『全共闘白書』出版の周辺



 新潮社から『全共闘白書』という分厚い本が出版され、話題になっているようだ。内容は、かっての全共闘(全学共闘会議)活動家、参加者へのアンケート回答526人分を資料集ふうに収録したもの。アンケートの呼び掛け人は元活動家達のグループである「プロジェクト猪」、アンケート回答者には雑多な人々に混じって秋田明大(当時日大全共闘議長)、立松和平(作家)、足立輪行(ノンフィクション作家)、小西隆裕(よど号ハイジャック事件犯人)、小坂修平(評論家)などの広く知れた名前もうかがえる。
 そして、先の9月3日にはこの出版をうけて記念会が開かれ、400人が集まったそうだ。会場には、あのお馴染みの角張った「トロ字」で書かれた「『全共闘白書』刊行を機会に、全国各地でゆるやかな再会を果たし、社会に発言する情報・人材バンクをつくる準備を始めよう」とのスローガンが掲げられていた。
 注目すべきは、これが単なる郷愁ではなく、こうした記念会のスローガンに見られるように、実質的な運動づくりへと向かう動きだということ。既に「プロジェクト猪」は、セミナーや討論会、種々の改革への「提言」を検討しているようで、ボランティアやカンパを積極的に募集し始めている。東大安田講堂の「落城」から25年、再び全共闘運動は立ち上がるのだろうか?
 しかし、考えても見よう、全共闘運動の今日における意義など、どこに残っているのだろう?かって角材を片手に暴れ回り、火炎瓶と内ゲバで学生運動を解体に追込みながら、「あれは青春の熱病だった」と言いのけて大多数はのうのうと就職し、いまや解体を叫んでいたはずの大学に我が子を送るべく受験競争を加熱化させているのが彼ら「団塊の世代」のありがちな姿なのではないのか?全てがそうだとは言わないが、最も戦闘的な企業戦士として現代社会を内側から支えている彼等にとって、「あの頃の熱い思いを忘れない」という呟きなど無責任な言い訳以外のなにものでもない。全共闘運動の意義などとっくに食い潰されているのではないのか?
 新生党の代議士となった当時慶応大学議長の栗本慎一郎、羽田孜を応援する評論家、高野盂、左翼を罵倒する笠井潔ら、新保守主義へと擦り寄っていく面々を見るに、彼等が望んでいたのが抵抗ではなく、権力だったことが分かる。また一方で運動の代表的理論家だった廣松渉は「東欧の民主化は反革命だ」なんて叫んでた。その運動は行動としても理論としても、社会の平和や民主主義を希求することの意味を最後まで理解しなかった。
 栗本慎一郎も廣松渉もたたかったその当の大学の教授におさまってしまったが、『全共闘白書』についての書評で、立花隆が彼等に沈黙の美学を諭している(『週刊文春』)のもこの意味で当然だ。見事なまでに変質しておきながら、いまさら何を語ることがあるというのだ。なすべきは美化ではなく、反省であり決算だろう。


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