MY MUSIC〜実録『・・・』の歴史〜
なにせ、ワタクシまあろお@管理人の脳内HDの容量が8MB程度なので、
ビミョーに記憶と時間が混乱している可能性があります(^^ゞ

誕生〜小学校

1967.2.18.「おぎゃぁ〜」とワタクシまあろおは、
長野県長野市の極一般的な家庭●●家の長男として
5体満足、たいした才能も持たずに生まれたのでした。

音楽に目覚めたのはいつ頃かなんて覚えておりませんが、
3歳くらいの時、風邪で寝込んだ母親に早く治るようにと当時の流行歌
『男と女のお話/日吉ミミ』(恋び〜とに振られ〜たの・・・良くあ〜る話〜じゃ〜ないか〜・・・)
をうたって聴かせたという・・・。
本人、全く記憶にございませんが。

極フツーに幼稚園→学校での音楽授業以外には
TVのアニメや特撮のOP見ながらうたう、
あるいは歌番組見てうたう程度のこれまた極フツーの少年でございました。
ちなみに・・・。
初めて買ってもらったレコードが『アイアンキング子門真人』、
初めて自分のこずかいで買ったレコードが『華麗なうわさ/フィンガー5
更に初めて行ったライブ(当時は●●●●コンサート、●●●●ショーというタイトル)は
天地真理』次に『フィンガー5』そして『森進一』(母の付き添い)んで『桜田淳子
というちょっと恥ずかしい過去があったりするのでございます。
そして小学校3年生頃から、
家のテープレコーダーでTVやラジオの歌番組から好きな曲を録音して聴いたりしはじめたのでございます。
西城秀樹キャンディーズ太田裕美山口百恵沢田研二石野真子ピンクレディー・・・。
クラスの友達Mくん、その姉Nちゃん、その友達あっちゃん(現在演歌系カラオケの先生)&Hちゃん姉妹と、
好きな歌をうたいつつ、振り付けを真似たりとかして遊んでおりました。

そしてベイ・シティ・ローラーズ来日で初めて洋楽を聴くようになり、
なぜか6年生当時、クラスで流行ったKISS、QUEENを聴き、少し洋楽に目覚めたのもこの頃。
また。この頃にはニューミュージック・ブームというモノがあり、
歌謡曲(当時はアイドルのうたう流行歌もこの部類に入った)でもフォークでも無い曲が流行。
原田真二の楽曲の良さに衝撃を受け、世良公則のカッコ良さに憧れ、
ザ・ベストテン今週のスポットライト』出演時のCharの闘牛士でエレキギターに目覚め、
中島みゆき松山千春、アリスの楽曲のメロディの良さ、アコギの音に感動し、
サザン・オール・スターズゴダイゴで楽しいロックのバンドサウンドに目覚めたのもこの頃でございました。
ラジオの深夜放送を中心に聴き始め、
『オールナイト・ニッポン(糸居吾郎、タモリ近田春夫松山千春中島みゆきなど)』、
『たむたむたいむ(パセリ)』『SBCベストテン(?)』などで音楽情報を得る一方、
『それ行けドドド!(水沢有美なぜか好きだった)』や
『ラジオドラマ(750ライダー、ブラックジャック)』も聴いておりました。

クラスの友達Y坊(中学生の兄が矢沢永吉コピバンのDrだった)と
「中学になったら一緒にバンドやろうぜ」と約束していたものの・・・
淡い想いを寄せていたクラスのギター好き女の子Sからラブレターをもらうも・・・
その翌日、ひっそりと上諏訪へ転校・・・。・゚・(ノД`)・゚・。

上諏訪ではクラスに音楽好きの友達もたいしておらず、
唯一、南こうせつの事を『おいちゃん』と呼び、
目をキラキラ輝かせながら語り出す超マニアックなフォーク大好き少女がいた位だったが、
すぐ隣の中学校から放課後聞こえてくるエレキの音に憧れつつ過ごしていたのでございます。
この頃、TV番組の公開録画を観に行き、
海援隊』のミニライブを観ました・・・。
後に中学で出会う事になる『ぶっちゃか(何度かライブに行ったらしい)』によれば、
武田鉄也によるMCは抱腹絶倒の楽しいモノなんだとか・・・。
想像できちゃうけど・・・(^^ゞ

そして、ついにギターを手に入れる日が・・・!
母との約束で、
「家の手伝いしたら買ってやる」を信じ、
たくさんの手伝いをし続け、とうとう買ってもらえるその日・・・。
「エレキは高いからフォークギターにしなさい」
「白いギターがキレイでカッコイイからそれにしなさい」
・・・という衝撃的(笑)な言葉が・・・。
結局、SUZUKIの白いフォークギター&教則本購入・・・(死)
チューニングも満足に出来ず、コード鳴らしても不協和音。
小学校6年生の独学にはやはりムリがありました。
以後、ギターは何度かの挫折を繰り返す事になります。
今でも弾けることは弾けるけど決して上手くはないです・・・(^^ゞ
ちなみにその白いギター・・・。
黒のカッティングシートテープで布袋模様が施され、
一時期、部屋のオブジェと化しておりました・・・。

その後、卒業を目前に長野市に再び戻り、
更には松本市に引っ越して中学に進学するのでありました。


中学校

中学に入学するとすぐに上級生の呼び出しを食らうハメになりました。
それは・・・中ラン着てたから・・・。
別にその頃はまだつっぱってたワケでも無く、
ただ、偶然買った学生服が中ランだっただけなんだけど・・・。
学生服について何にも知らなかったし(^^ゞ
結局「生意気だぞ!」って事でボコられる・・・というありがちな展開。
でも、何でか良く覚えて無いけど、
「オマエ、なかなか根性あるな」って事になって、
怖〜い上級生の方々と仲良くなるのでありました。

そんな頃に『部活の新入生募集集会』みたいなのがありました。
各部の部長が登場し、新入生の勧誘をするワケなんですが、
期待のロックができる『軽音部』なんてモノはありませんでした。
でも1人、とっても印象に残る部長がおりました。
当時、既に過去の曲となっていた『HERO〜HEROになる時、それは今/甲斐バンド』をうたい、
『君も科学部でHEROにならないか?』と言った『科学部』の部長が・・・。
単純思考のまあろお少年は「よし、オレはHEROになるんだ!」と入部してしまうのでした。(笑)
科学部は部長のコマちゃん、副部長のクロちゃん以下小人数ではありましたが、
まあろお少年は1年生筆頭(?)として活躍(?)し、
学校の近くを流れる女鳥羽川の生物生態調査に明け暮れるのでございます。

年が明けてコマちゃん達が卒業間近になった頃、
「ライブやるから見に来いよ」と誘われ、
クラスの愛しのマドンナ(?)Kと音楽室へライブを見に行くの事になるのです。
KISSのコピーを中心にギターを弾きまくるコマちゃん・・・。
コマちゃんは長身&イケ面ではありましたが、
たとえそうで無くともギターを弾く姿は男のオレから見ても、
超カッコイイ!の一言に尽きるのでありました。
そして・・・愛しのKも、もちろんお目当てはコマちゃんなのでありました(笑)
オレもギターやりて〜!と、
少しギター熱再発するのでした。
けれども、周りに同じ趣味の友達もおらず、
またしても独学>挫折する事に・・・。
んで、こんな受験を控えた大事な時期にライブなんて・・・とお思いの方もおりましょうが、
コマちゃんは後に某市内有名県立高>某有名国立大へと進学し、
今では某東京キー局(TV)の国会議事堂記者クラブの政治記者さんです。
テレビのニュース見ててぶったまげたよ・・・(^^ゞ

また、この頃は空前のガンダム・ブーム!
そしてガンプラ・ブーム!
クラスのミノル、みっちょん、ぶっちゃか、オレの悪友4人組でプラモ作りに明け暮れる一方、
やはり、当時の社会問題にもなっていた校内暴力続発の御時世、
純(?)だったまあろお少年もいつの日か、
大人達を、そして社会を斜に構えて見下す立派な健康優良不良少年(?)と化し、
「う〜ぅ授業をサボって〜いぇ〜い、いぇ〜い♪」の『トランジスタラジオ/RCサクセション』が
「何か、『実感』なんだなぁ〜」という日々を送っておりました。
まぁ、実際に授業をサボる事は無かったように思いますが・・・たぶん。
屋上も無かったし(^^ゞ
RCに始まり、『夜のヒットスタジオ』で衝撃登場が印象的だったYMO
映画やアニメなどのサントラにも興味を持ち、
そして、『日立ミュージック・イン・ハイフォニック』『コッキーポップ』『ベストヒットUSA
などのTV&ラジオの音楽情報番組で邦楽&洋楽、ロックなど多ジャンルの音楽を聴き、
『バンドやりてー!』と思いつつも、
「音楽は『聴くだけ』」の日々が続くのでありました・・・。
そんなお気楽極楽なまあろお少年も、
なんとか市内の某県立高に滑り込み
(受験前夜、友達と飲み会だったしなぁ・・・あはは)←『あはは』じゃねーよっ(^^ゞ
晴れて高校生になるのでありますが・・・。


高校〜10代後半のいろんな人、音楽との出会い&出来事

高校に入学すると、
スグに『漫研』の部室のドアを叩きます。
この頃、音楽と同じ位に映画にもどっぷりはまっておりましたが、
入学した高校は歴史も浅く、部活も選択肢が少なく、
「ロックのできる『軽音部』も『映研』も当時興味のあった『弓道部』も無かったのです・・・。
自分の中の『何か』を具現化、あるいは具象化する手段として、
音楽、映画以外の手段に『漫画』を選んでみた次第です。

入部して最初の質問が
「どんな音楽聴いてんの・・・?」
その言葉を発したのは後にまあろお少年に多大な影響を与える1つ上のM先輩でありました。
「え?う〜ん・・・YMO中島みゆき・・・?」
「なんだよー中島みゆき?暗ぇ〜な〜。ロックは聴かねーのかよ?」
YMOは熱烈的にはまってたけど、中島みゆきはフツーに聴いてただけで、
しかも丁度その頃、NEWアルバムをダビングして聴いてただけでしたが、
そんな事よりも想像以外の質問に面食らったのでした・・・。

我が校の『漫研』は当時アニメブーム真っ只中であっても、
あえて『漫画』にこだわる割と硬派な(?)部でありました。
そして結局1年生新入部員が男女各2名づつ、
2年生男女各4名づつ、3年生女2名という少数故に
男女&学年の隔たりも無い『ファミリー』な感じのする『心地よい場所』でもありました。

中でもM先輩はメガネかけてるとわかんないけど、
メガネ取ると『デビッド・ボウイ』ばりのまつげバチバチ、でもちょっと短足(失礼)、
描く漫画はなぜかいつも『エレキギター』『モヒカン』『清志郎風の男』そして『うん●』が登場するという
・・・とても摩訶不思議な人でありましたが、
ロックの他、映画が好きという共通点で意気統合するのです。
そして校内の『仮装大会』の時は2人ともクラス代表のひとりとして出場。
M先輩のクラスのテーマは『外人タレント&アーティスト』で、
見事に『ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)』に扮して喝采を浴び、
対するオレのクラスのテーマは『CMパロディ』。
オレはキンチョ−ルCMで掛布との競演で話題になった『大屋政子』(爆)
ムリヤリに決定され、当日はクラスの女どもに有無を言わさずに身包みはがされ、
特製(?)ドレスを着させられ、化粧されてカツラ装着・・・。
「おい〜!今オレ、どーなってんだよっ!鏡見せろよ!」と言っても、
「もう出番だから、早く早く・・・」と頑なに鏡を見せることを拒まれステージに上げられる・・・。
その時のステージの爆笑ぶりから、
どんな姿だったか容易に想像できたっス・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
でも、化粧って物凄く暑くて「女って大変だなぁ。。。」と思う一方、
・・・女って怖ぇ・・・(^^ゞ

そんなこんなで『漫研』の『HERO(自称)』になりたかったのに、
『マスコット(当時の部長なーさん談)』として相変わらずお気楽極楽な日々を送っていた夏休み。
部室で文化祭の作品を描いていた時、M先輩が
「明日は好きなアーティストのテープ持ち合って聴こうぜ!」と言い出し、
オレとしては、当時聴きまくりで、まだブレイク前だった『白井貴子』のテープを用意。
「ふっふっふ・・・これぞ『ロック』だぜ!これならM先輩も認めてくれよう・・・」
次の日、その企みは脆くも崩れ、逆に衝撃を受ける事になる・・・。
白井貴子』を聴かせつつ、
「いーっしょ?これ・・・」と得意げなオレに対しM先輩が持って来たテープからは
『イカシタあの娘に声かけりゃっ・・・あんたはまだまだ子供だよぉ!♪』
という歌声と共にカッコイイ、そしてへヴィなギターのリフが・・・。
『ドカドカうるさいロックンロールバンドさぁ〜♪』
という歌声と共にラフだが味のあるギターが・・・。
しかもライブ音源っぽい感じで音もちょっと悪い・・・。
続いて聴かせてくれたのは同じ歌のレコードの音。
しかも『イカシタ〜』と『ドカドカ〜』はうたってる人の声が似てるが違う!
『ドカドカ〜』は誰が聴いても『清志郎』の声だった。
(実はRCはトランジスタラジオは好きだったが、その後のシングルくらいしか聴いて無かった)
「これ、この前のライブのテープでさぁ・・・オレがうたってんだよ」
良く聞いてみれば、バンド組んでてG&Vo担当。
曲は『子供ばんど』『RCサクセション』『アナーキー』のコピーだと言う。
「へ・・・?子供ばんど???」
この時、『子供ばんど』なんて全く知らず、『アナーキー』もほとんど知らなかった。
けれども、テープのM先輩の声はとてもカッコ良く
続いて聴かせてくれた『本物』のうじきつよし(子供ばんどVo&G)の声にとても良く似ていたのです。
衝撃を受け、当然のように部活の帰りにはレンタルレコード店にまっしぐら・・・。
更にはクラスの友達の影響で『AZIA(エイジア)』の透明感のあるサウンドにも感動・・・。
高校時代は『YMO』『白井貴子』『子供ばんど』『AZIA』にどっぷりの日々を送るのです。
特に『うじきつよし』はこの頃、オレの『ギターヒーロー』でしたね。
当時の『うじきつよし』が愛用していた赤いコンバースは定番スニーカーとして、
今でも時々履いてます・・・。
ノートとかに良く『子供マーク』描きましたよ(笑)
ちなみにこの頃、自分の周りの『ロックファン』は・・・。
RCサクセションファン・・・・・・・・・・・・・大多数
アナーキーファン・・・・・・・・・・・・・極少数
モッズファン・・・・・・・・・・更に極少数
子供ばんどファン・・・更に更に極少数
スターリン他のファン・・・・・・・・・・・・殆ど無し
って感じでした。
『パンクロック』という言葉が一般的に使われるようになったのもこの頃。
んで、白井貴子については知ってる人すらいませんでした(つд`)
後にブレイクする事にはなりますが・・・。
子供ばんどについては、
この後、20年ほど経過するまで自分の周りには、
『ファンだった(いや、今もファンだと思うが)』という人が現れませんでした(^^ゞ

学校は楽しい。担任のK先生も生徒思い。クラスも妙な団結力があって最高の仲間達。部活も最高!
そんな順風満帆のように見えた学校生活でありましたが、
1年生の終わりくらいから、
部活の3年生2人のケンカ(?)の事、家庭の事で相談に乗ってた1コ上の先輩Nさんの事、
自分の家庭の事、自分のこれからの事、彼女の事、彼女の家庭の事、
クラスの1番の友達だったTと些細な事でケンカしたまま仲たがいした事・・・他、
ひとつひとつだったらたぶん、何でも無かった事が同時期に圧し掛かり、
『自分の心が押し潰されそうでたまらない感覚』が日に日に強くなってゆくのでした・・・。

また、この年の10月の終わり・・・。
中学の友達Nがバイクの事故で亡くなりました。
小学校の同級生がオレの転校後に病気で亡くなった事以来の『身近な人の死』でした・・・。
彼とは中学はクラスが隣、高校は別だった事もあり、
学校以外で遊んだりする程の仲ではありませんでしたが、
中学時代、休み時間や一緒に受ける体育や技術の授業では良く話をしました。
Nの葬儀参加の件でも学校側の
「中学で同じクラスだった者しか(学校を休んでの)葬儀参加させない」という方針にも納得できませんでした。
Nは中学時代の友人と中3の頃からバンド活動をしてました。
彼等の憧れのバンド『モッズ』のコピー中心のバンドでした。
事故後、そのバンドによる追悼ライブがありました・・・。
その後、その『ストーリィ』と彼の生き様は事実のまま、
バンドメンバーの母の手により小説化され、感動を与えてくれました。

そして、かなり脚色されて映画化され、
某アイドル系バンドの映画デビュー作&松本ロケだった事もあり長野県では話題にはなりましたが、
『かなり脚色』されている点で複雑な想いで映画を観ました。

Nの死は・・・。
「人間なんて、予告も無くあっさり死んじゃうんだな」
「いつ不本意に死んでも良いように『悔い』が無いように生きなければならない」

という事を教えてくれました。
先日も命日の少し後、塩尻へ行く機会があったので、
「バンド活動を再出発させた事」
「オレもNに負けないように頑張る事」

を事故現場にて、一服のタバコをお供えしながら報告し、誓って来ました・・・。

2年生に進級するとM先輩が部長になり、
新入生部員も数名入って部活も賑やかにやっておりました。
しかし、去年から様々な問題をひとり抱えていたまあろお少年は明るく振舞うのもいい加減疲れてきて、
だんだんとクラスの友達、部活の仲間たち、当時付き合っていた彼女・・・という学校関係の人々から離れ、
中学の頃のクラスの友達や近所の友達と遊ぶようになります。
また、この頃は良くケンカもしました。
深夜のゲーセンでの乱闘騒ぎ・・・とか良くあるパターンで・・・。
その時の傷が今でも若気の至りとして今でも腕にちょっと残っております(^^ゞ
でも、ケンカって殴っても殴られてもスゲ−痛いんだよね。
身体も心も・・・。
後に母から、「・・・ウチの子供たちはいろいろあったけど、それでもみんなマトモに育ってくれたよ」
「オマエ(オレの事)は一番心配で一時期は警察沙汰だけは起さないように・・・って、
『こずかい』だけは多く与えていたんだよ」
な〜んて言われて反省なんだけど(^^ゞ
ごめんよ・・・ババァ(おいこらっ!)

実はこの年の夏、文化祭に向けてバンドやろう!という話が出て、
RCサマーツアーをキーボードで参加・・・という予定が結成直前でボツになりました・・・。
秋には『イルカ』のライブチケットが母によって何故か複数手に入り、
部活の仲間やら中学の友達やらと大勢で観に行きました。
イルカの曲は『なごり雪』『サラダの国から来た娘』
そしてこの頃ヒットした『きみのマーチ』くらいしか知りませんでしたが、
大勢でわいわい観るライブってこんなに楽しい!って思いました。

この頃、学校をやめて(いや、クビだな・・・笑)働いている友達の影響もあって、
学校で禁止されてるバイトをするようになり、
部活へもほとんど顔を出さなくなります。バイトは駅前の地下のスーパーの精肉。
中学の頃の友達がバイトしてたんで頼んで入れてもらったのです。
1年生の終わりに唯一学校公認の『年賀状の郵便配達』もした事がありますが、
人々が楽しく遊ぶ正月に早朝から寒い中、チャリで配達するなんて・・・しかも低賃金で(死)
今度のバイト先には他校のいわゆる『不良』達が多くいたり、中には過去ケンカしたヤツらもいましたが、
すぐに仲良くなりました。
ついでに社員も『OB』が多かった・・・(笑)
バイト上がりには、レジのおねーさんがバイトしてるパブが近くにあったりで、
良くそこへバイト仲間で押しかけ、
安く飲ませてもらいました・・・今に思えば、かなり薄めのチューハイだったんだけど。
後にその店はライブハウスになりますが・・・。
学校へはほとんど行かなくなって、
自分でも将来的な不安感とかいっぱいあって・・・。
上級生からも相談されたりする事が多かったオレですが、
気が付いたら相談する相手も無く・・・。
(と言うより、相談出来る友達はたくさんいたが、変なプライドが邪魔して相談出来なかった)
自分で追い詰めて『答え』を出すべく進級出来るギリギリの出席日数まで休んでみました。
もう、いろいろな件で学校でもクビにリーチが掛かってましたが・・・(^^ゞ

当然、担任に母親同伴で呼び出され、
今後について担任と相談する機会がありました・・・。
担任K先生には何の恨みもありませんでしたが、
学校にはいろいろと不満があって、
結局、10月末日を持って退学(オレとしては『卒業』のつもりだったケド)を決めました。
偶然にもNの命日の頃でした。
K先生は「せめて修学旅行だけでも行っては?」と言ってくれましたが、
キッチリ決別する為にもお断りしました。
また、「自分で出した『答え』に絶対に後悔するな」と言ってくれました。
もちろん、今でも1度たりとも後悔した事はありません・・・。
一緒に「オマエがやめるんならオレもやめるよ」と言ってた友達がいたんですが、
彼は家族の猛反対で『ダブって卒業する道』を選びました・・・。

その後、部室に私物を取りに行った時、
好きな『映画』の専門学校への進学を決めていたM先輩からは
「何でオレに一言相談しなかったんだよっ!」
と、ムチャクチャ怒られましたが・・・・(^^ゞ
その頃のオレって今と比べても、
ミョーに『大人部分と子供の部分』があったように思います。
この翌年の夏、
中学の先輩ジュンちゃんに偶然会った時、
車から流れてくる叫びのような歌の主について聞くと・・・『尾崎豊
彼の高校中退の話も同時に聞いたのですが、
この後、オザキは意図的に避けるようになります・・・彼が孤独な生涯を終えた日まで。
もっと早くにオザキに出会っていたら、
考え方や結果も、もう少し違ってたかもしれませんね・・・。

学校をやめた事をバイト先のKチーフに報告すると、
同じくやめた1つ下のK(紛らわしいな・・・)共々、このままここで社員になるよう勧められます。
Kチーフも高校を中退し、就職・・・会社の体制と戦いながらも、
「絶対、店長になってやる!」
という熱血の人なのでありました。
ちゃんと、後に別の新店舗の店長になってました・・・。
Kはこのまま店に、オレは南の方にある流通センターへ研修に行く事になります。
この頃、バイクの免許も取ってバイクに夢中!
バイク屋Aとそこに集まる仲間たち、
中学の友達(M、H、T他・・・今でも大親友)&先輩、新しい彼女・・・。
毎日のように出会う、いっぱいの人々、いっぱいの楽しい事・・・。
『バンドやりたい!』情熱なんて正直どこかへ飛んでました・・・(^^ゞ

しかし、その遊びたい盛りに仕事は早朝から午後までの勤務で夜遊びも出来ない。
しかも『高校中退の新入り』って事で、
送迎バスの運転手には初日から邪険にされ(オレも負けてなかったケドね・笑)
毎日の寒い早朝、スクーター1時間飛ばして通うハメになるし、
更に研修終了後もこの流通センターに・・・って話もあって嫌気がさしてた。
しかも職場は昔のフォーク大好きの主任(イイ人だったけど)と、
『社員より権力のある』パートのおばちゃん達・・・で、
休み時間はトイレの裏で孤独にウォークマン聴きながらタバコをふかす毎日でした。
結局、「話が違う!」とやめて、
Tのバイクの後に乗って遊んでる時に一時停止無視で捕まり、
その時のO巡査(確か後に長野に転勤になったハズ。元気でやってるかなぁ?偉くなってるかなぁ?)
の紹介・・・という妙な繋がりで翌日からU酒店に転職決定・・・。
この間の約半月、生涯唯一『パチプロ』(?)として生活していた期間だったりします(爆)

平日は新しい職場で楽しく仕事して、
帰りにバイク屋Aに友人と集まり遊んで片付けを手伝い、
その後は行き付けの喫茶&スナックH(『某女性の為のバイクショップ』と同じ名前・
このバイクショップのオーナーの女性は若くして亡くなられてしまい、
このお店のママさんはファンだったそうです)で飯・・・。
土曜の夜は友達と飛行場までバイクで走ってタイム計ったリ、
家で『オールナイト・フジ』観る為に(汗)集まって飲み会やったり、
街へ友達やバイク屋の仲間と飲み&遊びに出たり・・・。
日曜はよもぎこば林道〜ビーナスラインへバイクで峠を攻めに行ったり、
彼女の運転(まだ車の免許取れる年じゃ無かったんで・・・大汗)でドライブに行ったり・・・と、
毎日が楽しくてしょうがありませんでした。
この頃、前の彼女と別れ、紹介から新しい彼女と付き合い始めたばかりだったんですが、
正直、彼女とふたりきりで遊ぶより友達大勢とワイワイ騒いでるほうが楽しかったり・・・(^^ゞ
彼女とは「『吉川晃司』『チェッカーズ』ってイイよね?」って事で盛りあがったが、
音楽よりもそのファッションのほうが影響受けてた・・・。

そんなこんなで今振り返ってみても、
人生最大級(?)の充実した日々を送ってました。
しかし、冒頭で『極一般的な家庭で〜』と書いてますが、
かなり以前から状況が変わってました。
親の都合で松本を離れ、長野に戻る事になったのです。
家の事でも一時期は『なんでもっと普通の家庭に生まれて来なかったんだろう?』
とか、しょーもない事で思い悩み、
かなりグレて(?)た事もありましたが、
同じく家の事で思い悩みつつも明るい友達&彼女、
ほのかな恋心を抱いた相手を自分の運転による事故で失ってしまった友達、
付き合い始めた彼とバイクに乗ってる時の事故で彼を失ってしまった女性・・・他。
たくさんのいろんな人々に出会い、
たくさんのいろんな話を見聞きしているうちに、
『オレなんかより、もっともっと辛い目に遭っても頑張ってるヤツがいる』
『オレはこんな多くの良い友人達に囲まれて、
実は・・・すっげぇ幸せもんなんじゃないのか?』

と思えるようになっておりました。
長野に戻る事についても、1人暮しして松本に残ろうとアパート探ししたり、
彼女にも一緒に住もうと言われましたが、
結局、母とまだ幼い弟&妹が心配だったので、
一旦は一緒に長野に戻る事にしました。
その件では周りの友達、バイク屋仲間、彼女、会社の仲間にもいろいろと心配をかけてしまいましたが、
自分なりにいろいろと思い悩んで出した答えだったのです・・・。

長野に戻った頃には18歳になり、
ようやく車の免許も取得・・・早生まれなのでバイクも車も免許は仲間内で1番遅かったのです。
『プチ遠恋状態』となった彼女から、
「『窓ガラスのへのへのもへじ/さそり座』『恋に落ちて/小林明子』を聴くと、つい泣いちゃうよ・・・」と言われ、
ちょっと感動しましたが、それよりも、
いつも強気で明るい『豪快ねーちゃん(?)』風の彼女の意外な1面に驚きでした。
実は長野へ戻る時も、
「オレの事で迷惑かけたり重荷になりたくないし、別れよう・・・」と思いきって言ったのですが、
逆に「力になるから、一緒に乗り越えてゆこう」と言われ、
2人で抱き合って泣いたのも今では懐かしいイイ想い出です・・・(つд`)
ええ・・・過去の・・・(大汗)

親父にとある資格取得するために家で勉強するように言われ、しばらくおとなしくしてましたが、
親父の仕事を手伝う気は最初から無く、
結局、早く松本へ戻ろうと働きに出ました。
ただ・・・学校辞めて、会社辞めて、松本に残るの諦めて・・・。
資格取得に関しても理由はどうあれ、
『辞める』『諦める』という事に物凄い抵抗があったのも事実ですが・・・。

とりあえず、身動き取れ易いようにフリーターで・・・と思い、
某コンビニ本社のオーディター(棚卸&会計監査)のバイトとして、
県内東北信の店に行って棚卸をして前月と比べ、
不良在庫や売れ筋商品在庫についてのアドバイスをする・・・という仕事をする事に・・・。
この時、社員でジャズ好きMさん&バイトのサザン好きKさんとチームを組んで楽しく仕事してましたが、
1年ほどで業務が専門業者に依託される事になり、
Mさんは東京の本社へ・・・。
Kさんも研修社員となり解散する事になります。

この頃、アルバムのジャケットだけで何となく聴いてみた
TMネットワーク』『レベッカ』『渡辺美里』『SHOW-YA』が思いの他良く、
思いっきりはまってしまいました。
後に4アーティスト共に大ブレイクする事になりますが・・・。
19の春に、当時埼玉の本庄に住んでいた叔母の家にしばらく遊びに行ってましたが、
叔母が経営していた喫茶店常連のヤツらと偶然”タメ”だった事もあって意気統合し、
超シャコタン&ノーサスのジャパン(こーゆー車って初めて乗りました・驚!)でドライブに行きましたが、
その車中でも『レベッカ』がエンドレスで流れていて、
その件でも意気統合して大盛りあがりでした・・・。
今、彼らはどーしてるんだろう・・・?

(以下続く・・・たぶん・・・汗)