第11号宣言「前衛からの一時的撤退」
私達は、今宣言において、「前衛」からの一時的撤退を宣言する。が、あらかじめ誤解のないよう述べておけば、「前衛」とは決して特定の党派、集団を意味していない。ここでの「前衛」とはアヴァンギャルドであり、大衆に対する指導的中核のことであり、無知蒙昧を啓く導き手としての自意識のことである。
私達は、自らを「前衛」だと名乗ったことはない。しかしながら、PPPという計画集団である以上、どこかでこうした自意識を前提としていたことは間違いない。でなければ集団を企図することにそもそも意味を見出せないからだ。
しかして、私達がこの宣言を発しなければならない状況は、次のようなものである。
もともと「前衛」とはフランスで軍隊用語から派生した語である。これを広めたのは初期社会主義者として名高いサン・シモンであるが、その出自の通り、攻撃的で破壊的な性格をそれは帯びている。
では、「前衛」は何と闘うのであろうか?それは長らく我が国において、共同体や家族との闘争に明け暮れてきた。繰り返し世相に現れた「怒れる若者達」は、その自由の為にまず家族を懐疑し、地域共同体を代表する学校を嫌悪し、これを突破したところに新しい社会と民主主義を見てきた。
或いは、彼らが変革すべき対象として見た社会の像とは、端的に言って彼らが衝突した家族、共同体を広く拡大して適用したものである。例えば天皇制を家族共同体に結託するものと見做し、また国家を父権と見た。
しかしながら現在、地域共同体や家族の在り方が変質し、いわば闘争すべき対象を見失うにあたって、これまでの「前衛」はその意味を変質せざるをえなくなってきている。或いは、現在、社会の在り方が不透明なものに見えると言われるのも、もともとこれまでに社会を家族や共同体の延長として見て取ってきたたがゆえのことである。
いまや社会に対して、共同体や家族のモデルを適用することは出来ない。その一例は新しいインターネット世界などにも見出せる。そこには「ネチケット」なる言葉が存在し、たとえ情報化の世界であれ旧来の共同体的モラルは必要であるとの声がしきりであるが、はっきりいって「ネチケット」はむしろ論争に火種にしかなっていないのがインターネットの世界である。そこに共同体では当然のはずのモラルを持ち込んだ途端、巻き起こるのは罵倒合戦である。同じことは、街頭のあちこちでも起こっている。もはや好むと好まざるとに関わらず、社会と共同体は異なるのだと言うことを私達ははっきりと意識せざるを得ない。
理想的なコミュニティづくりによって社会を変革するという道もまた、ゆえに途絶している。オウムを筆頭として、これらが閉じたカルトとしてしか現れないのもこのためである。
社会像を新たにする必要に、私達は迫られている。或いは、自由や民主主義や新しい文化の創造の為に、新しく何が障壁で、何が必要な規律であるかを確定する必要に迫られている。
私達に必要なのは、現在、闘争ではなく確定する作業である。
何故なら、旧来型の闘争は結局は自己破壊にしかつながらないだろうからだ。闘争すべき対象を探し、堅牢な共同体の壁(もちろん部分的には現在も存在するだろう)を求めようとするならば、現在の弱々しい紐帯よりも、過去に受けてきた教育や家族との思いでのうちに引きかえっていくほかない。こうした闘争は限りなく自己言及を繰り返すものとなるだろう。
現在の創造が、またはサブカルチャーの動向が、学校教育や幼児の頃の思い出の周辺をぐるぐると回遊し、無限の自己言及に終始するしかなくなっているように見えるとされるのも、同様の事情を指している。
無論、新しい創造は各地で始まっている。例えば現代美術の領域で展開されているのは、「結合」を要求する流れである。或いは昨今のヒット商品に見られるように、現在の流れはコミニュケーションに形を与える何かであるだろう。
かっての闘争が烈しく共同体から自己を分離し、自己を確定することを要求する運動であったとするならば、現在の運動は他なるものへと逆に自己を投げ出すものだと言うことが出来るだろう。いかに自己の輪郭を拡大するかにこの運動の中核はあるが、これは実質的に新しい「自由」や「権利」を形成しつつあると言うことが出来る。
たとえば人々はいかに「情報」なるものに接合するかに血眼になり、全世界との交信の夢に夢中になる。「個性」はむしろ邪魔であり、過剰な「自意識」ははっきり言って貧乏籤となる。
従って私達は「前衛」からの一時的退却を余儀なくされている。
だが、これはあくまでも格好つけて言えば一時的な戦略的撤退に過ぎない。何故なら、私達はまた現在の動向が、ある種の危険を孕みつつあることを感じている。この新しい「システム社会」像は実は人類にとって1920年代以来お馴染みのものなのである。西欧での新しいアヴァンギャルドは本当はこの20年代に始まる。私達はその機会をうかがっているのだ。