第10号宣言

言論の限界線


 私達がこの宣言で取り組んできたのは、この頃ようやく明らかになってきたように、言論の限界線を確かめる作業である。言論や理念の無効が喧伝されるこの時代にあって、私達はまずもって自らの言論の有効範囲を確定する作業から始めなければならなかった。
 私達はだから、決してあらかじめ言論や理念を棄て去ろうとするものではない。それらに対して、どのような態度が必要かを私達は模索してきたのである。
 いまだその過程にあって判明としない点は数多く残されているが、およそいまのところ私達は3つの方向を持っている。
 その第一は、およそどのような言論であれ理念であれ、天から降ってきたような、あらかじめ存在するものなのではなく、それらは歴史的社会的に形成され、また今後、加工改変されていくだろうものとして見るということである。いわばそれらは具体的な歴史の流れと社会の変遷のなかで、人々がつくりあげてきたはずのものだということである。
 よって私達はこれら言論や理念をあたかも天恵であるかのように見做し、これを振りかざす観念論派に代表される向きを好まない。理論上の正確な意味において、人間的諸価値を個々の具体的な人間自身の手から切り離す物神崇拝であるとも見るからである。私達はあくまで言論や理念の力をその具体的な生成の場に立ち返って見てみようとする。
 第二は、よってそれらが有効な社会、集団、歴史、場は自ずと限定されていると見るということである。逆に言えば、場や関係によって言論の有効性は規定されているということだ。ある一つの理念が、どんな場でも集団でも同じ効果を果たすとは限らない。
 とりわけ私達が<人間性>に代表される人間自体に関する諸理念を回避するのは、身近な人々ならいざ知らず、一般他者について、その個々の実在を殆ど知らないと自覚するからである。責任のもてないもの、知らないものについて裁定することほど無責任なことはない。
 第三は、ゆえに実際には言論や理念の有効な場を、およそ一般公共的な領域に限定し、個々の実体的なことがらについては具体的な責任を果たせる限り(ないし私的な関係のある限り)にとどめようとしているということである。政治、経済、制度、社会一般、文化、思想など、それらが公的なものであるからこそ私達は公的な言語、言論や理念を用いる。それらが公的であり、およそ社会人である限り関連しまた責務が課せられるからこそ、はじめて私達はそれを語り、批判し、分析することができるのである。私達は公的−私的の区別に極めて意識的である。端的に言えば、理念を振りかざしても恋人はできない。私達は、雑誌だから、論文形式だから、会議だからこそこうしてしちめんどくさい諸々を語ることが出来るのである。
 それぞれの関係には、それぞれの具体的な用語がある。そして私達は、先に述べたように言論の具体的な生成の場や関係をこそ重視する。そして私達の言論は、私達の生きる具体的な場や関係に支えられた有効なものであることを弱々しいながら目指している。だから上からやってくる観念論で私達の具体的な場や関係を判定したりすることに対しては殆ど否定的だ。また、理念や精神論を振りかざして友人や恋人を、同志を求めようとしたり、関係づくりをしようとする、いわゆる<べき論>についても深い疑念を抱いている。
 既に第9号宣言で述べているように、私達の目的は、公的、抽象的なものを個々の実体に押しつけることではない。個々の具体的で実体的な生が、自律的、共存的にあることのできる制度、社会一般の編成を目指しているのである。理論的言論もまた、こうした公的制度一般の一つとして、機能しうるものに鍛え上げていこうと願っている。


もどる