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 暫し我々は不幸な社会のうちに生きていると言われる。飽くなき闘争と差別、そして物象化や或いは商品化に彩られた人間関係の中で、我々は煩悶し懊悩しているのだと。
 かってそれは政治ないし資本の権力による暴虐がもたらす不幸として捉えられ、脱出の希望は社会革命に負託されていたが、いまやそればかりではなく、
「何故我々は不幸であらねばならないのか?」
他者排除

 近代芸術における、「創造的個性」をめぐって要求された調和の図式が、矛盾的で、かつ相克と闘争、排除を内包するものであるという予見は、この20世紀の美術の諸運動を我々が分析してみる以前から、既にヘーゲルの言説のうちに垣間見られるものである。それは、これから述べるように妥当性の承認をめぐる闘争として記述することができるだろう。
 周知のように、ヘーゲルは希求される調和の線上において語られるべき芸術の、「終焉」をこそむしろ宣言したのであった*9。彼はギリシャ芸術に範を取りながら、そこに見られたような全体的(合理的)理念と芸術的形式との合致は、もはや近代の芸術のうちに認めることはできず、その芸術的内容と形式は乖離し始めているとして、統一された「芸術の過去的性格」を述べたのであった。即ち、近代の芸術のうちにあっては、芸術的内容と形式の合致は必然的と見做されず、またそうした合一し全体的理念の開示をその自明性とするような芸術というものは既に過去のものになってしまったと、ヘーゲルは語ったのであった。
 ただ、もう少し厳密に述べ直してみるとするならば、この統一の破棄、いわばヘーゲルにとっての近代芸術の自律性とは、直接的ないしつまり彼の言葉で述べるところの「即自的」な全体的理念(ヘーゲルはこれを「概念」と述べてもいるが)への適合の解消であり、そこからの離反である。それは換言するに、同時に反面で、彼の哲学において理念の無限の主観性を本領とするとされる精神が、自律ゆえに絶対性を確保する限りにおいて、理念に関して最高の境地に達するべきものであるが、ゆえに本来の統一を破棄するものであるということでもある。即自的な存在としては破綻という矛盾を抱え込むが、精神において、心情において、即ち主観的意識において、ないし「対自的」な存在としては理念の自由を獲得するということである。いわば、この意味において芸術の自律性とは芸術の即自的な自己自身からの超越であり、主観的意識の上へと転化されることによる自己の止揚、つまりは換言すれば自らを独立したものとして意識する自己意識のことである。
 かくして、いわば精神のそれ自身としての独立性を確保したがゆえに、自律的なものとしての在り方のうちに新たな妥当性と自明性を獲得した近代芸術という図式、それは、全体性と、そこから切り離されてあるそれ自身として自らを独立したものとして意識した精神として、芸術の自律性という言説を読み替えてみることが可能であるということを意味する。この精神の自らの独立性への自己意識の代名詞として「創造的個性」という言説を当てはめることもできよう。ところで、我々はそれが自明性ないしは妥当性という自己意識の言説にあてられた規定であるというところにまずもって注意を払っておく必要がある。つまりは、その語法を借りるに、「意識の学」であるヘーゲル哲学の特殊な文脈に注釈をつけておくことを忘れてはならないのだ。
 よって、次に我々はこの自己意識の展開の道程を『精神現象学』において検討していくことにしてみよう。
 『精神現象学』の「緒論」で彼は次のように述べている。「自然的意識がこの道程において遍歴するところの一連の諸形態はむしろ意識自身を学にまで形成する教養の詳細な歴史である*10 。」この箇所はヘーゲルの叙述の方法を示すものとしてしばしば取り上げられるところでもあるが、即ち、彼の哲学とは内的世界の遍歴の記録、意識の形成史の記述なのである。それは、意識の理性へと向かう自己形成の旅なのであるが、しかして、その展開を媒介し、移行を支える動因となるものが「自己意識」である。ヘーゲルの哲学において、それは単なる移行期の形態ではない。前述した通りこの自己を独立したものと意識する「自己意識」は、理念への即自的統一を破棄することにより意識の自由な展開を保障し、具体的普遍性を帯びた真実性の獲得への探求を可能とならしめるものであり、よって意識から理性への出発と移行の契機にして動因となるものである。いわば、ヘーゲルにとっての意識から理性への道程は、自己意識の遍歴の過程となる。
 さて、このヘーゲルにとっての「自己意識」とは、「関係する」ことそれ自体であることをここでは強調しておかなければならない。意識の自己形成とともに歩むというその道程は、とりもなおさず他者を媒介としたありよう、即ち妥当性の承認を求めてさまよう軌跡をたどることにほかならない。
 しかして、「この道程は疑惑の道程とも見なされることができはするが、しかしもっとも厳格に言えば絶望の道程である。*11 」前述したように、精神の妥当性はそれ自らの自律性を意識することによって確保される。自律性という自己の個別意識は、他者との媒介、全体ないし不変との照応において意識される。これは即ち個別性の出現してくるのが不変なものにおいてであり、また不変なものが出現してくるのが個別性においてであるということである。かくして、自己意識は合わせ鏡の間に浮かび上がる。何故なら、自己意識は一方で自らを個別と見做し、他者に全体であることを要求する。だが、そうすることによって、また一方で自己意識は他者を全体の海のなかに没し他者そのものを消滅させ、ゆえに自己自身を撤廃してしまう。この図式においての他者とは、自己意識に映ずるもの、鏡に映された自分自身のことである。こうして自己意識は自律性と非自律性という矛盾を抱え込むのだが、この合わせ鏡のなかでは、実在としての他者は消滅させられることになる。「自己意識はその満足を他の自己意識においてのみ達成するのである。*12 」それは他者による承認ではなく、他者の消滅を意味するのである。
 矛盾し分裂した不幸な意識は、他者の排除を求める闘争を無限の合わせ鏡の世界で繰り広げる。さて、ところで、こうしたヘーゲルの叙述は、確かに極めて説得的な予言に満ち溢れている。彼の言説を近代芸術の領域に当てはめてみる場合に、我々は自律性と非自律性への分裂した要求を内包しながら、しかし他を排除し専門化の極北へと邁進してきたその歴史というものを考えてみることができる。これは仮にヘーゲルの言説を全面的に受け入れた場合のことであるが。
 こうした不幸な意識からの脱却は、ヘーゲルの提示するところによれば、自己の断念によって訪れる。「敵に対して勝利をうることはむしろ屈伏することであり、一方のものに達したことはむしろ反対のうちに失うことである。*13 」意識は、合わせ鏡の世界での闘争、これは結局は自己をめぐる闘争、自らと争うという膠着に他ならないのだが、その不幸の最果てに必然的にまちかまえている喪失、いわば自滅を通じて、自らが「無」に等しいことを自覚する。こうして、意識は自我性と自由とを放棄する、即ち自己を否定することによって統一へと止揚され理性へと逢着する、というより彼特有の叙述法に従えば、理性において、即ち理性が顕現することによってこれを獲得することになる。
 こうした解決は我々の芸術に訪れようとしているだろうか?その検討を諸々の作品のうちに具体的に始める前に、ここでヘーゲルの図式について吟味しておく必要がある。それは先に留意を促していた通り、「意識の学」たるヘーゲルの序説の方法についてである。つまりは意識の形成史は、一体どこまで実際の芸術史に適合させることができるのかということについて検討しておかなければならないのである。
 不幸な意識の闘争の場である合わせ鏡の間とは、実に自己意識それ自体にほかならない。この闘争の過程は、即ち自己意識の自己運動そのものであり、それは変化というよりは無自覚から自覚へ、内包されたものの顕在への過程として置き換えられるべきものである。つまり、合わせ鏡の間は模様替えはするものの、原理的にはすでにあったものなのである。これは生成でも変化でもなく、既にあるべきものの再現であり再生産に過ぎない*14 。我々は即ち、これを不幸な意識へとそもそも自己意識を形成させるものとはどのようなものかということを探求してみなければならない。
 この自己意識を大雑把に言えば「価値形態」ないし「商品形態」に読み替えてみるとして、マルクスの叙述をたどっていくことにしてみよう。彼の述べる価値形態ないし商品形態とは、ごく簡単に言えば労働の生産物を商品たらしめる場としての資本制生産様式にして、換言すれば人間の社会関係そのものである。これはヘーゲルにとっての意識が「関係すること」それ自体であったことと照応する。マルクスの場合特有なのは、しかしこの関係が物質ないし労働生産物を媒介しているというところにある。その独自性は次の言説のうちに示される。「労働生産物の商品形態およびこの形態が自己を表すところの労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対に何の関わりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係に他ならない。だから、類例を見いだすためには、我々は宗教的世界の夢幻境に逃げ込まなければならない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でも人間との間でも関係を結び自立的姿態のように見える。商品世界では人間の手の生産物がそう見える。*15 」即ち、「転倒」とその「消去」である。人間の手になるものでありながら、それが商品として人間の社会関係に媒介されるやいなや自立的なものへと転倒し、またその転倒自体が消去される。
 それは価値形態という物質ないし労働生産物を媒介とした関係の場に備わった必然的機構である。今村仁司はこれを貨幣という形態をヒントにして次のように説明している*16 。貨幣とは、資本制社会関係としての価値形態ないし商品形態に通底する相互交換によって集中的に排除された形態である。労働生産物が商品たるためには、それは交換されねばならない。ところが、この交換は相互に異質なものが、交換されるものたらしめるために相互を排除するものである。この過程はヘーゲルに見た他者排除の具体的な物質ないし労働生産物を媒介とした社会関係における記述となっている。しかして、この相互排除を調停するために、集中的に排除された形態が必要とされるのであり、それが貨幣である。貨幣は、結果として社会関係的に全く排除された、第三項となるのである。「市場における諸商品は、直接的には交通不可能なのである。諸商品は、第三項という回り道をたどってはじめて、交通=交換=通訳可能になる。水平的コミニュケーションが直接的に可能だと信じるのは、全くの幻想である。…社会関係は二項対立関係ではなく、第三項と二項対立関係であることの意味は、十分に捉えておく必要がある。*17 」
 ここに見られた他者排除とは、繰り返すが物質ないし労働生産物を媒介とした交換による排除である。この交換において、他者は自らの労働生産物の価値を映ずる鏡としての存在以外のものではありえない。いわば、自己と他者との関係は自己と物質との関係即ち労働生産物を価値づけるものに転化する。さらに、この異質なものの交換において生じる排除による他者の実在の消滅によって、他者という鏡は、その存在を隠滅させられ、そこに映じられた労働生産物の価値は自立化する。つまり、物質ないし労働生産物を媒介することによって排除は重層化しているのである。人間の社会関係そのものとしての労働生産物つまりこの場合は商品が、我々が日常普段に用いる物的な意味での「商品」へと転倒して立ち現われる機構は、すでにこの基本的な交換の図式のうちに孕まれている。
 しかして、こうして立ち上がる自立的な価値の生成は、いわば排除と転倒の結果であるが、同時に人間的諸関係が価値として物的に自立することによって人間自身が諸関係を剥脱され疎外されるということを意味する。自立的なもの、ここでは商品が人間的に見え、人間自身が物に見えるという反転、いわば物象化はこうして生成されるが、ところでこの自立的なものはこうして人間的諸関係の体現者となるゆえに、諸関係を形成する媒介としての第三項と化する兆しを内包している。商品は既にその物理的特性を排除されるという傾向を孕んでいるが、相互排除を調停するものとしての集中的に排除された第三項は、貨幣がそうであるように、完全にその固有の特性を排除されたものとなることによって、いわばその固有の特性を全く自己否定させられることによって、諸関係の交通を可能ならしめる媒介となる、或いは人間相互を協約する諸価値の体現者としてありえることになるのである。
 これをヘーゲルの言説に再び当てはめて理解できるのは、次のようなことだ。転倒と隠蔽によって現われる新たなる第三項は「あたかもヘーゲルのアウフヘーベンが働いているかのごとくに進行する。排除と転倒の上に成立した世界は、あたかもヘーゲルが提示した鏡的交換の世界のごとくであり…鏡のなかでは全ては鏡の交錯である。しかしこの場面にしか目を向けないひとは、この世界を全て幻想の一言で片付けるだろうが、それは間違いである。現実にはこのシュミラクルの世界を成立させるシュミレーション機械がその下方で絶えず作動しているのである。*18 」
 さて、再び近代芸術へと筆を戻そう。近代芸術にあてられた言説、これを「モダニズム」と呼ぶことにするが、それが転倒され排除を隠蔽した鏡的交換の世界についての言説であるということができるとするならば、或いは「創造的個性」という言説はその排除による第三項化の過程を叙述する言説となるだろう。優れてアウフヘーベンされたものについて、それは実際に貨幣へと転化されてきたばかりでなく、これと等価な役割をまた、近代の諸芸術に対してなしてきたのだ。
 しかしまた、一方でモダニズムは排除と隠蔽の機構がもたらす軋轢にも敏感であった。それは排除としての交換がなされるときに生じる悲鳴のようなものだが、モダニズムはこれをいつも聞き取ってきたことを、我々は忘れるわけにはいかない。
 さて、しかして、モダニズムが孕んだ転倒と隠蔽のベールを剥がしてみるとき、そこに何を発見できるであろうかを、我々はしばし具体的な作品のうちに検討していくことにしてみよう。

*1 海野弘、小倉正史『現代美術-アール・ヌーヴォーカラポスト・モダンマデ』、新曜社、1988年、7項。ココデハ、一般的ナ議論トシテコウシタ見地ヲ取リ上ゲテイ  ルガ、コレガ正当デアルカニツイテハ検討ヲ要スルモノデアルコトニ留意シナケレバナラナイダロウ。
*2 H・Rosenberg,THe Tradition of New,Thames and Hudson,London,1969,p30
*3 Vgl.C.Greenberg,Modernist Painting,in:The New Art
*4 P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974,s.72-73
*5 アヴァンギャルドヲモダニズムニ内包サレル反省能力ニ結ビツケル見地ハ、次ノモノヲ参照ノコト。三島憲一「知ノ制度化ト美ノ機能」、思想730号、青土社
*6 P.Burger,Theorie der Avantgarde,Suhrkamp,Frankfurt,1974,s.73
*7 I・カント、『判断力批判』篠田英雄訳、岩波文庫、1964年、上巻256項
*8 「知ノ制度化ト美ノ機能」参照ノコト。
*9 Fr・ヘーゲル『美学』、竹内敏雄訳、岩波書店、1956-81、第一巻「展望」参照ノコト
*10 Fr・ヘーゲル『精神ノ現象学』、金子武蔵訳、岩波書店、上巻81項
*11 前掲書、上巻81項
*12 前掲書、上巻181項
*13 前掲書、上巻210項
*14 今村仁司『暴力ノオントロギー』、勁草書房、1982年、144項
*15 K・マルクス『資本論』、社会科学研究所監修・資本論編集委員会訳、新日本出版社、124項
*16 『暴力ノオントロギー』、44-88項
*17 前掲書、68-69項
*18 前掲書、146項