ネオ・アヴァンギャルド芸術の理論の為に


■始めに



 アヴァンギャルド芸術の「諸運動は解体し、方向性やメイン・ストリームを失い社会に拡散しつつある。」と、ある美術史家は述べている註1。確かに、今日の美術状況の中である形式を優位において解説を試みる見地は通用しなくなってきているように思える。かってアヴァンギャルド芸術運動が社会に与えたような影響、ダダのイベントで観衆が大声で喚き時には暴力沙汰まで引き起こしたような衝撃力、というものは低下し、時が過ぎどのような作品でさえ美術館におさまり、また無難なインテリア装飾としても機能するようになった。アヴァンギャルドの優位にさえ重大な疑念を呈せざるをえない現在にあって、では一体アヴァンギャルド−「前衛」芸術とは一体何だったのかと改めて考えさせられる。

 …いまもう一つ、私の頭に引っ掛かっているのは、今日あらゆる芸術に凌駕しているかに思える商業芸術の力である。アヴァンギャルド芸術が獲得し、また今も獲得しつつある芸術形式上の革新の成果は、広告、宣伝、各種メディアという現代資本主義の再前衛であっという間に商品販売の戦略へと取り込まれていく。先輩芸術家達の、時には命を賭した刻苦の恩恵で、ゴミ清掃局員は仕事を増やしている。
 アヴァンギャルド芸術の成果は、その運動家達が望んだ形ではないにせよ、確かに充分に実現した。「新しい」デザインや芸術的観念、そしてそれによって形成される意識を全く払拭した生活というものを、私達は現代の中で発見することなどできない。一切の「歪んだ」芸術から切り離された、「真の」芸術的生活が存在する余地は、満員電車に詰め込まれスポーツ新聞を小さく折り畳んで読みながら夢想する、逃避的憧憬の中にだけ存在している。

 さて、アヴァンギャルド芸術がかような状況の中にあるということは、ひいては近代芸術との関係においても、いったいどのような意味を持つのか、またこれを理論上で究明せんとする場合に、どうやったら新聞を小さく折り畳むような疎外を受けずにそれを可能とすることができるのか?あるいは可能ではないのだとしても、少なくともそれを自認できうるような理論モデルを組み立てるにはどうしたらよいか?それを考察してみようとするのが本論での私の狙いである。
 近代における「疎外」という問題地平に最も敏感だと思える批判理論の系譜の中で、近代芸術のメルクマールである「自律性」のイデオロギー性批判という方法からP・ビュルガーがアヴァンギャルド芸術に自律的芸術の内在批判という規定を導きだしていることを手掛かりに、彼が依拠するアドルノ等一連の批判理論との比較検討を通じて、近代芸術を照射すべき方法論を模索してみようと思う。
 もう一つの狙いは、アドルノにせよビュルガーにせよ明らかにし得なかったネオアヴァンギャルド芸術の役割を浮上させるべく、橋頭堡を築くことにある。同時代的動きでもあるネオアヴァンギャルドの解明を期せるべきものではないが、あくまで「希望」を確認する為の試みである。私は、自らの思惟と言葉が今日という時代の拘束下にあるということを承諾するが、だからこそ見通せる希望というものもあるだろう。

 このような問題意識に従って、本論ではまず第一章でアドルノの近代芸術−自律的芸術の対する分析を読み解いてみる。批判理論の基礎的見地を整理しつつ、アドルノがどのような方法で芸術を検討したのかを見る。続く第二章では、アドルノ等に依拠して論を進めたビュルガーが、とりわけ「自律性」カテゴリーのイデオロギー批判をめぐってどのようにしてアドルノを「越え」たかを検討していくことになるが、そこに問題の残されていることを明らかにしつつ、また再度ビュルガーの考察によっては喪失しないアドルノの理論のアクテュアリティを確認する。ここでは、第一章を踏まえた上で、両者の差異を対比的に描きだして問題を整理し、同時に両者とも歴史的規定を免れ得ないものであることを明らかにする。そして第三章で、ハーバーマスの述べる展望も読み解きつつ、また再度マルクスのイデオロギー批判にも戻りつつ両者のモデルが抱えている根本的矛盾を考察していく。このような手法によって、最後に、明らかにされなかったネオアヴァンギャルドへの希望を確認していきたい。
 全体の章立ては自律的芸術、アヴァンギャルド芸術、ネオアヴァンギャルド芸術という順序に従っており、近代における芸術とはどのようなものか?という大きな問題意識を孕ませつつ批判理論の「内在批判」をしてみようという狙いだが、さて、この組み立てはやや単純のそしりを免れない。かなり恣意的に焦点は設定され細部が切り落とされることになる。それが物象化された今日の生活の渦中にある私ゆえであるという頼りない言い訳が出来るにしても、少なくとも正弧を得る努力は心がけていきたいと思う。

1 海野弘、小倉正史『現代美術-アール・ヌーヴォーカラポスト・モダンマデ』、新曜社、1988年、148項


■第一章 自律的芸術と内美的考察


第一節 モデルネにおける芸術の理論

 きみの家で
 大声でわめかれるのは、虚偽
 しかし真実は
 声となることができない。
 そうなのか?(B.Brecht「ドイツ」)

 かって1933年、それはヒトラーが政権を奪取した運命の年、ブレヒトは暴虐に染め上げられてしまった祖国ドイツへの嘆きをこう、詩に綴った。ナチスに追い立てられ彼と同じく亡命を余儀なくされた者達もまた、こうした暗澹たる思いを抱いきながら流転の日々へと旅立っていったことであろう。フランクフルト学派の哲学者達、とりわけこれから取り上げるアドルノについて説明する場合にも、かような時代状況と祖国の悲惨という体験は重要な意味を持ってくる。
 ナチス体験はアドルノにとって、理性が単なる操作の道具以上のものとしては機能しなくなったという事態を何より証明するものであった。高度な文化を誇り、それを国意識の糧ともしていたこのドイツが、何故よりによってアウシュビッツやテレージェンシュタットの慄然たる惨劇、夥しい数にのぼる計画的殺人を引き起こしてしまったのかという問いが、アドルノに暗然として重苦しい省察を促している。彼でなくともこうした事態を前にすれば、高度な知性と収容所の間に共犯関係があるのではないかと疑うだろう、しかしてさらにアドルノにとって重大に思えたのは、ファシズムが1920年代に吹き出した、近代文化に対する反省の動きへの回答であったという歴史的経緯である。私人的な楽しみとなってしまった近代芸術に否を唱えるアヴァンギャルド芸術、教養主義に耽溺した精神科学への問い直し、これら既存の学問の動揺と現実の中に理性を実現させる試みをめぐる煩悶の帰結として、大量虐殺や「頽廃芸術展」、革命国家のもとでの大粛正が待ち構えていたという暗い認識が彼にはある註1。理性の実現の挫折を前に、アドルノはこれを近代における合理性、近代の啓蒙の論理そして文化そのものへの根本的な疑念へと振り向けなければならなかった。
 アドルノは「否定弁証法」の冒頭に述べる、「一度は時代にとり残されたように思えた哲学がなおも生命を保っているのは、哲学を現実化する瞬間が逸されてしまったからである。註2」哲学或いはこれを筆頭とする文化なるものが、かようなものであるということ、現実世界の中では十全なものとなりえる余地を持ちえていないのだということをアドルノは強調する。そもそも理性は、啓蒙は、文化は、非同一的なものに対する同一性の強要という暴力を宿している。それは普遍的なものの名による特殊性への支配、即ち他者への、人間への、自然への抑圧という内在的論理の上に成り立つものなのだ。もう少し言葉を変えれば、概念により支配するもの、即ちある統一的概念により特殊或いは反対を圧殺するものであり、服従と従属の強要を内包するもの、革命家を取り締まる警察、抵抗運動を踏み潰す軍隊である。「精神の絶対性、つまり、文化の持つ後光という原則は、実は暴力の原則なのであり、そうした文化の原則が表現しているかのようにみせかけているものに倦くことなく暴力をふるう原則と同じ原則なのである。註3」すなわち理性と名乗るもの、教養としての理性であれ、これを難ずる理性であれ、等しく全幅にして絶対の解放を約束するものではない。さらに理性に裏づけされた実践はなお野蛮であることも加えておかなければならない。「実践という概念はかって尊厳なる概念であったのだが、すでにその尊厳のなかに、非同一的なるものの殺戮が目的論的に潜んでいたのである。註4」アドルノは打ち震え、そしてただ、立ちすくむ。
 「啓蒙の弁証法」で僚友ホルクハイマーとともにオデュッセウスを読み解いたアドルノは、神話のうちに理性の萌芽を見る。即ち理性は決して神話の対立物ではなく、そこに神話の回帰するを述べるのだ。それは歴史の前進でもあるが、同時に太古の神話が王君への従属を絶対化させるものであったように、理性のうたう統一された理想的世界、普遍と特殊の統合された社会なるものは、まさしく強制収容所のガス室や或いはコマーシャルの振り撒く美しい虚構、商品への隷属を促す幻想の中に実現することになる。そして、このオデュッセウスから現在にいたる歴史、理性の輝かしき前進から破綻への驀進という逆転を、彼らはこの近代に集約して見ているようだ。だがしかしどうして近代における理性はこのように破綻してしまったのだろうか?理性や主体の確立を目指した近代文化はどうして理性や主体の抹殺に貢献する内部矛盾を抱えるにいたったのか?
 最も重要な鍵は次の点、アドルノはあらゆるものに疑念を唱え不安を擁護する立場を崩さなかったが、社会的不平等の歴然として存在することもまた断固として主張する姿勢を放棄しはしなかったというところにあろう註5。彼は「プリズム」に述べる、文化というものは「生産の領域ですでに犯されている不法行為によって身を養っている註6」ものなのである。産業社会によって引き起こされる分裂、そして物神崇拝、それが文化の性質を決定づけるのに根本的なのだ。「文化批判にとって最大の物神は、文化という概念それ自体であろう。というのも、およそ真の芸術作品や真の哲学はいかなるものであろうと、まさしくその意味からして、かってそれ自身のうちで、つまりその即時存在において完結したことはないからである。それらはつねに、己れをそこから切り離そうとしている当の社会の現実的生活過程に関係づけられてしまっているものなのである。註7」文化が現実を、社会を超越したものとして隔離する試み、それは文化を批判する者の口から出るものであってさえ、文化の概念を実体化する傾向に彼はあくまで抵抗を示す。それは文化に浸透する支配の力学、彼が文化の根本的矛盾として見ているものを見落とすことにつながる、つまり文化批判の基盤をそもそも損なわせ、その力を喪失させることにつながるものなのだ。
 顕著な例は文化産業にある。「文化産業は、いつでも消費者に約束約束しておきながら、いつでもそれを裏切る。ストーリーと宣伝が振り出す快楽の約束手形は、無限に支払いが延期される。つまり約束というものが−あらゆる見本市の本質はそこにあるのだが−意地悪く意味しているのは、『それは決してそのとおりにはならない』、『客はメニューを読むだけで満腹しなければならない』ということなのだ。きらびやかな名称とイメージによってかきたてられる欲望に対して、サービスとして提供されるのは、結局そこから逃れ出ようとしていた灰色の日常への勧奨にすぎない。註8」真の欲求は永遠に満たされることはなく、またしかし文化産業はますます楽園を約束する神秘化に勤しむのだ。文化産業における物神崇拝を強調するこの彼の言説は、そのまま文化における欺瞞性、或いはそう、アドルノがこの考察において依拠したマルクーゼの用法に従えば「肯定的性格」にそのまま当てはまる。
 もう一つ重要な指摘は、これら文化産業がもたらす主体の衰弱であるだろう。現実の特殊性と結びつく多様性と概念とを結合する能力は産業が主体から剥脱してしまうという見解である。産業は見せかけの多様性を装った画一性を消費者に押しつける。それは技術的に多様性を持った生産物すらが、「しょせんいつでも同じものでしかない、ということのうちに現われている。クライスラー・シリーズとゼネラル・モータースとの差異などは、基本的には幻想でしかない註9」という例にあるように、認識の図式が商品加工の作業工程の図式に変ずることによって、かって認識主体であった人間主体が、今では産業の客体へと、単なる消費の主体へと転化してしまうという状態を指し示している。今や十分に我々の認識自体が物神化の徒であるのだという警告だ。
 ここまで述べれば、芸術というものにさえ、気楽な期待を抱けないのだということも明らかになろう。文化の一種である芸術が文化と同じ支配と野蛮の性格を抱えているということは、今さらながらに指摘するまでもない。アドルノにとって素材の加工という支配の一形式である芸術は、やはり同一性を強要する矛盾を抱えた存在、抑圧の所産なのである。概念の支配に抵抗するかに見える芸術は、さらにより重要なことには、他者に対する抑圧であると同時に、自己の内部の自然に対する抑圧でもある。かって社会的悲惨を告発する武器でもあった内なる自然的欲求を支配する芸術は、今や現実において履行されるにおいては、まさに現実の苦難の忘却へと作用する、即ち偽りの安息、欺瞞的満足を保障するものとなるのである。何の苦もなく壁飾りとなってしまう芸術、私人的享受の対象となり弛緩しきった芸術にも、或いは、これに促されるアヴァンギャルド芸術、繰り返すが実践はなお野蛮と考えるアドルノにとっては、実践的を要求する芸術にも期待は抱けない。「芸術に関して、自明なことはもはや何一つないということが今では自明になってしまった。芸術のうちにおいても、芸術と全体との関係においても、もはや何一つ自明でないばかりか、芸術の生存権すらも自明でない註10 」のである。
 アドルノの提示する砕け散った世界観は完璧に閉じられているように見える。めそめそと衰退しきった自己を抱えた近代人に、とるべき道を明らかにする術は与えられていないように思える。しかしこの不安をこそ擁するのがアドルノの狙いなのだ。彼は始めから大学への就任演説「哲学のアクチュアリティ」でそう述べていた。「哲学の追うべき課題は、現実のなかに隠されてすでに存在している意図を探りだすことではない。そうではなく意図なき現実を解釈することなのだ。註11 」文化の現実、これを直視すること、自己の基盤のあやしさをあますことなく描きだすこと、そう、近代理性による近代理性の、近代啓蒙にとどまる啓蒙の、モデルネにとどまるモデルネの内在批判、それが哲学に求められる任務であり、アドルノが果たそうとする役割である。彼に対峙する我々は、このズタズタに引き裂かれる不安を正視することにどこまで耐えることができるのか、根気くらべをさせられることになる。

第二節 アドルノにおける自律性のカテゴリー

 しかしながら、美的仮象に目を向けるとき、アドルノは根をあげてしまったのだと、多くの研究者は指摘している註12 。よく知られるように、アドルノは自律的芸術における美的仮象に現実の悲惨を乗り越えるべき契機を負託した。救済の夢がまさにかりそめでしかないこと、現実から遊離した、またそれゆえに欺瞞的なものであることを誰より承知しているはずのアドルノが、なぜまさにかりそめの夢に希望を託したのか?現実から断絶した欺瞞の上に成り立つ芸術や学問の自己完結性、即ち自律性を否定し、もって美的仮象それ自体がイデオロギーであることを十分認識しているはずの批判理論が、何故幸福の約束という仮象に固執するのだろうか?
 彼がアヴァンギャルド芸術より自律的芸術に期待したのは、まずなによりも前節で述べたような実践つまりは社会的機能、或いは受容的側面に対する不信にその理由がある。「芸術と社会の関係を芸術の受容の領域において追求すべきではない。その関係はむしろ受容に先行する制作にある。註13 」アドルノにとって受容の立場に立つことは芸術を社会化すること、即ち芸術が惨禍あふれる現実的社会関係に呑み込まれることを意味する。それは壁飾りとして芸術作品を上品な装飾としてしまうことであり、投機の対象としてしまうことなのだ。ここからしかし、転じて考えてみれば、アドルノは芸術の自律性に一定の積極性を見いだしているということになる。
 アドルノが芸術の自律性について二つの、両義的な言説を用意しているということを、P・ビュルガーは指摘している。それは「労働の隠蔽なしにいかなる芸術の自律性も考えることができない」そして「芸術の自律性は取り消しようのないまま存在しつづける」というこの対立する二つの命題である註14 。しかして、近代芸術のメルクマークとして言われる自律性とは、もともと概念的なものであって、あらゆる精神的なものの自律性がそうであるように、けっして時間的な法則に従う静的なものではない。つまりはそれは自律的ではないと思われる状態に対する相対的な意識に依拠するものなのだが、しかしそれこそはアドルノの問題とするところだということをまず確認しておこう。
 再び文化という概念の考察に立ち戻って、アドルノの立場を考察してみるならば、自律性に関する両義的な命題が何を説明しているのかが明らかとなる。文化の汚濁の源泉が現実的社会関係にあることを見て取り、概念の実体化に抵抗するアドルノは、ひるがえってまた、文化を否定する概念を実体化するものに対しても抵抗する。文化への批判がそれ自身うさんくさい欺瞞になってしまうという滑稽な状況をそれは引き起こすのだ。マーティン・ジェイが教えてくれたように註15 、彼は文化という概念を実体化させることを回避するために、これによって削がれる抵抗の力を保持するために、文化における両義性を強調する、十分に弁証法的な思考の持ち主だったのである。
 「物質的現実が交換価値の世界とよばれ、一方、こうした世界の支配の受け入れを拒否するものこそが文化とよばれるのではあるが、こうした拒否は、現状のつづくかぎりでは、たしかに見かけだけのものでしかあるまい。しかし自由で公正な交換ということからしてすでに虚偽なのだとしてみれば、交換を拒否するものは、同時に真理に与していることにもなろう。つまり、商品世界の虚偽の前では、それを告発する虚偽でさえ矯正手段になるのである。註16 」即ち、物質と精神の分裂を楽天的に承認するのでもなく、或いはそれがまるでなかったことのように捉えるのでもない、文化は現実的、物質的諸条件によって汚濁しているからこそ歪曲しているのであり、この歪曲こそはものの見事に現実の社会の悲惨を指し示す、つまり一方で文化の批判的な力を認めつつ、それは一方で物質的諸条件に依拠し汚濁しているのだいうことを指摘するのである。アドルノにとって文化における虚偽は逆に当の社会を呪う双面神となっているのだ。
 美的仮象に真理の契機が負託されうる意味はこうして明らかだ。美的仮象はまさに虚偽であり、虚偽であるがゆえに、虚偽のありようのうちに現実の苦難を指し示し、そしてその艱難を超越すべき真理の契機を内包しうる。即ち、現実が暴虐と苦痛に満ちているがゆえに美的仮象の美しい夢想のうちに、それが虚偽であるがゆえに真理に関わるものが見えるのである。
 この場合のアドルノにとっての真理とは、いうまでもなく普遍的絶対的真理などでは無論ない。「芸術作品の真理内容は、その批判的内容と溶けあっている註17 」それは「哲学のアクチュアリティ」が述べた、意図なき現実、即ち同一性なるものは現実において破綻した、或いは存在しないものなのだという真理、批判的認識こそが真理であるという否定弁証法的な意味での真理を指すものであろう。しかし、「美の理論」の上にアドルノがもう一つ重要な概念を加えていることに注目しておく必要がある。それは「ミメーシス衝動」として語られるものだ。ミメーシスという概念の妥当性を詳述するべき余力を私は持ち合わせていないので、ここでは取り敢えず前へと筆をすすめるが、ベンヤミンから受け継いだとされるこの概念とは、非概念的な類似をなすもの、客体を支配ではなく模倣しようとする衝動、即ち概念のなすような主体の対象に対する支配をなさないものを指している。即ち、文明の汚染のうちに進展する非同一性に対する同一性の強要を免れえるものがこのミメーシス衝動なのである。しかして、「芸術はミメーシス衝動の避難所註18 」との言葉にある通り、現実の惨禍の中で必然的に衰退するミメーシス衝動は唯一芸術の中に生き長らえているのであり、してみればそれが美的仮象に負託される真理の契機をなすものの実質であろう。
 無論、否定弁証法はこのミメーシス衝動を野放しに称賛しはせず、ある拘束を加えることを忘れない。それはやはり二義的用法を抱えるものであり、それは一つに社会的現実の模倣であり、一つにそれに捉えられない抵抗的な自然的模倣である。またさらにこの模倣が理性の助けなくして芸術として現出しないことも確認する彼は、芸術をかなり複雑な関係の合力として描きだす。合理的契機と模倣的契機、或いは現実的契機と抵抗的契機、これらの合力、しかも決して否定弁証法に従って和解することのない場、ここに真理を託しうる芸術を見るのである。即ち合理性に抑圧されたミメーシス、現実に脅かされた自然的抵抗の姿を明かすがゆえに、これを促す現実を告発するのものこそ真理内容である。これをアドルノは「脱審美化された芸術註19 」と呼び、有機的で全体化され、統一された美というものに対置した。
 さて、再び前節に続いて述べる、アドルノはいまだ根をあげていないだろうか?しかしながら仮象の救済に関する検討にまでいたってみると、いくつかの疑問を提示することができる。
 第一に、結果としてアドルノは自律性の容認に帰着しているのではないかという疑問である。美的仮象の救済は自律性を前提とするものなのであり、とすれば救済を申請する為にアドルノは、自律性が現実的諸関係に汚れた根のあることを一方で言いたてながらも、結局それを擁護する側に逢着しているのではなかろうか。ここで問題となるのは、美の理論を綴る時に彼が根源的にどうして自律性を擁護し仮象を救済するを必要とするか、即ち彼の意図である。美的仮象の救済よりはむしろ分裂の側に位置するP・ビュルガーはこれを歴史的限定によるものとして見て取る。美の自律性を論じる美学は、既に成立した制度の上に立って組み立てられるものであって、即ち、この制度によって規定され歴史的限定を免れえないものなのだとしている註20 。
 さて、ここで今問うべきは、ではアドルノ自身のイデオロギーとは何か?である。我々に確認することができるのは、否定弁証法によって組み立てられるべき美の理論には、幾つもの選択肢、まだつけ加えるべき、あるいは整理すべき課題が存在しうるということである。こうした見解にしたがって以下、続けて疑問を提示していくとしよう。
 第二に、受容と制作についてである。美の理論におけるアドルノは前述の通り受容というものを退け、実制作の側に美的仮象の救済を負託した。しかしながら一方で文化の物神を批判するアドルノはこれを社会的効用、即ち受容の側から考察している。換言するに実制作−自律的芸術と受容−否定弁証法的哲学のこのパラレルは、結局両者の合衝のうちに否定弁証法的真理を読みとらんとするアドルノの戦略なのであろうが、R・ブブナーはこれを哲学への退行として批判している。即ち芸術作品が真理と結びつくことは美的経験の他律を促すことなのである註21 。脱審美化された美的経験による物象化の批判という効果を語るとき、彼はいまだ受容の側にある。これをどう考えれば良いのか?さらに逆転してみると、また、アヴァンギャルド芸術という社会的効果を要求する芸術の視座に欠く彼の美の理論は、受容の美学としても不十分である。
 第三に、芸術と哲学、自律性に関する考察においての、文化産業の扱いについてである。アドルノにとって文化産業、或いは商品文化は物神を批判の俎上にのせるための中心的な題材なのだが、これまでに述べてきたようにアドルノの受容的態度の適用による批判の発動のしかたのうちに、まさにアドルノのイデオロギーが介在する。否定弁証法をさらにアドルノ自身に適用し、彼自身のイデオロギーを問うてみる場合に、文化への批判が胡散臭いイデオロギーになるという彼の命題をまともに受けとめてみる場合に、再度彼が痛烈に批判した文化産業について検討してみること、この私達の世界においてもっとも根底的なものについてもう一度目を向けてみることも無駄ではあるまい。

全章ノ冒頭ニ掲ゲテイルブレヒトノ詩ハ『ベルトルト・ブレヒトノ仕事 3』長谷川四郎・野村修訳、河出書房新社、1972年、ニ所収サレテイルモノ。

1 コウシタ考察ハ次ノモノヲ参照。三島憲一「知ノ制度化ト美ノ機能」、思想730号、青土社
2 Th.W.Adorno,Negative Dialektik,Suhrkamp,Frankfurt,1967.
3 a.a.O.,S.360.(『否定弁証法』三島憲一部分訳,現代思想1987・11、青土社)
4 a.a.O.,S.355.            
5 Martin Jay、『アドルノ』木田元・村岡晋一訳、岩波書店、1992年、178項
6 Th.W.Adorno,Prismen:Kulturkritik und Gesellschaft,in:Gasammelte Schriften 10-1 Suhrkamp,Frankfurt,1977,S.19.(『プリズム-文化批判ト社会』竹内豊治・山内直資・坂倉敏之訳、法政大学出版局)
7 a.a.O.,S.16.
8 Th.W.Adorno+M.Horkheimer,Dialektik der Aufklarung:Philosophische Fragmente,in: Gasammelte Schriften 3,Suhrkamp,Frankfurt,1981,S.161.(『啓蒙ノ弁証法』徳永恂訳、岩波書店、1990年)9 a.a.O.,S.111.
10 Th.W.Adorno,Asthetische Theorie,in:Gasammelte Schriften 7,Suhrkamp,Frankfurt 1985,S.9.(『美ノ理論』大久保健治訳、河出書房新社、1985年)
11 Th.W.Adorno,Die Aktualitat der Philosophie,in:Gasammelte Schriften 1,Suhrkamp Frankfurt,1973,S.335.(「哲学ノアクチュアリティ」大貫敦子訳、現代思想1987・11、青土社)
12 ソノ急先鋒ハ次章デ取リ上ゲルP・ビュルガーデアル。Theorie der AvantgardeヤZur Kritik der Idealistischen Asthetikナド。
13 Th.W.Adorno,Asthetische Theorie,S.338.
14 P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974,S.49.(『アヴァンギャルドノ理論』浅井 健二郎訳、アリナ書房、1987年)
15 Martin Jay、『アドルノ』、191項
16 Th.W.Adorno,Minima Moralia:Reflexionen aus den Beschadigten Leben,in:Gasammel te Schriften 4,Suhrkamp,Frankfurt,1980,S.49.(『ミニマ・モラリア-傷ツイタ生活裡ノ省察』三光長治訳、法政大学出版 局、1979年)
17 Th.W.Adorno,Asthetische Theorie,S.59.
18 a.a.O.,S.86.
19 a.a.O.,S.32.
20 コレニツイテハ次章デ検討スル。P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974(『アヴァンギ ャルドノ理論』浅井健二郎訳、アリナ書房、1987年)或イハ「モデルネノ老化」大石紀一郎訳、現代思想1987・11、青土社ナド。
21 R.Bubner、「現代美学ノ成立条件」加藤尚武・竹田純郎訳、勁草書房『現代哲学ノ戦略』所収、1986年、223-248項


■第二章 アヴァンギャルド芸術と機能的考察


第一節 アヴァンギャルド芸術の理論

 ほかでもなく混乱が拡大していき
 ぼくたちの都市に階級闘争が渦巻くので
 いま、ぼくたちのうちの幾人かは決意した
 もはや語るまい、港町とか屋根の雪とか女とか
 倉庫のなかの林檎の香とか肉感とか
 およそひとをまるくし人間的にするものはことごとく、
 そして語ろう、ただひたすら混乱を、と。(B.Brecht「ほかでもなく混乱が拡大していき
」)

 先に私は批判理論において受容の美学を推進する余地の残されていることを指摘しておいたが、まさにそうした見地から考察を組み立てたのがP・ビュルガーである。彼のアドルノに対する批判を「モデルネの老化」と題する講演註1から、その要点を取り出してみることにしよう。
 ビュルガーは「モデルネの老化」、即ち人間主体の衰弱や芸術作品における緊張の喪失などといった、アドルノ自身も強調した事態から彼が満足な理論的帰結を得ていないと指摘する。こうした事態に対してアドルノが提示し得たのは「ミメーシス衝動」という概念なのだが、しかしこれはビュルガーが述べるに、曖昧なものにとどまっている。アドルノが「美の理論」で語るこのミメーシス概念が一体どのようにして制作過程において有効に働くのか、殆ど不明なままなのだ。それはつまりミメーシスの理論が厳密な意味では不可能であることを示している。先にビュルガーは「観念論美学批判」において、アドルノ美学のうちに芸術の本質規定としての仮象の危機と救済、即ち美的仮象の弁証法とも呼べるものを見て取っているが註2、モデルネの老化は即ちこのミメーシスによる仮象の救済を不可能なものにしているのだ。しかして、アドルノの仮象の救済の要求は、現実から遊離した内美的な枠のうちにとどまった、古来和解の形式を論じてきた観念論美学と同じ土俵に立つものとならざるをえない。
 また、かようにアドルノがモデルネの老化から理論的帰結を導きだし得ない理由として、アンチ・アヴァンギャルディズムとでも呼べるようなもの註3、これがアドルノにある。それは受容を嫌う彼の根本的態度にあるのだが、より直接的には美的決断主義ともいえるようなものがそこには厳然としてある。これは歴史主義が概して陥る折衷的な見地という危険を封殺せんがためなのではあるが、まさに何を決断するかのうちにアドルノのイデオロギーが見え隠れする。それは退行に対する不安であるのだが、しかし芸術の素材や形式の的確な定位に成功しない限り正当性を得ることはできず、それは折衷主義とともにある同一の歴史状況の二つの側面を成すに過ぎなくなる。芸術の素材や形式について、アドルノはそれが救済への弁証法的転化に結実しうる水準に達しているもの、即ち社会の変化の水準に拮抗するものを正当とする決断を持ち出しているのだが、まさに彼の一面性は、モデルネの老化を捨象した、芸術の素材や形式の発展は社会の変化に適合するものであり、単線的に発展するのだという決断を持ち出したところに浮かび上がってきてしまう。
 こうしたアドルノ批判の上に立って、ビュルガーはアドルノの理論を受容の領域において芸術を考察することによって補うべきこと、そして近代における受容の変化を考察することによって、芸術形式と素材をめぐる状況を新たに捉えなおすことができる、即ち、モデルネの老化として見えたことを、作品との新しい関わり方の手掛かりとして掴むことが可能となると主張する。アヴァンギャルド芸術の歴史的意義が、こうしてビュルガーによって救い出されてくる。
 さて、では、こうした彼の見解を見ていくことにしよう。ビュルガーは「アヴァンギャルドの理論」に、アヴァンギャルド芸術の歴史的意義を概括して次のように規定している。「歴史的アヴァンギャルド運動は、自律的芸術を本質的に規定しているものを否定する。即ち、芸術が生活実践から切り離され、際立たされてあるあり方を、個人的生産を、そしてこの生産から分け隔てられた個人的受容を、否定する。アヴァンギャルドは、芸術を生活実践に移行させるという意味において、自律的芸術の止揚を志向する。この止揚は実際には果たされなかった。それはまた、市民社会の中では、自律的芸術の偽りの止揚という形態によって以外には、恐らく果たされ得ないだろう。そうした偽りの形態が存在するということについては、娯楽作品と商品文学が証言している。註4」
 この規定を導くために、まずビュルガーはマルクス「ヘーゲル法哲学批判」とマルクーゼ「文化の肯定的性格について」から根本的なテーゼを獲得する註5。イデオロギー批判というものを機能分析の観点から再検討するのである。第一にマルクスの宗教批判のモデルから、イデオロギーは幻想であり欺瞞であるが、同時に真理の要素が内在している、即ち虚偽の契機と真理の契機とを含んでおり、その関係は固定的ではなく矛盾をはらんだ関係として捉えられることがアドルノに引き続き導かれる。ここから、1)イデオロギーは虚偽でもあるが同時に真理への「媒介物」となるのであり、イデオロギー批判は認識の生産行為として精神的形成物に潜む歴史的真理を明るみに出す契機となる。2)観念的内実(芸術作品)は社会的現実の生産物として、真理と虚偽の要素の矛盾をはらんだ関係に応答した所産である。イデオロギーは社会全体の一部分をなしている−ことが確認される。
 第二に、マルクーゼからは「制度<芸術>」と「生活実践」の概念を獲得する。上述の肯定的作用と批判的志向という機能、それは社会的現実の関係への応答に依拠するだけではなく、マルクーゼのモデルに従えば、制度に依存している。個々の芸術作品の受容は個別的になされるものではなく、制度的な枠条件のもとに為されるのであり、即ち作品の現実的作用はこの枠条件によって決定的に規定されるのである。こうした「制度」という個別作品の機能と社会とを媒介するモデルを立てることによって、芸術対社会という硬直した対立図式をビュルガーは棄却する。芸術に対して社会は、様々な立ち現れ方を見せることになる。1)作品に入りこんだ、思考上の構成物として。2)制度<芸術>を規定する際の、芸術対生活実践という対立関係を為すものとして(即ち生活実践)3)作品の第一次的担い手の社会的状況を規定し、制度<芸術>を限定する全社会的所与として(即ち社会全体)。そしてまた芸術も社会の一部分をなしているのだというモデルも同時に排除されない註6。即ち制度によって受容される以上、芸術は社会に対し決して対立的ではないのである。つまり社会に対する批判の無効という機能へと追いやられてしまう。この場合、芸術に対立的に対置されるべきは、芸術によってはそこから生まれでる欲求や社会への批判が実際的に解決されず無効化されてしまう、生活実践という概念である。
 ビュルガーがこうした思考モデルから手掛けようとしていることは、歴史的アヴァンギャルド芸術運動(ビュルガーはこの名前で第二次世界大戦以前、1910−30年代の諸々の芸術運動を指している)の持つ変革的機能をすくいあげようとすることである。アドルノが芸術についての考察において排除した機能の観点を再生させ、「制度」の概念を獲得することから、社会的機能を要求した歴史的ヴァンギャルド芸術運動を自律的芸術の内在批判として位置づけようとする試みである。即ち、社会と対立的な図式において芸術を捉えることは、アドルノもこれに陥った、制度を見ず結局はこれを擁護する制度的な枠内にとどまる、即ち現実から遊離した考察なのであり、こうした観点からの是非に依拠せず、制度枠に対する攻撃にその意味を見て取れば、歴史的アヴァンギャルド芸術運動の歴史的意義も浮かび上がってくる。
 アヴァンギャルド芸術を制度枠への攻撃として見て取れる証左は、その素材と形式の検討から明らかになる。ビュルガーのアドルノ批判、或いは彼と論争をしたルカーチへの批判の要点は、彼らが素材と形式の考察においてそれを作品類型と手段の領域にのみ限定しているという点にある。即ちアドルノの美的決断主義や表現主義の擁護、ルカーチのリアリズムの規範化は、この類型や手段の類別を支える制度的受容が前提となっているということである。ショックを狙う芸術としてあるアヴァンギャルド芸術は社会的所与として既にある受容態度を否定し、観賞者に衝撃を与え、時に憤激や驚きを与えることをその目的とする。つまりアヴァンギャルド芸術はこの類型や類別を支える制度的受容そのものを攻撃するのである。
 それはアヴァンギャルド芸術の素材や形式における非有機性に根拠を持つ。制度的受容によって有機化され全体化されて意味づけされる芸術としてあることから逃れるために、アヴァンギャルド芸術はこれに抵抗し制度的受容態度から見て非有機的で部分化され、理解不能であるような芸術としてあることを狙うのである。即ちそれは自律的芸術が制度的受容によって政治的或いは批判的機能を無効化され、生活実践から切り離され際立たされてしまってあるというあり方を止揚し、「新しいタイプの社会参加芸術が可能となる註7」あり方、つまり制度的受容に従わず、或いは抵抗しまたは理解されないということでその政治的内実或いは批判的内実をそこに保持しうるあり方である。
 ところでこのアヴァンギャルド芸術の制度への攻撃、生活実践から芸術が切り離され際立たされてあるあり方、即ち自律性というものの止揚は成功したのであろうか?結論として述べるに、それはビュルガーにとって「失敗」であった。アヴァンギャルドがほかならぬ芸術として受容可能になってしまった、つまりはどのようなアヴァンギャルド芸術でさえ美術館に難なく飾られてしまうようになったという歴史的経緯を前にして、アヴァンギャルドの制度枠への攻撃の身振りは真正さを喪失してしまうである註8。つまり、制度は抵抗力を持ち、アヴァンギャルド芸術をさえ制度化することに成功したということが今や明らかとなった。こうした事態を前に、ビュルガーはこう問わなければならない、「自律性のステイタスの止揚は、そもそも望ましいことなのか?註9」。

第二節 ビュルガーにおける自律性のカテゴリー


 かような問いをビュルガーが発しなければならないのは、こうした歴史的アヴァンギャルド運動の失敗が、そもそも芸術の自律性に起因していると見て取っているからである。そもそもビュルガーにとっての自律性とは、「言葉の厳密な意味においてイデオロギー的カテゴリーであり、真実の要素(芸術が生活実践から切り離され際立たされててあること)と虚偽の要素(歴史的に成立したこの事実内容を『本質』として実体化してしまうこと)とを結びつけている註10 」ものである。「自律性」を歴史的カテゴリーとして見て取ったビュルガーは、このカテゴリーが持つ、自身の社会的条件を隠蔽してしまうというイデオロギー的歪曲の修正を試みる。即ち芸術の社会的生産過程及び受容過程に対する距離は前近代という歴史的局面においては積極的役割、美的なものの自由な展開を保障するという前進的役割を担っていたが、同時に生活実践からの芸術の遊離を推し進め、やがて芸術と社会的生活実践は対立的関係へと転化するに至るという、つまり自由の要素に対して無拘束性、無帰結性の要素を内包していることを明らかにする。
 そして、歴史的アヴァンギャルド運動、はこうした近代芸術のあり方に対する回答であった。生活実践から切り離され際立たされてあるあり方、それが以前より市民社会における芸術の制度上でのあり方であるが、このようなあり方が芸術の内実へと転化し、内実と制度的な枠とが唯美主義において遂に一致するに至って、即ち抵抗的機能を完全に喪失するに至って制度<芸術>に対する批判は可能となる、つまり社会的無帰結性は認識可能なものとなる註11 。かくして生活実践から遊離した社会部分的システム<芸術>は歴史的アヴァンギャルド運動とともに自己批判の段階に入るのである。こうした歴史的条件のもとで、アヴァンギャルド運動は市民社会の自律的芸術、唯美主義の社会的無帰結性を前提とし、かつそれへの自己批判、自律性の否定と止揚、生活実践への反転を本質的特徴とし、またそれによってこれまでの芸術の客観的理解を可能とするのである註12 。
 しかしながら、自由と無帰結性という二重の要素に市民社会の芸術の特質があるとするならば、アヴァンギャルド芸術もまた非常な矛盾に直面せざるをえない。芸術は諸価値を虚構の仮像において実現するがゆえに現実的社会を変革する諸力を観念的領域へと結びつけてしまうという役割を、アヴァンギャルドもまた受け持たざるをえなかったのである。買い手を隷属化させる芸術としての商品美学がその良い例であるように、アヴァンギャルド芸術は生活実践に対する距離を見失うとともに、変革的機能をもまた喪失する。どのような種類の芸術でさえ美術館に収まってしまうという今日の状況にあっては、ネオアヴァンギャルドの抗議の身振りは真正さを喪失してしまうのである。
 このように歴史が歴史的アヴァンギャルドを越えてしまったあとで、ビュルガーが述べるのは次のようなことである。引き続き生活実践と芸術が切り離され際立たされてある以上、「やはりアヴァンギャルドの芸術作品は、歴史的アヴァンギャルド運動の志向性を保持してはいるのである。…芸術作品は現実に対する新たな関係へと歩み入った。註13 」アヴァンンギャルド以降の芸術においての特徴は、いずれの形式も優位を要求できない、即ち「原材料と諸形式が完全に自在に使用し得る註14 」という点にある。こうした自在使用を促している原因の具体的な作品からの検討によってその可能性と問題を引き上げ、かような志向は継続されなければならない。
 しかしながら、ビュルガーはアヴァンギャルド以降の芸術について述べる場合には、結局は依然としてアドルノと同じ圏内にとどまっているようだ。「造型の可能性が無限になってしまったときには、真正の造型のみならず、同時に、そうして造型の学問的分析もまた無限に困難なものとなる。後期資本主義はおそらくもはや理論的には把握し得ぬほど非理性的になってしまった、とするアドルノの考え方は、まさしくアヴァンギャルド以降の芸術にたいしてはじめて妥当するのかもしれない。註15 」
 さて、以上の論旨の末に掲げられるこの慨嘆とも感想ともつかないビュルガーの締め括りの言葉は、一体何を含意しているものなのであろうか。それはアヴァンギャルド以降の芸術がまだ自己批判の段階には到達していないとする現状認識を示すものなのであろうか?、それとも、「モデルネの老化」を前にして、受容の美学には限界があるということの宣言として受け止めて良いものなのであろうか?
 それを明らかにする前に、まずビュルガーの受容美学が「自律性」を理論上の焦点としていることに改めて注意を留めておく必要があろう。「自律性」をイデオロギー的カテゴリーとして受け取りながらも、自律性の止揚としてアヴァンギャルド芸術を定義づけるビュルガーの理論は、自律性の止揚の要求をそもそも自律性のイデオロギーに結びつけている、結局は自律性の追認にいたらざるをえない註16 ものなのではなかろうか。これは自律性を前提に論じる美学であるとそもそも彼がアドルノに加えた批判をそのまま引き受けてしまうものであることに変わりはない。事実、自律性なるものへの態度が見失われることによってアヴァンギャルド以降の芸術の方向を喪失しているビュルガーの理論は、そのまま自律性の定義が可能な地平、つまり歴史的アヴァンギャルド芸術の地平に拘束されているということを自ずから宣言してしまっているのである。
 こうなるとビュルガーのアドルノ批判は、彼自身に返ってこざるをえない。すぐさまビュルガーのモデルはすぐれて制度的な言説ではないのかという問いが突きつけられてこよう。例えばそれは彼の「歴史的アヴァンギャルド芸術運動」なる用語で規定する芸術が、どこまでその時代の芸術の実像を把握しているのか註17 という問いにもなろう。しかし、さて彼はこうした問いを十分に承知した上で、ある回答をも次のように用意している。−イデオロギー批判、ビュルガーの提示するモデルは、人々が研究しているものが、たいていの場合芸術との交わりについての言説であるということを承知している、或いはこの承諾をこそそもそもの任務としている。しかしその矛盾構造、イデオロギーの隠蔽性を明らかにするだけではまだ十分ではなく、その上でこれが覆い隠しているものをこそ問わねばならない。「制度<芸術>と作品との実際的な交わりとの関係は、歴史的に変遷する関係として捉えることができる註18 」のである−即ち、美学或いは理論、批評という制度的言説と、実際の作品の機能との関係は、歴史的関係として把握することで可能となってくると述べるのである。
 しかしながら、この場合ビュルガーのモデルの支えをなすべきもの、彼のモデルを歴史的関係を把握し反省したものとして正当化する基底をなすべきものは、やはり自律性なのである。ビュルガーが社会部分システム<芸術>が自己批判にいたる、即ち自律的芸術がアヴァンギャルド芸術として自己批判にいたる条件をその自律性に求めたとすれば、イデオロギーの自己批判たるイデオロギー批判が可能となる条件も、その自律性に求められることになる。だが、ここで何より彼が直面しているのは、受容の変容、即ち理論と対象との関係の変容という事態である。アヴァンギャルドの失敗はどのようなアヴァンギャルド芸術でさえ芸術として制度的に認めれられてしまうようになったという、つまりは受容の変容という事態を示している。この変容は理論と対象の側にも当然起こることであり、ビュルガーのモデルがこの変容を反省しきれない註19 、その中で自律性というアポリアを再び引き受けてしまう、自律性を理論上の消点に抱えてしまうということは再度明らかである。ビュルガー自身がアヴァンギャルド芸術に見た自由と無帰結性を自ずのうちにも引き継ぐという「矛盾を孕んだ企図」をその理論のうちに引き受けてしまうものであることもまた明らかである。
 こうして考えると、自律性の定義において芸術との対概念として提出される生活実践なる概念も再度検討される余地がある。ビュルガーの理論が自律性を消点に持つ限り、この概念自体が無帰結性を余儀なくされるもの、つまるところネオアヴァンギャルドへと引き継ぎ得ない、曖昧のまま残されるものとなるのである。ビュルガーがアヴァンギャルド芸術の帰結を一面的に「失敗」としてその成果を明確にし得ず、そしてネオアヴァンギャルドの積極面を引き出し得ない理由は、こうした諸概念の一面での有効性でもありながら、同時にそれらが抱える反面での無帰結性にあるということを、彼は承認しなければならない。この断定は、ビュルガーの理論自身へと振り返ってくるのである。
 芸術と生活実践の概念は、そもそも止揚の対象としてあり、直接定義の対象となるものではない。だが、それはアドルノに引き続き概念の実体化の回避を求める彼の方法論を考えてみる場合に、一概に否定されるべきことではない。即ち、それらは社会的疎外の二様の姿註20 なのであり、現実的諸関係の汚濁に依拠するものである。現実的諸関係が抜本的に変革されないかぎり、両者の止揚が問題を本質的に解決し得ず、新たなアポリアを導きだすという帰結は始めから予定されていたものと見ていい。これはそもそもビュルガーのイデオロギー批判の方法のうちに潜むアポリアであると換言しても良かろう。即ち自律性を前提とする限りにおいてその理論は成立するのであり、受容の変容という事態を前に無限の連鎖をなすもの、自律性を乗り越えるべき処方を決して持ち得ないものである。しかしさて、こうした循環のモデルの中にあっては、ビュルガーがそもそも芸術と生活実践の止揚、即ち自律性の止揚を要求する理由が見失われてしまう、つまり、立論の根拠をもともと持ち得ていないことが明らかとなるのである。彼の要求は今や単なる要請、その立場からくる、ある意図にとどまらざるをえない。

第三節 消点の交差

 ここまで述べれば、ビュルガーの受容美学そのものに限界がつきまとっているということも明らかとなってくる。彼が受容、そして学問、即ち制度化された言説の場へとアヴァンギャルド芸術の問題を引き受けようとしていることは繰り返す迄もない註21 。しかしながら制度的学問への受容が、そもそもその自律性、即ち自由と無帰結性を前提としている限り、上述した循環から逃れる術はないのである。ビュルガーは「モデルネの老化」の鎖の中に自ずから閉じこめられてしまう。結果として彼が辿り着くのはアドルノと同じ地平である。
 自由と無帰結性という要素の矛盾を孕んだ関係として捉えられる自律性を指標とする市民社会の芸術が、歴史的帰結としてその止揚に失敗するという展望は、既にアドルノのうちにあるといっても良い註22 。彼はアヴァンギャルドが自律的な芸術であるというところから抜け出せなかったという経過を、仮象の拒絶の不可能性という観点で受けとめている。アドルノはそれをミュンヒハウゼンほら吹き男爵の比喩を用いて述べる、「幻影としての仮象に対する叛逆の正当性と、その叛逆が幻にすぎないこと、即ち、美的仮象が自らの弁髪を引っ張れば泥沼から抜け出せるのではないかという希望とは、互いに絡み合っているのである。註23 」アドルノが敢えて受容を排除し実制作のうちに希望を負託し、また美的仮象の救済を述べたのはそのためである。しかしながら、このアドルノの希望が全うできないものであることも既に見てきたとおりである。
 いま少し好意的な解釈をしてみれば、アドルノは、或いはビュルガーはこうした事態、自律性を破棄することも出来なければそれを追認することも汚れた役割を担うことになるのであり、或いは美的仮象を救済することも破壊することも可能ではないのだということをそもそも承認していたのだと受け取ることもできる。結局この傷だらけの、汚濁しきった世界の中にあっては、無傷な立場などありえない、それはイデオロギーを批判する理論であったとしても逃れることは出来ないのだということを、彼らはイデオロギーの批判者としてそもそも述べていたのではなかったろうか註24 。しかして、だとすれば美的仮象の擁護であれその破壊であれ、何らか彼らが持ち出した決断はなかなかに潔ぎ良いものであるように思える。それはその歴史的時点においては歴史的理論を提示することが必要だと言い切る勇気であろうし、また新しい歴史的時点においては新しい歴史的理論が成立しうるとする予告である。
 さて、アヴァンギャルド以降の地平において新しく理論を組み立てることへと足を踏み出す前に、まずは了承しておかなければならないことがある。それはやや単純のきらいはあるが、アドルノとビュルガー、両者どちらかを是として受け取らず、対比的に述べることが可能だということである。内美的なもの、即ち実制作の側にあるものに希望を負託したアドルノと、受容の側、即ち社会的機能において芸術のあるべき姿を見たビュルガー、そして、美的仮象の救済を述べたアドルノと、その否定、美的仮象の破壊を要求したビュルガー。この2つの方向の交錯、それらは既述してきたように、どちらもが双方を存分に説得しきれるモデルではなく、どちらもまた傷ついた立場である。
 双方に共通するのは、改めて述べるまでもなく、自律性を前提とする見地である。芸術における内美的なものと受容におけるもの、即ち観賞者に従属せず芸術家独自のものとしてあるものと、芸術家の手元を離れ観賞者のものとしてあるものの分裂とは、そもそも芸術の自律性、即ち芸術の社会的生産過程及び受容過程からの相対的自由という状況を言い表わしているだけのものであろう。つまり、自律性を前提とする限り、この分裂はそのモデルに予め内在しているものである。しかして、先の「モデルネの老化」でビュルガーはこのように述べている、「止揚を求めるアヴァンギャルドの要求が実現可能だとするならば、芸術は消滅してしまう。ところが、この要求が取り消されるならば、つまり、芸術と生活実践の分離が自明のものとして甘受されるならば、やはり芸術は消滅してしまうのである。註25 」自律性が促した分裂の追認へも修復へも、そのどちらへも彼らは傾くことは出来ない。ビュルガーのこの言葉は、彼らのモデルがもともと両者を内在させながも、両者を成立せしめないものであるということを暗示しているのである。となれば、いずこかに超越論的な支点、「ミメーシス」やらが必要となってくるのだが、それは批判理論のモデルの立脚点をいよいよ危ういものとしてしまう。アドルノはこれを既述した通り承認して述べている、「文化全体を外側から、イデオロギーという上位概念のもとで問題にするか、それとも、この文化全体をそれ自身が晶出させた諸規範と対決させるかという二者択一を、批判理論は認めるわけにはいかない。内在であり続けるか超越であり続けるか、その決断を迫ることは、カントに対するヘーゲルの論争が標的にしていたあの伝統的論理学に逆戻りすることなのである。註26 」
 このアポリアを解消するためには、そもそも前提となる自律性というカテゴリーの組み立て方が問われ直されなければならないだろう。アヴァンギャルド以降、アヴァンギャルドと言われる芸術であれ、それ以外と見做される芸術であれ、どのような芸術であれ等しく壁飾りになってしまい、およそどの形式を優位に置く主張さえも通用しなくなったかに見える趨勢が厳然と今日あるを目の前にして、なすべきは自律性というカテゴリーを軸に芸術を判ずること自体が果たして有効なのかどうかをもう一度問い直してみることであろう。また、イデオロギー批判において、理論と対象とがどのように関係を持つかということ自体が問い直されなければならない。
 「アヴァンギャルド」という用語で歴史上の諸芸術の形式を一括することに慎重と反省を要しなければならなくなったかに思えるようになった今日にあって、作品概念もまた問い直さざるをえなくなった。しかしさらに重要なのは、ビュルガーらが嫌悪を込めて述べていたように、自律的芸術と大衆芸術の境界がどんどん曖昧になりつつあるという事態である。ネオアヴァンギャルドが商品文化同様の符丁を持って現われているというこのビュルガーの指摘を、文化産業の侵食即ちどのような成果であれ衝撃であれ貪欲に取り入れ消化していくという力が、アヴァンギャルドを凌駕しその真正さを剥脱し基盤を掘り崩しているということで考えれば、これはそもそも彼らの真の敵が自律的芸術ではなく、自律性そのものを無効化する新しい文化の大波であったということを物語っているのである註27 。モデルネ内部の必然性として捉えられるアヴァンギャルド芸術運動にとって、むしろ自律的芸術は相補的な関係にあるものとしてみて良い。しかし文化産業の嵐はこの土台そのものに変更を迫ったのである。アドルノにおいて、またビュルガーにとっても共通する文化産業への冷酷なまでの一面的否定が、ここで変更を余儀なくされる。今や或いはそもそも一体商品化されない芸術というものがありうるのかという問いの前に、彼らが自律的芸術と商品文化の間に打ち建ててきた一面的な対立図式が崩されねばならないだろう。そして残される問いは次のようなものだ、それはいまだモデルネの枠内で考察しうることなのであろうか?ポスト・モダンへと移行することなしに、それが可能だとすれば、いま再びイデオロギー批判の方法そのものについて考察を及ばせてみなければならない。

1 P.Burger、「モデルネノ老化」大石紀一郎訳、現代思想1987・11、青土社
2 P.Burger,Zur Kritik der IdeaListischen Asthetik,Suhrkamp,Frankfurt,1983,S.59.3 a.a.O.,S.128-.
4 P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974,S.72-73.(「アヴァンギャルドノ理論」 浅井健二郎訳、アリナ書房、1987年)
5 a.a.O.,S.10-12.
6 a.a.O.,S.13-17.
7 a.a.O.,S.126.
8 a.a.O.,S.71.
9 a.a.O.,S.73.
10 a.a.O.,S.63.
11 a.a.O.,S.28-29.
12 a.a.O.,S.29.
13 a.a.O.,S.127-128.
14 a.a.O.,S.130.
15 a.a.O.,S.131.
16 B.Lindner,Aufhebung der Kunst in der Lebenspraxis?,in:Theorie der Avantgarde. Antworten auf Peter Burgers Bestimmung von Kunst und burgerlicher gesellschaft hrdg.v,W.M.Ludke,Suhrkamp,Frankfurt,1976,S.92.
17 ビュルガーノ用イル「歴史的アヴァンギャルド芸術運動」トイウ用語デ当代ノ芸術運動ヲ一括リニ出来ルモノナノカハ疑問ガ残ル。ヨリ具体的デ綿密ナ個別考証ノウエニ歴 史的定位ハ成リ立ツベキコトヲココデハ確認シテオカナケレバナラナイ。
18 『アヴァンギャルドノ理論』浅井健二郎訳ニ収メラレテイル、「序論」新稿、201項
19 吉岡洋「アドルノ以降ノアドルノ」、美学158号、美学会、33項
20 『アヴァンギャルドノ理論』浅井健二郎訳ノ「制度<学問>カ、批評カ-訳者アトガキニカエテ」デ指摘サレテイル、234項
21 「第二版ノタメノアトガキ」デ彼ハソウ自認シテイル。
22 井村彰「アドルノ美学ニオケル芸術ノ自律性」、美学158、美学会、20-21項
23 TH.W.Adorno,Aesthetische Theorie,in:Gasammelte Schriften 7,Suhrkamp,Frankfurt 1970,S.158.(『美ノ理論』大久保健治訳、河出書房新社、1985年)
24 Martin Jay、「アドルノ」木田元・村岡晋一訳、岩波書店、1992年、257項
25 P.Burger、「モデルネノ老化」、171項
26 Th.W.Adorno,Prismen:Kulturkritik und Gesellschaft,in:Gasammelte Schriften 10- 1,Suhrkamp,Frankfurt,1977,S.25.(『プリズム-文化批判ト社会』竹内豊治・山村直資・板倉敏之訳、法政大学出版局)
27 吉岡洋「アドルノ以降ノアドルノ」、33項


■第三章 偶像崇拝−偶像破壊の弁証法


第一節 芸術のモデルネの再生と終焉

 とはいえ、ぼくたちは知っている
 憎しみは、下劣にたいするそれですら
 顔をゆがめることを。
 怒りは、不正にたいするそれですら
 声をきたなくすることを。ああ、ぼくたちは
 友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は
 友愛をしめせはしなかった。(B.Brecht「あとから生まれるひとびとに」)

 自律性のパラダイムはモデルネ内部の必然性として提起されてくる問題であることは既に見てきた通りである。さて、では受容の変容に翻弄され流され続けるのでなく、また、これに楔を打ち込み歴史を押しとどめようとするのでもない、新たな第三のモデルを考察してみよう。その際、モデルネという大きな物語が終焉したとするモデルを組み立てて解決としてしまうことに、なにがしの引力を感じないでもない。だが、このポスト・モダニズムの近代の全否定を批判しつつ、なおモデルネの志向の継続を擁護せんとするハーバーマスが提起するモデルを、まずはここでは提示してみることから始めよう。
 ハーバーマスは「近代−未完のプロジャエクト」と題し述べる、なすべきことは、近代とそのプロジェクトを失敗だったと投げ捨ててしまうことではない、そうではなく近代の止揚を企てた極端な試みの失敗から学ばなければならないのである。この極端な試みの失敗とは、ビュルガーに引き続きアヴァンギャルド芸術運動を指しての見解である。それは次のようなものだ、「芸術を止揚するというラディカルな企ては、皮肉なことに、啓蒙主義の美学がその対象を境界づけるのに用いていたカテゴリーを、確認する結果となってしまったのだ。註1」ハーバーマスによれば、このアヴァンギャルドの失敗は重要な二つの過ちを内包していた。一つは、「自律的に発展してきた文化領域という容器が破壊されると、その中身までもが流出してしまう註2」ということである。その試みの後には結局何も残らなくなり、解放の効果も無と化してしまう。そして第二は、芸術の領域だけで日常生活を救出しうるものではないということである。「物象化された日常的実践を癒すためには、認識的要素、道徳的−実践的要素、そして美的−表現的要素が無理なく相互作用するようにするしかない。高度に様式化された文化領域のうちのただ一つだけをむりやり解放し、通路を開いても、物象化を克服することはできないのである。註3」即ち、アヴァンギャルドの失敗という帰結として私達が体験しているものの中には、アヴァンギャルド芸術が概して専門家によってでなければ理解されないといった一面がある。芸術という容器が破壊されその意味が喪失されると、認識を不可能とし日常的実践への連絡が閉じられてしまう。結果アヴァンギャルドは孤立し、敗北する。アヴァンギャルド芸術が批評家を始めとする専門家集団、つまり高度に制度化された学問だけに理解され、或いは彼らによって意味づけされることによって命脈を保ってきたという歴史的経緯が、アヴァンギャルド芸術が失敗し制度に取り込まれていくという運命を告げているのである。即ちアヴァンギャルド芸術は制度的受容へと服することになる。
 しかしながら、こうした帰結を辿る道とは別に、もう一つの道が残されていることをハーバーマスは指摘する。それは「専門家の文化に生活世界の立場から接近する註4」道である。美的経験が個人の生活史に結びつけられたとき、それは専門家が枠づけするものとは違ったものへとその受容は変容させられていく。それは相互に浸透し、上述した認識や実践やの全ての契機が相互に関わり方を変化させていくようになる。即ち、生活世界の場における認識的要素や道徳的−実践的要素、美的−表現的要素の再編成である。こうした側面こそアドルノらが見落としてきた側面であり、擁護されねばならない。「生活世界は、ほとんど自律的な経済的システム及びその行政的補完物の内部にある、力学や強制力を制限する諸制度を、自らの内部から発展させなければならない註5」。文化的モデルネは確かにアポリアを生み出しており、諸学の自律性は確かにアドルノが述べるように取り消すことのできないものとして残る。だが、一方で生活世界の場において再生されるべきものがあるのである。モデルネの困難はむしろ、「価値や規範の再生及び伝達を中心課題とするコミニュケーション領域が、経済ならびに行政的合理性という基準−言葉を換えれば、そうした領域が依拠している対話的合理性とは全く異なった合理化の基準−に導かれた、近代化の一形態によって侵食されているということにあるのである。註6」理論と芸術と、そして実践との関係は、日常生活の非制限的コミニュケーションの解釈のうちに再生されねばならない。理性においても、そこに含まれたもう一つの側面、対話的合理性をこそ支持しなければならない。理性は一方で暴力であり支配であるが、一方で生活領域において公共的対話的理性として再生するのである。
 さて、しかしながら、つまりはアヴァンギャルド芸術を始めとする諸芸術の成果を生活世界において非制限的コミニュケーションに結びつけて再生することが求められるということであるが、これは現に壁飾りやコマーシャルという形で再編成されているアヴァンギャルド芸術の方途をどのように照らしているだろうか?ハーバーマスの考察が確かに重要な洞察を宿しているということを確認しつつも、まずその前に、彼が批判したポスト・モダニズムが一概に否定し去ることのできない強力な磁力を持っている所以、即ち生活領域において対話的合理性が再生していない、あるいはしないのではないかという疑念をもう一度検討しておこう。私達の日常生活において見て取れるのは、アドルノが強調して止まなかった、物神化の坩堝であり、人間主体の衰弱であることをやはり忘れるわけにはいかない。そしてまた、加えておかなければならないことだが、一方で制度的枠組みの中においても、例えば美術館や学校の授業での観賞においても真正なる美的体験がありうるし、また産業の後援する事業のうちにもそうした場となりうるものは幾つでもあるという事実と、彼の考察はどう折り合いがつくのだろうか?
 ポスト・モダニズムが何よりアドルノを再評価し、彼をドイツ観念論やマルクスの系譜から切り離しニーチェの子孫として位置づけて見て取るのは、アドルノのモデルがその両義的な言説のうちにモデルネの解体を示唆しているとするからである。文化産業の脱文脈的な折衷性がモデルネに侵入しその文脈を徹底的に解体し再編成しているとする指摘が、「大きな物語りの終焉」を喧伝するポスト・モダニズムと結びつくのは容易いことだ。生活領域に侵入した文化産業の脱文脈的な性格は、現にイデオロギーの武装を解除させ、時代の配列を解体させてしまっている。コマーシャルの世界では何だって許される。失われつつある自然であろうと近未来的な都市の造形であろうと、伝統と格式の美であろうと最新と名のつく風俗であろうと、または温かい家庭の団欒だろうと満員電車に揺られる通勤風景だろうと、何だって商品の売り上げに役立つのならば引き合いにだされてくる。そしてまた、こうした産業の幻惑に取り囲まれ、これによって形成された生活領域で用いられる私達の言葉づかい、身振り、様式のうちに、イデオロギーと歴史の組み立ての解体は見て取ることができるように思える。異質な領域の脱文脈的な交通は、物神崇拝という一神教のもとに促進され、そこで生産されるパラドックスばかりが膨張しつつあるように見える。アドルノが慨嘆した、自明なものは何もないとする状況は、否定しがたい説得力を持って私達に迫っているようだ。
 物神崇拝という一神教が芸術の自律性という枠組み自体を無効にしたのだという命題をまともに引き受けるとするならば、次のような回答を引きだすことができる。生活領域と芸術の区別は何の意味ももたず、芸術のモデルネは終焉し、社会的疎外の一形態としての芸術的生活が実現しているということになる。しかしながら、だとすればまた一方で物神の破壊というイデオロギー批判は、次のような回答を用意することができるだろう。社会的疎外の一形態としての芸術的生活が、芸術のモデルネを脅かしており、これに対抗せねばならない。即ち、芸術におけるモデルネの継続と終焉は物神とイデオロギーの関係をめぐる一つのパラダイムとして描きだすことができるのである。
 では、自律性のカテゴリーと、物神崇拝−物神破壊というパラダイムでモデルネの芸術を見て取ることが可能かどうか、つまりはイデオロギー批判の方法そのものの検討に移っていくことにしよう。

第二節 物神崇拝−物神破壊の弁証法

 もしマルクスが美学の執筆に辿り着いていたとしたら、彼が美学を「純粋」や「精神の表現」を隠れ蓑とした商品の神秘化としてみなしたであろうと、想像することができる。商品における物神崇拝に関する考察がマルクスの業績において極めて決定的な、重要な位置を占めているということは、今さらながらに指摘するまでもない。しかしながら、W・J・T・ミッチェルが教えてくれた疑問なのだが註7、一般にマルクス主義美学を名乗るものの多くが物神という概念ではなく、初期マルクス、多分に人文主義者的であった彼の用いたイデオロギーという概念に依拠しているというのは何故であろう。そこで最も良く取り上げられるマルクスの言説は「ドイツ・イデオロギー」の次のものである。「意識とは決して意識的存在以外のものではありえず、そして人間の存在とは彼らの現実的な生活過程である。イデオロギー全体の中で、人間およびかれらの関係があたかも暗箱のなかでのようにさかだちして現われるにしても、この現象は、あたかも網膜上の対象のさかだちが彼らの直接の肉体的な生活過程から生まれるのと同じように、彼らの歴史的な生活過程から生まれるのである。註8」この暗箱のモデルに従って、芸術を歴史的生活過程の反映と見るか、或いはこれをより複雑に精密化したモデルを組み立てるか、いずれにせよイデオロギーを上部構造とし、社会的生活的過程を下部構造とするモデルは抜きがたくマルクス主義美学に刻印されてきた。それは芸術−自律的、商品−他律的という二分が見て取れる批判理論においても同様である。
 換言すれば、物神とイデオロギーという基本的な概念の実体化を回避するにはどうしたら良いか、それがマルクス主義美学において浮かび上がってくる必須の課題であるといってもあながち間違いではない。両者を分離可能な物象化された概念とし、芸術を物神崇拝に置き換えれば、たちまち資本主義的芸術全般に対する一面的な弾劾を呼び起こすであろうし、またイデオロギーとして見て取ることには常に新たなイデオロギーの呪縛を促進するという危険がつきまとう。批判理論が用いた手法は、既述してきた通り、両者の分裂をそのまま引き受けることによって、両方の危険を招来している。物神崇拝に関する批判はネオアヴァンギャルド芸術と文化産業の一面的否定に結実し、芸術の自律性のイデオロギー批判から始まるモデルネの芸術の検討は、果てることのないイデオロギーの循環を招聘している。
 社会的生産過程に直結するものとしての商品−文化産業と、そこから相対的に自由な、自律化した芸術の区別、即ち批判理論のアポリアは、そもそもレイモンド・ウィリアムスが指摘している註9ように、「現実の社会的過程」即ち土台と、その過程を表象、反映もしくは表現していると思われる「イデオロギー」即ち上部構造との区別に依拠しているところにあるのである。芸術において換言するならば、「社会的生産としての芸術」と「イデオロギーとしての芸術」の区別である。この分裂の上に立脚しながら、いかに社会的過程とイデオロギーの両概念の物象化を回避するかが彼ら批判理論の課題であったわけだが、それは社会的過程ならびに物神批判においては熾烈な全否定の言説に、イデオロギー批判においては実質的にモデルネの芸術を支える主要なイデオロギー、自律性への埋没に帰結している。即ち偶像をめぐる崇拝と破壊という分裂を復権させてしまっている。
 このアポリアの解消のために、偶像破壊の戦略において、土台を批判する鍵としての「物神崇拝」は迷信と堕落と通俗を意味し、否定されるべきものであり、イデオロギーは歪曲であるが何か媒介された、即ち経済的土台構造から距離を持つゆえに精神の孤高を保持するもの、時に真理を反映する窓ともなるもの、という前提を問い直してみるのも一計であろう。何故なら、マルクスの業績の一貫性というものを考慮してみる場合に浮かび上がってくるのは、物神崇拝は物質的、イデオロギーは精神的という相違があったとしても、両者ともに偶像崇拝の一種であって、どちらもその批判から生じるものだという共通点だからである註10 。「労働生産物の商品形態およびこの形態が自己を表すところの労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対になんの関わりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係に他ならない。だから、類例を見いだすためには、我々は宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でも人間との間でも関係を結び自立的姿態のように見える。商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、それゆえ商品生産と不可分なものである。註11 」「資本論」のこの部分について、ミッチェルはこうした物神崇拝の比喩が、イデオロギーについての言説に酷似しているを指摘している註12 。即ち、物神は労働の生産物へのイデオロギー的投影なのである。
 イデオロギーに対する商品の差異は次の点、商品が外部つまりは精神に投射する有形の物体であるというところにある。両者の相補性を描きだしてみる場合、それはイデオロギーが商品という有形の世界に自らを投影する精神活動であり、商品は精神の上に自ら刻印する、あらかじめ刻印された有形の物体なのであるということになる。事物と反射像の相互作用、即ち、イデオロギーと物神は分離可能な抽象概念ではなく、弁証法的過程の局面を相互に支えるものなのだ註13 。マルクスの業績を鑑みるに、つまり商品経済の決定性というものを見るに、この弁証法的過程において総合的なものは物神という形象であろう。が、物神という言葉で芸術の魅力を語るのに抵抗があるとするならば、商品というものについて、マルクスが与えたその豊かで神秘的な性格についての言説を思い返してみれば良いかもしれないし、またあらゆる意識に対する商品経済の規定性を確認するのも、イデオロギーは商品だけを相手としないという反論に抗するためには再び必要かもしれない。だが、芸術が商品であるということを示唆してそれを検証してみせるのがここでの目的ではないゆえ、偶像破壊の戦略においては、イデオロギーと物神は分離可能な抽象概念ではないのだということを確認するにとどめておこう。
 ここで私が述べようとしていることは、批判理論の面々がイデオロギーについてそれが虚偽であり、また同時に真理への契機を内包するものだとした規定を、物神崇拝にも適用してしまうことである。概して批判理論の芸術における希望というものに対しての暗澹たる視線は、例えば次のアドルノの言葉に集約される見解に由来する。芸術のモデルネの概念は「芸術における市民的原理をまず承認するものである。この概念の抽象性は芸術の商品特性と結びついている。註14 」芸術におけるモデルネの継続を妨げるものは、まさしく芸術が自ずから不可避的に結びつかざるをえない商品的特性にあるとする見解が、彼らに溜め息をつかせているのである。さらに、「芸術は資本主義的総体性に対する己れの無力を告白し、しかもこの総体性の廃棄を開始しようとする。註15 」即ち、芸術の方途はひたすらに逃避的である。アドルノにとってはこの逃避のうちに美的仮象の救済されうる余地が存在しえるということなのであり、ビュルガーにとってはこの逃避は抵抗の源泉としてありうるということであった。しかしながらいずれにしても芸術の商品的特性はこれらを飲み込んでおし流してしまうことが予測されているのである。
 物神崇拝を偶像破壊の戦略における、真理を媒介する窓ともなるものとして、即ち虚偽の要素と真理の要素をともに内包するもの、崇拝と破壊とをともに包合するものとして捉えるとして、では次のことが提示される。即ち、第一にアドルノやビュルガー、そしてハーバーマスがなしたアヴァンギャルド芸術に対する「失敗」の断定を再検討してみる必要がある。アヴァンギャルド芸術運動は、芸術における商品的特性をモデルネの芸術において俎上にのせたという意味で、成功であった。アヴァンギャルド芸術運動は文化産業における偽りの止揚へと巻き込まれ埋没してしまったのではなく、文化産業をも俎上にのせることへと移行したのである。それは制度化された偶像だけではなく、同じく偶像として生活領域全般に浸透する、或いはまたこれの本質としての物神崇拝を対象とするものへとモデルネの芸術は変遷したということである。文化産業の偽りの止揚と見られる事態が、アヴァンギャルドの失敗を告げているとするならば、それは文化産業の進展がアヴァンギャルドの本質的な対象が何であったかを明らかにしたということを意味している。文化産業の膨張と生活領域の細部にいたるまでの浸透が、破壊すべき偶像が自律性というイデオロギーから始まって、そのイデオロギー的投影としての物神崇拝にあるのだということを、遂に弁証法的に、我々にあからさまに指し示したということなのだ。自律性即ち制度的受容の器から流れだしたモデルネの芸術の中身は、いまだその意味を変容させつつも物神崇拝の器、つまりは我々のあらゆる過程に閉じこめられている。とすれば、第二に、ネオアヴァンギャルドの地平における芸術に負託される役割は、アヴァンギャルド芸術に引き続き偶像破壊のためのオルガノンとなることであろう。イデオロギーという見かけで、或いは文化産業のふりまく美しい幻想という形で我々の生活領域に侵入する様々な偶像を、偶像のうちに破壊することである。
 さて、崇拝と破壊、即ち愛情と憎悪、憧憬と虚構が偶像の両価性のうちにあるとするならば、我々は批判理論の面々が警告してやまなかったように、偶像破壊の戦略は他者に向けられるだけの道具ではないことを今や認識する。しかし誰もが避けえないことではあるが、それを認めるだけで良しとすることもできない。それが単なる恣意に過ぎないとしても、ブレヒトがそう呟いたように、時代の渦中にあっては足をすすめなければならない。ハーバーマスのモデルから導きだせるものは、この偶像崇拝と破壊の泥縄の中で、一方で再生してくるものがあるという示唆である。それは生活実践の領域であるか専門家の領域即ち自律的領域であるかは問い自体が意味をなさないのだが、彼が対話的と呼ぶコミニュケーション領域において再編成されるものが、支配的力学や強制力を制限する諸制度を発展させうるかもしれないと予測することはできる。それは本論の検討の段階ではあくまで予測、アヴァンギャルド以降と呼ばれる今日の地平において希望を確認する試みに過ぎない。しかしこれまで述べてきたモデルで少なくとも批判理論の語る「モデルネ」の芸術の真摯さの部分とアヴァンギャルド以降の芸術の不真面目さの部分の間の困惑を弁証法的なものとすることは可能であろう。或いはそれは突然の想像の飛躍を顧みなければ、つまり単なる感想だが、ハーバーマスとポスト・モダニズムや、ミッチェルが述べていたようにマルクス主義と観念論美学の間にもそれは成り立つことなのかもしれない。

第三節 商品文化の輪の中で

 モデルネの芸術のメルクマークを、自律性というカテゴリーに見て取るのではなく、物神崇拝というある偶像のカテゴリーで判ずることが可能だとすれば、芸術におけるモデルネの志向はいまだ継続することになる。いわゆるネオアヴァンギャルドの地平において、そうした呼称を今日の芸術に与えることが妥当であるかどうかは具体的に検証していかなければならなことだが、モデルネの志向はやはり芸術そのもののうちに保持されてあるのである。自律的、制度的な言説やイメージャリーが支えられているかのように見せるものは、アドルノらの言葉を裏返せば専門領域への耽溺や自身の世界においてそれを疎外するを促す物神化した世界における人間主体の衰弱なのである。いわば自律性の虚偽性とそれを維持する現実的諸関係は、改めて述べるまでもなく商品経済のうちに根を汚れた持っているのだが、芸術を自らのものとするという志向は、疎外形態として我々の生活領域に現す今日の芸術のその姿、物神崇拝を体現しているかに見えるその姿のうちに実現しつつあり、またつまり一方で破綻している。「偽りの止揚」としてビュルガーが見た事態が、いまや一面で真の止揚であり、またその反面で彼の述べる通り偶像破壊の戦略としては偽りであったと示すことができよう。しかして、アヴァンギャルド芸術運動の衝撃への志向性が文化産業に取って代られ、ネオアヴァンギャルドが文化産業の中を遊泳するようになったという事態は、アヴァンギャルド以降の芸術が文化産業に対して内在批判をなす位置にあることを示している。その試みが疎外形態としての生活領域を舞台にするという意味において、ハーバーマスの述べた対話的なものの再生に期待することが出来るのである。
 ポップやまたネオポップの面白さ、ピンナップや広告の威力とその馬鹿馬鹿しさ虚しさの併存、ドゥローイングにおける形成的イメージャリィと作家固有の力動的な線の合衝、これらは代表的なものだが、それら現代の芸術が抱えるものが何を意味しているか、何を我々にもたらすかを考慮してみることによって、アヴァンギャルド以降と言われる今日の芸術についての有効な観点は、そして救いあげられてくるだろう。つまりは虚偽と批判、崇拝と破壊、社会的所与とそれへの抵抗という両価性の縫合のうちに、アヴァンギャルド以降の、即ち今日にいたる芸術を見て取り、そこに芸術においてモデルネの志向を継続するものが立ち上がってくることを期待するモデルである。
 発達しまた我々の生活領域に細部にいたるまではりめぐらされた物神の網、巨大に膨張したマスメディアや続々と途絶えることなく商品を介して流通する、物神崇拝という一神教のもとにあらゆる時代、あらゆる領域から脱文脈的に引き出されてきた様々で莫大な数の美的偶像を、アヴァンギャルド以降の芸術は引き受けている。ブラウン管では静謐にして豊満なる自然や尊厳に溢れる人間らしさや理想という振る舞いが、すべて商品に賦与される称号としてあると、あからさまにこの時代、この社会におけるその本質を明らかにしているが、それら我々にとって汚濁でありかつ切り離せないものが課題になるという意味で、そしてそれが無限の広がりを見せつつあるゆえに、自らに対する疑念をネオアヴァンギャルドはいまだ広範に、より根本的に抜き差しがたく引き受けている。さて当然、これについて述べる理論のモデルもこの疑念を引き受けるものである。これはビュルガーが恐れたことだが、例えばカントからアドルノにいたるまでの美学理論、即ち近代にあらわれた様々な学問的分析が、無限に困難という意味で許容されるという事態註16 は、見かけ上引き起こされうるものである。
 しかしながらその疑念と困難、それこそは現実的諸関係とそれを規定する商品経済の汚濁、そしてそこで寸々に引き裂かれる我々の自己をやはり明瞭に指し示している。領域のますますあやふやな今日の芸術は、まずもってそのあり方のうちに自らの課題とするものを明らかにしているのだ。我々の困難と疑念が引き続き限り、自己の基盤を掘り崩す、即ち汚濁した現実的諸関係とこれに規定される自己をめぐる偶像崇拝と破壊の弁証法は継続するのである。即ち偶像は歴史的な形象としてあるが、そのあり方のうちに時代社会の姿を描きだしてみせることが可能である。提示されたモデルはイデオロギー批判と同様に歪曲の循環を覚悟しなければならないが、しかしその反省は現実的諸関係、商品の関係を我々に明らかにするものである。つまり、あらゆる関係が商品経済に根を持っているのだが、この関係が引き続くかぎり、このモデルの有効性を述べることができるだろう。換言すれば、常に自己への疑念を保ちつつも、それが現実的諸関係から遊離した空虚な反復に終始することなく、現実的諸関係を語る偶像ですら明瞭な、ゆるがしえない現前性を確保することなく査察の対象として俎上にのせられるという意味において、即ち土台すら揺るがしうるという意味において、それが継続するかぎり世界の変化に適合し、力を得ることが出来るのである。
 だが、だからといってどのような幻影の循環が成立するのか、そこに何が立ち上がってくるのかを理論モデルから引き出すことはやはり困難である。それは今日展開される芸術の個々の具体的な考査から出発されなければなるまい。

1 J.Habermas、「近代-未完ノプロジェクト」室井尚、吉岡洋訳、ハル・フォスター編『反美学-ポスト・モダンノ諸層』所収、勁草書房、31項
2 前掲書、31項
3 前掲書、32項
4 前掲書、34項
5 前掲書、35項
6 前掲書、26項
7 W.J.T.Mitchell,Iconology:Image,Text,Ideology,シカゴ大学出版,Chicago,1986,P.186.(『イコノロ ジー-イメージ、テクスト、イデオロジー』鈴木聡、藤巻明訳、勁草書房、1992年)
8 K.Marx+F.Engels、『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳、岩波書店、1978年、32項
9 R.Williams,Marxism and Literature,オクスフォード大学出版,Oxford,1977,P.103.
10 Ibid.,P.75-82.
11 K.Marx、『資本論』社会科学研究所監修、資本論編集委員会訳、新日本出版社、124項
12 W.J.T.Mitchell,Iconology,P.189-190.
13 Ibid.,P.190.
14 The.W.Adorno,Asthetische Theorie,in Gasammelte Schriften 7,Suhrkamp,Frankfurt 1985,S.38.
15 a.a.O.,S.232.
16 P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974,S.131.(『アヴァンギャルドノ理論』浅 井健二郎訳、アリナ書房、1987年)


■最後に



 前歴史的、伝統的価値や、或いは現代において我々の胸中に去来する憧憬を全面的な手掛かりとすることは恐らく出来ない。あらゆるものは崩れゆき、そして全く想像だにし得ない形で再生するだろう。アヴァンギャルド芸術の成果としてある形式と素材の自在使用という今日の地平にあって、自在であるがゆえにまた徹底的な芸術的形式と素材の新しい意味づけをめぐる営みが開始される。アドルノが指摘したように、宣伝の虚実には今や子どもでも気づき始めている。そして子ども達は全てが商品だよと醒めた目で、それをしなやかな感性で利用し始める。新しい発語形式、新しいコミニュケーション…それは徹底した物神化の通り過ぎた後で、何故か「魔術」が効力を失うという符丁であろう。こうしたどのような芸術的形式の上にも降りかかる変化、それが次の地平、アヴァンギャルド以降の芸術に込められた息吹なのであろう。
 同じ時代地平に立つ私にとって、ネオアヴァンギャルド芸術は世界内の対象であって、よく見通しの効くものではない。ただ、等しく現代を生きている「同僚」としての期待を胸に膨らませていても良いだろう?と思う。


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