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さて、またしても一人芝居な小旅行の話である。
以前に九度山抜けという色んな意味でちょっと「危ない」旅をしてるので、それに比べたらどうということの無い小さな旅なのだが、それでもやはり色々とあるもんですね。今回は自転車(流星号)で出立したのですが、ゆくゆくこれが足枷になるとは…。「兵站は平坦な道を選ぶべし!峠道をなめちゃいかん」を実感できた旅なのでありました。

さて、とある某日午後、
たまたま時間があったので「どっかいこう」とおなじみ気楽な放浪癖が…(毎度の事です)。
しかし午後から行けるとことなると距離は限定される。そう遠くまではいけまい。さてどうしたもんかなぁ…と、考えるときが実は楽しかったりする。秋晴れの日だったので、自転車で行こう。ちょっと前に同じく午後だけで伏見と二条城行ってきたので、だいたいいける距離を考えたのだが、京都方面は伏見、天王山、二条城、勝竜寺城と連続して行っていたので、今回は大坂方面に足を向けよう!と、思いたつ。しかし市内の雑多なところへ突っ込んでいく気分でもないなぁ…

んで、思い出したのが 暗峠(くらがりとうげと読む)

実は暗峠には以前に苦い思い出があった。もう十年昔のことなのだが、会社の野球大会を何を血迷ったか生駒山脈を越えた奈良側の山麓グランドでするということになった。当時若かった私は、マップルを見ながら大坂側から回り込もうとしてたのだが、『国道308号』ってちょうどいい道を発見!さっそく地図を見ながらそこに進もうとした。ところが行けども行けども道が分からない。時間が迫って焦った私は通りがかりの人に「308号線ってどこですか?」と尋ねてみるが、「さあ?」「この辺のはずなんですが」「そんな道は無いよ」とどうも要領を得ない。地図を見せながら「ここなんですが」ともう一度尋ねると、「ああ、暗峠かいな」「そんならこの道だよ」と教えてくれたその道は…今自分がいる坂道。

「はぁぁ?」
どう見ても民家の間の細い坂道にしか見えないんですけど。

ここが国道? そりゃ見つからんはずや。
古苦道の間違いちゃうんかと思えるようなその道は、急角度で山の方へと登っているのでありました。


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あの時は車で何とか通過できたけど、やはりもう一度行かねばなるまい。
しかも車ではなくこの足で越えなければならない。峠マスターとして<なんやそれ(笑)
暗峠は、昔は奈良と大坂を結ぶメインロードだったし、真田太平記にも家康を襲撃に向かった草の者の由緒ある道なのだ。



■というわけで出発(PM1:00頃だったと思う)
まず暗がり峠まで行かねばならない。実はわがH方から峠までは結構距離がある(関西在住の方には分かってもらえるよね)。距離にすると片道約30km超ぐらいか?ルート的には、国道1号線から交野のほうを通って寝屋川に出て、170号線(いわゆる外環)を南下して石切を越え、しばらくいく…だいたい4時前ぐらいだったと思うが、ようやく目的の峠の麓についた<遅いやんけ;

「はぁやっと着いたな」
たどり着いた安堵感にホッとするが、実はその時点でかなり疲れてもいた。

だいたい登り口は分かっていたのだが、十年前と同じように通りがかりのおばあちゃんに峠はどこかと聞く。
「ここを登っていたっところだ」
「これから登るんか?」
「あらあ大変なこっちゃ」

大変か…そうだな。もうそろそろカレーの匂いが漂ってきそうな晩秋の夕刻だ。なんとなく寂しい雰囲気の中、自転車をキコキコ漕ぎながら怪しいあんちゃんがどこへ行こうというのか。「大変な」というのはそういう意味だろう。その時はそう思った。

しかし…
後になって分かるその「大変」とは…

実は単純明快な…万有引力にさからう的運動行為、力学的に言うと位置エネルギー獲得の為の純粋な運動エネルギーの消費の運動がとても大変なのである…の大変であった。簡単にいうとつまり坂が険しいのだ(笑)

思い込みとは恐ろしいものだ。
「地図で見る平面の感覚で物事を考えてしまうのは危険だ」ということを、今回嫌というほど味わはされた。それまでの30kmに比べたら、地図上の峠はほんの1〜2km。「えーと都合6〜70kmぐらいか。○○分で帰ってこれるかな」それは私の頭の中では、あくまで普通の1〜2kmとしかインプットされてなかった。簡単に計算していた。
しかしそれを越すのがいかに困難か。昔の人が聞いたら「愚かな」とおそらく笑われるだろう、そこには確かに生駒の峻険が立ちはだかっていた。「馬鹿にすんなよ!」と。


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ともかくも、登り始める。
最初は家の間を登っていく。もちろん自転車は降りて、おして登った。登りはじめて改めて思う。「国道かここ」(笑)写真でも分かるとおり、車一台分の道幅が民家の間を抜けていく。
「んでも、やはりいいなぁ」
苦笑の中になんともいえない感情が混ざるのは、この道が昔の面影を色濃く残している。そういうことだろう。

民家が切れた。
そのあたりから、山の木が生い茂るちょっと「らしい」風情が漂う。
高度が増すにつれ、少しずつ後に大坂の街が広がってゆく。


木が生い茂る間から見る大坂平野は、実に雄大だ。今はビルが乱立しているが、昔は田園と、海と、角度によっては大坂城のみが高い建造物であるその空間を想像すると、奈良からこの峠を越えてきてはじめて見るその風景は、とても感動的なものだったであろう。ああ。


……と、こう書くといかにも余裕があるように見えるが、「とんでもない」

半分も登らないうちに、もう息も絶え絶えであった。
まじで死ぬ。なにが?坂の角度だ。


ふざけるなよ坂!

普通もうちょっと山の斜面を九十九折に角度を緩やかに道を切るだろう。
それがどうだ。この峠はこれでもかといわんばかり、山頂を目指してほぼ一直線に急上昇している。

「なんじゃこりゃぁぁぁぁぁ」
心のなかで叫んでも、道は一向に緩やかになる気配も無く、いつ終わるとも知れない気配。

「引き返そう」
はい思いましたよ、少なくとも百回は(けして大げさな言い回しではない)。

しかし、九度山抜け出もわかるとおり、変なところには諦めの悪いAB型なのだ。

10mあがっては休む。休んではまた10mあがる。
途中からはもう何回休んだか知れない。


( 登る…   登る…   ひたすら登る… )

自転車をおしながらというのがさらにあだになり、追い討ちをかけた。
完全になめていた。


(その証拠のなめなめ草履写真)

それとも私が体力無いだけなのであろうか?そうなのか?
他に自転車であがったことのある人教えてください。


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途中で小さな橋に出くわした。
汗だくになりながら、一休みする。

大坂側の登り口の近くのコンビニで買った水を飲む。
そうそう実はこのコンビニで発見し一緒に買ったものがあって、それをおもむろに取り出した。カプセルが2つである(前の銅像カプセルの続きだったと思う)。種類の中に信玄があったので買ったのだ<好きだね〜。あけると…

「おおおっ!」
なんといきなり信玄ではないか。その時点で目的達成。じゃーもうひとつは、、
「ぬおおお!」
謙信だ。2つ買って信玄と謙信。
あまりの嬉しさに、おもわず組み立ててしまう(笑)

橋の欄干に置いて、撮影会開始。

暗峠に並び立つ、甲斐の虎と越後の竜。「かっちょえー」

まあ、あまりのしんどさに半分錯乱状態だったので、なんでもありだったのだが、
冷静に見るとかなり怪しげな雰囲気だっただろう(笑)


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さてちょっと暗峠についてなのだが、写真を見て欲しい。
(暗峠名物コナー:コークスクリューKURAGARI 笑)

さっきから坂が険しい険しいと言ってきたが、まさに言葉のとおりである。
多分日本でも有数の急な坂だと思う。まじで。
バイクは急にふかすと前輪が上がって後ろにひっくり返りそうな感じだし、途中車が数台通ったが、みな「ギュルルル」とタイヤが悲鳴をあげていた。

パワーの無い車ならまじ登れないかも(冬季道が凍ったら、絶対に止まらんぞ)

そしてこの写真。


さて問題です。どっちが本道(308号線)でしょう?(笑)
もうお分かりと思いますが、Aの方です。写真のとおり、ほぼ自転車横に1台分の道幅しかありません。ほんとに国道か??(笑)前に車できた時必死こいて通った思い出が蘇ってきたわ(笑)お気をつけあそばせ。おーほっほっほっ。



坂は昔、大坂と奈良を結ぶ一番近い道だった。
途中にそのことを記すいくつかのものにでくわした。

「奥の細道」で知られる松尾芭蕉(1644-1694)は伊賀上野のすぐれた俳人であった。元禄7年、病をおして大坂に向かった芭蕉は、9月9日(重陽(菊)の節句)にこの峠を越え、「菊の香に くらがりのぼる 節句かな」の名句を残した。しかし、その直後の10月12日、大坂でその生涯を閉じたのである(説明書き)。

また山の中腹には、弘法の水と呼ばれる湧き水がわく所があり、鎌倉時代に建てられたとされる卒塔婆などもあって、昔の旅人の潤いの場所としての趣がとても癒される。

今は府民の森ハイキングコースとして整備されていて、近くの人に愛されている。


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山頂に近づくと、目の前に田園が広がった。

大坂と奈良の間、山の上で暮らす人々の生活の場が、そこにあった。
山の両側の景色は数百年の間に随分変わってしまっただろうが、ここはそうではないような気がした。

近年は阪奈道路に主役の座を譲り、大規模な開発も整備もされなかった。峻険がゆえなのか…
それはよくわからないが、いずれにしてもそれは私にとっては幸運であって、愛すべき場所をまた一つ見つけた気がした。

便利になっていくことだけを求めて進む世の中で、失っていくものはあまりにも多い。
国道308号線と呼ばれるこの道が、今のままいつまでも暗峠として佇んでいることを切に望む。


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ようやく頂上についた。
そこは大坂と奈良の境でもあった。
へろへろのへじだった。死にかけの態で頂上にあった一軒の茶屋に入る。
出してくれたアイスコーヒーの冷たさが、喉をうならせる。うまい。

もう5時近かったと思うが、閉店間際に尋ねてきたこのへんな兄ちゃんを店の人は不思議そうに見ていた。草履を履いてるのを見つけて「それで登ってきたんか?」と尋ねられたので、「そうです」と答えた。「次はちゃんと運動靴はいてきーな」と言われ、あらためてここがお気軽でくるにはちょっと難しいコースだったと気づく。でも昔の人は草鞋だったんだよなぁ、おっかさん…と思ったが、それは言うのをやめた。

「暗峠の名前の由来は、神功皇后がこの峠を越えようとした時、朝一番で一番鶏の鳴いた時に出発したので、あたりが暗かったために暗峠と名付けたとされる説、もうひとつその昔ここを通るときあまりの険しさに、ひいていた牛(だったかな?)がひっくりかえる、鞍ごとひっくりかえる=鞍がえりでくらがり峠と呼ばれるようになった説がある。その他にもあるみたいだけど…」店の人が教えてくれた。

また、「とくに今はなにもないけど、昔は旅籠などが沢山あり、郡山城主の柳沢某がいつも泊った本陣跡が少し先にある」といったことや、「大坂奈良のテレビ網テレビ塔設置には、この生駒山をおいて他はない」とか、「暗峠は、特に大坂側が険しい」といった話をした。後で調べたら、確かに大坂側のほうがかなり険しく、そっちから登ってきた私は険しい選択を知らずにしていた。うーむ(^ー^

少し話し込んでしまったので、「では、行きますわ」と挨拶を交わし、茶店を後にした。


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それにしても…
峠の頂きに小さく開けた村は、その昔の宿場としての名残が確かにあった。奈良から大坂へ、大坂から奈良へ、行き交う人々の生駒越えをささえてきた…長い間随分賑わったその存在が確かに感じられた。いいなぁと素直に思う。
当時の雰囲気を残すものとして、頂き付近では国道308号線は石畳に姿を変える。通過するバイクはガタガタとその車体を揺らしながら通って行く。


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「さて帰るか」

かえりは一言で言うと、
「びゆーーーーーーん」
である(笑)走り出したら止まらないぜ!俺の青春!的暴走がはじまった(笑)そらあれだけの距離を今度は一気に駆け下るのだから、それはとても爽快なのだが、ちょっと恐い…ていうか、自転車でフェード現象ならないだろうな<ずっとブレーキレバー握りっぱなし。もし自転車で越えようという人は、絶対にブレーキの点検だけはお忘れなく。まじで(^ー^;

道の方は、しばらく2車線のようやく「国道」らしい道になり「おっ!」っと一瞬思わせるのだが、案の定すぐにもとの暗峠に戻ったのでした(笑)


帰りは奈良側の168号線という所をひたすら北上したのだが、もう日が暮れかかっていた。
写真は奈良側から見た暗峠なのだが、なんとなくうら寂しい。風も強くなってきた。そうそう、自転車でいろいろうろつこうという者にとって最強の敵は、風である。モロ向かい風になると、ほんと気力も萎える。このときも向かい風…「こなくそ」必死にペダルを漕ぐ。

あ、そうそう奈良から枚方へ抜けるこの道は磐船街道といわれるのだが、もし自転車で通過する人がいるなら気をつけたい事がひとつ。途中小さな峠(トンネルのあるとこ)を通過する際、案の定歩道が無い区間がかなりあるので、もし暗がりで車道を走る時は車にしっかり認識させること。おそらく高低差の関係だろうが奈良から枚方は比較的楽に行ける(といっても危ない)が、枚方から奈良へは長い上りになっている気がする(車速が落ちる)ので注意されたし。というか、かなり危険。通らない方が無難かも。

都合60kmぐらい?を走破して、たどり着いたらすっかり夜になっておりましたとさ。


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「秋の暗峠に揺れるコスモスの花」
2003年10月3日撮影

(似合わねー:笑)





今回は戦国とはあんまり関係なかった気がしないでもないですが、
でもやはり乱世にも、この道を通って数々のドラマが生まれてると思う。
さあ皆さんも草の者になって、奈良と大坂の距離を体感しよう!





Last up 2004/3/26
++ 暗峠でへろへろもへじ ++