第1号宣言 

新保守主義に警鐘を鳴らす



 新保守主義の脅威が現実のものとなり始めている。それは単に政治上のことばかりではなく、我々の日常における意識のあちこちにもう忍び込み始めている。



1)新保守主義というものを説明するために、ここではアメリカで最も気鋭の新保守主義者、ダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』を取り上げることにしてみよう。ベルが述べるに、資本主義先進国を覆う危機、道徳倫理の喪失や快楽主義の跋扈する原因は、近代文化や思想にあるのだという。この近代文化や思想は我々の日常生活にまで浸透し、「自己実現」という名目を掲げた「放蕩」や、「真の経験」という仮面を被った「享楽」をはびこらせたのだという。ベルは、それは決して合理的な資本主義社会に相容れるものではなく、こうした危機を脱する為に、新たな規範と倫理そしてアイデンティティになるものを再建しなければならないとして、伝統に結びついた宗教的信仰の新たな構築を叫んでいる。
 既に80年にドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、こうした新保守主義の高まりに警鐘を発している。「新保守主義者たちは、経済ならびに社会の資本主義的な近代化が多かれ少なかれ成功したことから生じたいくつかの不愉快な負担を、文化的近代に押しつけている…新保守主義者は、労働、消費、目的達成、そして余暇に対する態度を変化させた、経済的・社会的原因を明らかにしようとしない。従って彼等は、あらゆる現象−快楽主義、社会的アイデンティティの欠如、従順さの喪失、ナルシシズム、地位や仕事の達成を求める競争からの脱落−を'文化'の領域のせいにするようになる。しかしながら実際には、文化はこうした全ての問題にきわめて間接的で媒介された仕方でしか、関わっていないのである。新保守主義者の見方では、いまなお近代のプロジェクトに身を捧げている知識人達が、そうした分析できない原因の身代わりとして引き出される。…不満を生活の中に呼び入れたのは、モダニストの知識人ではないのである。この不満は、社会の近代化過程に対する、根の深い反発から生じているものなのだ。」


2)この新保守主義は我が国において新国家主義として導入された。アメリカでベルが叫んだ新しき規範としての宗教的信仰のかわりに、我が国では戦前の超国家主義なみの日本文化論が持ち出されてきてしまったのである。これまで何度もその復活の試みがなされてきたのだけれど、アメリカと違いファシズムの歴史を持つ我が国にとって、新保守主義の台頭はまさにパンドラの箱を開ける契機となったのだった。80年、大平首相の下で『政策研究会報告書』に「近代を越える時代」のために「日本文化の特質」の見直しがうたわれ、次いでこれを継承した中曽根首相は、85年軽井沢で「日本学」の構築を提唱し、87年には京都に国際日本文化研究センターを創設した。そして、梅原猛、桑原武夫、山崎正和、江藤淳といった御用学者らがこの「日本学」の顔となった。
 こうして始まった「日本学」について以下にその性質をまとめてみよう。
 第一に、ベルに見られたような近代文化への責任転嫁。近代文化、思想は自然を征服することを進歩とする闘争と支配の原理のものであり、自然破壊も現代人の我欲妄執もここに原因があるとし、現実に利潤動機で自然を破壊し人々を闘争に駆り立てる競争と資本の構造については不問にし免罪にする。
 第二に、さらに近代思想の終焉を宣言し、これを越える原理、新しい規範としてアニミズム的、共生的思想を持ち出す。歴史を歪曲してアニミズム的、共生的思想を日本やアジア独自の伝統的思想、文化として恣意的に設定し、この文化の中心にさらに勝手に天皇を据えるという、戦前の「和の思想」とまるで瓜二つの国体論。よって、近代的批判精神や抵抗権は遺棄され、協調と共生が大々的に喧伝される。それはとりもなおさず国家、社会への従属と適応を求めるものである。
 第三に、この新しい規範、協調と共生を起動させるものとしての、かっての国家主義同様の家族主義。日本文化や民族、或いは政治や志向の多様性は無視され、日本民族は一つの家族的共同体であらなければならないものとして描かれる。いわば、家族愛や共同体的関係によって国家や社会が成立しているかのような錯覚を振り撒き、そこに内在される抑圧や悲劇を糊塗する。そして、こうした社会の基礎的土台として家族の復興が希求される。だがそれは生産性のみで男性性を、そして母性のみで女性性を規定し、家庭というものを生産への従事者たる父親を支えこれを再生産する場としての機能のみを担うものとして固着させ、円滑な社会運営と生産や競争への従属を維持するための基礎的な土台を確保しようとするものである。


3)新保守主義の特質は、見かけ上、真面目に社会を憂い正義を考える人々の願望に応えるものとなっているということだ。家族愛や共同体的関係の構築、或いは伝統の重視や自然との共生について、なかなか反対する者はいまい。しかしながら、その悪辣さはこうした共同体的な関係などが政治や経済や制度といった社会の抜本的な変革なしに実現するもの、もともと日本が特性として持ち、主観的な意識の操作のみによってよみがえらせることのできるものとして描きだしているところにある。彼等はハーバーマスが述べたように、現に共同体的な人々や社会の在り方を実現させていない政治的、経済的、制度的条件とは何か、或いはどのような具体的な条件、いわば実体的なシステムの上にそれがもたらされるのかについて何も答えない。彼等は我々にそれが争いの種であるにも関わらず、食うこと働くこと生活することを忘れ仙人にでもなれと言う。全ては近代の思想の責任であり、変革もまた観念のみの領域にある。これは実質的に変革を封殺するものでしかない。


4)こうした新保守主義がどのように浸透しているか、例えば石原慎太郎は『NOと言える日本』という本を書いたが、これなど完全にその枠組みの上に乗っかったものだった。石原は日本人はNOと言えない体質を改め、世界に向けて積極的に発言していかなければならないと述べたが、しかし、NOとアメリカに言わなかったのはこれまでの自民党政治なのであって、日本人の体質や文化とは何ら関係がない。これなどは政治の責任を文化に押しつける新保守主義お得意の技法の一つだ。以降、世界への貢献について論じられるたびにこうした日本民族の'体質'や'文化'が取り沙汰されるようになったが、こうした論調がいかに身近に散見できるかを考えてみればその影響力の恐ろしさが分かる。
 そしてマスメディアの迎合にも目に余るものがある。前述した大平政策研究会の報告からの引き写しである「文化の時代」というフレーズを近頃まで我々は耳にしてきたが、昨今は加えて母子関係を主軸とした家族の復興がうたわれている。その政策推進者の一人である小此木啓吾は「今の社会で石油問題やエネルギー問題と同じくらいに重要なのは、母子関係、つまりグッド・イナフな母子関係をどうやって守っていくかという課題なのです…そういうなかでも最低限、母子関係を守りながら女性が社会的に男性と同等になっていく道は十分にあります。」と述べている。だが、しごくまっとうに聞こえるこの発言は、母性のみで女性を規定し、そこから女性の社会進出を論じるというとぼけたものだ。女性を母性のみで規定すること、母性と女性の社会的人格を強引に結びつけるところから既に差別は始まるというフェミニズムの主張はここでは無視される。
 こうした女性の社会進出や或いは自然保護などをめぐる主張が、我が国のマスメディアにおいてはひどく新保守主義的なものに歪曲され導入されているということに、我々は警戒せねばならない。グリーンピースがプルトニウム船を追いかけ回していたように、ヨーロッパにおける自然保護の運動は、自然を実際に破壊している企業、行政、団体に対する具体的な訴追と働きかけを忘れない。それが、我が国においては抽象的な文明批判やひとりひとりの心がけといった観念的、思想的なものに矮小化される傾向がある。フェミニズムの主張もまた、いつのまにか抽象的な男性全般への弾劾やユニ・セックスないしトランス・ジャンダーへとすり替えられ、現実的に差別を起動しているものへの視線はかき消される。差別が人間にそなわった宿命だと言い切られてしまう我が国の状況は不幸だ。
 かようにここでは凄まじい勢いで議論がかき乱され風化してしまう傾向があるが、しかしそれはもともとマスメディアというものの抱えている性格ではないだろう。中森明夫は近年の風潮を「サリンな時代」と名づけ、ブルセラ女子高生にせよ中学生のいじめマット事件にせよ、そして自社さ連立政権にせよ、主犯の顔や中心が見えなくなったとこれらの出来事を揶揄していたが、新保守主義とはこうした毒ガスサリンのように姿も見えず、犯人も分からないまま大気中に広がって、我々の身近に忍び寄ってくるものだ。かって保守主義には天皇や自民党という顔があったが、いまやそれは顔のない「家族」であり「協調」であり、新保守主義はそこに身を隠してしまう。反抗や変革を解体するのに、これほど効果的なことはなかろう。その恐ろしさは、いくら警告してもし過ぎることはない。


5)いま、不況も底を突き、景気は上昇に転じ始めた。今回の不況は、バブルの崩壊というよりもストック調整の意味合いが強い。それは対外投資に向けた資産調整の為に、大規模なリストラや構造変革をしたものだと言える。いわば、先の好況期に築きあげた留保を投資資産として整備するために、多くの勤労者に犠牲を強いたという、演出された不況だったという側面がある。日本の外側には、いまや体制の崩壊し西側へと壁を開いた旧東欧諸国の広大な市場が広がっている。これから先、資産調整を終えた日本を始めとする資本主義先進国は恐らく未曾有の好況と進展を迎えることになるだろう。
 しかしながら、我々の未来は、何が抑圧の種であるかも知らされないままに首を絞められる不幸を舐めるものになるのだろう。これから凄まじい勢いで回転しはじめる産業の動力に巻き込まれて切り刻まれる痛みを、麻痺させてくれるだけそれは有り難いのかも知れない。新たな新保守の人間論は息詰まる社会のカンフル剤だとあるテレビキャスターが言ったが、全くその通りだ。栄養ドリンクほど本当に体のためにならないものはない。薬漬けの未来といったところだろうか。過労死してしまう前に、我々は依存するのをやめておこう。


もどる