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「待つ女」ヨッスィー
  プロローグ)
 工藤正也が扉を開けると、女が立っていた。その女の髪は、ゆるくウェーブがかかった肩までの長髪で、そこから能面の様な真っ白な顔が浮き出ていた。
 女は、工藤を見るとニッコリと笑った。黒目がちで切れ長な目と、ぼってりとした唇に塗られた真っ赤なルージュがいびつに歪んだ。
 そして白く滑やかな手を、工藤の首に絡ませ強く抱き寄せると、耳元で囁くように甘い声を出した。
「やっと見つけたわ。」
その言葉は、2ヶ月前に工藤が初めて女と出会った時に言われたものだった。

1)
 そのバーは、青山にあった。7人がけのカウンターとボックス席が2つほどの、あまり大きくは無い店だった。工藤は、その店のカウンターに座ってジントニックを飲んでいた。
 工藤の前には、青いライトに照らしだされた棚があり、世界中の様々な酒がきれいに並べられてあった。その前ではマスター兼バーテンダーの中年の男がグラスを丹念に磨いている。
 そのマスターの首には、アンティークもののネックレスがぶら下がっていた。以前、工藤は、そのネックレスにまつわるマスターの昔の熱愛の話を、聞かせてもらった事があった。
 ここは工藤のお気に入りの場所であった。この店は、日々の激務に疲れた体と心を自然と癒してくれる、工藤にとってはシャングリラの様な場所なのだ。そして、この店で工藤は女と出会い、あの言葉を言われたのである。
「どこかで会ったかな?」
声を掛けられて、工藤は座っていた椅子を動かし少しだけ後ろを振り向いた。
 背後の壁は、上半分が鏡張りで、薄暗い店内の様子を映し出していた。その壁の前に、赤いサテンのシャツに黒いタイトスカート姿の女が立っていた。工藤の目は、女の胸元の大きく開いた刺激的な赤いシャツの間から見える豊満な胸元に釘付けになった。
「覚えていないのね。無理も無いわ。ずっと会っていなかったもの。」
 女は寂しさと諦めの色が混じった複雑な目で工藤を見つめた。切れ長で黒目がちな目、ぽってりとした唇、全体的に丸い輪郭。美人と言うよりもとても魅力的な顔立ちだった。驚くのは、その肌の白さである。薄暗い店内にはっきりと浮かび上がるのだ。
 女は、当然の様に工藤の隣に座り、心の中を見透かす様に工藤の瞳を見つめると、赤いマニキュアのたっぷり塗られた官能的な手で、工藤の髪をかきあげた。その手は、とても冷たかった。
「私は、あなたの事を一度も忘れた事ないのに・・・。」
 女はそう言うと、手に少し強く力を入れて工藤の髪を掴んだ。
「ちょ、ちょっと…」
 工藤が苦痛に顔を少し歪めながら非難する様に言うと、女は妖しげな笑みを浮かべながら顔を近づけてきた。
 女の黒目がちな切れ長の目が、工藤の目を射抜くように見つめたかと思うと、いきなり女は工藤の唇に自分の唇を重ねてきた。そして、真っ赤な口紅が塗られた女の唇から、しっとり塗れた舌が出され、工藤の咥内を縦横無尽に動き回った。
「随分と積極的なんだな?」
息が止まるような長いキスの後、工藤は余裕をみせようと強がった。
「だって長い間待ったもの・・・。」
女の甘えた様な声と視線に、工藤の胸は高鳴っていった。
 2時間後、バーを出た二人はタクシーでホテルに向かっていた。別にはっきりと口にしたわけでは無かったが、どちらともなくそういう気分になったのだ。タクシーに目的地を告げた時、女が反対しなかった事で、それは決定づけられた。
 タクシーの窓から工藤は流れる街の風景を眺めた。傍らの女は少し酔ったのか、先ほどから工藤に体を預けて静かに寝息を立てている。工藤は、今夜の幸運に感謝をしながら、再び視線を窓の外に移した。
「お客さん、この先・・・。」
 運転手の声が聞こえたと同時に、けたたましいブレーキ音が聞こえてきた。急制動が体にかかり、工藤の体は前後に激しく揺さぶられた。
「何をしているんだ!」
「す、すいません。」
工藤は、運転手を激しく叱責すると「大丈夫か?」と女の方を見た。女は、何事もなかったかの様に「ええ。」と答えた。工藤は、その時、女の視線が運転手を冷たく見ている事に気づかなかった。
 ホテルに着くと、二人は再び熱いくちづけを交わした。それは、くちづけというよりも相手の顔中をなめあうという行為だった。女のしっとり塗れた舌と唇が工藤の顔中を這った。
「痛て!」
 快感は急に痛みに変わった。工藤が、あわてて耳に手を当てると、耳たぶを軽く噛み切られた様で、手のひらに少量の血が付いた。
「やさしく頼むよ。」
工藤は、恨みがましい眼を女に向けた。
「ごめんなさい。興奮しちゃって…。先にシャワーを浴びてくるわ。」
女は、大して悪びれる様子も無く、上目遣いに笑いかけるとバスルームに消えていった。
 工藤は、女がバスルームに消えると、女がシャワーを浴びている間に帰ってしまおうかと迷った。工藤は、女の得体の知れない雰囲気に気づきはじめていたからだ。
 だが、バスルームのマジックミラー越しに見える女の素晴らしい肢体を見た時、そんな迷いは一瞬にして消し飛んでしまった。工藤は冷蔵庫の中からビールを取り出すと、ベッドに腰掛けて女の入浴シーンをゆくり眺める事にした。
 泡のついたボディスポンジが女の体をゆっくりと舐め回す。うっすらと輝いて見えるうなじ、豊満ではちきれんばかりの乳房、とても肉感的な手足、柔らかそうなお腹、形の良い大きなお尻。その全てが、工藤を魅了した。ひとしきり女は体を洗うと、シャワーで体についた泡を流し落とした。
 女が、バスタオルで体を拭いてバスルームから出ようとした時、その視線が再びバスルームに戻された。どうやら女は、バスタブを見ている様だ。
 おもむろに、女はバスタオルを再び掛け直すと、バスタブにお湯を張り、気持ちよさそうに湯に体を沈めだした。そして、そのまま微動だにしなくなったのだ。
「なんだ?」
 工藤は、初めの内は、自分と一緒に入る為にバスタブに湯を入れたのだと思っていたが、どうやら、そうではないらしかった。
「大丈夫なのか?」
 バスタブに入ってから女はピクリとも動かなかった。両腕をパスタブの縁にかけ、くつろいだ格好のままずっといる。女の血の気を全く感じさせない透き通る様な白さにあいまって、女の姿は、湖に横たわる美しい死体の様に工藤には見えた。と、工藤はある事が気になった。よく見ると女の体は全く動いていなかった。そう、呼吸による微かな上下動も見れないのだ。
「おい!」
 工藤は、慌ててバスルームに向かった。そして、バスタブに駆け寄ると、女の体を何度も揺さぶった。最初、全く力の無かった体に、急に力が戻ったかと思うと、女はゆっくりと眼をあけた。そして工藤の顔を見ると、ニッコリ笑い、首に抱きついた。
「気持ちが良すぎて、また眠っちゃうところだったわ。
 せっかく見つけたのに。私ったら馬鹿ね・・・。」

2)
 1回目の行為が終わり、二人は気だるい雰囲気に包まれていた。天井を見上げる工藤の視界には、時折、タバコの紫煙が踊るように見えた。
「私にも頂戴。」
 女は、工藤の手からタバコを戯れるように奪った。一瞬触れたその手は、とても冷たかった。いや、冷たいのは手だけではなかった。先ほどまで工藤の腕の中にいた女の体には、あまり体温が感じられなかった。
「体、冷たいんだな。」
 工藤は、女の全てを手に入れたような気になって、上半身だけ起こしている女のあらわな背中を撫でながら、失礼な質問をした。すると女は、背中越しに工藤を振り返ると、抗議をするかの様にしかめっ面をした。
「ひどい冷え性なの。気にしていたのに・・・。」
工藤は、軽い罪悪感にかられ、体を起こすと背中から女を抱きしめた。
「ごめん。」 
女は、工藤の手を取り自分の左の乳房にあてがうと、
「でもあなたを思う気持ちはとても熱いのよ。」
と言った。
「本当だ・・・。」
工藤は、彼女の首筋に軽くキスをした。
「ねぇ・・・。」
「ん?」
「生まれ変わりって信じる?」
「ああ。」
「本当に?」
女は本当にうれしそうな声を出した。
「信じるさ。生まれ変わって、また、君に出会いたいな。」
 工藤は、我ながらくさすぎるセリフだと思った。しかし、その言葉は見事に女のつぼにはまったらしく、女は再び激しい口づけを求めてきたのだ。
「その言葉をずっと信じていたの。」
時折きこえる女の吐息に混じって、その言葉は聞こえてきた。が、その時の工藤には、その言葉を理解しようとする余裕はなかった。
 工藤は、右手で女を支えながら、ゆっくりとベッドに寝かせた。そして、目・鼻・頬・口・うなじと順に唇を這わせ、女の柔らかい乳房に到達しようとした時だった。
「うっ!」
 工藤は、鼻の曲がるような悪臭を感じ、あわてて体を引き起こした。女の体から、何かが酷く腐った様な悪臭が漂ってきたのだ。それは、肉体的にも精神的にも苦痛を与える様なひどい臭いだった。
「な、何の臭いだよ、これ!?」
軽い呼吸困難になった工藤は、息も絶え絶えに怒鳴った。
「…うふふ。」
 女は何もなかった様に、工藤に微笑むと、真っ白な両腕を工藤の首にからませ、自分の胸元に引き寄せた。工藤は、一瞬身構えたが、再び近づいた女の体からは、先ほどの臭いなど微塵も感じられなかった。その為に、工藤は、しばらくするとその臭いの事も忘れ、行為に没頭しだしていた。
 翌朝、頼んでおいたモーニングコールで、工藤が目を覚ますと、女の姿は既にベッドから消えていた。工藤は、飛び起きると財布の中身を確認した。だが、財布の中身は無事だった。どうやら美人局の類ではなかったらしい。
「なんだったんだろう?」
 工藤は、服を着えると部屋の入り口に向かった。その時、足が何かを踏んだ。床を見ると、工藤が踏んだものは転々と部屋の入り口まで続いていた。工藤は、それを手にとって見てみた。
「泥?」
それは、冷たく湿った黒い泥土だった。
「なんで、こんなものが…?」
 工藤は、泥が落ちている理由をあれこれ探ってみた。だが、大した考えも浮かばないので、それ以上考える事を止めてしまった。
 工藤がホテルを出ると、一台のタクシーが駐車ランプを点けながら停まっていた。こんなに早くにタクシーが捕まるなんてありがたいと思いつつ、工藤はタクシーに近づいた。工藤が近づくとタクシーは、ドアを開けて出迎えてくれた。
「駅まで、大急ぎで。」
工藤が乗り込むと、朝もやの中をタクシーは走り出した。
「大丈夫だったんですね、お客さん。」
 走り出してから、しばらくすると、運転手が話しかけてきた。工藤は、その声に聞き覚えがあると思い、運転席の方を覗き込んだ。そこには、昨夜の急ブレーキの運転手の顔があった。
「また、あんたか。」
工藤は昨夜の乱暴な運転を思い出し、憮然とした態度で答えた。
「そう怒んないでくださいよ。心配で朝まで待ってたんですから。」
「どういう意味だよ?」
 工藤が尋ねると、運転手は震える声で答えだした。
「あの時、いきなりブレーキを踏んだのには理由があるんですよ。」
「?」
「私ね、後ろを振り返った時に見ちまったんですよ。」
「何を?」
「窓の外を見ているお客さんの首筋に、かじりつこうとしているあの女性の姿をですよ。」
「馬鹿らしい。何かの見間違いじゃないのか?」
工藤の素っ気無い受け答えも気にせずに、運転手は尚も話を続けた。どうやら誰かに話したくて仕方なかったらしい。
「気になったんでホテルの前でずっと待ってたんです。
 そしたら、まだ夜が明けぬうちに女の方だけ出てきたんです。」
「・・・。」
「彼女は、別のタクシーに乗りました。私は後を尾行けたんですけどね・・・。」
「悪趣味だな。」
「どこに帰ったと思います?」
「知らないよ。」
「この先の墓地ですよ。」
 工藤は背筋に寒気を憶えた。その墓地とは、東京の一等地に古くからある有名な場所である。そして、昔からその手の噂が多い心霊スポットなのだ。
「それで、お客さんが心配になったんで今まで待っていたんですよ。」
「ひ、暇な話だな・・・。」
 工藤は、精一杯の皮肉な笑みを浮かべたつもりだった。しかし、工藤が運転席のバックミラーに写った自分の顔を見た時、その顔は少しも笑ってはいなかった。

3)
 それ以来、工藤はバーに近寄るのを避けた。例の女に出会うことを恐れたからだ。それから二ヶ月が経ち、日々の忙しさに追われて女の事を忘れかけていた頃だった。工藤宛てに一本の電話が掛かって来たのだ。取り次がれた電話口に、工藤がでると受話器の向こうから意外な人物の声が聞こえてきた。
「やあ、工藤君。」
それは、バーのマスターの声だった。
「珍しいじゃないですか電話をくれるなんて…。」
そう言いながら工藤は、少し不安を感じていた。
「うん。ちょっと気になる事があってね…。」
「なんです?」
「ある女性が、工藤くんに会いたがっているんだ。
 とてもしつこくて、君の住所を教えて欲しいとまで言っているんだ。」
工藤の頭に、彼女の妖艶な笑みが浮かんだ。
「駄目ですよ! 絶対に教えないでください!」
「分かってるよ。ただ、気をつけた方がいいよ。あの娘、なんか変だから…。」
「やっぱりマスターもそう思います?」
 工藤は、女に対して抱いていた得体の知れなさをマスターが同じ様に感じてくれていた事が嬉しかった。だが、マスターの感じているものはもっと確かなものだった。
「あの娘…鏡に写っていなかったんだ。」
「え?」
 あの日以来、女は毎日見せに来ていたらしい。いつも、いつの間に入ってきたのか、気づくと店の中にいたという事だった。そして、1週間前に女がマスターに話し掛けてきた。
「あの人に会いたいの。」
「さあ? そういえば最近見かけませんねぇ。」
マスターは、わざととぼけた。工藤をかばうというより、係わり合いになりたくないからだ。
「連絡先とか分らないの?」
「知りませんね。」
「住所とかは?」
「聞いていませんよ。」
 その間マスターは、女を見ずにグラスを磨きながら答えていた。しかし、その態度が女を怒らしたらしい。バンっとカウンターを強く叩かれて、マスターはようやく女の方を見た。
「まじめに答えて!」
マスターは、自分を睨む女を見た時、なにか違和感を感じた。
「本当ですよ。あのね、お嬢さん。こう言っちゃ悪いんだけど、その人、あなたに連絡先を教えなかったんでしょ? だったら、あなたにもう会いたくないんじゃないのかな?」
 マスターの方も、女のしつこさに腹を立てていた。
「そんな事ないわ。この間は、仕方なく私が先に帰ってしまって、連絡先を聞かなかっただけ。だって、またすぐに会えると思ったんですもの…」
女は、マスターの言葉に驚くほど狼狽していた。
「もしかして、またずっと会えなくなったりして…。嫌、そんなの絶対に嫌よ!ずっと待ったのに…こんなになるまで待ち続けていたのに…!」
 女は、自分の考えに恐怖して震え出した。そんな女の常軌を逸した態度に、マスターは得体の知れない不気味さを感じた。先ほどの違和感は、まだ消えない。
「本当に何も知らないの?」
 うつむきながら女は、マスターに問いただした。その声を聞いた途端、マスターは背筋に寒気を覚えた。地を這うようなその声は、まるで呪いの詞の様に聞こえた。
「ほ、本当ですってば!」
 マスターは、その声の迫力に負けまいと声のトーンを強めた。
「もし嘘をついていたら…。」
 女はゆっくりと顔をあげて、マスターを睨んだ。その目に見据えられた時、マスターは、まるで天敵の前に身を晒し出さした獲物の様な気持ちになったという。
「その時、私はずっと感じていた違和感の正体に気がついたんです。」
「なんなんです?」
「カウンターの背後の壁に鏡あるでしょ?」
「あ、はい。」
「鏡に…」
マスターは、そこで一呼吸入れると、一言づつ確認するように打ち明けた。
「その鏡にね、その娘の姿が映っていなかったんですよ。」
 工藤は、その言葉に思わず受話器を落としそうになった。そして、自分が見た時は、どうだったか必死に思い出そうした。だが、記憶が曖昧ではっきりとは思い出せない。
「なにか…、なにか分らないけど、とにかく気をつけて…。」
 マスターは、そう言うと電話を切った。工藤は、マスターの声の変わりに聞こえてきたオフィスの喧騒が、とても騒がしく、とても虚ろなものに感じていた。

4)
 それから毎日、工藤は女の影に怯えて暮らすようになった。朝、駅に行くまでの道に、女が待ち伏せしていないかと考えた。通勤電車の中では、自分のまわりにいる女性が全て女に見えた。仕事をしている時、女が電話をかけてきたり会社に訪問しては来ないかと不安だった。
 最悪なのは、眠るときだった。目を閉じると、女が枕もとに立っている様な視線を感じて、なかなか寝付けなかった。眠ったと思ったら女の悪夢で目が覚める、そんな事の繰り返しだ。
 そんな生活が1週間ばかり続いたある夜、自宅でいつも通り女の影に怯えていると、携帯が鳴った。恐る恐る携帯を取って液晶版を見てみると、そこには例のバーの名前が表示されていた。
「…もしもし?」
「やあ、工藤くん。」
マスターの声を聞いた工藤は、声の調子がこの間と比べて、とても明るかったかったので意外に思った。
「どうしたんですか?」
「うん。いや、この間の話ね…」
この間の話というのは、当然、女の話のことだろうというのは察しが着いた。
「…はい。」
「どうやら私の勘違いだったらしい。」
「え?」
 この間は、あんなに深刻な感じで話をしていたのに、この変わり身は一体どういった心境の変化だろう。工藤はあまりにも態度の違うマスターの反応を訝しげに思った。
「実は、今、この間の女性と一緒にいるんだよ。」
「なんですって!?」
マスターの言葉は、工藤をひどく混乱させた。しかし、マスターは、そんな工藤にお構いなしに話を進める。
「今、君のアパートの近くまで来ているんだ。これから彼女と一緒に行くから。」
「え? ちょ、ちょっと待って!」
制止の言葉を無視して電話は一方的に切られた。
「いったい、何がどうなっているんだ!?」
工藤は、堪らずに携帯を投げ捨て大声を出した。
 マスターは女の異様さを感じていた筈だ。だから、この間あんな電話をかけてよこしたのに、それが今となって、「勘違い」だったと言い切る。一体、あの女とマスターの間に何があったんだ。工藤が、今の必死に状況を理解しようとしていた時だった。
「ピンポーン」
乾いた呼び出しチャイムのベルが、訪問者が現れた事を告げた。
 工藤正也が扉を開けると、女が立っていた。その女の髪は、ゆるくウェーブがかかった肩までの長髪で、そこから能面の様な真っ白な顔が浮き出ていた。
 女は、工藤を見るとニッコリと笑った。黒目がちで切れ長な目と、ぼってりとした唇に塗られた真っ赤なルージュがいびつに歪んだ。
 そして白く滑やかな手を、工藤の首に絡ませ強く抱き寄せると、耳元で囁くように甘い声を出した。
「やっと見つけたわ。」
その言葉は、2ヶ月前に工藤が初めて女と出会った時に言われたものだった。

5) 
 女の姿をみて固まった工藤を見て、女は微笑を浮かべ「あがってもいいかしら?」と尋ねた。
「マ、マスターは? 一緒じゃないのかい?」
「余計な心配かけたのに手ぶらでは悪いって、商店街の方に行ったわ。」
「そ・・・そう。」
 そう言うと女は、返事を待たずに工藤の脇をすり抜けて部屋に入った。女の有無を言わさぬ強引さに工藤は、何の抵抗もできなかった。(マスターも一緒なんだ)工藤にはそういう安心感があった。
 女は、ベッドに腰掛けて髪の乱れを直すと、部屋の中を見回した。
「いい部屋ね。」
「ありがとう。えっと、コーヒーでいいかな? インスタントだけど。」
「ありがとう。でも、お構いなく。今、お腹いっぱいなの。」
「そう。マスターと食事でもしていたのかい?」
女は答える代わりに、意味ありげな笑みを浮かべた。妖しい魅力を浮かべた、その笑みを見た時、工藤は言い様のない不安に襲われた。
「マスター遅いね…。」
不安にかられた工藤の問いを無視して、女は語り出した。
「もうずっと前の話よ…。」
「え?」
「あの頃は、この国はひどく混乱していたわ。そんな中、あなたと私は出会ったの。」
「何の事だい?」
女は目を閉じて、記憶のひとつひとつを取り出す様に話した。
「あなたには、この国を変えたいという野心があった。だから、あの時、死ぬとわかっていたあなたを、私は止める事ができなかった…。」
工藤は、女の話の意味を必死に理解しようとした。
「あなたは言ってくれたわ。「平和な時代に生まれ変わったら一緒になろう」って。私は、その言葉をずっと信じていたの。今もよ。」
「…。」
「でも、あなたが死んでから何十年が経って、私は醜く老いていったわ。私は思ったの。こんな姿では、あなたと再び出会っても気づいてもらえないかも知れないって。」
工藤の背中に、今まで感じたことの無い寒気が走った。
「私は必死で探したわ。若さを取り戻す術をね。ありとあらゆる方法を試したわ。そして、とうとう見つけたの。そのおかげで、あなたと別れた頃の姿のままで、あなたとこうして巡り合える事ができたわ。」
何故か工藤には分った。この女の言っている事は全て真実だと。
「その方法って…!?」
 工藤が尋ねた瞬間、女は苦しそうに体を上下に揺さぶり出した。そして、激しく嗚咽しだしたと思うと、女の口から大量の吐しゃ物が吐き出された。悪臭を放ち、床の絨毯一面に広がったそれは、大量の肉片がゲル状に消化されたものだった。所々に、まだ未消化なのか大きな肉の塊が見える。
「な、なにをするんだ!?」
 女の行為を責める工藤の目の端に、その物体は飛び込んできた。ねっとりと広がるピンク色の溜まりの中に、金属の物体が浮かんでいた。それは、マスターが大事にしていたアンティークのネックレスに付いていた飾りだった。
「あ・・・あ…。」
腰が抜けて、床に崩れ落ちた工藤にマスターの声がかけられた。
「大丈夫だよ、工藤君。」
工藤は、声のした方を慌てて見た。しかし、そこにはマスターの姿は無く、口の周りの吐しゃ物を拭っている女が立っているだけだった。
「若さを保つ方法には思わぬ副産物があるの…相手の声や記憶を全て手に入れる事ができるんだよ、工藤君。」
その言葉の前半は、女の声で、後半はマスターの声だった。
「ひ…ひぃ…!」
もはや工藤に出来る事は、情けなく悲鳴をあげる事だけだった。
 女は、吐しゃ物の上を歩きながら、工藤に近づいてきた。女が歩く度に、ビチャ、ビチャという音が聞こえた。女は、工藤に顔を近づけると、激しく口づけをした。
「やっぱり駄目。こんなんじゃ駄目なの。この間みたいに、あなたに抱かれるだけじゃ物足りないの。私は、もっともっとあなたと一緒になりたいの。」
 女は、激しい愛情と満たされぬ思いの入り混じった視線で工藤を見た。そして、それが一瞬の内に、凶悪な歓喜の色に変わる。
「私は、あなたと身も心も一緒になる方法を知っているわ…。」
「や…やめ…!」
 「止めろ」と言おうとしたが、はっきり声にはならなかった。工藤の首筋は先ほどからキリキリと痛みを発している。工藤の頭に、「まるで天敵の前に身を晒し出さした獲物の様な気持ちになった」というマスターの言葉が思い出された。まさに、その心境である。
「さあ、一緒になりましょう。」
女の顔が近づいたその時、工藤はできる限りの力を振り絞って叫んだ。
「止めろ、化け物ー!」
 女は工藤の言葉に一瞬、ひどくショックを受けた様子だった。その目に深い悲しみと後悔の色が浮かんだ。だが、それはほんの少しの間だけで、女は、工藤を見るとニッコリと笑った。黒目がちで切れ長な目と、ぼってりとした唇に塗られた真っ赤なルージュがいびつに歪んだ。
「知らなかったの?」
「…?」
「女は、男をとても深く愛すると誰でも化け物に変わるのよ。」
 そう言うと、女は工藤の首筋に歯を立てた。激痛と共に、噴水の様に吹き出る自分の血飛沫きが目に入ってきた。

エピローグ)
 激痛は今では緩やかなものになっていた。おそらく感覚が麻痺をしているせいだろう。ただ、自分の体が徐々に削られていく感覚が工藤の精神を蝕んでいった。そのせいなのかどうかは分らなかったが、薄れゆく意識の中で工藤は、自分をむさぼる女の行為を、とても激しい愛撫の様に感じていた。

− 終 −
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