ああ、素晴らしき哉 『 真田本城 』 ・・・ついに真田本城跡に立つ!
2000年12月30・31日

1998年夏・・・・
私がまだ若き情熱のままに上田へ旅立った時、そこはまだ未踏の地であっただけではなく、未知の地でもあった。真田太平記の舞台が見たくて上田へ強襲した私がそこで上田近辺の地図を見て「・・・・真田?」という小さな町名を見つける。「真田と名がついているなら行かねば・・・」そう発作的に思って(笑)、期待を膨らませながらバスの時刻表をチェックした。しかし・・・残念ながら、夏の暑さと広いその地は、私を受けつけてくれなかった。いけどもいけども辿り着かない・・・看板だけを恨めしげに見つめつつ、再来を誓う。あれから2年半・・・

2000年12月30日・・・・
つ、ついに念願の真田町である!しかも今回はあの時と違ってしっかり勉強はできてるし、車だから大丈夫である(笑)車の中から流れる景色を眺めていて・・・あの時と少しも変わらない真田町がそこにあった。討死ポイントのセブンイレブン近辺を通っていると、あの時の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
ああ真田町よ、こんにちは。ふたたび帰ってきましたよ・・・(^^




++ 地図にマウスを置くと、説明がでます(^^ ++
 
■本城より鳥居峠方面を眺むる →

四阿山の南、鳥居峠を抜けると、吾妻郡岩櫃の城に達する。さらにその向こうに上州沼田城がある。
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正面に見えてる白い山が真田家が元来信仰の対象としていた四阿山で、この方面にある真田家と縁の深い「山家神社」の御神体でもあった。山岳信仰や修験道とも深くかかわっていたと思われる。
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正面の山裾には松尾山の砦があり、この方面から攻めてくる敵を見張った。そして松尾砦の右側が角間渓谷で、草のものもそこで修行したんだ!
 
■本城より地蔵峠方面を眺むる

こちらは松代へ抜ける地蔵峠方面である。仮に上杉・村上などの勢力が真田の庄へ攻めかけてくるには、一旦太郎山を回りこんで上田平へでるか、この峠を抜けてくるしかない。この方面の見張りは、かなり重要だったと思われる。
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峠の入口、一番奥の山裾に真田氏が最初に根を張ったと思われる洗馬城がある。それと三角形をなすように横尾城、根小屋城があり、この方面からの侵攻に目を光らせている。
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その内側には真田氏の第2の拠点となった「内小屋城」があり、そのそばには信綱公のお墓がある「信綱寺」が山にいだかれ、ひっそりとたたずんでいる。
 
■本城より戸石城・上田方面を眺むる

そして真田氏が通常寝起きしたと思われる「真田氏館跡」がある真田町の中心方面である。
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写真のとおり、真田本城からまっすぐのびた小高い丘があり、向かって左側(館側)は右側よりも一段高い地形になっている。鳥居峠を越えてきた敵を翻弄するのに、この地形は使えそうである!
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そして正面には、あの「戸石城」があり、まだ村上氏のものだった頃は、かなり緊迫した状況だったはず・・・ というのが、容易に伺える。幸隆公が落としてからは、本城と戸石城で磐石の守備体制がとれたはずである。戸石城の向こうは上田の地へとつづく。

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さて・・・ 兎にも角にも真田本城である!
真田氏館跡からさらに山側へと移動、本道から真田本城上部へと通じる横道がでている。これが結構急なのです(多分もうちょっと積雪があったら私のオンボロバンは完全に討死していたことでしょう・・・苦笑)。その急勾配を上り詰めると行き止まりになり、小さな駐車場が・・・。そこはちょうど真田本城の裏側にあたる所だった。

ついに真田本城にへとたどり着いた。
鼓動が高鳴る・・・(笑)

少し登ると、さっそく石碑が私たちを歓迎してくれた。
「真田氏本城」と題したその石碑には、以下の文面が書かれていた。

 『 山嶽幾重連陣営  縦横布置緻行兵  今朝錦繍一望遠  覇業遥思古本城 』

・・・最後の「覇業遥思古本城」ってのが、幸隆公の心中をあらわしてる様で、良いですね!

■史跡 真田氏本城跡
この城跡は、天白城と共に馬蹄形に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに指呼の間に戸石城・矢沢城を望むことができる。
本郭は東西8.6m、南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。規模は大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。

そして頂上付近には、「真田氏本城跡」と書かれた白杭が立っていた。この城内でも一番高い場所にあたるこのあたりが・・・本丸だったに違いない。このあたりに幸隆が立って軍配を振っていたのかも知れないのである。感慨もひとしおにあたりを見まわす。

本丸から向こうには少し尾根のように張り出した部分があった。
その平らな部分(といっても、広くは無い)に詰めかけた兵が待機したのであろう。

どうやらその先へも進めそうである。
私たちは、前の方面へ歩き始めた。すると・・・

「ぬおおおおおおおおおおおーっっ!」
と、叫びたくなる衝動が全身を支配する。

山城の先端に立ってみると、360°ぐるりと真田の町を見渡せるのである。遮蔽物はほとんど無い。
そのあまりの眺望のよさに・・・しばらく言葉が出ない。

遠くに戸石城が見える。伊勢山の砦も見える。北に目を転じると地蔵峠、東には鳥居峠が一望できる。そしてなによりも眼下には真田の町がすべて見渡せる。「これは・・・これだけ眺めがよければ、この地に攻め入ってくる敵を大概はしっかりと把握する事ができるはずである(上の写真では、その半分もお伝え出来てないのが残念)」そう強く思う。しかも三方は切り立った急勾配であり、攻め込まれるとしたら車で登ってきた後ろの山側だけである。改めてこの場所を詰め城に選んだのもうなずける。

「凄い眺めですね・・・」
今回の参加者の中で、ここが初体験の皆さんも同じ感想だったと思います。私がそれまで思っていた真田本城は・・・、山城である(当然だ:笑)。そもそも山城のイメージが単なる山でそこには当然天守も櫓も無く、遺構が少しは残っていてもそれは登山とあまりかわらないのでは?と、とてつもなく大馬鹿な勘違いしていた私にとって・・・この真田本城は衝撃は、計り知れないものがありました。

「兎に角、行け」
もうこれしか言えないっす(笑)
山城は登ってこそその素晴らしさが実感できます。

「兎に角、行け。行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け・・・・」
まだ行った事の無い人に暗示をかけておこう(笑)

あなたは真田FANですか?
真田FANなら、ここに立って真田の庄や戸石城を一望しながら、真田幸隆の心境を慮ってみるのをお勧めします。静かに目を閉じる・・・。聞こえてきませんか?鬨の声が!戸石城を攻める真田軍の喚声が!(笑)その時あなたはこう叫んでいるはずです。「我に一計有り!!今こそ戸石城を落とさん!!」遠慮は要りません。ここは山の上です。近くの農家の人が少しびっくりするぐらいです。おもいっきり叫びましょう!・・・(^ー^


(ついに真田本城跡に立つ又五郎!→)

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今回は、実は30・31の両日に真田本城を訪れました。


そしてこれが大晦日の日に訪れた時、皆で協力して作った真田雪だるまだー(笑)

信州はその少し前に降った雪が残っていて、それをかき集めて作りました。よく見ると、腰に刀も刺さってるし、右手を振って挨拶している(笑)しかしなぜか胸には武田菱が???若干一名の方の熱狂的武田への思い入れの証です(笑)ということで、この真田だるま・・ちゃんと年越して、今もまだ元気に真田の町を見下ろしているのだろうか?


□製作日数 1/48日
□製作人数 6人 (goshin殿、町殿、Tohka殿、きしきし殿、あゆみ殿、つぼや)
□製作のきっかけ Tohka殿が雪を転がしはじめたため(笑)

帰り際に、農作業をしているおじさんが不思議そうにこちらを見ていた。
それはそうだろう、なんせ大晦日に六文銭の旗をもった怪しい集団が本城跡から出てきたのだから(笑)。「なにしとん」と話しかけられたので、「真田の史跡をまわってるんです」と説明する。「あらそうか・・・幟もっとるんで、何事かいのと思うた」と笑いながら言われたので、「ええ、真田好きなんです」と苦笑する。でも格段驚く様子もなく・・・県外からの来訪者(大阪ナンバーの車)が嬉しいようだ。やはり真田町の人は、真田の事を好きなのだろう。「そうか・・・。春になったらまたおいでえな」と話すおじさんの顔が笑っていた。


( 写真提供 Tanks 根津甚八殿! ) 




Last up 2001/01/10
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