第9号宣言

共同性論の準備のために−共存を妨げるもの−


 先に私達は「第7号宣言」で、主体=<私>の根拠を空虚な理念に依存して求めるべきではないことを述べた。具体的に考えるならば、誰もが現実の生活の編成のうちに必ず何らかの根拠を持っているはずなのであり、よってそこに立脚して発展的な思考が語られるべきだと説いた。
 ゆえに、私達は具体的な生に連携する限り、およそどのような主体の在り方をも承認する。「仕事人間」であれ「きりぎりす」であれ、「おやじ」、「おばさん」、「芸人」「マニア」「粋狂人」であれ何であれ、原則上肯定する。
 スーツ姿の一群を「社畜」と嘲るのは容易い。また、享楽に走る一群を「中身がない」と罵るのも容易い。だが、批判を口にする連中がしばしば抱いている「ほんとうの自分」に、一体どのような実体的な中身があるというのか?他者の個々の実在を消滅させた上に<私>の根拠を組み立てる限り、どっちもどっちなのである。
 しかして、問いはここに立てられる。<私>の根拠をめぐる困難はむしろこうした、相互に打倒せねばならないというところにこそある。問題は、それぞれが共存できる条件にない、それぞれがそれぞれの具体的な<私>の在り方を肯定できないというところにこそ求められなければならない。
会社、家族、男女
 具体的に言えば、現状においてどんなに自由な暮らしを望んでいても、会社に入れば社員として振る舞わざるをえないし、どんなに仕事が好きでも、組織がそれを認めなければ放り出されるだろう。学校がうざったい学生達にとって教師や親は抑圧の象徴であろうし、親と大人は愛情うんぬんよりもまずその立場と責務において子ども達の逸脱を認めるわけにはいかない。仕事帰りの疲れた夫は奔放な妻の振る舞いを許すことは出来ないだろうし、妻は夫のあまりのふがいなさには不安を抱くだろう。
 さらに換言してみよう、会社は、その組織の運営の円滑の為に、社員の放縦を認められない。学校は、家族は、自らを維持するために子どもの逸脱を許容できない。家庭は、明日の糧と家計の為に、夫や妻の奔放を捨ておくことができない。いわば、私達は現状にあって会社や家族や家庭やといったもろもろに従属する存在なのである。その下にあっては、人は山田や佐藤といった具体的存在であることができない。社員であり、学生であり教師であり、親であり子であり夫であり妻であるといった、抽象的存在としてあることを強制される。<私>の在り方が抽象化し、理念化し空虚なものと化してしまうゆえんは、またゆえに他者の抑圧をあらかじめ前提としなければならないのは、まさに私達が組織や制度一般に対して従属的存在としてあるからである。
 よって前進は、組織や制度一般がどこまで個々の具体的存在を許容する強度を持ち得るかにかかっている。或いは、私達がどこまで個々の具体的な在り方に基盤を置いた主体として自律的、共存的に制度や組織一般を編成しうるかによって測定されるだろう。
具体的な<場>と<生>
 さて、このことは、決して会社や学校や家族や家庭といった組織や制度一般の解体を目指すということを意味しない。私達がそれらに従属し依存しているのは、まさにそうでなければ現状では生きていけないからである。
 およそ理念上ならば好き勝手なことが言える。例えば、愛と性の不一致や享楽の自由を説いたり想像したりすることも可能である。だが、実際にそれを実行に移せば、誰が破壊される家庭や集団の後始末をするのか?誰が子どもを養うのか?といった生々しい問題が当然浮上する。
 このことは、例えば障害者や老人の介護の問題を見ても分かる。どのように深い愛情を持ってしても疲れ果てて崩壊する家族は後を絶たない。それを非難するのは容易いが、あまりに生の重みを知らない精神である。愛や理念の不足を告発するのは誰にだって出来るだろうが、当事者につきつけられているのは、どうやって生き残るか?といったとてつもなく厳しく生々しい選択なのである。必要なのは、具体的なヘルパーや介護、援助の制度であり、障害者や老人達とて疎外されることのないような場や環境づくりである。
 繰り返し私達が具体的な場において<私>の根拠を求めるべきだとするのは、こうした生々しく具体的な問題に正面から向き合っていかなければならないからである。共同性について語る前に、まず私達が<主体性>批判から出発したのはその為だ。私達の共同性は、具体的な生活の連関や具体的な組織や制度一般の編成において、これをいかに創造するか、いかにそれぞれが共存可能的なものに少しずつでも転換できるかのうちに語られなければならない。


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