■「高校教師」−人間主体の不安の中で−
今春放映された「高校教師」(MBS金曜ドラマシリーズ)は、数年前の「トレンディドラマ」全盛期以来、久々に大ヒットしたTVドラマだった。といってもそれは話題ばかりが先行した現象だった感もある。教師と教え子の恋、レイプ、同性愛、近親相姦…と、連発されるタブーの描写ばかりが取り沙汰され話題となった。今11月には映画化されて再登場するということで、ブラウン管では盛んにその宣伝が流されているが、このロケ撮影を各地の高校が拒否するという現象まで起こったことも記憶に新しい。しかし、さてこのドラマ、そもそも一体どのような内容だったのだろうか?
このドラマに大きな影を射しているのは、「不安」と「孤独」である。脚本はかの「101回目のプロポーズ」や「愛という名のもとに」を手掛けた野島伸司だが、かっての作品でうたわれた「愛」や「友情」への信頼の眼差しが、この作品では大きく揺らいでいるのだ。
粗筋を述べよう−主人公、羽村隆夫(配役=真田広之)は女子高校へ臨時講師として赴任してきた新任の生物教師である。大学で助手として研究を続けることを望みとしていたが、研究室の人数調整で残ることが出来ず、暫く講師を勤めることになった。しかし3ケ月後には教授の娘と結婚をし研究室に戻ることも約束されており、この講師職をなるべく平凡に問題なく勤めあげようと考えている。もうひとりの主人公、二の宮繭(桜井幸子)はその高校に通う2年生である。2年前に母親を亡くし、今は彫刻家であり芸術家気性の荒い父と二人で暮らしているが、日々に不満と誰かに救けてほしいとの思いを募らせている。二人の関係は本当にふとした出会い、羽村先生が定期を忘れ改札でひっかかっていた二の宮を「うちの生徒です」と引き受けたことから始まる。二の宮にとって、この見知らぬ新任教師の−当たり前ともいえる振る舞いだが−垣間見せたほのかな優しさは何より嬉しいものであった。物語はこの二人の関係を軸に、現代的な孤独や不安に呻吟する人々を周囲に絡ませながら展開する。そして、婚約者にも教授にも裏切られ、絶望に打ち沈む羽村教師はいつも傍らにまとう二の宮と道ならぬ愛に落ち込んでゆくのだ。二人を待ち受ける結末は悲劇である。二の宮が父親と近親相姦の関係にあったことを知った羽村教師は、父親を殺害し、二人は手を取り絶望的な逃避行へと旅立っていく…。
こうして述べてきたように、物語は非常に陰惨で暗欝だ。森田童子の主題歌「僕達の失敗」がまた、画面に哀切な響きを加えている。「春の木漏れ日の中で/君の優しさに/溺れていた僕は/弱虫だったんだよね…」どうしようもない自分、やるせない日々、いやというほど身に染みてくる孤独、それがこの物語全体を統括する主題を暗示する。
タブーばかりが先行して話題を呼び、このドラマの終了後には事実、雨後の筍のように二番煎じな、ショッキングばかりを売り物にするテレビドラマが続々作られることになったのだが、結局内容的にも視聴率においてもこのドラマを越えることは出来なかった。何故なら人物の造形においても、物語の構造においても、「高校教師」は説得力をもっていたからである。といっても「真実の愛」なるものの姿をきちんと描いていた、とかいう説明(例えば「キネマ旬報」がショークスピア的悲劇という解説をしていたようだが)があてはまるのではない。それはすぐれて現代人の姿を説得力ある形で提示していた、すなち非常に「リアル」だったということなのだ。
この物語の特徴は、登場してくる人物がおしなべて不安定だというところにある。教育の理念などとうに失ってしまっている教師集団、問題なく仕事を切り上げようとつとめる主人公羽村教師を始め、得られない愛情を教え子をレイプする形で発露させる英語教師、厳格であるがゆえに孤立しヒステリック気味な女性教師、生徒を退学にさせることで問題を簡単に解決しようとする教頭等、この学校のどこにも理念も連帯も見当らない。唯一人間的な温かさを持つかに思える体育教師でさえ、体罰教師としてふるまわざるをえず、結局彼も忌み嫌われながら学校を追われることになる。他の登場人物もまた同じである。愛情を信頼できない羽村教師の恩師や、娘に頼りきりで異常な愛情に陥るニの宮の父親等、満ち足りて幸福な人物など一人も出てこない。
ギスギスした関係と孤立、不信と救済への飢え、ここに現代的なタブー、近親相姦などといった歪んだ病が忍び寄ってくる。そしてこうした状況を前に、登場人物たちはただ打ち震え、沈黙する。彼らはいうべき言葉を持っていない。口を突いて出る言葉は、希望や解決を指し示せないのだ。こうした物語の構造と演出が、人気を呼んだそもそもの理由であろう。多少の差はあれ、かような孤独や不安は、現代人の誰もが心の底で実感していることではなかろうか?勇気を腕ふってうたい、友情を正面から語り、悲しみを全身で表す人物が絡んで作り上げる物語は、現代にあって何とも「白々しい」。そんな人物など身の回りのどこにもいないのだ。曇りのない感情、明白な行動、それがみつけられないところに、あるいはそれが嘘臭く思えるところに現代という時代の特徴はあるのではないか。こうした「リアル」な現代人の姿を取り上げたところに「高校教師」の持つ魅力はある。
物語は、真面目にふるまおうとする人物、主人公や体育教師らほど、結局は悲劇的な幕をむかえるという組み立てになっている。自分というものをみつめなおし、大切なものを守ろうと足掻いた者ほどまともな社会生活から跳ねとばされ、悲惨を舐める結末をむかえている。ここに単なる偶然の悲劇にはとどまらない、言いようのない意味が含まれているように思える。現代社会の持つ構造がこのドラマにそのまま組み込まれているというところに、僕達は暗然たる感想を抱かざるを得ない。希望の地を示せ得ないということは、決してこの物語が否定的な成果を抱えているということを意味しない、それは現代という時代そのものが内包している暗さなのだ。