蔵琢也『美人を愛した遺伝子たち』評


 話題の本なんだそうだ。著者、蔵琢也は京都大学の動物行動学教室、博士課程の院生つまり社会生物学者だとさ。で、なんでも「男が美人を好むのは動物としてのオスの本能に基づく遺伝子の命令である。」だ、そうだ。
 一般に、美人の基準はその時代、その地域の文化的特性によって決定されるものと言われている。が、その向こうをはって、蔵は「美人と結婚したほうが子孫が繁栄する」とか「赤ん坊も美人が好き」とかいった材料を持ち出してきて、それは遺伝子が決定するものだと唱えている。で、「いい女を好きなのは僕らのせいじゃない」んだって。
 この本で美人とは、女性のことしか差していない。この女性の頑張る時代に何と勇気のあることよ。当然、脚光を浴びた。あちこちの書評に登場しているし、当人も顔を出している。そんなに叩かれたいのだろうか?
 では素直に好意に甘えてみよう。遺伝子は専門ではないので、この分野にあまり突っ込めはしないが、しかし、まずこれは遺伝子の本ではない。遺伝子が美人を愛するのだと蔵はさかんに述べているが、では、この遺伝子とは何だろうか?どこにも実体としては特定されていない。具体的にどの遺伝子が、美人を愛する行動と結びつくんだ?そもそも特定の行動と結びつく遺伝子など、生物学上これまで殆ど同定されちゃいない。この本で言われている「遺伝子」とは、単なる便宜上の概念に過ぎない。
 つまり、単に人間のあれこれの行動や嗜好を、勝手に何の立証もなく遺伝子の働きに結びつけているだけのことだ。だとすれば、人間の社会的、文化的、時代的特性は恣意的に無視されているに過ぎないということになる。
 それから、美人って一体何だ?これも曖昧じゃないか。生物的な有利さ、例えば胸が大きく腰つきが良く発達した女性を美人というのか、視覚的な有利さ、例えば笑顔が可愛く瞳の潤んだ女性を美人というのか、それとも性格的な有利さ、例えば愛敬があり従順な女性を美人というのか?不明だ。或いは単に蔵当人の好みの女性のことなんじゃないのか?一般に、美人とひとくちにいっても人それぞれやせ好み、ぽっちゃり好み、派手好み、幼な好み等々、言い出せばきりがないぞ。だいたい遺伝子に結びつけるのは無理がある。
 空論なのだ。蔵が言いたいのは、それが過当競争に勝ち残り子孫を繁栄させるためなんだと思うから、女性はいわば男の描いている「美人像」に従えということ。
 さてさて、雑誌『SPA!』に登場した蔵は、次のようなこと述べている。「生物学的に見れば、ヒトは、男が外に出て働き、女は育児に専念するというのが、子孫繁栄にはもっとも適した体系です。その意味で女性の社会進出はあまり喜ばしい状況ではないと言えます。…企業社会も男のものだというのは、言ってみれば、当然のことであって、それに対して、女性が不平等を唱えるのは筋違いですよ。…そんな中で、あえて兵隊になるとするなら、PR部門でしょう。イメージ戦略として使えますからね。だとすれば…より美人の方が話題になるでしょ。兵隊として使えないのなら、そうやって会社に貢献してもらうしかないじゃないですか。…結局女は“職場の華”になってしまいます。同じ華なら美人のほうが、男は士気が上がって、いっそう働くでしょ。美人を採ったほうが、会社のためなんです。」
 なにボケたこと偉そうにブチかまんしてんだか。闘争むきだしの歪んだ企業戦争を手放しで称賛するならば、そうタワケたことも言えるだろうさ。そうしたおかしな競争社会のありかたがあるからこそ、女性が活躍できないというだけのこと、これを逆さに描いちゃいけないよ。過当競争社会が生んだ「美人像」ないし「女性像」を一方的に女性に押しつけ、それが生物学的に適していると何の立証もなく勝手に宣言する。この、非人間的な現状を絶対の前提としてしかものを見れない頑迷固陋さは、しかし生産力のない障害者などは死ねとでも叫び出しかねない恐さを含んでいる。
 でも、これって疑問も抱かず偏差値競争に勝ち残ることに得々としてきたエリート研究者のアホな戯言じゃないのか?蔵の言葉の裏に、競争の勝利者たることでしかヒトを見れない、自分のプライドやステータスを保てないという姿勢が見え隠れする。自慢したいのさ、自分をさ。叫びたいのは、「美人は競争の勝利者のもの」つまり「俺のモンだあ」ってことだ。情けねえなあ。それでも研究者なのか?


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