第7号宣言への補筆

<私達>の具体的根拠


 繰り返し断っておかねばならないことだが、『勤労市民』に掲載されるや議論が、いかに抽象的なものに聞こえるとしても、それらは私達の現実生活におけるあれこれ、具体的な出来事や状態を指している。疎遠なあれこれについて、だらだらと高みから、しかも安全なところから宣託を下すような趣味に私達は興味がない。
 また、批判や愚痴だけをならべたてることがPPP活動の目的でもあり方でもない。既に述べているように、「英知においては悲観主義者、だが、意志においては楽観主義者」であることが私達のあり方だ。英知はそれが全てではない、依存してはならない単なる手段である。だから私達はこれを批判の道具として、自己認識の鏡として、まずは用いるに過ぎない。
 だから、この第7号宣言も実際には具体的なことがらを形容しているし、実践的な展望に連絡しようとしている。ゆえにここでは、論議の補助のために、いったん抽象的な論述から離れて、エッセイ的に、具体的な解説につとめることにしてみようと思う。


<恋愛>

 どうして私達は理想を<私>の根拠としてはならないのか?何がいけないのだろう?これについては、例えば、恋愛のある場面を想定してみることにしよう。
 私達は、自らの恋愛を理想的なものとして思い描く。そして相手にもそれを要求する。「私の全てを受け入れてくれる恋人がいれば、きっと世界は一変し、全てが輝くだろう」と。けれども、誰もが薄々気づいているだろうけれど、理想にこだわればこだわるほど、恋愛はうまくいかない。例えばA君が、髪の長くて可愛い、色が白くて足の細い、そして愛敬があってどこまでも優しい彼女を求めるとしても、何故ならそんな都合のいい女性なんてどこにもいやしない。誰だって欠点のひとつやふたつ、抱えているのだ。ある程度までならそう演じられる女性もいるが、そこにA君が求めているのは恋愛でも何でもない、単なる甘えだ。彼女にとっていつもA君は、要求ばかり突きつけてくる、重たく煙たい存在でしかない。宣言に述べられる<理想への依存>や、ヘーゲルの語った<相互闘争>とは、まさにこのような場面のことだ。


<障害者>

 いま少し別の話題に移ってみよう。例えば、「あなたは障害者を愛せるか?」スクリーンやブラウン管に登場するのではない、実際に生きてある障害者達−彼等は決して美しく見栄えはしない、声を発するのでさえ、歩くのでさえ不様であるしかない。視覚障害者と映画の話題を楽しむことはできないだろうし、聴覚障害者と音楽の趣味を分かち合うこともできないだろう。それでも、話が合わないといって、趣味が違うからといって、私達は彼等と全くの他人であるわけにはいかない。友人や恋人であることから除外すること、それはすなわち「差別」そのものだ。
 結局、私達は自らの理想に埋没して他者の実在から目を反らすのではなくて、現実に生きてある他者や異性の姿を、まずは見つめて受けとめていかなくてはならない。実際のやりとりのうちに、ふるまいのうちに、彼や彼女との愛情や友情を見いだし養っていくしかない。これが<多面的、重層的で現実に開かれた連関>としての<私>のあり方だ。
 どこかに真の愛情や友情が転がっていて、それを私達は探すわけじゃない。青い鳥は、やはり近くにいる。愛情にせよ友情にせよ、およそどのような関係にせよ、あらかじめ存在しているのではなくて、それらは今ここで具体的に創りあげるしかないものだ。


<会話>

 では、どうやって創りあげようか?
 ところで、およそこの世の中で、モノローグ(独白)ほどつまらない会話はないというところから始めよう。それは「はい」か「いいえ」か、いわば全同意か全否定か、全隷属か全対決か、うなずき人形か敵意に満ちた反発者しか呼び込まない。つまりどのみち受け手はうんざりする。もし対人関係に悩むのなら、話そうとすればするほど人々が離れていくなら、いま一度自らの対話の態度を振り返ってみればいい、モノローグほど関係創りをぶち壊すものはない。<私>のすべてを受け入れることのできる他者などこの世の中にはいないのだ。「透明で直接的な関係」を要求する精神は、ある精神学者によれば「おぞましい精神」でしかないのだと言う。まず私達はこれを認めよう。


<男と女>

 かって太古の昔には、男と女は一対の生物であった、という神話がある。とても美しい話だが、でも、それはやはり伝説に過ぎない。ところで、この神話にはまた別の解釈があって、男と女は離れ離れだが、しかし、こどもをつくるために結びつくことができるのだという。そして、こどもという「別の自分」のうちに、ふたたび男と女は一対に戻る。
 宣言でいう<媒介>とは、ここでいう「こども」のようなものだ。現にある<私>に固執するのではなく、他者と共同で作り上げた別の自分−<媒介>づくりを通じて他者と結びつくこと、それが「<媒介>への共同化的、能動的実践」だ。
 こどもをつくらないまでも、男と女は二人の時間を重ね、二人だけの言葉や合図や作法や体験や思い出などなどといった<媒介>をつくりあげていくだろう。そうすることで、いや、そうすることでしか男女の愛は深まらない。ところで、自分の趣味や好みの紹介や押しつけ、流行やドラマのなぞり書きなど、そこではまるで何の役にも立たない。二人で探し、見つけ、つくりあげたという共同の趣味や好みや体験などなどでなければ意味がない。
 そこでは、自分への固執をやめて、二人での作業に自らの身を投げ出し、そして「別の自分」をつくりだすという提供と生産の作業が必要となる。どちらかが意地を張れば、または安易な通俗化−「だってみんなやってるだろ」−に流されてしまえば、そこでおしまい、あとは泥沼だ。


<会議>

 もっと具体的に、会議の場を例にとってこの過程を語ってみることにしてみよう。会議に参加するメンバーは、はじめはそれぞれ異なる意見を抱いてその場に参加し、意見を発表する。やがて議長か、または場の仕切り役が、それぞれの意見をそれぞれが合意できる線で、まとめられるところでまとめていったん区切りをつける。そして次に、参加者は決定された合意案に基づいて、さらに意見を展開し、議論を進展させる。
 ところで、会議に参加するために必要な態度は二つある。一つは、意見とそれを発表する人の全人格とを同一視したりしないこと、つまり反論されたからといって激怒したり全人格を否定されたと考える必要はないということだ。会議に参加するにあたっては、まず自分というものをカッコに入れてから議論を展開することが望ましい。何故なら会議での発言はそこに参加する全員のためのものであって、自分の能書きやモノローグのためのものではないからだ。
 もう一つは、合意された案件には責任を持つということ。つまり、いったん形成され合意されたことがらについては、それを新たな自分の意見だとみなし、これに基づいて議論を前に進展させなければならない。最悪なのは、結局は同じ意見を繰り返したり、どんな意見が出ようとまるで眼中にないという「人それぞれ」という立場だ。会議は悩み相談室か独演会ではないのだから。
 会議は合意を形成するためにある。打倒や批判や能書きのためにあるものではない。そこで進展している出来事とは、まず第一に自分への固執を捨てて、全員のために発言するという、<私>からの脱却であり、そして第二に全員のために投げ出された発言に基づいて、全員が一致できる合意案を新たに形成するという、全員がそこで共同できる<媒介>づくりだ。こうして、参加者たちは共同し、より豊かな実践へと向かうことができる。
 また、会議で形成された合意案は、誰か個人のもの、個人が「所有」するものではない。そうであればこそ、他者の新たな参加が可能であり、また排除から無縁でありうる。
 宣言で言う「<私>への固執の否定」や、「<媒介>への能動的加工改変の実践」=<媒介>づくりが、「<私>の現実的で多面的な連関」=他者との共同化に道を開くとは、こうした具体的には会議の場で進行するような事態を描いている。


<私達>

 では、宣言の趣旨はおおまかに説明してみたとして、次に具体的な活動について少し述べてみることにしてみよう。
 もう薄々気づくかも知れないけれど、ここまで宣言の趣旨を述べればPPPの活動スタイルや『勤労市民』の編集方針が理解してもらえるだろう。
 例えば、宣言でもこの文章でも、<私>という主語で物事を語っていない。能書きや自慢や欲求不満の解消のためにではなく、活動への参加者や読者に利用されるために発言しているのだから、必ず<私達>か<我々>という用語を使っている。個人ではなく<PPP>が活動への呼びかけ者だったり、<『勤労市民』編集部>という、ほとんど実体もないのに団体となっているものの名前で発言されたりするのはそのためだ。


<笑い>

 また、この際に言っておけば、「勤スポ」だって単なるゴシップやスキャンダルのためにあるんじゃない。個々人のあれこれを、どこまでみんなで共有できるもの、<媒介>に転化できるか?つまり、私達はどこまで自分に固執せず、みんなに受け入れられるものに自分をうまく転化できるのか?という実験のためのものだ。
 <笑い>はある面で自己否定と共同化の機能を持っている、という認識でPPP幹事会は一致している。悩みや不安を笑い飛ばし、身軽になるための術としての<笑い>、他者に自己を開き他者ととも楽しむ術としての<笑い>。<私>への固執を捨て、共同的な実践をすすめていくためにあれこれとある術の一つとして(もちろんこれだけじゃない)、PPP幹事会は<笑い>を重視している。もちろん、<笑い>は反面で嘲笑と差別をもたらすものであるのも確かだから、慎重に考えねばならないし、ほんとうにヤバイことはやっぱり「勤スポ」には書けない(といっても、失敗することもあったので謝らねばならない)。
 ただ、PPPはおよそ気楽に生き、他者と手を結ぶための術としての<笑い>を肯定し追求する。共通のギャグづくりを追求する「ウチネタ」もその実験の一種だ。PPPの活動はつねにスカポンな情けなさとお笑いに満ちているが、だからといって「真面目ではない」と叱られるには当たらないのである。


<ウチワ>

 さて私達は、外部の<笑い>をあまり好まない。例えば、神田うのが間抜けだの、タモリがかつらだのといった、テレビかラジオで聞きかじってきたようなことは比較的どうでもいいことだ。宣言に、<媒介>への「能動的」という言葉があるが、繰り返しこの言葉を宣言に用いているように、私達は自らつくりあげるという作業を大切にする。
 どうしてかと言えば、例えば部落差別や障害者差別の笑いを思い起してみよう。私達はマスメディアや教育や、様々を通じてやってくる言説や笑い、観念や図像に接しているけれども、或いはこうして形成された内なる諸々のうちに、差別や抑圧やが含まれているだろうことはすぐに理解できる。だからといってそれらを用いなければ生きていけない私達は、繰り返し与えられている様々な言説や観念や図像を、または制度や組織やを咀嚼し直し、そこに含まれている差別や抑圧や、或いは自分達の関係や生活を破壊するものを洗い出し、自らの手でつくり直していかなければならない。
 自分達の手づくりの企画、雑誌、言語、笑い、図像などなどを遂行していこうとするのはこのためだ。もちろん、私達は常に失敗し、もろもろの抑圧や差別やを内に抱えてしまうだろう。だけれども繰り返し繰り返し、自らを形成するものを洗い出し、咀嚼し直し、つくりあげていく試みを、私達は続けていく。それがPPP活動の目的と方向なのだ。

 おおよそエッセイ的に、というよりは観念的に、ややもすれば誤謬や誤解をともないそうな書き方で補筆を綴ってみた。少しは論議の助けになれば幸いだが、ちょっと心配だ。ただ、PPP幹事会で論議されているあれこれを大風呂敷に広げてみただけなので、多くの指摘や論議を加えてもらえたら、そして進展できればと願う。


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