風の送り


キャスト

男1 おじいちゃん 学生 おばあちゃん サトリ
女1 明日香 今日子 娘

女1 さてこれも山の話。サトリの化け物がいて人の心を読む。旅人が夜を明かそうと火を焚いている。いつ現れたか分からない。人でないものがこちらを旅人を見ている。
男1 おまえ。おれを何者かと思っているな。おまえ。もしかしてこれがサトリというものだろうと思っているな。おまえ。こちらの思っていることをすぐ覚るんだなと思っているな。
女1 なんとも気味の悪いものがきたなあと旅人は思った。そのとき火がはぜて木ぎれがサトリの顔を打った。
男1 うわ。おまえ、何というやつだ。心には何も浮かばないのにこんなことをしやがった。人というものは恐ろしいものだ。おお、恐ろしい。
女1 サトリは山の中に消えていった。
男1 心を読めないやつがいた。そんなことってあるものか。
女1 さてこれも山の話。サトリの化け物がいて人の心を読む。里に出て一人の娘に会った。
男1 よお。
女1
男1 おまえ。おれを何者かと思っているな。
女1
男1 おまえ。もしかしてこれがサトリというものだろうと思っているな。
女1
男1 おまえ。こちらの思っていることをすぐ覚るんだなと思っているな。
女1
男1 うわあ。なんだおまえは!
女1 どうしたの?
男1 心を読めないやつがいる。
女1 あなたがサトリっていうもの?
男1 おまえ、おれの心が読めるのか?
女1 まさか。そんなことできるはずがありません。あんな人を脅すような台詞を言うものだから。
男1 本当かい?
女1 疑っている。
男1 そうだ。おれは今疑っていた。やっぱり心が読めるんだ。
女1 こんなことならだれでもできるよ。
男1 人っていうのはみんなこんなことができるのか。
女1 顔色を見れば。声を聞けば。一緒にいれば。心を読まないでも分かります。
男1 待てよ待て。おれの心を読むのをやめろ。心を読むな。
女1 読んでないって。
男1 おれは読めないのに、おまえはおれの心を読んでいる。そんなことってあるかい。
女1 里へ何か下りて来るもんじゃないよねえ。
男1 ぎゃあ。また読んだ。読むな、おれの心を読むんじゃない!
女1 早く帰った方がいいね。
男1 おお恐ろしい。心を読めないやつがいた。おれの他にも心を読むやつがいた。
女1 可哀想に。人はねみんな心をさらして生きているの。おまえにはそれが分からないのね。


  男1逃げ帰る。

女1 おじいちゃん。おじいちゃん。台風だよ。雲が黒くて、速くて、風が温かい。おじいちゃん、台風が来るね。

大型で勢力の強い台風九号は今夜八時過ぎに紀伊半島に上陸する…

女1 おじいちゃん。
男1 今日子か。
女1 おじいちゃん。台風が来るね。
男1 ああ、台風が来るな。風が強くなる。雨も降ってくる。
女1 おじいちゃん、川を見たい。川へ行こうか。台風の川へ行こう。
男1 台風が行ったらな。台風が行ったらつれて行ってやる。明日、晴れたら川へ行こう。
女1 ううん。今。今見たい。台風の川、見たい。
男1 今は行ったら危ないからな、明日行こう。
女1 おじいちゃん。今日子、一人で行くよ。じゃあね、行ってくるね。
男1 待て!今日子!行ってはだめだ!行くな!
女1 おじいちゃん。
男1 なんだ。
女1 そんなとこで寝たら風邪引くよ。
男1 寝ていたか。
女1 うん。
男1 そうか。寝ていたか。
女1 夢、見てたでしょ。
男1 いいや、見ていない。
女1 台風来るよ。
男1 台風か。台風が来るな。
女1 わたし、行くよ。
男1 どこへだ。
女1 どこへって部屋だよ。
男1 そうか、部屋か。今日子。
女1 今日子じゃないよ。
男1 え?
女1 今日子じゃない!


  男1、座り直して。

男1 おじいちゃんが学生の頃だ。卒業論文の仕上げを静かなところでしたかった。一夏田舎で部屋を借りようと思ってな。ある土地の旧家に滞在させてもらうことになった。


  男1、座って。

男1 大儀なことでございます。論語を写しに来なすったか。今日子。論語は出しておいてあげろ。明の偉い学者の書いた論語でございます。遠慮はいりません。いつまでも居なすってよおございます。山の村で何もございませんが。まずゆうゆうお過ごしになって。寺などへいらっしゃいますか。そう言えばこないだも学者さまがいらしてなにやら調べておりましたが。珍しいものでもありますか。二階の座敷を空けました。明日香、案内して差し上げろ。下へはな。ああ、よくお話して。


  女1、男1の前に現れる。

女1 どうぞ。こちらです。
男1 品のいいおばあちゃんだね。
女1 ええ。ここに荷物を置いてください。
男1 こんな広い部屋でなくてもよかったのに。
女1 田舎なもので夜は早いんです。6時には夕食なの。ここにお持ちします。
男1 いえ、悪いから。
女1 いいんです。何もありませんが静かなところです。ゆっくりお勉強なさってください。
男1 この書棚は?
女1 祖父のものです。
男1 辞書が…ウェブスターですね。
女1 学生の時のでしょう。
男1 使ってもいいですか。
女1 ええ、今はもうだれも見ませんから。
男1 ありがとう。


  風の音。

女1 台風が来ますわね。ここは台風の通り道です。
男1 こんな時におじゃまして。
女1 いいえ。お勉強はかどるといいですね。
男1 あの、いいですか。
女1 はい。
男1 おばあさま、明日香と呼びましたね。
女1 はい。
男1
女1 …姉です。祖母にはわたしと見分けがつかなくて。
男1 おねえさんもここにいらっしゃっるんですか。
女1 姉はもうおりません。
男1 ああ。今日子さんはずっと家にいらっしゃるんですか?
女1 学校は去年終わりました。父は師範を勧めたんですが、先生なんてわたしには。斉藤さんは勉強お好きなの?
男1 はい、まあ。
女1 お茶のお入り用なときは呼んでくださいね。
女1 こちらの階段はお使いにならないで。
男1 下へ行くのには。
女1 ええ、向こうの、今来た方の。
男1 ここはどこへ下りる階段ですか。
女1 どこにも。お茶お持ちします。
男1 風が強くなりましたね。
大型で勢力の強い台風九号は今夜八時過ぎに紀伊半島に上陸する…

男1 なに!伊勢湾に上陸!来るなー来るぞーちょうどここに来るはずだ。今日子!今日子!台風だ!台風が来るぞ!雨戸を閉めろ!かなづちだ!釘だ!合羽だ!

女1 おじいちゃん。
男1 今日子か。もう雨は降ってきたか。
女1 降ってきたよ。
男1 風は吹いてきたか。
女1 吹いてきたよ。
男1 そうか。今夜だな、今夜だ。あのときもそうだった。
女1 あのとき?
男1 おまえあの台風を忘れたわけじゃなかろうな。
女1 あの台風?いつ?
男1 この辺流されたろうが。あの台風だ。
女1 流された…いつの話?
男1 今日子。あのときだ。
女1 おじいちゃん。
男1 なんじゃ。
女1 あのねえ、わたし、今日子じゃないよ。
男1 なに?
女1 今日子じゃないよ。わたし。
男1
女1 明日香だよ。
男1 なに?明日香?
女1 いい加減覚えてよ。
男1 今日子はどうした?
女1 あれだけ大騒ぎしてたのに覚えてないの?ボケちゃったの?
男1 ああ、ボケたかもしれん。明日香。
女1 なに?
男1 学校はどうした。
女1 今日は学校ないよ。
男1 学校ないのか。学校はもうないのか?
女1 学校はあるよ。まだ。
男1 そうか、学校はあるのか。なぜ家にいる?
女1 なぜって。今日は休校だよ。
男1 休校。
女1 休校。担任から電話きた。久しぶりに。
男1 学校に行かないのか。
女1 行かないよ。
男1 学校、ないのか。
女1 ないよ。
男1 学校はもうなくなったのか。
女1 まだあるんだよ、それが。
男1 そうか、まだ学校あるのか。
女1 学校学校って。おじいちゃん、しっかりしてよ!なんでそんなに学校学校言うの!
男1 しっかりするか。よし、しっかりしよう。しっかりした。もうしっかりしたからな。
女1 おじいちゃんさあ、おかしいよ。じゃ、なんて言ってたっけ?
男1 わしはなんじゃ?
女1 わし?わしなんて言ってなかったじゃん。
男1 わしはなんじゃ?
女1 なんじゃってなに?
男1 わしは何者じゃ?
女1 おじいちゃん。
男1 そう、おじいちゃんじゃ。
女1 じゃ?なに?そのじゃっていうの。じゃなんて言ってなかったじゃない。
男1 おじいちゃんらしくすることにしたんじゃ。
女1 じゃをつけたらおじいちゃんらしくなるの?
男1 そうなのじゃ。威厳があるじゃろ。
女1 そうかなあ。
男1 そうなのじゃ。
女1 どうして急におじいちゃんらしくしようと思ったの?
男1 おじいちゃんはもうおじいちゃんに専念しようと思ってな。わしゃな、仕事をやめてから、どう生きようかと思ってな。新興宗教でもつくって教祖になろうと思ったがな。
女1 おじいちゃん。
男1 なんじゃ。
女1 その話、長くなる?
男1 おじいちゃんは話が長い。
女1 付き合わないといけない?
男1 そうじゃ。
女1 発明家はどうするの?
男1 仕事をリタイヤして発明家になるというのは一つのポジションじゃ。だがもともと不器用でアイデアはあるが製品として完成できん。その点教祖は特になにかしなければならないことはない。問題は電話で勧誘したんだがだれも入信せん。
女1 こないだからよく電話してたけど宗教の勧誘だったの。
男1 そうだ。教え子なんて本当に当てにならん。徳川の埋蔵金を発掘しようかとも思った。これもありじゃ。見つからんでもよい。埋蔵金なんてあるわけがない。
女1 じゃ、どうして探すの?
男1 徳川の埋蔵金を探す人になれるならそれだけで目的が達成するからだ。ただ毎日見つからない見つからないと嘆くがな。それが仕事のようなもんだ。見つかったら見つかったでな、一生遊んで暮らせる。しかし、一生遊ぶと言っても、その一生がもういくらも残ってない。
女1 おじいちゃん、よく分からないよ。
男1 でな、もう少し楽なものになろうとしておる。それがおじいちゃんじゃ。おじいちゃん一本に絞ろうと思う。それでな、おじいちゃん業に専念するために、わしなりにおじいちゃんについて研究してみた。
女1 …(ヘッドホンステレオを聴いている)
男1 おじいちゃんは適当にボケている。おじいちゃんは昔話をしなくてはいかん。おじいちゃんは今の若い者に批判的でなければいかん。
女1
男1 おまえ、なにしとる。
女1 だって、話長い。
男1 おじいちゃんは話が長い。
女1 つまらない。
男1 面白くしてやる。ちょっと貸せ。
女1 なに?
男1 よこせ、これはグレイか?
女1 うん。
男1 グレイはボウイに影響を受けている。
女1 え?
男1 ボウイにもまたルーツがある。
女1 おじいちゃん、それ、おじいちゃんらしくない。
男1 ロックは発生から現在まですべてを体験できる数少ないジャンルじゃ。これが演劇であったら大変じゃ。ギリシャ時代から生きておらないといかん。わしゃ、エルヴィス・プレスリーと同い年じゃ。ローリングストーンズがデビューしたときは元気な小僧どもが出てきたもんだと喜んだ。年寄りがみんな「孫」を聴いて涙を流すと思ったら大間違いじゃ。
女1 おじいちゃん、難しいよ。
男1 エルヴィスが死んでからもう何年じゃ。同級生のよしみだ、偉大なロックスターを偲んで歌います。


  ♪When I said I needed you …

女1 おじいちゃん、歌わないでよ
男1 情けない。歌をやめさせるのに歌わないでというツッコミ。芸のないやつだ。おまえは三村マサカズか。勉強しろ。せっかく学校行ってないのなら。
女1 おじいちゃん。学校はもういい。
男1 ネプチューンのホリケンのボケ方はハリウッドの流れを汲んでいるがだいぶスケールが小さいな。なに、適当に言ってるだけだ。学校?行くな行くな行かなくていい。学校なんてろくなもんじゃない。今日子だってろくに行っておらん。
女1 今日子はしょうがないじゃん。おじいちゃん自分は学校で教えてたくせにそんなこと言っていいの?
男1 おじいちゃんはラジカルであるべきじゃ。
女1 ラジカルってなに?
男1 ラジカルも知らないのか。学校でなにを勉強している。
女1 だから行ってないって。
男1 わしがアメリカに客員教授で行ってたときだ。アメリカの田舎町でウェイトレスをやっていた娘の悩みを聞いてやったことがある。学歴がないことにコンプレックスを持っていた。学校なんて関係ない。自分の信じた道を行くんだ、と言ってやったら、目から鱗が落ちた。青い目の鱗は青いぞ。その娘はそれから歌手の勉強を始めたのじゃが出世したもんだ。今でもクリスマスにはカードを送ってよこす。
女1 だれ?
男1 マドンナだ。
女1 おじいちゃん。
男1 なんじゃ。
女1 うるさい。もうおじいちゃんのヨタ話聞いてる場合じゃないよ。
男1 せめてホラ話と言え。
女1 嘘ついていいの?
男1 おまえ、大人を試すようなこと言うな。幼稚なのと可愛いのは違うぞ。がっこう行かないんならわざわざ子どもっぽくして周りに合わせる必要ないだろうが。
女1 うん。
男1 そういえばな。
女1 もういい。
男1 SPEEDが解散したな。
女1 とっくです。
男1 わしゃおじいちゃんじゃから今年の3月のことなどついさっきの昼飯の前くらいのもんじゃ。ところでわしゃ、昼飯は食ったか?
女1 ご飯を三杯食べました。みそ汁が辛いと文句言いました。明太子はないのかと言いました。
男1 このようにときどきボケたところも見せなければならん。
女1 つっこまないといけませんか?
男1 そのツッコミは新しそうに見えるが伊東四郎の得意なパターンじゃ。あのな、不登校の子がスピードのコンサートに行ってな、心が癒され学校へ行こうと思った、なんてのをテレビでやっててな。
女1 なにが言いたいの?
男1 おまえ、誰かのコンサートに行かないか。
女1 おじいちゃんも学校へ行かせたいの?
男1 ちがうちがう。学校はどうでもいい。NHKが取材に来ないかと思ってな。電撃ネットワークのライブに行って心が癒されるというのはどうじゃ?
女1 癒されません。
男1 癒されてほしいのに。
女1 おじいちゃん、ボケてないでしょ。
男1 わしゃ昼飯は食ったかのう。
女1 おじいちゃんはボケてるのボケたふりをしてるの?
男1 徒然草にこういう一節がある。狂人のまねをして王路を走るものはすなはちこれ狂人なり。すごいね。昨日のことは忘れても鎌倉時代のことは忘れない。狂人のまねして王路を走るものすなはちこれ狂人なり。狂人のまねして王路を走るものすなはちこれ狂人なり。狂人のまねして王路を走るものすなはちこれ狂人なり。どうじゃ、無駄に繰り返すとおじいちゃんらしいじゃろ。おじいちゃん、どんな意味なの?と小首をかしげて訊け。
女1 やだよ。
男1 おまえ孫じゃろう。孫らしくしろ。
女1 おじいちゃん、どんな意味なの?
男1 気が触れたふりをして通りを走るものはつまり狂人じゃ。いやあ、昔の人はいいことを言う。あ、この台詞はおじいちゃん度プラス3じゃ。バラードはだれでも作れる、難しいのはロックンロールの名曲を作ることじゃ。
女1 おじいちゃん、どんな意味なの?
男1 ここは訊かないでいい。
女1 おじいちゃん、疲れたよ。
男1 台風で興奮しておる。今日子。
女1 明日香です!おじいちゃん、どうしていつも間違うの?
男1 心配しとるんじゃ。
女1 わたしのことは心配してないの?
男1 心配しとるよ。今日子。
女1 明日香だって。
男1 心配しとるよ。明日香。
女1 どうして間違うの。
男1 二人とも心配しとる。
女1 そうなの。
男1 心配だ。おまえのことも。だがおじいちゃんたるもの自己中心的でなくてはいかん。お。
女1 なに。
男1 その横顔。いいなあ。横向いてこう、うつむき加減。いかにも思春期自己愛コミュニケーション障害の典型じゃ。現代の憂いそのものじゃ。
女1 そう?
男1 おまえ、照れとるのか?
女1 あきれてるんだよ。
男1 どうもおまえは情緒的安定感の獲得に失敗したようだな。
女1 おじいちゃん。難しくて分かんないよ。
男1 わしゃなんでこんなにべらべらべらべらしゃべっているのじゃ?


停電。

女1 きゃ。
男1 停電だ。いよいよ来たな。
女1 おじいちゃん。
男1 心配するな。わしは心配しとるが。
女1 やだ。
男1 大丈夫。わしがついとる
女1 暗闇でおじいちゃんとふたりはやだ。
男1 なにを言っとる。電気だ、電気を持ってこい。
女1 電気が切れたから停電て言うの。
男1 違う。手に持つ電気だ。
女1 感電するよ。
男1 分かれよ、それくらい。懐中電気だ。
女1 おかあさんが病院へ持ってった。
男1 しょうがないな。


  ふたり、黙り込む。

女1 なにかしゃべって!暗いとき静かなのはやだ!しゃべるか明るくするかどっちかにしてよ!
男1 改めてしゃべれと言われると何も出てこないな。
女1 明るいときはあんなにしゃべってたくせに。
男1 ろうそくがあったかな。
女1 どこに?
男1 仏壇にある。
女1 やだ、暗いときに仏壇行くの。
男1 しょうがないな。よっこらしょ。あじゃじゃ。
女1 なに?
男1 あつあつあつ。お茶だ。
女1 暗いときうるさいのはいやだ!
男1 勝手なやつだ、ちょっと待て。


  明るくなる。
  男1、位牌を持っている。

男1 危なかった。ろうそくかと思って火をつけるところだった。(位牌を拝む)
女1 おじいちゃん!
男1 なんじゃ。
女1 病院も停電したかな?
男1 大丈夫。
女1 でも…
男1 今日子が心配か。
女1 …うん。
男1 やはり姉のことだからな。
女1 だって電気が止まったら…
男1 病院には自家発電装置がある。
女1 でも…
男1 大丈夫だったら。
女1 おかあさん、帰れないね。
男1 きょうは向こうに泊まるんじゃろ?
女1 そう言ってたけど。電話くれるはずなんだけど。
男1 大丈夫。寝かしてるとこだろう。
女1 あれ、固いんだよね。
男1 なにが固い。
女1 あの、ベッド。
男1 付き添いのベッドなんてそんなもんだ。
女1 知ってるの?おじいちゃん。
男1 おばあちゃんの付き添いの時な。そのおばあちゃんを燃やすところだった。
女1 わたしが生まれる前じゃない。
男1 ああ。
女1 おじいちゃん、大丈夫。
男1 熱かった気がしたが、冷めておった。早くシワシワになりたいなあ。
女1 なに?
男1 おじいちゃんらしいじゃろ。
女1 変だよ。
男1 こうな、お茶に指を突っ込んで、シワの間を毛細管現象でお茶が上ってきてな口まで。
女1 バカ。なんでそんなに変なことばっかり言うの?
男1 変か?
女1 すごく変。
男1 ウニを指して栗って言うくらい変か?
女1 そんな人いる?いるか。
男1 それはともかく腹減ったな。
女1 電話来ないね。
男1 電話か。ピザ頼むか。
女1 年寄りがピザ頼む?
男1 年寄りとピザは関係ない。
女1 台風で休みだよ
男1 おまえ、自分の気持ちもわからんのにピザ屋の気持ちが分かるのか?そんなことピザ屋に訊いてみんと分からないだろうが。


  男1、電話をかける。

男1 もしもしピザバットですか。ピッツァ・マリナーラを一つ。マリナーラだ。サヨナーラじゃない。なに?メニューにない?ピザ屋にマリナーラがないというのはピザ屋にマリナーラがないというのと同じじゃ。レシピを教えるから作れ。いいかソースはトマトソースじゃ、水煮のホールトマトをただミキサーにかければよい。チーズはモッツァレラ。生のバジルを散らしてな、かまに入れる。オーブンではダメだ。仕上がりがカリッとせん。ピザ用のかまに入れろ。このとき大事なことだが、かまの直径は3メートルは欲しいな。
女1 おじいちゃん、宅配のピザだよ。そんなもんあるわけないじゃん。
男1 わしが若い頃、イタリアに客員教授に行ってな、地元のサッカー選手たちとよくピザを食ったもんじゃ。もんじゃじゃないピザじゃ。そのとき一人の日本人選手にパスの出し方をアドバイスしてやった。中田英俊とか言っておったの。今頃どうしているのやら。
女1 おじいちゃん、時代が合わないよ。
男1 いいか!とにかくピッツァ・マリナーラを持ってこい。
女1 おじいちゃん、普通のでいいよ。
男1 早くしろ!ガチャ。大変じゃ。
女1 なに?
男1 電話が通じとらん。電話線が切れたんじゃ。
女1 だってピザは…
男1 ピザ食ってる場合じゃない。電話が通じとらんのになにがピザじゃ。
女1 だって電話してたじゃない!
男1 わからんやつだな。電話線が切れて電話が通じないのじゃ!
女1 だって長々と電話してたじゃない。
男1 ちょっと悔しかったからじゃ
女1 じじい!
男1 らんぼうな言葉遣いじゃ。ばあさん、あんたの孫はこんなふうになっちまった。
女1 いいかげんにしろよ。
男1 ああ、やっぱりわしは明日香の方が好きじゃ。
女1 わたしが明日香です。
男1 お?
女1 いやな間違え方だなあ。おばあちゃん、今日子でしょ。だから今日子今日子って言うの?
男1 うちはの、名前が使い回しだ。
女1 え?わたしも誰かの名前とったの?
男1 おまえ、知らなかったか?
女1 うん。
男1 それより電話線だ。どうする?
女1 だから携帯買ってって言ったでしょ。おかあさん心配してるよ。きっと。かけられないじゃん。
男1 そういえばばあさんと出会ったのは…
女1 どこよ。
男1 iモードの出会い系サイトじゃ。
女1 じじい!
男1 だからじじいはやめろじじいは。
女1 くだらないこというから!おばあさんはよくがまんしてたね。
男1 ばあさんはそんな乱暴じゃなかった。こんなふうに言ったな。「よくってよ。知らないわ」わしがな、こうつまらないことを言うとな。「よくってよ。知らないわ」今こんな気の利いた返事ができる娘がおるか!「よくってよ。知らないわ」「知らねー」とかじゃないぞ。「よくってよ。知らないわ」どうだ、明日香。ちょっと言ってみろ。
女1 なにを?
男1 「よくってよ。知らないわ」ちょっとこう斜に構えてな。
女1 おじいちゃん。台風が来てなんで興奮するの?
男1 ちょっと血が騒いでおる。ばあさんと出会ったのが台風の夜じゃ。いいから!ちょっとでいいからやってくれって!
女1 どうしてわたしもやるのかなあ。「よくってよ。知らないわ」
男1 違うな。そうじゃなくてもっとなんかすねた感じで。でもほら好きな人の前だから照れて困った人、っていうニュアンスで。「よくってよ。知らないわ」こうだ!
女1 よくってよ。知らないわ。
男1 違う!何年役者やってるんだ!
女1 やってないよ。
男1 ギャグじゃ。オヤジギャグの上を行くジジイギャグじゃ。オヤジギャグは周りを寒くするがジジイギャグは人を不愉快にさせる。
女1 憎まれっ子世にはばかるって言いますね。
男1 学校へ行ってないのによくそんなこと知ってるな。はばかるとはなんじゃ?
女1 はばかるははばかるだよ。
男1 はばかるはばかるハバカール。ハバカール?イスラム圏の名前だな。クウェートの柔道選手か?
女1 それはわかりにくいよ、おじいちゃん。
男1 わしゃ人に理解されようと思ってギャグを言ってるんじゃない。コミュニケーションでありつつコミュニケーションを拒絶する、アンビバレンツな言語存在としてのギャグじゃ。
女1 おじいちゃん、よく先生やってたね。
男1 わしゃ人に理解されるために学問をやってたわけじゃない。
女1 よく学生に教えてたね。
男1 わしのゼミの学生の在籍率は年間で0.33じゃった。つまり3年に一人じゃ。よく大学がクビにせんかった。今ならクビじゃ。昔はよかったなあ。
女1 それ、自分に都合よかっただけじゃん。
男1 当たり前だ。自分のことしか考えておらん。


  停電。

女1 わ。
男1 またか。
女1 もうやだ。
男1 おまえ早く寝ろ。眠れば暗いのも関係ない。目を開けて寝る癖がなければ。
女1 やだ。
男1 どうして。
女1 一人で部屋へ行くのはやだ。
男1 しょうがないな。えーとちょっと待て。位牌に火をつけてやる。えーと、位牌は…
女1 おじいちゃん!
男1 だから位牌に火をつけて、明るくしてやるから。ん?位牌じゃない。ろうそくだ。素でぼけてしまった。
女1 びっくりした。
男1 ちょっと待て。今位牌をとってくる。
女1 ろうそくだって。
男1 そうじゃ、位牌だ。どりゃ。


   男1、ろうそくを取ってきて火をつける。

男1 おまえ、そこに横になれ。
女1 え?
男1 夏がけをかけてやる。寝てもいいぞ。
女1 おじいちゃん。
男1 なんじゃ。
女1 うん。


  横たわる女1。
  男1、夏がけをかける。

男1 停電か。久しぶりだな。最近停電なんて気の利いたものはないからな。
女1 病院も停電かな。
男1 病院はちゃんと電気がつく。それにもう消灯だ。
女1 今日子、怖がってるかな。
男1 大丈夫だ。おかあさんがついている。
女1 うん。
男1 台風で停電。わしゃ実は少しワクワクしとる。
女1 台風の日におばあちゃんと出会ったから?
男1 そうかもしれん。
女1 おじいちゃん。その話してよ。ギャグはいいから。
男1 その話。おばあちゃんと出会った話か?
女1 うん。
男1 明日香。
女1 うん。
男1 停電で暗くて昔話か。昔話は嫌いだな。
女1 そうなの?だって客員教授の話は?
男1 わしゃ、話の中では十三カ国に客員教授に行っているがな。
女1 うん。
男1 ホントのところ、どこからも呼ばれておらん。
女1 やっぱり。
男1 学者でも外国語が得意とは限らない。
女1 そうだろうと思った。
男1 嘘つきはいやか。
女1 嘘じゃないでしょ。ホラでしょ。
男1 嘘はダメでホラはよいか。
女1 うん。だって、嘘はずいぶん聞いたからさ。
男1 いい嘘もあるぞ。
女1 そうかな。
男1 いい嘘もある。
女1 おばあちゃんの話は?
男1 おばあちゃんか。明日香、おまえいくつだ。
女1 十三だよ。
男1 十三か。おまえ、将来、何になりたい?
女1 え?だって。わたし。
男1 なんかあるだろう、なんか。
女1 歌手、かなあ。
男1 歌手か。歌が好きなのか?
女1 ううん。好きじゃない。
男1 じゃ、どうして。おまえ人前苦手だろうが。
女1 あの、学校さ。
男1 行かなくてもいいからか。
女1 なんか歌手になればさあ、友達にもさあ。
男1 おまえ、友達となんかあったのか。
女1 心配してくれるの?
男1 しまった!
女1 なに?
男1 ちょっと、シリアスになってしまった。
女1 いいじゃん、なったって。
男1 歌手かあ。モーニング娘。に入るか?
女1 どうしてモーニング娘。なの?
男1 去年の話だ。くだらないくだらないと思いながらくだらないのがまた好きなもんでな、紅白を観てたらちょうどLOVEマシーンを歌っておった。ああ世も末だ世紀末だと思っていたら、今年の元旦からタータラッタタータラッタタラタラタラタラというのが耳について離れん。うっかり気を抜くと頭のこの辺からタータラッタタータラッタタラタラタラタラと聞こえてくる。いかんいかん。わしはいったいどうしたのじゃ。そうするとまたタータラッタタータラッタタラタラタラタラ。あいつらただもんじゃない。
女1 おじいちゃん。無理してるんじゃない?
男1 無理?
女1 なんか悲壮感が漂ってきた。
男1 そうか?
女1 知ってるよ。一人で、部屋で、難しい本難しい顔して読んでたじゃない。今日子と二人でよく邪魔したよね。
男1 なんだ、昔話か。
女1 でもおじいちゃん、勉強やめて必ず相手してくれたよね。
男1 何を言っとる。
女1 台風の夜、おばあちゃんに会ったんでしょ。
男1 ああ。
女1 どこで?
男1 昔話か。じゃ、話してやる。こうやって二人を寝かしつけたな。よく。
女1 うん。おかあさんの勤め遅かったから。
男1 昔々。あるところに一人の娘がおった。
女1 おばあちゃんのこと?
男1 それがなかなか難しい。
女1 もう一度最初から。昔々。眉目秀麗、成績優秀、将来を嘱望される学生がおった。
男1 おじいちゃんのことじゃないよね。
女1 黙って聞け。おじいちゃんが学生の頃だ。卒業論文の仕上げを静かなところでしたかった。一夏田舎で部屋を借りようと思ってな。ある土地の旧家に滞在させてもらうことになった。


  嵐

女1
男1 え!今日子さん?
女1
男1 今日子さん、どうしてこんなところにいるんですか。
女1
男1 今日子さんではないんですか。
女1
男1 もしかして、明日香さんですか。
女1 さてこれも山の話。
男1 え。
女1 さてこれも山の話。サトリの化け物がいて人の心を読む。
男1 どうしたんですか?
女1 旅人が夜を明かそうと火を焚いている。いつ現れたか分からない。人でないものがこちらを見ている。
男1 昔話ですか?
女1 おまえ。おれを何者かと思っているな。おまえ。もしかしてこれがサトリというものだろうと思っているな。おまえ。こちらの思っていることをすぐ覚るんだなと思っているな。
男1
女1 なんとも気味の悪いものがきたなあと旅人は思った。そのとき火がはぜて木ぎれがサトリの顔を打った。
男1 それで?
女1 うわ。おまえ、何というやつだ。心には何も浮かばないのにこんなことをしやがった。人というものは恐ろしいものだ。おお、恐ろしい。サトリは山の中に消えていった。
男1 他にも話を教えてくれませんか。
女1 さてこれも山の話。
男1 うん。
女1 さてこれも山の話。サトリに出会った娘がいた。サトリはいつものように…


  嵐

男1 よお。
女1 サトリ。また来たの?
男1 ああ。
女1 里になんか来ない方がいいよ。
男1 教えてくれ。
女1 なに?
男1 あれから山に帰ったが、山に来たやつの心は前と変わりなく読めるんだ。
女1 またいたずらをしてるんでしょう。
男1 おまえの心は読めない。
女1 そう?
男1 おまえ、前に言ってたよなあ。
女1 なんだっけ?
男1 顔色を見れば。声を聞けば。一緒にいれば。心を読まないでも人の心は分かる。そうだったな。
女1 そうよ。それがどうして分からないの。
男1 わからねえ。おれは人の心が読める。相手を見なくとも自然に相手の心の声が聞こえてくるんだ。いろんなことを考えてやがる。おれが心の内を言ってやるとみんな何とも言えずにいやあな顔をしやがる。おれはそれが楽しみだった。
女1 寂しい楽しみ。
男1 まさか自分の心を読まれるのがこんなもんだとは思わなかった。おい。
女1 はい。
男1 おまえ、心を読んでるな。おれの心を読んでるな。
女1 ちがう。あんたみたいに自然に聞こえてくるわけじゃない。一生懸命生きてるの。一緒にいれば、その人のことが分かるの。その人の顔色、仕草、指の先まで心があるの。言葉の端にも心があるの。
男1 一緒にいれば分かるのか。
女1 そう。
男1 一緒にいれば分かるのか。
女1 うん。
男1 それならおれと一緒にいてくれ。
女1 あたしに山に行けというの?
男1 そうだ!
女1 あんたの気持ちも分かる。
男1 またおれの心を読んでるのか?
女1 なあんだ。寂しかったのか。
男1 いや、そんなことはない。
女1
男1 お見通しか。
女1 心をさらして生きていける?
男1
女1 人の心ばかり読んでいて、自分の心を知られるのを恐れているくせに。


  嵐

女1 明日香に会ったんですね。どうして階段を下りたんですか。どうして明日香にあったのですか。どうして明日香をそっとしておいてくださらないんですか。
男1 明日香に会ったのだな。罪なことをしてくれる。学問を積んでも人の気持ちは見えないか。サトリでもあるまいしな。無理なことか。明日香をそっとしておいてくれ。明日香は一生ここで暮らす。よそ者は人のことに立ち入らないでくれ。


  嵐

女1 おばあさま。今日子です。もう、ご用はございませんか。そろそろ時間のようです。もう、下へ行ってもようございますか。最近変わる時間がずれることがあります。変わらないうちに下へ行きます。おばあさま。こういう身は承知していますからつらいわけではありません。ただ、わたしが夜のうちに、わたしでないうちに、なにをしているか。怖いのです。毎夜毎夜こうしてわたしがわたしでなくなるのが。おばあさま。この家はわたしで終わりにして下さい。わたしはあの方がわたしでないわたしに優しく話しかけているの見ていなくてはなりません。


  鍵の開く音
  女1、牢を開け、座る。
  男1、女1の前に立つ。

男1 明日香さん。
女1
男1 お別れに来ました。
女1 さてこれも山の話。
男1 ぼくの話も聞いてくれませんか。
女1 里に出たサトリは娘と暮らし始めた。
男1 明日香さん。
女1 サトリは徐々に心を開いていった。


  嵐

女1 明日香さんはどうしてそんなところにいたの?閉じこめられていたの?
男1 部屋は暗くてろうそくだけ。外は嵐がごうごうと、激しくなってきてなあ。わしは明日香さんの話に聞き入っていたよ。明日香さんはサトリの話をいくつもしてくれたよ。
女1 明日香さんはお話以外はしゃべらなかったんでしょ?
男1 ああ、こちらの言うことも聞こえていないようだった。
女1 どうして、話だけできるんだろう。
男1 昔、そういう役割の女性がいたそうだ。文字がまだなかったころのことだ。語り部という人たちだ。
女1 明日香さんは語り部だったの?
男1 分からない。ただ明日香さんはそこにいたんだ。
女1 今日子さんとそっくりだったの?
男1 それは…いつもろうそくの明かりで見るだけだったので、昼間見る今日子さんとは印象が違った。
女1 おじいちゃんはそれからも明日香さんのところへ行ったの?
男1 明日香さんはサトリの話を語ってくれた。それからわしは夜になると明日香さんのところに通って明日香さんの語る話を聞いたんだ。
女1 おじいちゃん。サトリはどうなったの?
男1 村の娘はサトリのように人の心を読めるわけじゃない。娘が言ったようにな。人はみな心をさらして生きている。心を読んでもらおうと人と関わるのだ。
女1 おじいちゃん、シリアス。
男1 関わるといってもかかをわるわけではないぞ。
女1 なにそれ?
男1 わからん。なにか言わなければいかんと思ったがうまくいかなかった。
女1 おじいちゃん。
男1 ほら今おまえも心を読んだ。
女1 え!
男1 おじいちゃん、照れてる、と思っただろう。
女1 うん。
男1 お互いを思いやることだ。
女1 サトリはそれを知らなかったんだね。
男1 そうだ。
女1 ねえ、サトリってなんなの?
男1 化け物だ。
女1 人間にもそういう人がいるよ。
男1 そうか。
女1 わたしも、そうだよ。人に心を見せるのは、怖い。ずかずかと人の心に踏み込んでくる人は、怖い。
男1 そうか。
女1 みんなわたしのことを分かろうとする。わたしは何でもないよ。何にもないよ。
男1 おじいちゃんはもう、人になにをさらしても平気になってしまった。これが年というものか。
女1 わたしも、平気になるの?
男1 ああ。
女1 いやだ。
男1 ああ。
女1 でも…
男1 ああ。
女1 そうでもないぞって顔してる。
男1 おまえも心が読めるじゃないか。
女1 読めるんじゃない。
男1 そうだ。読めるんじゃない。
女1 明日香さんはどうなったの?昔っていったってさあ。ひどいじゃん。おじいちゃん、助けられなかったの?
男1 わしにとっては昔は過去のことではない。
女1 え?
男1 わしが勉強してきたことを少し話していいか?
女1 難しい?
男1 難しい。しかし難しいことを易しくするのが学者のつとめだ。
女1 教えて。
男1 わしが勉強したのは時間のことだ。
女1 時間?
男1 そうだ。時計が時を刻む。しかしあれは時間ではない。
女1 そうなの?
男1 本当の時間は人の心の中を流れる。
女1 うん。
男1 楽しいときは時間がたつのが早いな。
女1 うん。
男1 つらいときは時間がゆっくり感じられる。
女1 学校にいるときがそうだよ。そうだったよ。
男1 時計はホンモノの時間を表しているからそれを錯覚だと思う。しかし、人の心や体に流れる時間が本当の時間だ。人が昔のことを思い出す。それは過去のことと考え、もう何年も経ってしまったなどと言ったりする。しかし人の記憶はつい最近のことでも忘れてしまい、何十年も昔のことを鮮明に思い出したりする。
女1 うん。
男1 難しいか?
女1 よく分かる。
男1 明日香。
女1 うん。
男1 おまえの話も聞きたいな。
女1 うん。
男1 おまえは何を話すのかな。
女1


  電話の音

男1 つながった。
女1 うん。
男1 どれ。
女1 だめ。
男1 うん?
女1 取っちゃダメ。
男1 どうして。
女1 今、何時?
男1 十時か、十時半か、時計が見えん。
女1 だめ。取っちゃダメ。この時間はダメなの。
男1 おかあさんからかもしれん。
女1 ダメ!とらないで!
男1 大丈夫だ。明日香。大丈夫だから。
女1 出ちゃダメ!


  男1 電話を取る。

男1 もしもし、もしもし、え!
女1 おじいちゃん!今日子なの?今日子のこと!


  男1、戻ってくる。

女1 今日子なの?ねえ、おじいちゃん。
男1 切れている。
女1 え?
男1 切れているよ。相変わらず電話はつながっておらん。
女1 どうして?だって、なったじゃない!
男1 あの電話の音はおかしくなかったか。
女1 どういうこと?
男1 あれはダイヤル式のものだよ。うちのはあんな音じゃない。
女1 どうして?おじいちゃん、どうして?


  雨が激しくなる。

男1 台風は今どこだろうな。
女1 おじいちゃん。
男1 今日子は大丈夫だ。
女1 今のベルはなんなの?
男1 時間の話をしよう。
女1 …うん。
男1 わしにとっては明日香と会っていた数日間は過去のことではない。
女1 おじいちゃん。
男1 日本語には過去形がないのを知っているか?
女1 知らない。
男1 日本語には経験しかない。
女1 おじいちゃん。
男1 なんだ。
女1 シリアスも似合うね。
男1 おう。まかしとけ。明日香はきれいな人だった。
女1 うん。
男1 おまえには悪いことをした。早死にをした人の名前など付けてしまった。わしのわがままだ。なんてことをしてしまったか。
女1 どうして?明日香さんは死んでしまったの?
男1 死んだ…死んだ、ということだ。
女1 おじいちゃんのいるときに?
男1 うん。明日香はいなくなった…死んだ、ということだ。


  電話の音。

男1 またかね。
女1 おじいちゃん。
男1 大丈夫。電話線は切れている。また、さっきのさ。
女1 どういうこと?
男1 時間の話だ。わしには今も昔も変わりはない。どれ。
女1 おじいちゃん、出るの?


  電話に出る。

女1 おじいちゃん!
男1 もしもし。もしもし。
女1 おじいちゃん。
男1 切れている。明日香。もう寝なさい。ここで寝てしまえばいい。明日には台風も行ってしまっている。
女1 おじいちゃん。
男1 眠りなさい。
女1 うん。
男1 わしも眠るよ。
女1 おじいちゃん。
男1 どうした。
女1 おばあちゃんは、今日子さんでしょう。
男1 そうだ。
女1 おじいちゃんはどうして今日子さんと結婚したの?
男1
女1 どうして?
男1 もう遅い。それはまた今度だ。
女1
男1 眠りなさい。
女1 うん。
男1 わしも眠るよ。


  女1、眠りにつく。
  嵐、激しくなる。
  しばらくして女1、起きあがる。
  男1、女1を見つめている。

女1 伸一さん。
男1 おばあさんか。やけに若い姿で出てきたな。悪かったな。さっきは火を付けそうになってしまった。今日子。五十年だ。五十年ぶりの大嵐だ。今夜がちょうど五十年だったなあ。
女1 伸一さん。
男1 今日子。おまえの名を付けた今日子が今苦しんでいる。
女1 分からない?
男1 今日子?
女1 明日香です。
男1 明日香さん!
女1 久しぶりね。そう、五十年ぶりなの。
男1 どうして。
女1 あなたがわたしのところへ来てくれたのはちょうど五十年前なのね。
男1 ぼくにとっては過去ではない。
女1 難しいことは分からないわ。
男1 あなたは昔のままだ。
女1 昔?昔じゃないの。わたしには今のままです。わたしが消えてしまったのはついさっきです。
男1 やっぱりあなたは消えてしまったんですね。
女1 今日子を大切にしてくれてありがとう。今日子と結婚してくれてうれしかった。
男1 わたしの目の前であなたが消えてしまうのを見ました。明日香さん。あなたとこうやって話すのは五十年目で初めてだ。
女1 消えてしまって初めて普通に話が出きるなんて。
男1 どうして二人は二人だったんですか。
女1 分かりません。今日子の中にわたしが生まれたのは言葉を覚えたときでした。誰が教えたわけでもないのに、毎夜毎夜サトリの話をしたそうです。そのときは目も見えず耳も聞こえず、そのうちに今日子はわたしのことを明日香と呼ぶようになりました。わたしは今日子の夜だったのです。
男1 あのときもこうやって話したかった。
女1 今日子に怒られますよ。今日子はわたしなのだから。
男1 あなたが消えてからもあの家を訪ねた。毎年毎年。初めは口を利いてくれなかったよ。
女1 恥ずかしかったの。自分が変わるところを見られたから。明日香の見たものは今日子にも少し残っているの。
男1 ぼくは今日子を好きだった。あなたの替わりでなく。
女1 大丈夫。今日子も知っています。
男1 今日子は来てくれないのかな。
女1 帰ります。嵐がやみますから。風の吹いているうちに。この風がわたしの送りですから。
男1 ぼくもすぐに行きますよ。
女1 お孫さん双子なのね。今日子と明日香。今日子さんはね、大丈夫。ではね、行きますよ。


  倒れるようにうずくまる女1。

男1 明日香さん。


  電話の音。
  部屋の明かりが付く。

男1 明日香さん?


   電話の音。

男1 夢か。夢ではない。今のが夢なら五十年前から夢だろう。


  男1、電話に出る。
  女1、目を覚ます。

女1 おじいちゃん!
男1 大丈夫。
女1 今日子?今日子なの?
男1 もしもし。おお。やっと通じたか。どうだ。そうか。眠っているか。停電は。そうか。いや、仲良くやっているよ。うん。うん。今ここにいる。二人で仲良く寝てたんだ。明日香は寝相が悪くてな。今も顔をけ飛ばされた。
女1 ホント?
男1 嘘だ。
女1 じじい!
男1 うん、替わる。ほら、おかあさんだ。
女1 おかあさん!今日子は?ホント?大丈夫。停電、どうだった?うん。おじいちゃんがさあうるさくて。つまんないことあとからあとから。
男1 けっこうたのしんでたくせに。
女1 ほんと?帰るの?今日子、帰るの?


  嵐

女1 サトリ。
男1 なんだ。
女1 わたし、なにを考えているか、分かる?
男1 おれはおまえじゃないのでわからねえ。しかし、その顔を見るとなにかたくらんでいるな。
女1 わたし、あんたに言うことがある。
男1 なんだ。
女1 分からないかねえ。
男1 なんだ、じれったい。言ってみろ。言ってみなけりゃわからねえ。
女1
男1 待てよ、おい。まさか、まさか赤ん坊が出来たのではあるまいな。
女1
男1 おい、本当か。本当に赤ん坊か。おれの、おれの赤ん坊か。
女1
男1 そうかあ、赤ん坊か。大事にしねえとな。おまえも、いいものをいっぱい食わないと。おれの赤ん坊か。
女1 うん。春ごろだ。楽しみだね。あんたにもたくさん働いてもらわないと。
男1 ああ。まかしとけ。
女1 頼むよ。
男1 畑に行って来る。
女1 嵐が来るよ。気を付けて。
男1 ああ。おお、風がなま温かい。雲も真っ黒だ。降り出す前に帰ってくるよ。
女1 うん。
男1 ちょっと待て。赤ん坊だと。
女1 うれしいだろ。
男1 ああ、うれしい。どうしてだろう、うれしい。どうしておれはこんなにうれしいんだ。
女1 うれしいさ、それが人ってもんだろう。
男1 それが人か、待て!おれは、おれは化けものだ!サトリの化け物だ!
女1 それがどうした。
男1 ああ、なんということだ。忘れていた。おれは化け物だ。その赤ん坊はサトリの、化け物の子どもだ!
女1 そうさ、サトリの子どもさ。
男1 そんなもん、生んでもいいのかよお!
女1 あんた、化け物はねえ、山から下りてきて、人と暮らして、人の心を知って、人の子どもを持って、人になるんだよ。自分の心をさらして生きて、人になるんだよ。あんたは化け物じゃない。人なんだ。
男1 おれは人か。人なのか。
女1 うん。
男1 畑に行くよ。ああ、嵐が来る。川の流れが速いだろう。山はもう降っているかもしれないな。いや、もう山のことは忘れよう。山から下りておれは人になったんだ。


  嵐

女1 おじいちゃん。
男1 今日子か。明日香もいるな。
女1 おじいちゃん。台風が来るね。
男1 ああ、台風が来るな。風が強くなる。雨も降ってくる。
女1 おじいちゃん、川を見たい。川へ行こうか。台風の川へ行こう。
男1 台風が行ったらな。台風が行ったらつれて行ってやる。明日、晴れたら川へ行こう。
女1 うん、晴れたら川へ行こう。


  音楽
  幕

風の送り(六稿)平成十二年県大会参加


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