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教育問題のドーナツ化現象。大都市にある学校での非行、いじめ、暴力行為などの教育問題は次第に沈静の方向に向かいつつある様子。というより子ども達に問題行動を起こすほどの気力も無くなりつつあるというほうが正確かも知れない。かわって奇妙なだらけたムードが教室に支配的になりつつる。かっての教育問題はむしろ都市近郊のホワイトカラー層に集中しつつあり、いわば教育問題のドーナツ化現象が進んでいる。ローン苦による主婦のパート化や残業や遠距離通勤による父親の不在など、いま都市近郊で進展する中間富裕層の没落と非行やいじめなどの教育問題がほぼ結びついていることに注意すべきで、愛知や福岡などの衛生的都市で現在、教育関連の事件が頻発するのはこうした理由からだと思われる。
      
オウム事件によるポスト・モダニズムの総転向。我が国の80年代を代表したポスト・モダニズムの主要な哲学者達が、オウム事件を契機に一斉に失速するという事態が進展している。中沢新一、栗本慎一郎など、近代的な知を越える別の知恵の在り方として東洋哲学や宗教原理を持ち出した連中が、いまやその決算を迫られており、中沢などは「宗教学者、中沢新一の『死』」というコメントを発し、かってオウムを持ち上げた自らの哲学的アプローチを自己批判している。結局はこうしたポスト・モダニズムの「生命」や「宗教」といった全体的、形而上学的なものへの接近を批判し、決別した浅田彰ら『批評空間』派が面目を保った格好となった。
    
少年ジャンプの返本率が急上昇。近頃『週刊少年ジャンプ』の返本率が驚くほどの率で急上昇しつつあり、発行部数の低落が続いている。一方『サンデー』や『マガジン』は好調で、かってのジャンプの格闘路線は終わりを告げつつあるようだ。 
    

美的理念の枯渇をめぐる論議。オウム事件を契機に、識者や文化人の一部から、現代社会における美的理念や創造性の枯渇が取り沙汰されはじめている。これは、消費文化を土壌とし、その先鋭でもあったオウムが結局は何も新しい表現や芸術を生み出さず、全てがまがい物でしかなかったとの認識から、現代社会はひよっとして新しい創造をもたらす土壌を損なっているのではないかという提起だ。あらためて「とてもプロの域に達しているとは思えない」山田かまちの絵や詩がブームとなったりする現象などが取り上げられ、本物を知らず、凡庸なまがいものを手っ取り早く祭り上げてしまう風潮を危惧する声もあがり、反論もあわせて大きな議論となりつつある。
      
身体性の後退。エステやミニスカ、はてはダイエット食やドラッグの浸透という表向きの派手さとは裏腹に、流行としての「身体性」への偏重は行き止まりつつある様子だと、批評家達が口をそろえはじめている。かわって台頭しつつあるのは、「オーディナル・ネオ・オプティック」ではないかと感じるがどうだろう?「身体性」にかわって「即物性」が登場するのだ。
            
ゴーマニズム宣言終了。『週刊SPA!』に連載していた小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が、オウム幹部のコメントを掲載しようとする編集部や宅八郎との確執の末に、「さらばだ!価値を創り出すための新しい闘いのために!」との捨て台詞を残して終了してしまった。「誰に向かって、何のために、どういう意味をもって発言するのか」を問い、話題さえ呼べれば良しとする向きを批判したこの最終回はとてもカッコいい。小林の思想や表現方法には色々な問題が含まれていたとはいえ、この点については断固として擁護したい。確かに、私的で自己中心的な言い訳や或いは売り上げのために思想を用いることは許されない。しかし、だが、私的なものと公的なものを混同してしまう欠点はそもそもこのマンガにつきまとう弱点でもあった。思想は小林という個人ではなく、あくまで「我々」によって語られねばならなかったのだ。こうした弱点がはからずしも露呈してしまった最終回でもあったが。
            
女性と子どもが強くなる理由。実際に企業内での男女平等はそれほど進行しているわけでもなく、また文化的にも差別が解決されつつあるわけでもない。子ども達とてその置かれた状況は決して「子どもの権利条約」に定められるところを守られているわけでもない。なのに何故女性と子どもの社会進出がこれほど喧伝されるのか?それは結局、「消費的な主体として」社会進出を遂げているに過ぎないのではないのか?という疑問も沸き上がる。消費行為において、人々は老若男女の区別なく平等である。商品を購入する経験は、子どもを大人の目線に、女性を男性同様の立場に引き上げるだろう。即ち、「消費的主体」において、消費世界においてかりそめに自立を果たしているに過ぎない。その善し悪しは様々として、こうした消費的意識と実際の社会の生産や労働の場(「労働主体」)における現実とのずれは、多くの問題を呼び込んでいる。
      
尾崎豊オウム殺人説。余波の続くオウム騒動の渦中にあって浮上してきたのが、「尾崎豊はオウムに殺された」とする噂。信者獲得のためにオウムは尾崎を利用しようとしたが本人に断られ、激怒のあまりガスで「不審死」させたのだという。こうなると何でも不可解なことはオウムの責任。          
        
マインド・コントロール限界説。やはりオウム事件について、心理学、臨床学者の一部からはマインド・コントロールの効果に疑問を呈する声があがっている。これは「騒動の全てはマインド・コントロールによって操られていたからだ」とするマスコミなどの見解に異を唱えるもので、「マンイド・コントロールの効果には限界があり、潜在的に共感するものからしか共感を引き出しえないはずだ」とするものだ。映像を操作する「サブリミナル効果」などについても早くから批判の声があがっており、これはある広告屋のでっちあげだとする資料も提示されている。「マインド・コントロールで人間の全てを操ることが可能だと思い込むのは、恐るべき人間に対する貧困な視線なのであり、それはオウムの唱える人間観を共有することでもある」という批判である。
        
「老人」達の反乱。やはりオウム騒動について。今回の事件を若者達の暴走だと捉えてしまうのはやや単純過ぎる。全青年層のうち、オウムに走ったのはほんの僅かなのである。いまクラブや街で現代の流行文化を形成する先鋭達にとって、オウムなんて「ムサイ奴ら」以外の何物でもないはずだ。これはこれほどの騒動に発展する以前から恐らく変わらない。よく彼らの発言や振る舞いに注意するに、およそ彼らには「若者」らしさがないことが分かるだろう。彼らは「新老人」なのであり、「若者」文化からおよそはみだした層であったことに注意しておくべきだ。