第2号宣言 

フェミニズムを擁護する必要あり



いまや「フェミニズム」という言葉はどこででも散見できるものになった。それは女性差別を告発する運動や言論を指すものとして用いられるが、しばしユニセックスなファッションやサブカルチャーについての解説でも引用されたりする。しかしながら、我が国ではいまだ揶揄や誤解がつきまとい、必ずしも正当な評価を得ているとは言えず、むしろその意味は拡散し曖昧になりつつあるように見える。そもそも「フェミニズム」とはどのようなものであるのか、ここで確認しておくのは必要なことだろう。



1)フェミニズム運動はもともとどのようにでも解釈されてしまう要素を抱えている。この運動は70年代アメリカで高揚した反戦、学生運動によって点火され派生してきたという側面を持っているのだが、この経緯がその性格を大きく決定しているからだ。
 それは第一に、当時の反戦、学生運動がリベラリストから毛沢東主義者までの政治的中核を持たない幅広い立場の人々の協同によるものであったように、ここから誕生したフェミニズム運動もまた雑多な人々の集合によって成立したものだということ。ゆえに、中心も綱領さえも持たないフェミニズム運動の持つ意味は始めから拡散する命運にあった。これは革新的、反政府的な運動は保守二大政党が独占する議会からは排除されるゆえに、政党としてではなく議会外の草の根的なものとして展開するしかないというアメリカの独自な状況による産物である。ゆえに、我が国とその背景は大きく違うのであり、やみくもに議会政治や地道な運動を否定しいたずらに挑発的であった我が国の類似の運動とはその性格が異なることもここで明記しておかねばならない。
 第二に、フェミニズム運動は政治運動ではなく、文化運動として結実したものであるということ。それはこの運動の背景となる当時の反戦、学生運動の底流をなしていた社会や文明への深い失望や不信を最も鋭く露出させたものだった。高度生産、消費社会へと突入していた先進資本主義国においては、文化や芸術、思想さえもそこに取り込まれ、抑圧的なものへと転化しているとの疑念に満ちた認識と根底的な失意、それが当時の反乱の原動力となっていた。ポップアートの席巻によって既成の芸術観が転覆されようとし、文明による性の抑圧を告発するマルクーゼの『文明とエロス』が飛ぶように売れていた時代である。多くの文化人が既成の芸術や思想の「死」を宣言して反乱に加わったりした。いわば、60年代末期から70年代にかけて高揚した諸々の反乱は、その根底において経済的政治的要求の運動というよりも、むしろ近代文明というものそのものへの拒絶とその革新を求める意識のものであったと言える。ゆえに、この運動の展開とともに労働論を中心としたマルクス主義が退潮し、自然保護やフェミニズムなどの新たな文明批判を主軸とした理論が登場し力を得てくるのも当然のなりゆきであった。



2)大規模に燃え上がった60年代末期の反戦、学生運動はその沈滞とともに自然との共生の実験やドロップアウト、制度内での改良、アジアへの注目、そして悲劇的なテロリズム等々へと様々な方向に拡散していったが、その最良の結果としてフェミニズムと自然保護の運動が挙げられる。文明批判の声はヨーロッパではオルタナティブ等を経て今日知られる緑の党やグリーンピースといった自然保護運動へと結実したが、これらに連動しながらフェミニズム運動も確実に地歩を固めてきた。
 こうした経緯に見られるように、フェミニズムとは何も男性批判と女性擁護だけの学なのではない。それは第一に文化批判の運動である。差別的な女性像への指摘を通じて文化に内包されている抑圧性を告発するものだ。それは、こうした差異による差別、抑圧を起動させる文化の在り方や仕組みこそを露出させ白日の下にすることを課題としている。
 そして第二に、こうした文化批判は近代文明の在り方への問いへと連動している。即ち、近代文明による人間性の抑圧や破壊を鋭く見抜く視線をそこに内包している。男女間だけでなく、差異による差別と対立の起動、民族差別や競争至上主義、或いは人間と自然との対立的破壊的関係の発生など、あらゆる近代文明が稼働させている差別や抑圧を告発しこれを止揚しようとする、極めて広い射程、自然保護運動や人権運動へとつながるべき裾野をフェミニズムは持っている。
 男性の論理に対して女性の論理を衝突させ、対決しようとするのがフェミニズムではない。無論、核をなす勢力を持たないフェミニズムのうちには、こうした誤解を招くような一翼があることも確かである。だが、こうした対立と衝突が起こる原因と構造こそを探求し、止揚しようとするものがフェミニズムと呼ばれるものの最良の理論的到達である。



3)70年アメリカで出版された『性の政治学』によって始まったフェミニズム理論の探求は、80年に入り女性作家の発掘と再評価へとつながった。我が国でもいま、若桑みどりや小林富久子などがこの作業をすすめているが、現在、アメリカを中心とする理論活動の展開はさらに性だけでなく民族や文化、階級などの差異全般への探求へと拡散しつつある。フェミニズムはいまだ未完の理論であり、その発展はいまだ急速に現在進行しているところだ。それは迷走をともないつつも大きな可能性を孕みつつ膨張しつつある。
 我が国で活動する上野千鶴子や富岡多恵子ら代表的フェミニストの仕事は、ようやく70年代のアメリカでのように、差別の告発を開始した段階にいまだあるように見える。それは、差別の重苦しく深々と根を張ってきた我が国の独自の、そして困難な状況によるものだろうか。しかし、こうしてようやく根づき始めたフェミニズムの仕事を、混迷はあるとしても全体としては擁護していくことは必要なことだろう。


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