第7号宣言 

<主体性>神話批判−<私>とは誰なのか?−


 「<私>は一体どこからやってきて、そして、どこへいくのだろうか?」しばしば近代人はこうした問いに直面する。<私>というものの根拠への漠然たる不安、それは古き共同体から解き放たれた近代に生きる私達にとって宿命のようなものだ。私達のPPP活動は、依存的、従属的ではない、自立的、共同的で自由な<主体>を構想し、これを追求しようとしている。しかしながら改めて考えてみよう、そもそも<主体>=<私>とは一体何なのか?<私>の根拠はどこにあるのか?


1)主体の形而上学
 一般に私達は透明で汚れなく、分裂や矛盾のない統一的で完全な、そして誰もが認め満ち足りて輝ける<私>を理想とし、これを追求しようとする。また、こうした理想的な<私>が他人や社会において承認され実現されているという意識において自己の意味と役割つまり根拠を計測しようとする。いわば理想とし目的とする<私>の社会的現出の意識をもって自己の根拠とするのが通常の近代的な発想法であり、いわゆる<私>という自意識である。だが、しかし、当然ながら現実の生活において誰もがそう理想的に生きていけるわけではないし、或いはそう楽天的にもなかなかなれない。まして、いつでも全幅の許容や称賛を与える都合の良い恋人や上司や群衆にめぐりあえることなどありえない。
 理想的な、または理想として教えられてきた<私>と現実生活における<私>との落差は、自己への不安や焦燥、否定意識を呼び込むだろう。或いはこうした意識は、自己を承認せよと他者へと過度に要求し、恐怖しまた依存するといったもろもろの確執をいつでも孕むだろう。かってヘーゲルは『精神現象学』において、<私>への執着が他者との血塗られた闘争をもたらすことを洞察した。<私>という自意識は常に他者の承認を必要とするが、それは自意識の上において要求されるゆえに、ここでの他者とは自意識に映ずる<影の自己>であって他者の実在は消滅させられるしかない。<私>という意識に固執すればするほど他者に依存し、かつ他者の実在を滅しようとするのである。異常な偶像崇拝、恋人や友人への愛玩人形的な振る舞いの要求、他者への過剰な指示、従属や戒律の強制、過度の発言や発表への羨望と喝采への執着、ナルシシズムと演出過剰、特別でないこと注目されないことへの脅迫的な苛立ち、一方的過ぎる身の上話、自らだけが特別に感受し感傷し発見し思考するという自惚れ、自らの挫折と世界の悲劇を重ね過ぎる精神、その他諸々が、ここではいつでも私達に忍び寄る。


2)形而上学批判
 しかし私達はこうまで煩悶して、一体<私>の何を守っているのか?ヘーゲルはこうした相互闘争を自己否定により克服する態度として弁証法を要求した。<私>という自意識をめぐる煩悶は、実に自家中毒でしかないのである。言うまでもなく私達は特別でも選ばれてある存在でもありえない。絶対的な根拠をもっているはずもない。通勤ラッシュにもまれる灰色のスーツ姿、街を行き交うモノクロのモブ、事件を取り巻く有象無象のヤジ馬達が私達の鏡に映った姿である。
 しかしながら、<私>はこうして消滅することはできない。生きていく上で私達には行動と思考の根拠が必要なのである。また、そして無論、私達は理想を掲げることそのものを否定できない。理想と理念は常に自由を獲得し抑圧を批判し連帯するための術(あくまで部品である)であり、ゆえに私達はむしろ、理想と理念に依存し自らを埋没させることによってこれを台無しにしてしまう、理念を自己満足や弁護のための具へと堕すことに警告を発している。
 さて、消滅できない<私>のために新たなる根拠や方法を提示し獲得しようとする戦略が必要である。また、その幾つかがこの現代には既に存在している。
超越論的根拠
 その第一が宗教的なものを代表例とする、現代社会を越えたところに絶対で超越論的な根拠を求めようとするものである。現実世界に基盤を持つ<私>は常に失敗し挫折し動揺する危機にあるが、これに代えて決して現実や社会や日々のあれこれに左右されたりしない神や生命や民族やらに根拠を求め、<私>の危機を調停してしまおうとするものだ。新興宗教をはじめとし、新保守主義、美化された民族と歴史を描く民族主義、選民思想、階級的歴史観を形而上学化する左翼の一部、極度に生命を美化し抽象化するエコロジーの過激派、外的存在を語るニューサイエンス、神秘主義、自己改造セミナー、実存主義のせっかちな応用者達、過剰な人文エリート主義などはその例である。
 これらが処方箋として有効なのは確かだが、しかしこれは挫折や不安や自己の不足や錯誤をまともに正視できない甘えん坊達の発想である。或いは理念によって自己を宙吊りにするという点において、近代的発想法を一歩も出ていない。あるべき理念的な<私>を想定し、そこに依存的に根拠を置く限り、いつでも他者の実在を消滅させる危険は忍び寄る。理想の異性像に埋没する連中に現実の恋愛など不可能だというようなものだ。また現実社会に距離を置くゆえに、一層そこでは実際的な民主主義や自由への考察が、宗教的なものや民族的なものを例とするように決定的に欠けることになる。
 彼らの自己否定への呼びかけは依存への掛け声である。私達は理念への依存をこそ、そこに発生する自家膠着と自己中毒をこそ突破せねばならない。
漂流と遊戯へ
 第二はポスト・モダニズムの真摯な部分を先鋭とする、そもそも<私>というものの構造を変えてしまおうとするものである。アルチュセールやフーコーらは、かって<私>を統一的で理念的に閉じられたものとしてではなく、矛盾的で多面的に現実社会や他者と連関する重層的な構造として構想した。即ち<私>という自意識は理念に依存すべきものではなく、現実との多面的な、そして開かれた連関において捉えられる。ドゥルーズらはさらに<漂流>などの言葉で自己の多面的生成の道を提示した。これによってポスト・モダニズムは、いつ来るか分からない理想の実現や革命の到来を大口をあけて待ち続けるよりも、今ここでどう生きるのかという追求をなし、今日の個々の現実的で具体的な連関において自己の意味や変革の可能性を見出すことを促した。彼らは<私>の統一的で理念的に閉じられた在り方のうちに、或いはこれを強制する諸々−知のヒエラルキーや異物を排除する管理システム−のうちに<抑圧>と<権力>を見た。それは依存と従属を要求するものであり、また変革をいつでも先延ばしにするものである。
 彼らは変革を語り得る。ところで、しかし次のことも明記しておかねばならない。彼らの立論は純理論的であり、独自の具体的根拠の薄弱さがあるゆえにともすれば空中戦になり易い。その是非は彼ら自身がそう述べてもいるように、歴史的、社会的連関のうちに具体的に審判していかねばならないものであり、イエール学派(アメリカ文芸批評)のように単に文学の復権へと結びつける後退的な応用派も現に存在する。彼らポスト・モダニズムはいまだ具体的な手がかりを現実生活のうちに見いだしていない。前進的、批判的、改革的な意識と実践に頼らずして彼らポスト・モダニズムはいまだ積極的に機能しえていない。批判抜きの'現実的で多面的な在り方'が享楽的に流れるのは容易いし、現に日本的ポスト・モダニズムはそこに帰着した。どのように、どうしてこうした<私>が成功しうるかについて、いまだ彼らは抽象的な考察を与えるにとどまっている。
 言うまでもなく、または彼らが繰り返し指摘しているように、多面的で重層的に生成する<私>は常に<抑圧>や<権力>との緊張関係にありうる。私達は一切の従属や抑圧から自由な時代に生きてはいない、誰もが自由に多面的に生きていける条件や能力を得ているわけではないのである。現実的な課題を問う場合に必要なのは、現に抑圧があるこの現代において、何を具体的に手がかりとして働きかけ、変革と変容をもたらしていくかであろう。


3)媒介への視線
 今一度繰り返すが、私達は理念と理想への依存のうちにではなく、多面的で重層的な現実生活との連関のうちに<私>の居場所と根拠と、そしてその変革の可能性を見る。私達は不必要な価値判断、卑下やあきらめや否定感や無常感などから自由であり、いま現にここにある生活、友人、知人、恋人、制度、能力、メディアなどなどとの連関から出発しようとする。
 さてしかし、<現実的な連関>とひとくちに言うが、私達は<媒介>抜きにして、直接に他者や社会と連関しているわけではないことに改めて注意しておく必要がある。言語、身体、イメージ、視覚、理念、制度、法、商品、貨幣、道徳、マスメディアその他諸々を<媒介>として他者と、社会と私達は連関している。逆に言えば<媒介>こそ私達を他者と連関させ組織化させる、いわば<私>を形づくるものとも言える。真の<私>なるものがあらかじめ存在し、それが<媒介>を、文学や絵画などを通じて明らかにされたりするのではない。それは神話に過ぎないのであって、逆に<媒介>によって<私>は形成されている。そして、ゆえに<媒介>体験−<媒介>を通じて別の自己を生産しこれを他者と共有する経験、例えば小説を書く、絵を描くことによって別の自己を産み出しこれを評価され、職業や制度を通じて新たな顔と活動を獲得し社会的責務を負うなどといった、いわば<媒介>に対する能動的(で共同化的な)実践−こそが<私>の多面的重層化と連関化に道を開くのである。よって多面的で現実的な連関としての<私>の根拠や意味の獲得とそしてその変革は、こうした<媒介>に対する加工改変の可能性(能動的実践の能力)において決定されている。いわばより豊かに自由に、そして能動的に<媒介>に対処し行使しうる者がこの現代資本主義下において主体的な者である。
 しかし重大なのは、こうした諸々の<媒介>に対する加工改変(能動的実践)が全ての人々にとって可能ではないというところにある。端的に言えば、誰もが制度を自在に利用し、メディアに参加し応用でき、言語や図像や知識を巧みに操れ、そうやって多面的で豊かに開かれた現実生活との連関を編成できるわけではないのである。ここに<権力>や<抑圧>の壁が浮上してくる。これらの下にあって、私達は能動的というよりもむしろ従属的に実践へと向かうのである。会社で学校で制度の中で、様々な力学の下で、私達は依存へと、<媒介>への能動的実践の途絶へと強制されるだろう。
 私達の立論は、こうした観点において実体的な批判的機能の基盤を獲得しうる。そしてまた、私達は実践的、具体的な展望を手に入れる。私達PPPの目的は、ゆえに<媒介>に対する多面的な能動的実践を可能とする諸条件を、その実行においてもたらすこと、いわば歴史的、社会的諸条件のうちに既に切り開かれ与えられている現に可能な<媒介>への能動的諸実践の進展と拡大を通じて、或いは<媒介>を能動的な実践に利用可能とするような内在的変換の諸実践において、変容と変革を実現していくことにある。
 「英知においては悲観主義者、だが、意志においては楽観主義者たれ。」とはグラムシの言葉だ。私達は具体的展望を手に入れてある以上、知においては依存から手を引くゆえに徹底して批判的な態度である一方、意志において実践においては、すこぶるのびやかな姿勢であることを可能としうる。世情が混沌としているからといって、世紀末だからといって、私達ののんびり加減が非難される理由はない。私達は主体性<神話>批判の観点において、嘆き屋や悲観好きの甘えん坊、慰めを求めてさすらう者達から離脱する。


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