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「雲は故郷の夢をみる」小浜治巳
  固い床に横倒しになったまま、虜囚は正面にある闇の一点だけを見つめた。
目が暗さに慣れてくるにしたがって、ここ数年で慣れ親しんだ感覚……熱くなった銃器の手触りや、火薬の匂い……といったものがまず思い出されてくる。同時に、音高に聞こえていた耳鳴りが遠くなってゆき、周囲の臭いに鼻が悲鳴を上げはじめ、その後でようやく、拷問室に引き出された後の記憶をたどることが出来るようになるのだ。

『君は話すべきことがたくさんあるはずだ』
(今はあいにくと世間話をする気にならなくてね)
『傷が痛むだろう』
(ああ、どえらく痛いよ。アンタがどうにかしてくれるのかい?)
『知っている限りの仲間の名前を』
(言ってもアンタの知らない奴ばかりさ)
『投降した者は、搬送先でちゃんとした治療が受けられる』
(そりゃあ有難いね。で、搬送中に死んじまった場合はどうなるんだい?)
『武器の入手は』
(ただで貰ったのさ。代金? 払った覚えはないね)
『情報はどうやって』
(さあ。聞いてきた奴を探し出して、そいつに直接聞いてみろよ)
『おまえ達のしてきたことを、我々は深く憎んでいる』
(わざわざ言ってくれなくてもわかってるよ。アンタだって俺の顔を見ればわかるだろう)
『非道な行為の報いは』
(アンタが俺の罪状を読み上げるのか? だったら、そのひどい発音を直してからにしてくれよ。聞いている最中に吹き出しちまいそうだ)

[……の処刑の手続きを]
[明朝……]

虜囚は体を震わせた。熱が出ているのだろう。体はほてるのに、時折、ぞくぞくと鳥肌が立った。喉も焼けるように渇いている。虜囚はゆっくりと舌を動かし、口内に唾液をためて呑み込んだ。胃液と血液が混ざり合った、ひどい味がした。ついでに怪我の苦痛も呑みこんでしまえたら楽なのだが、ここには麻酔代わりに舐める弾薬もない。虜囚は顔をしかめながら、何度か嚥下(えんか)を繰り返した。
臭い。
床についた側の頬がべとついていた。今日か……あるいはここ六日の間に吐いたものが広がっているのだろう。これは日を追うごとに腐り、さらに強烈な悪臭を放つようになるのだが、すでに周りの空気はその臭いで出来上がっているようなものだ。この上どんな粗相を重ねたところで、文句を言う者もいない。
そのにおいを吸い込むたびに、体のどこかでヒョーヒョーと音がした。冷たい風が吹き抜けていったようで、虜囚は再び震えた。
「エーネル」
暗がりに向かって、虜囚は呼びかけた。
ささやくような声しか出なかったが、相手に届かないという心配はなかった。ここに捕らえられて以来、毎夜、互いにささやくようにして話したのだ。
「起きてるんだろう、エーネル。調子はどう」
「……ああ。もちろん最低だよ。そっちもひどい声だな、のっぽ」
同じように掠れた声が返った。
だが、エーネルの話す声は明るい。これまでのどんな苦しい戦況も、エーネルの顔から完全に笑みを消してしまうことはできなかった。今、こうして敵に捕らえられ、鉄格子の奥に放り込まれた状況でさえ、エーネルという男は自信ありげに笑っていられる。顔は見えなくても、虜囚にはそれがわかっていた。
エーネルに付けられた「のっぽ」という愛称のとおり、彼は部隊内でも目立って体格が良かった。子どもの頃から荷運びで鍛えた肩は逞しく、力も強かった。だが、そう機敏なほうではなく、祖国を愛する情熱は誰にひけを取らなくても、生来の控え目な性格も、あまり実戦向きとは言えなかった。放って置けばいつまでもぼんやりしているという空想癖まであり、才気に長じたエーネルとは水と油ほどに似ていないと、よく傍からは評された。そのとおりだという自覚もあった。
それでも、エーネルとは子どもの頃から仲の良い従兄弟同士だった。指揮官だったエーネルの兄の影響を受け、志願して「西軍」の兵士となったのも一緒だった。どちらも十六歳の時のことだ。
西軍……敵国との位置関係からそう呼び習わされてはいたが、これは祖国における正規の軍隊ではない。二十数年間、他国の侵略を受け続け、その傀儡(かいらい)との噂もある政府の統治下におかれた国に、そもそも正規と言える軍など存在しなかった。西軍とは、侵略国に火器をもって抵抗する私設兵団……単に青年部隊とも呼ばれる武装集団であり、祖国の解放のためには自分の命さえ惜しまない者の集まりだった。
二人がそこに入隊してから四年が経ち、エーネルはこの春には一小隊を任されるまでになっていた。若すぎるとの懸念も聞かれたが、「のっぽ」が側で気をもむまでもなく、度重なる敵軍との衝突の中で、彼の統率力は認められていった。エーネルの名は、味方にとっては羨望と信頼の、敵軍にとっては憎しみと苦渋の象徴になりつつあった。
『おまえはその年で敵軍の言葉を三つも覚えた秀才なんだぜ。なんでそれを味方にまで隠しておかなきゃいけないんだ』
入隊したての頃、エーネルが不機嫌な顔で言ってきたことがあった。
『ただの「のっぽ」じゃないって、言い返してやれよ』
『別に、俺はどう思われたって気にしないよ。誰にも言うなって、レイド指令にも釘を刺されたじゃないか。下手に知られると、敵と通じていると誤解される可能性もある。隠しておいたほうが何かの役に立つこともあるんだって』
『そのせいで見掛け倒しの腰巾着(こしぎんちゃく)って陰口たたかれてもか? おまえは人が良すぎるし、兄貴は頭が固すぎるんだよ』
エーネルの口調は時にぞんざいに聞こえることもあったが、それは同輩の誰に対してもそうなのであって、決して相手を無視したものではなかった。他の者に話したのなら「くだらない」と呆れられるような、「雲が鳥に見えた」、「虹が二つ並ぶことはあるのか」といった取り留めのない話にも、エーネルだけは楽しげに耳を傾けてくれた。
小隊を預かり、精鋭兵士として知られるようになったエーネルの変わらない態度が、「のっぽ」への見方を徐々に変えてくれていたことは確かだった。戦闘から戻った兵士達のなかには、殺気立った気分を変えようという意識が働くのか、エーネルとの雑談を黙って聞きにくる者もいた。少しずつだったが、エーネルを中心に、小隊は家族のようにまとまってきているように見えた。小さな諍いはあっても、祖国解放の夢はひとつだと思っていた。その中にまさか仲間を裏切る者がいるなどとは、考えてもみなかった。
虜囚は短く咳き込んだ。
「君のことだから、また挑発するようなことばかり言ったんだろうね。今日、奴らは何て?」
訊くと、エーネルは鼻を鳴らした。
「いつも通りさ。飽きもせずに、繰り返し下手な発音でくだくだと聞きやがる。やることも大して変わらないな。甘い飴と痛い鞭さ。それで俺たちのやり方は卑怯だと抜かす。お互い様だと笑ってやったよ」
……処刑の手続きを。
……明朝。
「俺達は間違っちゃいない。俺が死んでも、誰かが意思を引き継いでくれる。だから最期まで笑っていてやるのさ。そして奴らの胸に、エーネル・グィの名前を刻み込んでやる」
「……エーネルは強いから、そんなことが言える。俺はいつだって怖いよ。銃を持っていても、離れた場所から相手を狙い撃ちにするだけの時でも手が震えてしまう。俺達のやってきたことは正しい……。そう信じているけれど、殴られて、銃を突きつけられて、殺したくて堪らないって視線に囲まれると、両手をついて謝らなければいけないような気持ちになるんだ。俺も裏切り者なのかな。こんなふうに考えてしまうのは、もう俺が奴らに屈してしまっているからなんだろうか」
声が震えた。ヒョーヒョーと体の奥で音がした。
「おまえは誰も裏切っちゃいないよ。奴らは俺達から何ひとつ聞き出せやしない。しっかりしろよ、のっぽ。おまえは奴らにとって使い走りの一兵士に過ぎないんだ。俺や兄貴みたいに最初から処刑目的で手配されていたわけじゃない。ここから護送されて、後でまた投獄……懐の広いところを対外に見せるのに利用されるだけさ。生きていれば、時期をみて、仲間がきっと助けに来てくれる。兄貴達がおまえを見殺しにするもんか。だけど、言葉の反応には気をつけろよ。おまえみたいに、ゲド語がわかる奴なんてそういないんだ。知られれば途端に警戒されて殺されちまう。俺なんてナムラ語さえ満足にわからないから、そこは問題外だけどな」
「教えると言っても、君が覚えるのを嫌がったからじゃないか」
「覚える気にはなれないんだよ。胸糞が悪くなる。前にも言っただろ」
「ああ……そうだったね。思い出したよ」
エーネルは敵国の言葉を覚えることをひどく嫌った。言語習得のために持ち込んだ他国の書物を開くことさえ、嫌がっていた。
「そうだね……。戦う相手の言葉を覚えるってことは、本当はもっと、違うことなんだ。君はたぶん、それがわかっていたから……」
ヒョーヒョーと風が鳴った。
「のっぽ。どうした?」
「……いや。エーネルがその気になれば、五、六の言葉ぐらいすぐに覚えられただろうと思ってね」
「冗談じゃない。そんな面倒事はおまえに任せるよ。女を口説く歌のひとつでも覚えるほうが、俺には絶対に有意義なんだ」
「それは、言えてるね」
幼い頃からそうしてきたように、「のっぽ」は自分の弱さを、エーネルは自分の意地を語る。同じ夢に向かっていく上で、それは必要な儀式のようなものだった。話すことで自分の位置を見極め、次にどうすればいいのかを考えられる。そのために話す。
「……エーネル。そろそろ眠ろう。明日も、どうせ早いんだ」
「そうだな……」
虜囚は眠ろうとした。
死ぬ前の晩ぐらいは、硝煙の臭いのない夢を見たいと思った。占領から取り戻せた後の、故郷の村の夢を見るのがいい。芋しか採れない土地だったが、水路を造って時間をかけて改良していけば、他の物もたくさん育つようになるだろう。
風は温かい。見事に茂った作物の上に、あの懐かしい空が広がっている。そこに、いつか見た、翼を広げた大鳥のような雲が浮かんでいるのがいい。

『そういや昔、隣村のばあさんが言ってたな。死ぬと人間の魂は雲になるんだとかなんとか。のっぽ、おまえもそれ一緒に聞いてた?』
『いや、初めて聞いたよ。だけどいいね、それ』
『ああ、駄目だろう、エーネル。またジョフゼに空想の種をまいちまった』
『なんだよ、兄貴。またって……なんか、俺が悪いのか?』

……広い空が見える。
別れを惜しむように流れていく雲は、死んでいった仲間のものかもしれない。でも、そう悲しまなくてもいい。同じ空にある限り、雲はまた帰ってくることもできる。
夢見ていれば、望んだ場所に、きっとたどり着ける。
「……たどり着けるんだよ……エーネル……」

   ※   ※

地下の独房に、明かりを手にした五人の男が現れた。その場の空気を嗅いだ途端に、皆一様になんとも言えない顔をしたが、それはすぐに冷ややかな表情に変わった。
「エーネル・グィ。起きろ」
独房の中に転がっている巨漢がわずかに動いた。髪も顔も自分の吐瀉物にまみれている。薄く開いた両目は何かの菌に感染したものか赤く腫れ上がって、縁に目やにをためていた。彼はその目で鉄格子を挟んだ壁をぼうっと見つめていたが、光を当てられると眩しげに瞼を伏せて、低く呻いた。
白い将校服を着た栗毛の男が、その汚れた顔をまじまじと見て、薄く笑った。
「ほおに残っているのは、まさか涙の後じゃないだろうな? 昨日の威勢はどうした? 今日はお望みどおりおまえの罪状を読み上げてやる。おまえ達に殺された同志の位牌の前でな。これがどういう意味かわかるか?」
「さあ、知らないね……」
力はないが、明瞭な声が返された。
「それよりアンタ、その発音を直せと言っただろう。全然直っていないじゃないか」
「この!」
栗毛の男の顔色が変わり、転がった男の腹部に固い靴底が喰い込んだ。
「ゲド語も知らん田舎者が! その舌を今ここで抜いてやってもいいんだぞ!」
二度、三度と蹴られ、汚物のなかで男はもだえた。
「だが、我々はおまえ達のように無意味な行為はしない。正義の場に引き出して、そこでおまえを裁いてやる。覚悟を決めろ。それとも、今になって命乞いをしてみせるか?」
「いや、だ、ね」
「見上げた忠義だが、愚かだな。おまえは西軍がひとつの絆で結ばれていると思っているようだが、我々に情報を流してくれていたのは、元々はおまえの仲間だった男だ。おまえの居場所を知らせてくれたのは、これまた別の一人。ずいぶんと良い部下に恵まれていたようじゃないか。もっとも、見苦しく助命を願ったそいつには、我々が制裁を加えてやったがね。その男の名前を聞きたいか?」
虜囚は目を閉じて答えた。
「必要ない」
「ほう。寛大だな」
皮肉に言い捨てて足をどけると、栗毛の男は後ろの四人を振り返った。
ゲド語で命じる。
[ひどい臭いだ。水をかけてから連れ出せ。これだけの体格だ。弱っている振りをしているだけかもしれん。気は抜くな]
[はっ]
虜囚に手桶の水が何杯も浴びせられた。ずぶ濡れになった虜囚の体を、二人が手荒く両腕を掴んで立たせた。残る一人が虜囚の目に布をかぶせ、一人が後頭部に銃をつきつける。四人の男の目には、これから処刑される男への憐れみは欠片もなかった。ただ憎悪だけが暗くたぎっている。
[悪鬼め]
言って、右腕を掴んだ男が虜囚の顔につばを吐いた。
[こいつのせいで、義理の弟が死んだ。遺体を捜したが、見つかったのは腕だけだ。必ずおまえの兄貴のほうも同じ目に遭わせてやる]
左の男が頷いた。
[黒髪のエーネル。噂どおりの巨漢だったが、こいつをこの手で処刑場へ送れるとは思ってもみなかった。だが、跡形もなく吹き飛ばしてしまうより、目の前で処刑されたほうが皆の気も済むだろう]
[俺はこんなに早く殺すのは気に食わない! こんな奴、もっと痛めつけて、なぶり殺してやるべきなんだ! 俺が上官だったら、絶対にそうしていた!]
他の三人より一回りほど年若いらしい男が背後から怒鳴った。
[落ち着け。もう死んでゆく人間だ]
虜囚の喉元で、風が抜けるような音が漏れた。両脇を挟む二人がぎょっとして虜囚の顔を見る。水が滴る前髪を貼りつかせ、男は笑っていた。
「おかしな言葉だ。なにを言ってるのか、全然わからないな」
[こいつ、なんて言ったんだ?]
[俺達の言葉が変だと笑っている。全然わからない、と]
左側の男が、大きく息を吐いて通訳した。
[どこまで、こいつは!]
[よせ。行くぞ]
五人の男達は長い廊下を歩いていった。時間にすればわずかな間だ。彼らに外の日差しが当った途端、高い歓声が上がった。いや、歓声と聞こえたのは、女達の叫びと、二百に近い数の呪詛の言葉だった。
「なあ」
虜囚が左側に立つ男に顔を向けて言った。
「目隠しを外してくれないか。自分が撃ち抜かれるところを見てみたいんだ」
[おい。今度はなんて言ったんだ?]
右側の男が訊くと、左側の男は、奇妙な顔をして虜囚を見つめていた。
[おい、ザック。こいつは何て?]
[……自分が撃たれるのを見たいから、目隠しを外してくれと言っている]
[ハッ。いいとも。外してやろうじゃないか。じっくりとその目で眺めるがいいさ]
[そんなことをして構わないのか?]
[咎められたら勝手にずり落ちてしまったとでも言えばいい。観衆もこいつの顔が見たいだろう]
言いながら、右の男は目隠しの布を引き下ろした。
虜囚の瞳に、白い光が飛び込んで反射した。虜囚は幾度も瞬きをして、目を細めて周囲を見回した。腫れあがった目に、上から見おろしている人間達の姿がぼんやりと映った。そして、その頭上にある、青い色が。
[エーネル・グィをここへ!]
刑場の正面席に座った中年の男が怒鳴る。周囲の喧騒が、雨が止むときように引いていった。
虜囚は中央に立てられた柱に手際よく縛り付けられた。近づいた栗毛の男は、彼が目隠しをしていないことに気づいてわすかに眉を上げたが、付け直せとは言わなかった。
彼は平坦とも言える口調でエーネルの罪状を読み上げていった。その間、虜囚はぐっと顎を上げて立っていた。顔には微かな笑みさえ浮かべている。
その姿は、観衆にはひどく不敵な態度に見えたのだろう。ざわめきが次第に大きくなっていった。
[死体は火の中へ……!]
一人の若い女が叫んだ。
[私は夫を西に殺された! 大罪を負う者には火を!]
[そうだ! 大地に還してやることはない! 火にくべてしまえ!]
火だ! 火だ!
唱和が起こった。
それが虜囚の鼓膜を震わせた。ゲドの信仰によれば、火にくべられた者の魂は二度と大地に還ることができず、永遠に灼熱のなかを彷徨う。そうされるだけの罪をおまえは背負っているのだと、すさまじい唱和は告げていた。
「火か……」
虜囚は口の中で呟いた。
彼はそのゲドの信仰を書物を通して知っていた。だがそれはこの国の人間達の信仰であって、彼が信じるものではない。
彼はその唱和を聞きながら、自分だけの信仰を見上げた。
……澄み切った空と、そこに浮かぶ朝焼けの雲を。

[ザック? どこへ行くんだ]
[見ている気がしないんだ。部屋に戻っている]
銃口を向けられている男から目を逸らして、ザックは言った。
ザックの手には、あの虜囚の腕を掴んだときの感触が残っていた。ひどく熱を持った腕だった。今日殺されなくても、あの男はそう長くは生きられなかっただろう。
[おまえ、まさかあんな男に同情しているわけじゃないだろうな]
怒気のこもった声で言われて、ザックはのろのろと首を振った。
[そうじゃない]
[だったらなぜ見ない。昨日の晩、あの男の独房を見張っていたのはおまえだったな。泣き喚いている声でも聞いたのか]
[いいや]
ザックは情報収集のために西軍の言葉を学び、かなり正確に理解することができた。独房の見張りや、今日の連行役を命ぜられたのは、あの虜囚が何か役に立つ情報をつい漏らすかもしれないという、上官のわずかな期待のためだ。
上官達はエーネルの兄の行方を血眼で探している。どんな情報でも貴重だった。エーネルのことにしても、内部の密告者がなければ、見つけ出すのは相当に困難だったことだろう。戦場で彼らの顔を直接見たという者は少ない。実際、ザックもエーネルを見て、その若さに驚かされた。
連行中に若い兵士が怒鳴ったように、上官も出来ることならもっとエーネルを痛めつけ、情報を引き出したかったはずだ。だが、彼の存在はこちらにとって危険すぎた。いつ仲間が彼の奪還のために無謀な戦いを仕掛けてくるかわからない。民衆もエーネルの早急な死を望んでいた。それにおそらく、いくら責め立てたところで、あの男は口を割りはしなかっただろう。
[泣き声は……聞かなかった。ただ、ぶつぶつと独り言は言っていたな。なんとか聞き取ろうとしたが、覗き穴に近づくと、気配を察して黙ってしまうんだ。前の晩の見張りときもそうだったらしい。泣かれるよりも不気味だった。頭がおかしくなり始めているのかとも思ったが]
[確かに異常な男だよ。今日もつくづくそう思った。見ろよ。誇らしげに顔を上げて笑っていやがる。……どうかしてるぜ]
ザックはちらりと視線を戻した。
あの顔を、誇らしげ、というのだろうか。
ザックには、あの世代の若者が何かに憧れる時にみせる表情のように見えた。苦痛から逃れられることに対しての、憧れか。だが、連行中にあの男が見せた表情は諦観や開き直りとは違っていた。自分が置かれている状況を把握していて、その上で笑う……。場違いなほどに自然なその笑いが、ザックを不安にさせた。
そして。
[……まさかな]
ゲド語は、他国人にとっては非常に難解な言葉だという。
こちらがケド語で話していても、エーネルには何の反応も見られなかった。以前に得た情報では、比較的覚えるのが容易なナムラ語でさえ、エーネルは話せないとのことだった。戦場しか知らない生活を送ってきた男が、語学にそう堪能だったとも思えない。あの男が自分を選んで話しかけてきたのは偶然か、兵士同士の会話の様子から、西軍の言葉が通じる相手と推測してのことだったのだろう。
だがもし……もしも、あの男がゲド語を理解していたとしたら、どうなる。
拷問室や地下牢での会話も聞き分けていて、今、ああして観衆の呪詛の声に囲まれても、その声を総て理解できているとしたら。
その可能性を考えると、ザックは胸に重いものが詰まったような気分になった。
[なあメル。あの男は本当に……]
[ああ? 何か言ったか、ザック]
[いや、いいんだ]
[変な奴だな]
ザックはエーネルを見た。観衆の視線が集まる中で、エーネルはあらゆる憎悪の言葉を浴びせられて立っていた。言葉がわかないとしても、それがどんな内容かは想像がつくだろう。それでも自分の歩いてきた道を信じて、あのように自然に笑っていられるものなのだろうか。それほど強靭な心を、人は持ちうるものなのだろうか……。
耳障りに響く群集の唱和が、ぶわりと膨れ上がった。
[ザック、見ろよ。やるぞ]
ザックはその声に背を向けた。
見たくなかった。エーネルの微笑も、観衆の顔も。
歩き去っていくザックに気づかずに、義弟を殺された男は呟くように続けた。
[見ろよ。エーネル・グィの、最期だ……]
 終
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