その2 〜関ヶ原前哨戦?草のもの暗躍(笑)



--------注:ここから戦闘モード(笑)
信楽から少し北東へ。相変わらず風景は山間の平地だが、なにやら怪しげな雰囲気が(笑)
そう、そろそろ水口町から甲賀の地へ突入しているはずだ・・・。真田草の者としてはこれは要警戒だろう。

「このへんかな?」注意深く車を降りてみる。
なんのへんてつも無い山間の里に見えた。しかし地図を見てもあきらかにここが甲賀の里だ。「なーる・・・」特に敵と遭遇する事もなく、甲賀の地を通り抜けられそうだ。
「・・・まぁ、記念だ」
私は助手席にあったデジカメを構えて甲賀の里を写真に収める。多分後で見直してみてもなんのへんてつも無い写真だ。そのへんで撮ってきて「甲賀だ!」といいはる写真と区別がつかないだろう。(その写真(笑)→)
「甲賀はもはやあの時の甲賀ではないのか・・・」
「戦がやんでからかなり経つからのう・・・」
(本当は例によって何にも下調べしてなかったので、分からなかっただけとは口が裂けてもいえない)
「なにもないのう」といいつつも、進む又五郎であったが、
この看板とか→
には、しっかり車を止めて反応している(笑)

「さて、行くか」
甲賀に一瞥をくれ、去ろうとしながらも最後の注意を払っていたその時・・・
又五郎の目に、ある看板がとび込んできた。それは、普通に車を走らせていたら、決して気づかないような「見ても見なくてもいいけど、一応ここに掲示しておくよ」といった、申し訳程度の看板だった。

←それがこれ(笑)


「な、な、な、なに?」
そこには紛れもなく、「甲賀忍者屋敷こっち」と書いてあるではないか!

大胆な挑戦状である。わざわざ屋敷のありかをお知らせしてくるとは・・・。それともこれは罠なのか? しかし、草の者としては捨てておくわけには行かない。甲賀とは宿命のライバル。関ヶ原の前に、その諜報網を撹乱しておく必要がある。関ヶ原に入る前に、又五郎の関ヶ原はもう始まっていた。
そうだ!これは 『 関ヶ原前哨戦 』 なのだ!
そうと決まれば、さっそく行動だ。時間は午後2時前・・・。ゆっくりしていられる時間でもなかったが、この際関係あるまい。

素早く車を反転させようとした時、早くも問題発生。「看板には→矢印がでているが、どこに道があるのじゃ?」
そう、その右側は見渡す限りの田んぼだった・・。 「ううむ、さすが甲賀屋敷・・・」おもわず唸る又五郎。

「あ、あーた、それはな、この先のガソリンスタンド曲がってずーといったら、小山に上るからその辺で又聞きんさい。こんな所から説明できん」通りすがりのおばあさんが言う。どうやら甲賀屋敷は辺鄙な所にあるらしい・・・(忍者屋敷なのだからある意味それは正解といえる)。そして、この看板の意味も理解できた。この矢印は、「こっちに曲がるんですよ〜」と言っているのではなく、「こっちの方角にあるんじゃないかな〜」と主張していたのだ!

恐るべきおおらかさ。「見つけれるもんなら来やんさい」とでも言ってるかのようだ。
まさか策略か?おおらかさは・・・相手を油断させ、そして誘う。我が昌幸公も良く使う手だ。
うーむ、恐るべし甲賀・・・。


■特別編集---「私は見た!集団を打ち破る甲賀戦法」
私がようやくたどり着こうとしたその屋敷は、やはり小山の上の民家が密集した中にありました。行くまでに、「この道は違うだろう??」と思ったのが数回ありました。そこは本当に車がぎりぎりすれ違える民家の細道なのです。そんな中、道を曲がると、そこに突然巨大な観光バスの影が・・・?「なぜこんな所に・・」と思いつつこっちも動けないので見ていると、その挙動からどうやらUターンしたいらしい(笑)。前から店のおばちゃんらしき人が出てきて、「ありゃー、難儀なことやの」と半分呆れ顔で見ていました。しかしバスの運ちゃんは必死です。ガイドの女の人も「ピッ、ピッ」と必死に笛を吹いてます。結局空き地で150回ぐらい切りかえして、ようやくバスはUターンしていきました。あとで忍者屋敷でもその話が出ていて、「ありゃー、あんな所まで入ってきたらあかんよ」「なに考えとるんじゃの」とそこの人は話してました。どうやら忍者屋敷を見に来た団体だったらしい・・。知らずとはいえ・・・。しかし、考えてみたらこれは昔の少数で多数を打ち破る戦術そのままじゃないのか?袋小路におびき寄せて、身動きできない所を討つ。それに見事ひっかかった観光バス(笑)。あらためて甲賀屋敷の恐ろしさを垣間見た気がする又五郎であった。
----------




発見!甲賀流忍者屋敷
色々あったが、いよいよ屋敷に到着である。緊張が走る。
「ここが甲賀の屋敷か・・・」車を止めて、あらためてよく見てみる。

甲賀屋敷は、一見すると普通の農家のようだ・・・。しかし、油断するなかれ、中には恐ろしい仕掛けがあるに違いない。むっ?それにしても、この前にある「あなたも簡単に忍者になれます」マシーンはどうだ。思わず血が騒ぐではないか。うぐぐっ、撮りたい。しかし今日は観光ではなく、敵情視察に来たのだから、ここはぐっとこらえる事にしよう・・・。

さっそく門の前まで来る。

『望月 出雲守 旧宅』
と書いてある。なるほど、ここは元禄年間に建てられた甲賀屋敷らしい。
早速中へ入って見ることにした。「入場料500円」もらいます。ぬおおっ!いいのか?これだけのお金で見ず知らずの人をどんどん邸宅内に入れて・・。入り口のすぐそばに、「甲賀五十三家」の一覧が飾ってあった。ぬおおっ!いいのか?こんな特Aランク情報を無造作に公表して・・。

この時すでにかなりのまれた感のある又五郎であったが・・・
今日は草の者代表としてここへ来ているのだ!ひるんでいる暇はない。

望月邸内をあらためて見渡す。武具や道具らしいものがあちこちに展示されている。「あ、苦無だ・・」草のものはこれを改造して飛苦無(武器)として使ってるよね(^^b

「この柿、おいしいよ〜」隣でしきりにおばあちゃんが話している。 確かに一盛100円は安いと思うが、残念ながら忍びの習性として人からもらった食べ物は食えんのだ。すまん、おばあやん。
(左から、苦無[土を掘る道具]/直刀[忍者刀]/手裏剣)





とりあえずざっと一回りしたので、玄関にもどる。そして、そこの上にあったこの家の紹介文を読んでみた。
しかしそこで・・・ ついに驚くべき事実が発覚したのである!

「えーと、なになに。
『望月家のこと 天慶の乱(将門の乱)を鎮定した功労者の一人として信濃国佐久郡望月城の城主三男重俊は、時の朝廷よりこの地に封ぜられ・・・』
え!?佐久郡望月???信濃国?   ・・・・これはひょっとして、望月とはあの真田の前世代であった滋野三家の内の望月氏となんらかのつながりがあるのでは??」

そうなのであった。そこには紛れもなく「佐久郡望月」の文字が書かれていたのである。文面を続けよう。

『・・・封ぜられ、十六ヶ村を賜ったのであるが、所謂甲賀武士五十三家の中でも有名な家であった。今から約600年前南北朝の時、南朝に従い四条畷に出陣敗戦後、再び当地に居住。朝熊坊と称し、伊勢国朝熊岳の明宝院の薬僧使者となり山伏姿で全国を行脚し、明宝院の御札とともに万金丹及び人参活血勢龍湯という薬を配薬して人々から感謝されたが、この姿は忍者として格好のものであった。
又長享元年(470年前)、将軍足利義尚が近江の勇佐々木高頼を討伐の時、高頼の要請により望月は五十三家を率い、今の粟太郡下鈎で足利軍を破ったのであるが、これは下鈎の陣として有名である〜〜(以下続く)』

うーむ、残念ながら関ヶ原当時の記述がない・・。
しかし、甲賀望月家は、その出自で真田と縁の深い「滋野三家の望月氏」とつながりがあったかも知れないのだ。

「しかも五十三家でもかなりの地位にいたらしいだと?」
「そうか。なら、あの昌幸公の事、この人脈を利用してなにか策略をうっていたかもしれないな・・」
そう思うと、急激に甲賀望月家への親しみを覚えていく又五郎であった。


「なんだ、そういう事なら早く言ってよね!」--------注:戦闘モード解除(笑)




 2000年10月7日 〜 10月9日
++ 関ヶ原合戦400年祭 参加レポ その2 ++