第8号宣言

どうして私達は「友愛」とか「人間性」とかいう言葉を用いないのか


 私達はあくまで「愛(人間愛)」とか「友情(友愛)」とか、「人間性(人間的精神)」とかいった観念的な言葉を用いない。何故と問われるに、勿論、使い古されてしまっているということや、あまりに気恥ずかし過ぎるということもその理由に含まれる。だが、より重要な理由が他に3つある。
 それはまず第一に、あまりに抽象的過ぎて中身がないからである。本来、「愛」にせよ「友情」にせよ、そして「人間性」にせよ、それらは個々人によってそれぞれ表れ方の異なるもののはずであり、また、具体的な営みのうちにあるもののはずである。それらを一般抽象化してみても殆ど実際には何も言っていないに等しい。或いは、人間を知らない、個々の生の在り方の重みを知らないと非難されても仕方がない。これらの言葉は、あくまで評論のための、即ち作品や一般公共的な諸々に対して使われる用語なのであって、実際に生きてある生に向けて発せられるべき言葉ではない。とりわけ文学や芸術に創作者として携わろうとするならば、また或いは、そもそも一個の生活者として自らの生の現場をしっかりと踏み固めていこうと願うならば、まずもって具体的な問いのうちに立脚する精神を尊ぶべきである。
 第二に、それらが非常に自己中心的な用語だからである。これらの言葉はまずもって「愛でないもの」「友情ではないもの」「人間性のないもの」との区別を前提とする、つまり人間についての裁定を孕んでいる。勿論、どのような概念であれ、必ず何らかの価値判定を含んでいる。だが、他の社会用語や理論用語と異なり、特別にこれらの言葉には誰が人間の生それ自体を裁けるのか?という極めて重い問いがつきまとっているのだ。
 諸々の一般公共的な動向や権利、利益や制度などについて価値判断を下すことは、社会人としてある為にむしろ必要なことだ。だがしかし、「人間」自体について、生そのものについては、神ならぬ私達の誰も「人間/非人間」の裁断を下すことなどできないはずなのである。
 それは神の言葉、世界の中心に自分が存在していると思い込んでいる者の言葉である。でなければ、重大な他者への不信や無知、或いは抑圧を孕んだ言葉である。個々の根底にあるものを信頼するならば、あえて語る必要を感じないはずの用語であろう。大仰にこれらを振りかざす者は、他者よりもまずもって自らを振り返るべきなのである。
 第三は、安易に依存できるものだからである。これらが発せられた途端、最も大切な問いが隠蔽される。「それは、どのように具体的に育成されるものか?」観念的、精神的な言葉ばかりが叫ばれるというのは、負けはじめた軍隊か傾きかけた企業の体質のものであり、いわば病的な状態をも示すものである。
 これらを懇願し、これらによって生を判断してもらおうとする従属的精神、まるで天から降ってきたものであるかのようにあらかじめそれらを捉える見地、これは言語の正確な意味での物神崇拝、モノ化する精神である。「愛」にせよ「友情」にせよ「人間性」にせよ、これら本来は個々人が具体的に形成してきたはずのものが、個々から切り離され一人歩きしてしまうことこそを、また、こうして一人歩きした価値にかえって人間自体が従属してしまう、人間自体が判定されてしまうことこそを、哲学は人間疎外の根源的形態と呼ぶ。観念的精神の代表例としての宗教が、偽りの歴史を必然的に語るように、それらは具体的な人間的なものの形成の場を隠蔽してしまう。観念的精神は、具体的な生を圧殺することによって成り立っているのである。
 さて、この際だから、偉そうな口振りになるが断言しておこう。私達の幸福にとって、「友愛」だの「人間性」だのといった大言壮語はまるで必要なものではない。私達に必要なのは、足下の生活を支えながらも、ささやかで着実な変革を積み重ねていく為の具体的な一歩一歩であり、実際的な構築のただなかにあるものである。幸福とは、そして「愛」や「友情」や、また「人間的な生活」とは、本来もっとおだやかなものであり、そしてもっとこまごまとしたものであるはずだ。


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