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「そうか、君あの町に住んでいるんだ。ぼくはね、前にあの近くに住んでたんだ。それでよくあのあたりの路地裏を自転車で通っては、ここにはどんな人が住んでいるんだろうって想像したものだよ。それからその町を離れて、別の町の学校に通って、そしていろいろなことがあって、とうとうこんな山奥に仕事を探してやって来た。そうしてたまたま宿で部屋を共にした君が、あの路地裏に住んでいる人だったんだ。不思議なものだね」
「ええ」
彼はあまり同情的ではない笑いを浮かべながら、ぼくの話に相槌を打つ。ぼくはそんな彼の顔をちらちらと盗み見ている。彼が奇妙な人らしいということは、この宿へ着いた初めから何となく知れていた。彼は突然に、何ら脈絡のない話をぼくに仕掛けてくる。そしてぼくがした質問には、必ず一呼吸置いて独特の甲高い声色で応答してくる。それはまるで神の言葉を読み上げる巫男のような様相だ。眉がぴくつき、口が嘴みたく突き出る。でも時折、今のような身構えないままの生返事もある。そんなとき彼はどういう心境をしているのだろう。ぼくはそれがとても気になる。
「君、幸せだなあって思う時ある?」
ぼくはつい尋問口調で聞いてしまう。
「うーん。そぉうですねえ。うーん。しいて言ぃうなら、かぁのじょがでぇんわしてくれることでしょうか」
ぼくはその言葉に、どこか転倒した状況を嗅ぎ取る。
「それが幸せなの」
「はい」
「彼女はどんなこと話すんだい」
「一日にあったこととかぁ、家庭のもんだいだとか、いろいろでぇす」
「電話って、君も当然かけるんだろ?」
「いいえぇ。かけませぇん」
「じゃあ何、君は相手がかけてくるのを待ってるだけか」
「まあそぉうです。十一時以降にかけてくるのは一人だけですから」
「それが嬉しいの?」
「ええ」
「だって向こうは愚痴をこぼしにかけてくるんだろ?それがいいわけ」
「自分のことを聞いてくれまぁすから」
「自分のことって、どんなこと」
「プライベエトなことなんで言えませぇん」
彼は嬉しそうにそう言っている。
「いいじゃない、聞かせてよ」
ぼくはしつこく問うてみる。
「だからぁ、相手の言うことに答えるんでぇすよ」
「それが自分の言いたいことなの?」
「ええ」
「全体、君はどれくらいしゃべるの。じつはほとんど聞いてるだけか」
「ええ」
「ええって。じゃあ、相槌を打ってるだけか」
「ええ」
「それって単なる聞き役じゃない」
「ええ」
だんだんに彼のお里が知れてくる。
「じゃあ彼女は気まぐれでかけてきてるのかも知れないのか」
「知りませぇん。彼女も自分のことを聞いてくれるのがうれしいんじゃないでしょうか」
「それってほんとうに彼女なの」
「さあ、どぉうなんでしょう。世間で何というのか知らないものでぇ」
あっけらかんとしたものだ。私は話題を変えてみる。
「今までに嫌なことはあった?」
「ありまぁす。ありすぎまぁす」
「例えばどんなこと」
「言えませぇん」
「仕事のこと?」
「それもありまぁす」
「仕事で失敗した?」
「世間のうわさというのは、わたしの思ってもみなぁいことを述べ立てますから」
「それはつまり、陰口をたたかれたということ?」
「ええ」
「それは嫌だった」
「ええ」
「他には」
「もう聞かないでくださぁい」
「友達はいないの?」
「いまぁす」
「その友達は君のことを聞いてはくれないの」
「聞いてくれまぁす」
「よかったじゃない」
「はい」
「自分のことをあまり表に出したくないの?」
しばらく彼は考えている。何度か口を開きかけて、ようやく元の調子で話し出す。
「わたしはぁ、内面を表には出していませぇん。人には内面を見せませぇん」
「どうしてそうなの」
「理由はありまぁすが言えませぇん」
「教えてよ」
「ある不幸なことがあったからでぇす。それ以上は言えませぇん」
私は興味を覚える。
「何だい。教えてくれよ。それを聞いたからってぼくは別段どうもしないさ。ぼくはただ君の生活がどんなものか知りたいだけさ。全体、何があったんだい」
「警察の調査が入ったある事件に関わったのでぇす。人を死に追い込むようなことが起こったのでぇす。あの修羅場をくぐれば誰だって変わりまぁす」
「そうか。ということはいじめか」
彼は黙っている。
「いや、すぐそう思い浮かんだんだ。別に理由はないよ」
「まあいじめと言えばそうも言えまぁす」
「脅されたのか」
「悪人が数人でわけのわからないことを言ってきたんでぇす。それでわたしの知っているある人が自殺したんでぇす。これ以上は言えませぇん。もう終わったことでぇす」
「因縁をつけられた」
「因縁ならまだいいでぇす。起こってはならないことが起こったんでぇす」
ぼくは少し考えてみる。要するに彼の周辺に危ない連中との悶着が起こって、それが彼の所にまで飛び火したが彼は助かりその友人だか誰だかが自殺したわけだ。
「君の代わりにその友達がサクリファイスになったわけか」
「ええ」
ちょっと寒気がする。常軌を逸してる。
「君、気持ち悪いよ」
ぼくは思わずそう言う。彼は黙ったまま、一瞬薄笑いを浮かべたように見える。
「君って、何て言うか、底なしの井戸みたいな人だな。こっちが石を投げても、はね返ってくる壁のような所がないんだ。こんなこと言うのは何だけど、全体、君は薄暗くて不気味だよ」
「そうですか」
彼は冷静に受けとめている様子だ。かなり図太いともとれる。
「それで、何で君は狙われたの」
「ぼくじゃないでぇす。ぼくはとばっちりをうけたんでぇす」
「どういうこと?」
「聞かない方がいいでぇす」
「教えてよ」
「わたしはそのためにこうなってしまったのでぇす。人の一生が変わってしまうほどの出来事でぇす。聞かないほうがいいいでぇす」
ぼくは余計に聞きたくなる。人の不幸を問い質すのは良いことではないが、彼の奇妙さの根底を知ってみたい気持ちが大きく膨れ上がるから仕方ない。
「だいたい何で君はそんな連中と関わったの。君は悪人に知り合いでもいるの」
「いいえ、違いまぁす」
「じゃあ、その友達を通じて入ってきたの」
「はい」
「とにかく何か連中の恨みを買うことをしてしまったんだろ。連中の弱味を握ってしまったとか」
「そういうわけではないでぇす」
「友達に入れ墨があった」
「違いまぁす。でもそれを知るのは身体に入れ墨を彫られるのと同じくらい拭っても拭いきれない恐ろしいことでぇす」
「何を知ったの」
「教えられませぇん。それを知ると不幸になりまぁす」
「でも、その連中にとっては不利になるようなことだったんだろ」
「言えませぇん」
「それを知ると不幸になることって、そんなことがあるかい」
「ありまぁす」
「だって聞くだけだろ」
「そうでぇす」
「聞くだけで不幸になることって、君はそれを知ったから不幸になったのか」
「はい」
「それは人間なら誰もが内に秘めているようなものか。それで普段は気づかないようなもの」
「つまり知らぬが仏と言うやつですでぇすよ」
そう言って彼は笑う。
「それを君は何で知ったの」
「だからぁ、わたしの仲間内だけで知られたことだったのでぇす」
「どうして君たちだけが知ったの。仲間の誰かが見つけたんだろ」
「そうでぇす」
「それを友達だけに教えたのか」
「そうでぇす」
「それは、全体、知ろうと思えば誰にでも知れるものなのかい」
「知らぬが仏なのでぇす」
ぼくは形勢を立て直そうと、ちょっと矛先を転じる。
「仏も昔は凡夫なり、と言うだろ」
「僧家学会みたいなこと言いまぁすね」
「いや、これは『梁塵秘抄』っていう本に載っている、後白河法王の作った今様の一節だよ。自分の意のままにならぬのは、賽の目と山法師と鴨川の水だって言った人いるでしょ。その人だよ」
ぼくはしだいに人間の暗い秘密を覗き見るような、ぞくぞくする気分に包まれる。
「それは何か国家の存亡に関わるような秘密かい」
「どうして国家のことで悪人が動くのでぇす」
「じゃあ、金かい」
「それに近いことではあるかも知れませぇん」
「ゆすられた」
「聞かないほうがいいでぇす」
「肉体に関わることなのか、精神に関わることなのか」
「何とも言えませぇん」
「どうしてその友達が知ることになったんだよ。その人は神様か」
「違いまぁす」
「それはつまり、人間の原罪のようなものか。あるいは人間とは何かっていうような」
「そうかも知れませぇん」
「何だろう、わからない」
ぼくは何も思い浮かばない自分に歯がゆさすら感じ始めている。
「じゃあ言いましょぉうか。つまりぃ」
「あ、ちょっと待って。うーん。そうだな、どうしよう。止めとこうかな。不気味だしな。うーん。知ったら不幸になるんだよね」
「そうでぇす」
「だって聞くだけじゃない。それでどうやって不幸になるの」
「それを聞くとわたしのようになるからでぇす」
「ぼくの人生が変わるの」
「そうでぇす」
「ぼくの性格も変わるだろうか」
「それはわかりませぇんが」
よくわからないが、何となく恐ろしくなってくる。もし本当に彼の言うようになるのなら、それはやっぱり聞かない方がいい。ぼくは不幸にはなりたくない。でも聞くだけなら大丈夫じゃないか。そうも思う。他人は他人なのだから。
「まあいいや。言ってみて」
「つまりぃ、ある人の車にその友人が乗って運転していたのでぇすが、その人はまだ運転に不慣れだったので余所の車にぶつけてしまったのでぇす」
「それで」
「車にかけていた保険はぁ車を運転していた人の名義ではないので、お金が下りなかったのでぇす」
「そうしたら向こうは脅してきたわけか」
「はい。全部で六人死にました」
見ると彼の眼にはうっすらと涙が滲んでいる。よっぽど辛かったのだろう。
「どんなことしてきたの」
「もうひどいでぇす。サラ金の取り立てに始まって、会社訪問から何から」
「会社に怒鳴り込んでくるわけ」
「そうです」
「嫌な話だね。でも何で君の所にまで来たの」
「わかりませぇん。気づいたらそうなっていたのでぇす」
「君の友達だったんだろ」
「はい」
「だから、目を付けられたのか」
「そうかも知れませぇん。わたしも、相手がその辺のチンピラなら叩きのめしてやるのでぇすが、何しろ相手は元自衛隊のコマンドー部隊ですから。ナイフの使い方も訓練されている奴らでぇす」
「人の殺し方を知ってるわけか。そういう奴らだってわかったの」
「ええ」
「何人いたの」
「いろいろでぇす。多いときは十人から来ました」
「それで警察の調査が入ったっていうことは、すぐ通報したんだ」
「はい。でも民事介入になるから捜査はできないって言われました」
「謝ればよかったじゃない」
「最初に謝っています。それから脅しが始まったのでぇす」
「こいつはいいカモだと思ったんだな、きっと。それからどうなったんだい」
「車の持ち主が自殺してやっと警察が動き出しました。でも証拠がないということで逮捕できませぇんでした。それからも脅しが続いて、結局六人死んだところで証拠が見つかりました」
「それで、逮捕されたの」
「ええ」
「で、君は助かったわけか。全体、君たちの仲間っていうのは何人いたんだい」
「えーと、助かった人間はぁ一人だけだったと言っておきましょうか」
「じゃ七人だ。六人死んだところでちょうど君は助かったのか」
「はい」
でも妙だ。何故連中は仲間全員に脅しをかけたのだろう。
「でも何で君にまで及んだの」
「金が取れないと知ったからでしょう。わたしは何もしていないのでぇすが」
「そのことを知らなかったら脅しては来なかった?」
「そうかも知れませぇん」
「君は友達だったから聞いたんだろ」
「はい」
「それは仲間内にしか知れてなかったんだ」
「はい。今となってはこれを知っているのはわたしだけでぇす」
「それを知ったばかりに、仲間と思われたわけか…」
じゃあ何故ぼくに教えたんだ、と口を突いて出そうになるが、教えてくれるよう頼んだのは自分である。
「他言は無用でぇすよ」
「何で」
ぼくは思わずそう言う。はい、なんて言ってしまえば彼の言葉に支配されるのは明らかだからだ。しかしぼくはもうほとんど逃げ場を失っている。自分はどんなことも明るく笑い飛ばせる人間だと近頃信じ始めていた。世の中の悪事はいずれ新聞の向こう側だと頑なに信じて疑わなかったのも本当だ。でもそれは今から思うと実に他愛ない幻想だった。知ると不幸になることがあるなんて思いもよらなかった。
「人間って嫌だねえ」
「はい」
「どこにでもいるんだろうね。そんな奴」
「まあ、日本全国道路でつながっていますから。高速を使えばすぐでぇすよ。話は変わりますが、わたしの車は通常よりパワーを大きくしてるんでぇす。じつは昔サーキットでレーサーをしていたものでぇ」
ぼくは相槌を打ちながら、彼が車で追いかけて来るのを想像する。彼はぼくを道連れにするつもりなのだ。ここへ来てようやく彼の底というのが見えたようだ。彼はつまり死神だ。ぼくは、彼の関わった連中に身元が知れて、先ず電話口に立つことになるだろう。それから家に危険な男が現れるかも知れない。それはとても嫌なことだ。できれば御免被りたい。とにかく今は彼を闇に葬り去らなければならない。そうぼくは思い始めている。この罪は、ぼく一人の内に秘密にしておかなければならない、と。
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