時代は変わったか?−分裂的な日々の断章から−
あの大震災が起こってから、改めて思い知らされたことは幾つもあるけれど、そのうちの一つは、「僕は知識人じゃないんだ。」ということだ。あの朝、多くの知人、友人が崩れてきた書物の山に埋もれていた時に、僕は棚から落ちてきたテレビを抱えていた。災害は人々の飾りのない真の姿を明らかにしたと評論家は言うが、全くその通りだ。
そうして僕がつくづく蔵書の少ない本棚をみつめながら、将来についての漠然たる不安に浸ることをいつものように楽しんでいた時に、東京ではより物理的な不安が醸成されていた。第一報は嬉々とした電話の声だった。「サリンがバラマカレたってよ!」東京の友人の誰々が、恐くて家から一歩も出れないでいるらしい、という彼の冷笑交じりの声に促されて、テレビのスイッチをひねる僕の心に浮かぶ大文字は「しめた!」だ。
「次は大阪が危ないかもね。」口の端を歪めながらひそひそと言葉を交わしているうちに、強制捜査が発動されて世にも奇っ怪な教団がブラウン管には登場してきた。新聞はさらに書き立てる、「大阪の教団支部で大阪教育大学の2回生を誘拐容疑で逮捕。」その名前を見て、僕はそして大笑いをする。知っているのだ、彼を、確か2年前に言い争ったことがある。「君の観念主義はいつか自己中毒を招くだろう。」そう罵倒したことが、今やあまりにも的を得ていたので、僕は苦々しい勝利の美酒に酔う。
ブラウン管には派手なロゴが踊る、カルト教団の幹部達はどうしておしなべて美男、美女なのだろう?教組だけが醜男だという嘲笑は、もう喉先までこみあげてきている。幹部達のひややかな眼差し、涼しげな口の端。およそロボットのような顔つきを、僕達は美しいと思い込んできた。大根を値切るおばちゃんのだらしない唇よりも、財布の小銭を数えて舌打ちするおっちゃんの萎れた眼差しよりも、ロボットこそが美しい。
「真面目になんてやってられるかよ。」このたった6畳の部屋に、新聞と雑誌とテレビが世界を映しだす。窓の外では雨が降り、雲が過ぎ、太陽が陽炎を沸かす。悲鳴も、毒ガスも、流れる血も、僕の体を汚すことはない。電話の受話器からは呟きが流れている。「校長先生の話って退屈だね。どんなにいい話だって退屈だね。責任を持てって、友達を大切にしろって、正しいことを実行しろって、とってもいい話だね。」
僕はきっとワクワクしている。一瞬にして街が廃墟になったら、倒れたビルのなかで友達呼んで酒盛りするさ。上司なんて呼ばないね、社長も校長も探さない。カルト教団の幹部が雑誌で言ってたよ、「外部に幸せを求めるから挫折するのです。例えば恋人はどうですか?彼女はあなたを愛しているのではなく、あなたを愛する彼女自身を愛しているのかも知れない。我々はうつろいやすい外部にではなく、自らの内部に、決して崩れることのない不動の精神に永遠の幸せを求めるのです。」ほうら、人間不信、そうだよ、僕達は人間不信だから、あいつらは僕達の分身さ。
「校長先生、でも無理だって。だってしんどいんだもん。眠いし、腰も痛いよ。そのかわり、毒ガス撒いたりしないよ。精神がたるんでるからって友達殴ったりしないもん。」君達は健全だね、良かったね。これからが頼もしいや。
宗教学者、ナカザワシンイチは死んだのだと、中沢新一が語っている。かってのニューアカデミズムや日本的ポストモダニズムの帰結が、かのカルト教団の暴走なのだと呟いている。70年代、80年代を通じて振り撒かれてきた奇妙なカルト趣味や歪んだ精神主義が、この事件によって決定的な破綻を言い渡されたのだと。時代は変わったらしい。
けれども、ちょっと待て。さんざん人々を踊らせておいて、いまさら間違いでしたはないだろう。僕らはそりゃあさんざん批判してきたさ。それでも、何かあるかも知れないと必死で耳を傾けて摂取してきたつもりだよ。その努力は無駄だったの?勝手に時代を変えるなよ、もともと変わってたのはあんたじゃないか。
僕は「知識人じゃない。」そう、主体的な知の守人ではない。踊ってきたなと思う近頃だ。次の異変までには埋もれるぐらいの書物を用意しておくことにしよう。