレー屋で働いている女の子が事故で死にましてね。恥ずかしながら、その女の子が目当てだったもので」
 草間先生は、口の端をゆがめると、
「カレーライスか。ライスカレーじゃ無いところが良いね。ライスカレーには確かにクラッシックな響きがある。しかし、私がカレーライスに求めているのは、ノスタルジックだよ。カレーとハンバーグには少年の日の思い出が煮込まれ練り込まれている。そんな風に思ったことはないか?」
 南先生は少し考えると、
「先生はハンバーグカレーがお好きですか」
 と言いました。
「ほう、最近はハンバーグカレーライスなどという、すばらしい食べ物があるのかね。今度食べに行くことにするよ」
 僕は、そんな二人のやりとりを、床に入ったり、壁に入ったりして、聞いていました。コンクリートの中というのはとても冷たくて、夏場は気持ちいいのでしょうが、今はもうクリスマスも過ぎて大晦日を控えた時期です。だからとても冷たいので、あまり長時間は、中に入っていられません。
 僕は、壁から出て、二人の後をそうっとそうっと、ついていきました。ここ最近の僕の記憶はとても曖昧だったので、少しでもその穴を埋められれば、と思いました。真紀のことも、少しづつ記憶が曖昧になっていっています。はっきり憶えているのは、あのカレーの匂いぐらいのものでしょうか? 今度会うときに、大切なことを忘れてしまっていたら、きっと悲しいでしょうし、彼女も悲しむでしょう。
 草間先生の部屋は雑多で、荒れ果てていました。かといって埃っぽいと言うわけではなく、恐らく草間先生にとってこの状態が一番使いやすいんだろうな、と思って納得しました。
 本と書類が散乱しています。僕は山積みの本の影にそうっと隠れました。
「君も随分思い切ったね。表沙汰にできない研究のためとはいえ、一言相談してくれたら寝たきり老人の一人くらい都合出来たものを。何も自分自身を使って実験することは無かったろうに」
 草間先生の声でした。
「そうでしたね、どうしても自分自身で魄の交換を体験したかったもので。失敗でしたが」
 南先生は早口でした。
「あの患者を治療する方法は、状況から考えて、確かに生者からの魄の移植、または交換しかなかった。しかし、魄移植及び交換は動物実験ですら成功例がないじゃないか。それに君の体内に死者の魄を入れたら、君の命が危なくなる。まぁしかし南君、おかげで貴重な資料が得られた訳だし、目をつぶるつもりではあるのだが」
「申し訳ありません。以後気を付けます。で、先生テープお聞きになられますか?」
「そうそれ、すぐ頼むよ。長年研究しているが、こんな貴重な資料が手に入ったのは初めてだ」
「はい。私も確かに人の魂(たましい)が二つの構成要素から出来上がっているなんて、俄には信じがたいものがありましたから」
「ははは。魂は天に昇り、魄は地へ帰る。なんて言う、中国の古い思想が本当だなんて、誰が信じるものか。事実は小説より奇なり。よく言ったもんだ」
 煙が漂ってきました。煙草でしょう。カチャッっと言うボタン操作の音の後、テープレコーダーから南先生の声が響いてきました。


 あー、あー、入ってるな。
 昭和五十二年十二月二十八日……えー午後六時十と三分。記録病室は316号室、患者名佐藤茂。記録者南大作。

 では、佐藤さん。先ほどお話しした通り、十二月一日にあなたが空腹のあまり店のサンプルを食べてから、十二月二十五日この病院で目を覚ますまでの、あなたの行動及びあなたの周りで起こったことを、思い出せる限りで結構ですから、お話下さい。

 ……………………はい。
 僕は、十二月一日の午後、その日はとても寒くて、空はたれ込めた様に真っ黒い雲に覆われて、たまに雪がハラリハラリと落ちて来ました。僕は仕送りを使い切り、食事も満足に取っておらず、その上あの時の寒波、腹の芯まで冷え込んでしまいました。古びたアーケードの人影はまばらだったと思います。何か用があって、そこを歩いていたわけではないのですが、下宿でごろごろしていても空腹が募るだけだったので外に出たのですが。残念ながら、体力を消耗するばかりでした。空腹は募るばかり。僕は鳴る元気も失せたような腹を撫でながら、食堂の前を通り過ぎようとしました。しかし僕は通り過ぎることが出来なかった。日替わり定食用のサンプルケースの中に、本物の食べ物が入っていたからです。張り紙には「カレーライスともう一品」。カレーライスともう一品。カレーライスがありました。一皿のカレーライスが輝いて見えまして。僕に出して食べてくれと言っているような気がしました。鍵は閉まっていません。僕は思わずサンプルケースを開け、カレーライスを取り出し、素手で口に運びました。指にカレーが付こうとお構いなし。僕は冷たいカレーを口に運びました。レトルトもののろくに具も入っていないまずいカレーでしたが、僕には気にならなかった。胃袋にルウとライスが流れ込んでいくのが嬉しくて嬉しくて。通行人の目なんか全く気にならなかった。しかし、そんな様を店の人が見とがめまして、「何してるんだ!」って怒鳴られました。さすがに僕も驚きまして、それでも皿を離さずに、逃げ出しました。店の人が後ろから追ってきました。腹に物が入ったのでそう簡単には捕まりません。まぁ店の人も百メートルと追いかけずに諦めてくれましたけど。
 カレーを食べ終わって、僕が皿を持ったまま歩いていると、交差点の所に来ました。そこは事故の多いところで、その日もダンプカーが止まっていて、その向こうに人垣が出来ていました。僕はカレーの付いた手を盾に、人垣の中心まで進むと、そこに人が横たわっていました。白いハーフコートからのびるジーンズ。血の気の失せた顔はすでに原形をとどめていませんでした。髪の毛は男でも女でも通じそうなショートだったので、性別は分かりませんでした。ただ若い人。本当はそれですら定かではなかったのですが。かわいそうでした。普段なら何とも思わないのですが、食事の後、それも大好きなカレーライスの後でしたので、僕はとても幸福でした。それに比べてこの人は。周りの人のヒソヒソという、言葉の中からわかったことは、若い女の子であったと言うことと、恐らく即死であったと言うこと。警察が今にやって来ると言うことでした。僕は涙で目の前が霞みました。こんな寒い日に、ダンプにはねられ。僕は彼女と目が合いました。目が合ったと言っても、まぁ魚の目が睨んでるとか睨んでないとかその程度の物であると思うんですが。その時、彼女と目が合ったその時、彼女が瞬きした様に見えました。彼女は生きたかったんだな。僕はそう思いました。感傷に浸っていると、警察が来ました。僕は関わり合いになりたくなかったので、そそくさとその場を去りました。
 私は下宿に戻ると、万年床に潜り込みました。台所付きの四畳半です。僕は、ぼうっと彼女のことを考えました。歳はいくつだろう。どんな顔をしてたんだろう。職業は、僕は今日死んだ他人のことを考えてみました。他にも考えるべきことは多かったのでしょうが、その日はそのことを考えていたかった。何となく本を読もうかとも思ったのですが、電気代がもったいないのでやめました。
 そんなときです。突然でした。激しい腹痛が僕を襲ったのです。腹の底から沸き上がる痛みに、僕は腹を押さえて歯を食いしばり、立ち上がろうとしまして、恐らくそこまでで僕の意識は途絶えたのです。
 僕が次に目を覚ましたのは、夢の中でした。
 白い霧のような光のような中に僕は横たわっていました。足の向こうに、見下ろすように誰か立っています。体が動かなかったのですが、必死に首を起こしました。そのときは誰だかわかりませんでした。手に何か光る玉のような物を持っています。人影が悲しそうな声で「あなたにあげる、私にはいらないものだから」と言いました。女の子だな。と思っていると、人影が手に持った光の玉を僕の腹の上に置きました。するとその光の玉が、すうっと体に吸い込まれていき、動かなかった体に力が出てきたのです。動く! 動ける!

 そこで目が覚めました。
 すすけた天井が見えました。私の脇には、点滴があって、一粒一粒規則正しく落ちていました。僕はベットに寝ていました。
「目を覚ましたようだね」と言う声がしました。僕の足の向こうに、草間先生が立っていました。
 先生によると、僕は下宿で倒れているところを、発見されて、すぐさま救急車で運ばれたのだそうです。しかし通報者は不明。下宿屋のおばさんでも、友達でもなかったそうです。そして僕の胃の中から、極めて毒性の強い細菌が発見され、一足遅ければ死んでいた。と言われました。と言うより、僕は死んでいたのですが。
 何を食べたのかと聞かれて、僕は正直に近所の食堂でサンプルケースのカレーを盗んで食べたと言いました。
 先生は大笑いしました。まぁ当然と言えば当然ですが、僕もあの時は切羽詰まっていたのです。僕は少々むっとしましたが、後三日くらいは面倒を見てくれると言うので、ほっとして怒る気も失せました。
 その三日間のあいだ、南先生が僕の脳波などを調べたり、腹痛の状況、それから夢の話まで、色々聞きに来たりしましたがそれ以外はただ寝て暮らすだけの生活でした。
 三食昼寝付きの生活もすぐに終わりを告げ、僕は退院となりました。医者代は下宿屋のおばちゃんが貸してくれました。それからお茶漬けぐらいなら、いつでも食べさせてくれると言ってもらえたので、困ったときはお願いすることにしました。病人というのは得なものだなぁとつくづく思いました。
 買い物をして帰るというおばちゃんと別れて、僕が商店街を抜けて交差点の所に来たとき、突然女の子に声をかけられました。たしか「あのー、佐藤茂さんよね?」と言われた気がします。そうだと答えると、その子は中学の時に一緒のクラスだった、和泉真紀と名乗りました。名前は全く記憶になかったのですが、彼女の声と短めの髪に何となく覚えがあったのと、何となく他人じゃない気がしたので、僕は「そうだった気もする」と言う曖昧な返事をしました。
 真紀は僕を喫茶店に誘いました。が、僕はお金がなかったので公園でジュースを飲むことにしました。彼女は僕が喫茶店に行けないと言ったとき、そう言えばそうね。と言いました。何で知ってるのかと聞いたとき、下宿屋のおばちゃんに聞いたと言いました。確かに下宿屋のおばちゃんが、僕が入院している間に、知らない女の子が来たって言ってました。何かのセールスの類だと思って聞き流していたのですが、恐らく真紀のことだったのでしょう。
 その時点でも同級生を名乗るセールスである可能性はあったのですが、僕に金がないのを知っていた以上たぶん違うのだと思いました。
 ジュースは彼女が奢ってくれました。だいぶ抵抗があったのですが、背に腹は代えられません。二人でベンチに座り、僕はホットコーヒーを一口飲んで一息ついたのですが、その時ズキリと腹に痛みが走りました。思わず、うめき声を出した僕に、真紀は「お腹まだ痛いんでしょう? 気を付けなきゃ」と言ったのですが。僕は「こうやって治すから良いんだ」と答えて、意地を張ってみました。痛みをこらえて空を見ると、冬の乾いた青空が広がっていまして。時折吹く乾いた北風が、枯れ枝を揺らしていました。真紀はちょっと前に実家の方から遊びに来た友達に、僕が近所に住んでいると聞いて挨拶に来たのだそうです。せっかく苦労して下宿を見つけたのに僕は居なかった。僕の入院の話は、おばちゃんから聞いたのでしょう。彼女は、あんな路地裏じゃわかるはず無いと言って笑いました。馬鹿にされているのだと思いましたが、不思議と腹が立たなかった。
 彼女は僕の「今何しているの?」と言う問いに、近所のカレー屋で働いていると言いました。カレーと聞いて興奮した僕は「今度仕送りが来たら絶対に、絶対に食べに行く!」と言ったのですが、彼女は「ごめん、知り合いが来ると緊張するからいやなの」と、不健康そうな青白い顔を曇らせ、声のトーンを落としました。僕は悪いことを言ってしまったのか、と思って腹の痛みをこらえつつ、コーヒーを飲みました。それからしばらく続いた沈黙。それに耐えきれなくなったのか、彼女はジーンズをはいた脚を少しぱたぱたと動かすと、立ち上がり「今度作ったげる」と言いました。僕も立ち上がると、のびをしました。真紀は腕時計を見ると、用事があるからと言って去っていきました。遠ざかる白いハーフコートを見ながら、僕は彼女の去り際に言った「またね」を反芻して、にやけてしまいました。
 それから、僕と真紀はちょくちょく会いまして。彼女は当たり前と言えば当たり前なんですが、本当は無職でしたし。僕は学生でしたが、ほとんど学校には行ってませんでした。僕が暇だと思ってぶらぶら外に出ると必ず彼女に会いました。そのたびに僕は運命を感じてしまったものです。
 僕たちは公園で話したり、その辺を散歩したりして過ごしました。我ながら慎ましいものです。会えば会うほど、僕は彼女が他人じゃないように思えてきました。どこかで固く結ばれているようなそんな気がしてならなくなった。友情とか愛情とかそう言う類の物ではなく、もっと固く、固く結ばれているような。真紀は僕のことをなんでもわかってくれたし、僕は真紀のことをなんでもわかってやれた。確かに僕は勘違いもするし、思いこみも激しい。でも真紀と僕の間には、固い結びつきがある。僕は確信して疑わなかった。まぁその時、明確な根拠があったわけではなかったのですが。

 十二月二十三日ですよね? 南先生と草間先生が家に来たのは。その日も真紀と二人で公園で話していました。どうでも良い世間話ばかりしていましたが、ふとこの間の事故のことを思い出して、悪趣味と思いながらも、話してしまいました。特に君と同じくらいの背格好と言う言葉には、眉をしかめてしまいました。さすがに僕も気がとがめて「かわいそうだった」と言って適当に話を打ち切りました。真紀は、少し微笑むと、遠くを見るような目つきになって「ねぇ、茂君は死ぬのって恐い?」って言いました。僕は急に何をと思ったのですが「恐い」と素直に言いました。頬に雪が一粒当たって、溶けました。真紀は「私は恐くない」と言って、ちょっとひきつったような自嘲的な笑みを浮かべていた気がします。そしていつものように彼女は、突然帰ると言って帰ってしまったので、それ以上は聞けませんでした。
 その日の午後。僕が万年床でごろごろしていると、おばちゃんがやって来て、僕にお客さんだというので、誰かと思ったら、先生でした。
 草間先生は僕の散らかった部屋に踏み込むやいなや「最近公園や道で独り言を言って歩いてるね。今日もやっていた」と言いました。僕は怒りました。僕はそもそも大声を出すタイプではないので、無言で睨み付けただけですが。草間先生は僕の怒りがわかったらしく、ぼさついた頭を掻きながら、すまんすまんと言いました。南先生は何も言わずにさりげなく鼻を押さえていましたね。臭かったんでしょうね。わかります。草間先生は、急に声を潜めて、ぼそぼそと喋りはじめました。息の抜ける音が、急に目立つようになったので良く憶えています。そして草間先生は「君はどう考えても死んでいる」と言いました。たしか「君はどう考えても手遅れだった」と続けたと思います。でも生きてるじゃないですか。と言う僕の抗議を草間先生は片手で制すと「南君説明してやりなさい」といかにもめんどくさそうに言いました。それにしても僕の怒りも当然です。汚い部屋に踏み込まれるわ、死亡宣告は受けるわ、混乱しない方がおかしいし、怒らない方がおかしい。鼻息の荒い僕を、南先生は鼻で笑い説明してくれました。
 南先生によると、誰かが僕の魂(こん)をつなぎ止めたのだそうです。先生によると、人間の霊魂は二つの物質から出来ていて、一つは魂と言って死後天に昇り、魄は地に潜って土になるのだそうです。僕はサンプルケースのカレーを食って死にかけたときに、魄を地中に落としてしまったのだそうです。後は魂が体から離れるのも時間の問題だったのです。しかし、何者かが私に自らの魄を与えた。
 つまり僕は誰かのおかげで生きながらえていたのです。僕は、呆然としてしまいました。僕は借り物の命でこの世に居たのです。じゃぁもしその誰かが、僕から魄を取り去ってしまったら僕は死ぬ……。再び押し黙った南先生に続いて、今度は草間先生が続けました。その誰かが、僕の魂を追い出して、自分の魂を僕の肉体に入れたら、僕は死ぬのだそうです。そして、その誰かが、僕を惑わしていると言うのです。
 真紀……。僕は絞り出すように呟いた。今でも自分の頭の中で、吐き出すような自分の声が聞こえたのを、憶えています。それから南先生が、真紀と言う言葉に眉をぴくりと動かしたことも。
 真紀の姿は誰にも見えていなかった。僕以外には。僕が味わっていた一体感。それは確かに思いこみでも勘違いでもなかった。僕は真紀の一部を借りて生きていたのだから。
 草間先生は、ぽかーんとしている僕に、いずれ僕の体を狙っている魂も昇天しなきゃいけないときが来るから、それまで体を守り切れと言い、医療費は一切タダで良いからこのことは他言無用にして欲しいと言いました。南先生が「医師が霊魂の研究なんぞに勤しんでいたことがばれたら、とんだお笑い種ですからね。現時点では」と言いました。「現時点では」を妙に強調したのが、ちょっと滑稽だったと思います。それから草間先生が「気休めだが」と言って、お守りを一つくれました。二人のお医者さんが帰った後、僕は再び万年床に寝転がって、静かになった自分の周りを見渡しました。壁のシミ、壊れかけた本棚、積み上げられた漫画本。古本屋で買ってきた、ハードカバーと文庫本。歯ブラシ。ちり紙。紙屑。埃。汚れがこびり付いたガスレンジ。いつもゴキブリと戦う流し台。全て嫌と言うほど生活感に溢れていました。
 僕が死ぬ、いや死んでいたなんて。
 はっきり言って俄に信じられる話ではありません。しかし草間先生と南先生が教えてくれたことは、紛れもない真実。疑う余地は有りませんでした。出来事は連動していたのです。
 真紀は僕の体を乗っ取ろうとして近付いてきたのか。真紀は僕を殺そうとして、近付いてきたのか。真紀は自分の魄が地に落ちる前に拾い上げ、ちょうど魄を無くした僕に入れて、命を長らえさせた。折を見て乗っ取るつもりで! 僕はそう思って、ガタガタと震えました。寒風の中に急にさらされたように、震えました。死にたくない。その思いが募りました。布団の中で、草間先生からもらったお守りを、握りしめました。
 そうして、しばらく震えていましたが、おばちゃんが僕を呼ぶ声がして、我に返りました。用件は南先生からの電話です。南先生は、僕を惑わせた人物のことを聞きたいと言いました。僕が和泉真紀と言う名前とちょっと女の子にしては短めの髪のこと、それから生前はカレー屋で働いていたことなどを話すと、南先生は「人物がわかれば対策を立てやすいと思いまして」と言って一方的に電話を切ってしまったのです。あまりに急だったので僕は、ツーツー言っている受話器に、よろしくお願いしますと言ってしまいました。
 その夜のことです。震え疲れて暗がりの中でぐったりしていた僕の前に、突然真紀が現れました。もう正体がばれたことを知って彼女は強硬手段に出たのだと思いました。真紀は暗がりの中で、目を伏せて膝を抱いていました。外を通った車のライトで、一瞬部屋が明るくなり、また暗くなる。そんな繰り返しが、一度、二度、三度。沈黙でした。ぐったりとしつつ上目遣いに睨む僕と、散らかった部屋のわずかな空間に、小さく座り込んで、その視線を受け止める真紀。
 僕はふうっと息を吐き出して切り出しました。僕が「話は聞いたよ。悔しい?」と言うと、真紀は「お守り持ってるでしょ? でもね、私無神論者だから効かないよ。たぶん」と答えたのです。僕はその答えに笑ってしまいました。大笑いしました。なんか震えていたのが妙に馬鹿らしい気分になって、僕は真紀に「カレー作ってよ」と言いました。真紀は嬉しそうに頷くと、明日の晩に作りに来ると言って、消えていきました。

 次の日の晩。僕は部屋の掃除を終わらせて待っていると、真紀はカレーの材料を抱えてやって来ました。彼女は白いハーフコートを脱ぐと、赤いトレーナーの上に、カレー屋で使っていたという、黄色いエプロンを着けました。スパイスセットを買ってきたらしく、なにやら調合しはじめました。「これは香りのスパイス、カルダモン。それからこれは色のスパイス、ターメリック」と言って一個一個説明してくれましたが、僕にとってはどうでも良いことでした。しかし買うって、何処で買ったのでしょう? 僕は彼女にその疑問を口にすると「万引きしちゃった」と言いました。ジュースも、何処かからかっぱらってきていたのでしょう。僕は肩をすくめて笑いました。腹立たしい事に、そこへおばちゃんからお呼びがかかりまして。来客でした。南先生です。幸い南先生は、僕の部屋が嫌いでしたので、外で話をすることになりました。先生は「和泉真紀は確かにカレー屋で働いていましたが事故死しています。おかげで対策が立てやすくなりました」と言うと、紙袋を差し出しました。魄を安定させる薬が入っていると言いました。他人の魄はさすがに定着が悪いので、その薬を飲んで安定させろとのことでした。僕は南先生に礼を言うと「僕はあの人と、うまくやって行けそうです」と言いました。南先生は「それも良いでしょう。それが実現するならね。まぁその薬だけは飲んで下さい。魄を定着させないと、二人そろって昇天してしまいますから」と鼻で笑うと帰って行きました。
 僕が部屋に戻ると、真紀が悪戦苦闘していました。台所が狭いと文句を言いながら、タマネギを切って泣いていました。真紀は材料を切りながら、僕に嘘をわびてくれました。同級生というのは嘘だそうです。おばちゃんも騙したのだそうです。わかっていたことなんですが。僕は材料を炒めている彼女に、どうして僕に魄をくれたのか、聞いてみました。真紀はダンプにはねられたときそれに気付かなかったそうです。しばらく道路に突っ立っていましたが、足下にあった光る玉、魄を、それと知らずに、と言っても自分の一部と気付いていたようですが……拾い上げ、人垣に向かって歩いていくと、自分が横たわっていたのだそうです。体に戻ろうと、魄を体に突っ込んだり、自分自身、つまり魂が入ろうとしたりしたのですが、入れなかった。もう死んでいたからでしょうね。そして自分に対する好奇の視線。彼女はその中でただ一人僕の強烈な同情に、すっかり感動してしまったのだそうで。僕の後を、彼女に言わせると「ふらふらーっと」ついて来て、僕の魄が地に落ちていく現場に遭遇して、僕に魄をくれて、その上救急車を呼んでくれたのだそうです。それから、影から見守るなんて嫌だったので、姿を現したのだそうです。聞けば彼女は僕の命の恩人。そんな彼女を追い出そうとしていたのだと思うと僕は自分が情けなくなって泣けてきました。こんな体で良かったら差し出したいと思ったくらいです。
 そうこうしているうちに、カレーライスが出来ました。ちゃぶ台の上のカレーは、サンプルケースのカレーなんか遠く及ばない、うまそうなカレーです。スパイス達が微妙に絡み合ったカレーの香りに、僕はつばを飲み込みました。真紀はそんな僕にちょっとじらすように、ゆっくりとスプーンを差し出しました。僕はひったくるようにスプーンを手に取り一口。僕は、真紀の作ってくれたカレーを舌だけでなく、全身で味わった。そんな気がしました。それ程にうまかったのです。何がどうと言うのではなく、ちょっと辛めのルウとライスがお互いに喧嘩せずに混ざり合い、具が味と見た目に彩りを添える。長ネギとちくわが変わり種であったが……。少し驚いた僕に「歯ごたえが良いのよ」と、向かいに座った真紀が、ちょっと苦笑いをしました。彼女の実家の方では、入れるのだそうです。確かにちくわはその独特のシャリリとした歯ごたえを失っていなかったし、大きめに切って、煮すぎないように、出来上がる寸前に入れたという長ネギも、その独特の歯ごたえと、特有の甘みを醸し出しています。「うまいよ!」僕は今でもきっとあの味を思い出せます。僕の皿を見つめていた真紀が「そう言えば、今日はクリスマスイブね」と言いました。僕が「お前無神論者だって言ってたじゃないか」と言うと、真紀はこの手のイベントに神様は関係ないのだと言いました。僕は水の入ったキリンビールのコップを持ち上げて「メリークリスマス」と言ってみましたが、真紀は寂しげに笑うだけでした。彼女もそろそろ実体のない生活に疲れていたのでしょう。「そろそろ行こうと思ってるの」と、うち明けてくれました。僕はその夜、有らん限りのカレーを平らげ、南先生のくれた薬を飲んで寝ました。

 その晩布団に寝転がっていると、真紀が僕に抱きついてきました。何処からともなく飛んできた光の玉が、僕の腹を打ち、真紀の魄を追い出そうとしていたのです。真紀は誰かに吸い寄せられている。と言って、震えていました。驚くほど冷たい体でした。血の通わない体がこんなに冷たいとは……。「佐藤君、手を離した方が良い。体を取られるぞ」と言う声が聞こえました。僕は嫌だ! 嫌だと言って真紀を抱き留めました。薄暗い部屋全体がガタガタと揺れて、僕は意識が遠のきました。僕はただ真紀の冷たい体に抱きつくしか無かった。真紀は、苦しいのかばたばたと暴れていました。「見ろ魂が外れかかってるぞ」と言う声。僕は自分が抱きしめているのが、自分である事に気が付きました。そして、もう一人の自分も、僕を抱きしめている。いつの間にか僕の体に真紀が入っていたのです。相も変わらず、光の玉は真紀の魄を追い出そうと必死でした。僕はいつの間にか、また真紀を抱きしめていました。真紀の体に染みついたカレーの香り。僕はそれに必死ですがりついた。カレーの匂いがする間は彼女は無事だ。そう思って必死で抱きしめました。真紀の柔らかな体が僕の腕の中で暴れている。僕はその時、自分の腕の中に女が居ることを悟りました。それに気付いた瞬間、骨髄の奥から快楽が押し寄せてきてしまった。何もかも忘れてしまいそうでした。しかし僕はそれを押さえるために必死で、僕自身の首筋に噛みついた。僕自身、また僕の魂は外に出ていたのです。僕は、いや真紀は痛みに耐えかねて外に飛び出しました。再び僕は真紀を抱きしめている。しかし僕はもう限界でした。もう彼女を抱き留めることは出来そうもない。真紀も同じだったらしく「もう少し。ほんの少し、こっちにいたかった。本当は生きていたかった」と言って、涙を流しました。「僕と一緒に生きてたらいい」と言うと「出来ないよそんなこと、茂君に迷惑だもの」僕はそんなこと無いよと言おうとしましたが、彼女はそれより先に、僕の口をその唇で塞ぎました。僕も涙が溢れてきました。離さない。離したくない。僕は強く強く彼女を抱きしめました。しかし真紀は、唇を離すと「待ってるから」と言って、僕の腕からするりと抜け出し天へと昇って行きました。真紀は自分の魂が居なくなれば、相手も攻撃をやめると思ったのでしょう。実際相手も、そのつもりだったのだと思います。しかし真紀が昇天して、僕が気を抜いた瞬間、真紀がくれた魄は抜け落ちてしまった。光の玉は何処へともなく去って行き、僕は病院のベットで目が覚めました。でも、意識は朦朧としたままで、たまに草間先生や南先生の声がしてそれに受け答えしたり、急に世界がはっきりしたりしていますが。ほとんどの時間、僕は寝てるのか醒めてるのか、生きているのか死んでいるのか、全くわからない有様です。


「どうですか? 草間先生」
 テープを止めた南先生が、呟きました。僕は自分の記憶の再構成に取りかかりました。自分が喋ったとはいえ、あまりに突飛な内容だった。
「彼の話しぶりでは、我々は人の恋路を邪魔した立派な悪人ではないか。まぁ否定はできんが。それにしても魂魄剥離剤は再考の余地がありそうだな。ところで南君、君そのカレー屋の娘の魂魄を手に入れてどうするつもりだったんだね?」
 草間先生はまるで独り言のように様に話し掛けました。
「彼女とずっと一緒にいたかったんです。今では叶わぬ願いですが」
 南先生の自嘲的な口調は、妙な説得力を帯びています。
「そうだな。彼女の魂は天に昇って、魄は地に帰った。それにしても良く喋る男だな。腹をこわして運ばれたときにはそれ程とは思わなかったが」
「もう少し実験してみますか? 魄が抜けると言語野の活動が活発化して、海馬とのネットワークが緊密化するのかも知れません」
「面白い説だな、南君」
 電話が鳴りました。
「ふむ、ふむ、わかったすぐ行く」
「南君! 316号室の患者の状態が非常に悪くなった。残念ながら彼を使っての実験はもはや不可能だ」
 草間先生と南先生は、そそくさと部屋を出ていきました。出る寸前に草間先生は南先生に、
「終わったら例のカレーライス屋に、ハンバーグカレーを食いに行こう」
 と言いました。
 後に残された僕は、自分の死を悟らざるを得ない事に気が付きました。自分の部屋に戻ろうと思いましたが、自分を看取るなんて嫌だったので、ここにいることにしました。僕は南先生と草間先生に殺された。さっきから考えていたのはそのことです。だからといって僕は二人を告訴する権利、と言うより能力を無くしましたし、二人に復讐する気にもならない。そんなことより真紀に逢える。そのことの方が大きい気がします。僕は昇天することにしました。
 真紀は僕を待っていてくれるでしょうか。カレーライスを作って。あの長ネギとちくわの入った、特製カレーを作って。

 

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