大江健三郎がノーベル賞とは?



 大江健三郎がノーベル文学賞を受賞して、文壇やマスコミは祝賀一色になった。自らを「民主主義者」であると位置づけ、保守、右派文化人へ手厳しい批判を浴びせて止むことのない大江の受賞は、確かに喜ばしいニュースだった。
 しかし、賛辞一色のなかで、遂に疑念の声は現われなかった。目に止まったところでは朝日新聞が遠慮がちに「窓」で触れているぐらい。「ノーベル賞を辞退する日本人が現われるのはいつのことだろう?」ここで朝日の論説委員は明確に述べてはいないが、この一文から聞こえてくるのは、「何故大江は辞退しなかったのだろう?」という疑念だ。大江健三郎はもともとサルトル実存主義哲学に影響された文学者だったのだが、そのサルトルはといえば、ノーベル賞の政治性や先進国中心性を批判して受賞を辞退しているのである。朝日の呟きも当然といえば当然だ。
 受賞後、国際日本文化研究センターに招かれた大江は、「世界文学は日本文学たりうるか」と題して講演している。そこで彼は日本のような大国の周辺にある国家からの視線として金芝河(韓国の抵抗詩人)、ミラン・クンデラ(『冗談』等、チェコの反体制作家)、ギュンター・グラス(『ブリキの太鼓』等、ドイツの「47年グループ」作家)などを挙げ、共感を示している。いずれも筋金入りの抵抗の意志で名の知れた文化人ばかりだが、こうした反抗と周辺の視線と、先進国中心のノベール賞の性格とはどう折り合いがつくのだろうか。しかし、金は表面上創作を停止し、クンデラは政治を忌避しつつ、グラスはSPD(社会民主党)に寄りながら、いずれの作家もいまだ体制下で倒れることなく生きて残ることに成功している作家でもあることもひとつの意味を持っているだろう。
 また、この講演で大江はスピノザ哲学への思い入れと、今後これに取り組んでいくだろうことを述べている。「定理20 各人は自己の利益を追求することに、言い換えれば自己の有を維持することに、より多く努めより多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である(スピノザ『エチカ』第4部、畠中尚志訳、岩波文庫)」そのスピノザはこう述べているが、こうした自己保存の哲学は、大江の今日の態度を暗示しているようでもある。
 今日、民主派が文壇で生き残っていくことは非常に難しい。そのための受賞だとすれば深読みになるだろうか?しかし事実、近年の大江は人脈づくりや根回しなど保身に傾注しており、このことは本田勝一が手厳しく批判していることだ。だが、こうして「生きて有ること」について、断筆してしまった大江はもはや語ることはないのだろう。それが残念でならない。


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