『マルクス=エンゲルス文学・芸術論』評 


 1936年当時、マルクスの遺稿はナチスによる焚書を逃れて、ドイツからコペンハーゲンにあるデンマーク社会民主党の労働金庫に移管されていた。そこへ、ソビエト共産党の理論家で知られるブハーリンがモスクワから訪ねてきている。彼はそこで、『資本論』手稿の最後のページを何度も読み返しながら、こう呟いたという。「カール、カール、何故お前は最後まで書かなかったのか。」
 良く知られているように、マルクスは『資本論』の完成を待たずして帰らぬ人となってしまった。彼の生前に刊行されたのは全4部のうち第1部の分だけである。残された草稿をもとに続巻を編集したのは盟友エンゲルスの尽力であった。しかし、その草稿はエンゲルスさえも「七つの封印をした書物」と呼んでいたように、悪筆で判読しづらく、また欠落した部分の多い草案に過ぎないものであった。既に1923年に、手稿を研究したソビエトのマルクス=エンゲルス研究所の初代所長リャザーノフは、エンゲルスが『資本論』第2巻以降の編集において「もしかしたらいくらか主観的であったかもしれない」と注意を促しているが、つまり、刊行されている『資本論』は、果たしてマルクスのほんとうの思想を著すものとなっているのかどうかが、現在まで研究者の間で大きな議論の的となっているのである。それは、マルクス生前の刊である第1巻(第1部)についても同様で、現行版はエンゲルス編集の第4版であるが、そこではマルクスが残した修正の指示が無視されていることが明らかにされている。
 さらに複雑なのは、マルクスの学説の解釈が、当然に政治や運動の動向に結びつくことであった。前述した手稿の研究者リャザーノフは1931年にソビエト共産党を除名され、38年に獄死している。コペンハーゲンで遺稿に呟きかけたブハーリンもまた、その滞在が最後の安息となった。帰国後、翌37年にスターリンの粛正下で逮捕され、ファシズムの手先という汚名を被せられて処刑されている。マルクスの思想の解釈は、政治や運動に直結するがゆえにしばしば権力闘争の具となり、不幸な場合には大きくねじ曲げられてきた。その最大のものはスターリンをはじめとするソビエト共産党による歪曲だったが、ここでねじ曲げられた学説はまた各国に輸出され、というよりも押しつけられ、全世界的な惨禍と混乱を引き起こしてきたことは周知の次第である。
 ともあれ、こういった事情から、マルクスがその思想の集大成として『資本論』でどのような理論へと到達したのか、それはいまだ議論を呼ぶところなのだ。ましてマルクスの「芸術論」ともなると、推して知るべしである。彼はこれをまとまった書物として刊行することはなかった。
 さて、ここで取り上げる『マルクス=エンゲルス文学・芸術論』は、マルクスとエンゲルスの著作から、芸術に関係すると思われる記述を抜粋し集めたものである。この底版となっているのは、次のものだ。“Literature and Art,by Karl Marxand Frederick Engels,selection from Their Writing",International Publishers,NewYork,1947.
 では、さっそく項を繙いてみることにしてみよう。すると、しょっぱなからこれだ、「物質的生活の生産様式が社会的・政治的・知的生活過程を規定する」−マルクスの『経済学批判』序言からの引用がなされている。いわゆる有名な‘土台−上部構造論’なのだが、これについては蔵原惟人による説明を引用してみよう。「マルクスが芸術理論において残した重要な業績は、まず第一に芸術をイデオロギーとして、社会のいわゆる上部構造の一部として位置づけたところにある。よく知られているように、マルクスは社会を一つの建造物にたとえて、その土台をなしているものは、物質的生産力の発展段階に応じた生産関係の総体である経済的構造であって、その土台の上に法律や政治の上部構造が立ち、その土台に適応して一定の社会意識形態−即ち法律的、政治的、宗教的、芸術的、または哲学的なイデオロギーの諸形態があるのであるとした。」(「マルクスト芸術」、『蔵原惟人評論集』第4巻・芸術論W、新日本出版社、1967年、所収、180項)
 しかし、ここでの引用の出典である『経済学批判』(マルクス=レーニン主義研究所訳、大月書店、1953年)序言を広げてみるとしよう。すると、気がつくことがある。『文学・芸術論』に引用されている箇所の前に次の記述があることに目がとまるだろう。「(『経済学批判』の)序説をここに省略する。というのは、よく考えてみると、これから証明しなければならぬ諸結果を前もって示すことは混乱を生じさせるように思われる…とはいえ、私自身の経済研究の経過についてここで少し示唆しておくのは当をえたことであろう。…私の研究にとって導きの糸となった一般的結論は、簡単に次のように定式化することができる。」(7-9項)
 つまり、『文学・芸術論』に引用されている箇所は、『経済学批判』以前の一般的な命題に過ぎないのだ。これ以降、『資本論』へと発展した研究成果、マルクスの最も重要な成果はこの記述では表明されていないと見るのが妥当であろう。(ちなみに、「序言」とは別に独立した未完草稿があり、それが今日「経済学批判序説」と名づけられている。これが『経済学批判』の諸結論のスケッチ、即ち本来の「序説」であると見られる。)
 芸術を「イデオロギー」という用語で規定するのは、初期マルクスのもの、その典拠となるものはしばしば1840年代の著作、『ドイツ・イデオロギー』での暗箱のモデルである。「人間およびかれらの関係があたかも暗箱(camera obscura-カメラ等ノ投影装置)のなかでのようにさかだちしてあらわれるにしても、この現象は…かれらの歴史的な生活過程から生まれるのである。」(古在由重訳、岩波文庫、1956年、32項)だが、後期マルクスにおいてこのイデオロギーという概念は疑わしい。『ドイツ・イデオロギー』はマルクスの存命中に出版されることさえなかったのである。もともと、イデオロギーという概念の歴史的な起源は、啓蒙の企てのうちにある。それは、新たな観念によって先行した政治的専制と結託した観念を虚偽意識と見做し、転換しようとする、或いは新たな観念によって正当な観念とそうでない不当な観念とを分別しようとする偶像破壊の企て、つまりは観念を観念によって精査しようとする学であった。もしもマルクスがイデオロギー論者でしかないのだとするならば、彼は弁証法的唯物論という名での観念の精査、啓蒙の企てを単に継承したに過ぎなくなる。偏った思想という意味での「イデオロギー」として「マルクス主義」が排斥されてしまう弱点はここに芽生えている。
 また、こうしたイデオロギー=上部に対して経済的構造=土台とする、即ち「土台−上部構造」という見解も、もしこれをマルクスのものとするならば、彼は古典派経済学を一歩も抜け出ていないことになる。かような経済決定論、物質的生産を学問的体系の基軸とする試みはもともとアダム・スミスやリカードら古典派経済学のものである。マルクスが著すところは『経済学批判』、即ちこうした経済学神話をひっくりかえす試みにあったはずではなかったのか?
 一般に、経済的構造といっても、それは物質的生産だけでは稼働しない。それは、諸々の制度や観念といったものを伴わない限り、つまり、それに人々の意識が従属すること抜きにしてうまく動きはしないのだ。ただ、階級社会においては人間の諸活動が全面的に発揮することを妨げられ、結果として物質的生産(土台)と精神的労働(上部)とが分裂に追い込まれるに過ぎないのである。人間の解放、その全面的な能力の発揮を希求したマルクスにとって、こうした階級社会の形成の仕組みの解明こそが重要であったはずだ。
 マルクスの『資本論』は、商品論から開始されているということに注意を払うべきである。まず商品、そして貨幣のうちに、資本主義的生産様式の基本的なありようが分析される。そのうえで、労働が抽象的命題として取り出される。かような迂回が必要なのは、人間の労働が、資本主義的生産様式のうちでは分裂させられ、疎外されている(具体的有用労働と抽象的人間労働とに)からであり、その分裂の仕組みがまずもって商品のありようのうちに解明されるからである。こうした迂回、分裂の仕組みの究明をたどってはじめて本来の、つまり現在において未だありえない人間の全面的な労働が抽象的命題として取り出され得るのである。もしも労働から分析される場合には、現にある物質的生産と直結した労働(具体的有用労働)、疎外された労働からしか社会の動態が解明されえない。これでは古典派経済学がなした、物質的生産のみを追求し、その社会の矛盾を解明しえない経済学神話に埋没することになる。
 「土台−上部構造論」の欠陥は以上のようなものだが、それは資本主義的生産様式の仕組みを全面的に解明するものではないし、もちろんマルクスのなした理論的到達とは大きく異なるものであろう。この『文学・芸術論』も、しょっぱなにそんなものを掲げるようでは推して知るべし。だいたい、抜粋で体裁をつけようとすること自体、都合が良すぎる。『経済学批判』に序説を省略する理由としてマルクスは書いている。「私についていこうとする読者なら、個別的なものから一般的なものへとよじ登っていく覚悟はもたねばならない」−こう、注意している文章からわざわざ抜粋するという間抜けさである。
 かってマルクスは俗流マルクス主義について「ならば、私はマルクス主義者ではない」と語ったことがあるというが、ここで彼なら一体なんと呟くことだろうか?

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