熊本城本丸天守閣。2007年完成を目標に竣工していた熊本城再建計画も、超常体の出現により頓挫し、2020年の今や、神州結界維持部隊西部方面隊・第8師団管区の戦略拠点として、1個小隊の常時警備体制下にある。
有坂・みゆ(ありさか・―)二等陸士は、熊本城警備部隊長(小隊長:二等陸尉)をはじめとする士官・下士官を前に、自説を披露した。
「 ―― 藤崎八旛宮社伝によると、平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護との勅願によって、石清水八幡宮より分霊を迎え、承平五年(九三五)に奉斎したのが創祀とされています。勧請の時、勅使は、石清水の藤の枝を鞭として神馬を曳いて、神霊の感応の地に栄えるよう鞭を立てたところ、繁茂したので祭地を定め、藤崎と呼ぶと社名起源の伝説がありました。但しその地は、今も廃墟として残っている場所ではなく、この熊本城内 ―― 藤崎台球場跡という事です」
次に、熊本中心部における超常体発生頻度データを並べる。小なり大なり、過去数年間に渡って、超常体が熊本市街地中心地に出没したポイントを記録した物だ。熊本城を中心に、半径3kmの不思議な空白が生まれていた。
「 …… いや、熊本城本丸天守閣が中心ではないな。もう少し西より ―― なるほど藤崎台か」
下士官達の間に驚嘆の吐息が漏れる。
「これから、有坂陸士は、本丸や他の場所への襲撃こそが陽動で、本命は藤崎台球場の可能性が高いというのだな?」
確認の問い掛けに、みゆは力強く返事をした。
「しかし、今、あそこには何もないぞ?」
「縁起で謂われる藤の木が残っているのならば、確かに信憑性はあるが。―― その点に付いてはどう考えている?」
確かに、現在の藤崎台球場跡には何もない。かつて高校球児が白球を追いかけて血と汗と涙を流した面影もなく、また20世紀末までは残っていたという七本の大楠も朽ち倒れている。
警備部隊が半信半疑なのは無理もない。
だが、みゆは不安感をおくびにも出さず、
「解りません。あたし達には理解出来ない ―― それこそ超常体にしか理解出来ない何かがあるのかも知れません。そもそも、超常体が何を目的にこの地に現われて、人を襲うのかもあたし達は解っていないのですから。ただ藤崎台球場を目指す理由としては ―― 熊本を守る八幡様の力が未だ働いていて、それを無力化したいとか?」
何故、そこで疑問形か。苦笑する警備隊長。
「答えになっているのかなっていないのか ……。残念ながら、本官は幸運な事に憑魔に寄生されていないから、ますます解らんな。―― 魔人である片山士長には、何か感じる物はあるか?」
突然に話を振られて、西部方面隊第3対戦車ヘリコプター高遊原分遣隊・第385組長、片山・紫(かたやま・ゆかり)陸士長は口をへの字に曲げる。
「 …… 少なくとも、藤崎台球場に近付いて、活性化現象は生じた事はありませんけど」
活性化は、憑魔が別の超常体の存在を感知した時に示す様々な反応の総称である。
この状態になると、小型の超常体と化してしまい、身体能力が激しく強化される。ただし相手が小型の超常体の場合は、活性化が起きない場合の方が多い。同様に、憑魔に反応して活性化するような事はなく、ある程度の大きさがある相手でないと近くに潜んでいても判らない。
逆に言えば、活性化を利用して、超常体の接近を感知する事が出来るのだが ……。
「超常体の出現を抑えるほどの何かに、憑魔が反応し無いというのならば、藤崎台球場本命説にはまだ疑いの余地があるな。だが、状況証拠はそれを指し示しているのも事実だ。…… 実に厄介だな」
本命が絞り込めない以上は、警戒の為に戦力を分散しなければならない。予測される燕尾服の超常体は、高位と見なされている。高位ともなれば、1個小隊でも下手すると壊滅の危機がある存在だ。
ここで紫が挙手。地図を指先で叩きながら、
「二の丸広場もそうですけど、藤崎台球場跡もまた大火力を投入出来る地点ですよね。そして何よりも航空戦力の売りは、高い機動性です。―― 藤崎台球場が外れでも、警備小隊が抑えている間に、応援に駆け付ける事は充分可能です」
紫が自信をもって頷いて見せると、警備隊長は朗らかに笑い返してきた。
「よし。では、西の守りは片山士長のコブラ部隊に任せるとしよう! 他に意見はあるか?」
「熊本市中心部で、消息を絶った部隊は現在のところないそうです。消去法で計算すると、敵残存戦力は燕尾服と魔人2体の、計3体となります」
「それでは、敵の増援が無い事を祈る事にしよう。各自、警戒を怠るな!」
警備隊長の号令一下、各員持ち場に向かう。1人所在無さげなみゆだったが、
「地上からの観測を宜しくお願いしますね」
紫に肩を叩かれて、口元を引きつらせた。
「あの …… あたし1人でですか?」
「他に適任者がいないですから。…… 言い出しっぺが貧乏籤を引く事はよくありますよ」
笑いながら愛機へと向かう紫。みゆは三つ編みを振り回しながら、
「せ、せめて非常時の発砲許可を 〜!」
みゆの叫びが届いたかどうかは、よく判らない。
―― こうして厳重な警戒体勢に入った熊本城。
だが、十日間余りも何事も無く過ぎ去ってしまった。
緊張を持続させておく事は難しい。また緊張と弛緩を適時使い分けるには経験が必要だ。当然ながら、警備部隊は精神的に疲れ始めていた。
そして疲労するのは人間ばかりでは無い。紫が率いる第385隊もまた悲鳴を上げていた。
攻撃回転翼機(ヘリコプター)AH-1Sコブラに限らず、そもそも航空機は金食い虫である。飛ばす為の燃料に、整備する労力。隔離前から石油燃料を外国からの輸入に頼っていたが、隔離後もそれは変わらない。一応、各国からの支援という形で送られてきてはいるが、隔離前に輸入していたよりも量は少なくなっている。そんな状況の中、対戦車ヘリコプターを、航空偵察や哨戒任務で長時間使用するとどうなる事か?
当然ながら、紫は使用制限の旨を上からこっぴどく達せられた。警備隊長はこの力強い戦力に好意的で紫達に便宜を図ってくれるが、いつまでも甘えてばかりにもいられない。
知らずと、事件の発生 ―― 超常体の出現と早期の決着を待ち望んでいる自分がいたりした。
そんなある種の焦燥感に駆られていた紫が、敵から襲撃を受けたのは、5月7日の晩だった。
昨日までの愚図ついていた天気は機嫌を直し、夜空に美しい月がかかっている。視界は良好。飛ぶにはいい夜だった。
だが、奴等は紫の期待をことごとく裏切ってきた。
月明かりがあるとはいえ、影もまた濃い。影に隠れ潜んで接近する魔人2体は、地上 ―― 二の丸広場で待機整備中の第385組に襲撃をかけてきた。
小休止として仮眠していた紫は、突然の痛みと衝撃に飛び起きた。寄生している憑魔が活性化を始めたのだ。部下の怒声を聞きつける。ジャケットを羽織り、SIG SAUER P220を抜くと、天幕から顔を出した。
「 ―― 状況は!?」
「北側、堅物台樹木園跡に隠れ潜んでいた魔人2体の襲撃を受けています! すでに警備部隊には増援要請を出していますが ―― 」
「それまでに、ヘリを死守! 発砲を許可します!」
やられた! 油断していた!
憑魔能力をも有する魔人は、単体(戦車や戦闘機等も含める)において最強の戦力である。何故なら、彼等は(当たり前だが)人並みの知恵があり、知識があり、武装するからだ。
こちら側の最大火力が、対戦車ヘリコプターである事は、周知の事実である。ならば、それを潰すに何も正面から戦う必要は無い。燃料補給や機体整備、操縦士の小休止 …… そんな隙を狙えばいいのだ。
木陰や建物の残骸を遮蔽物として、89式5.56mm小銃BUDDYで射撃してくる魔人。稲荷神社襲撃の際に確認した報告によると、2体とも強化系らしい。
ならば接近戦は不利だ。しかし近寄らなければ逃げられる。だが奴等にしても接近してこなければならない理由がある。―― 答えは簡単。
「弾切れを待ちなさい! 奴等は弾薬補給を受けていないのですから!」
高位超常体の襲撃を受けた際に、無抵抗だったとは思えない。そして寄生させられた憑魔に完全侵蝕された彼等は、当然ながら補給を受けられない身だ。さらに先月の稲荷神社への襲撃を考えれば、弾薬残量はゼロに近い。
紫の推測は当たった。すぐに奴等は全弾を撃ち尽してしまったのか、銃撃が止まった。
このまま退けばよし。ヘリに搭乗して反撃するまでに逃げられ、隠れられてしまうだろうが、当面の危機は回避出来る。逃げなさい!と強く念じた。
だが ――
「接近戦を挑んできますか!?」
身体能力が強化された魔人は遮蔽物から踊り出ると、瞬く間にこちらに肉薄してくる。奴等が全力をもってすれば、素手でも飛んでいないコブラを破壊する事は可能かもしれない。
対するこちらの武器はそれぞれ拳銃がひとつずつ。弾丸は多くても一人9発。しかも9mmパラベラムで魔人の動きを止めるには、かなりの射撃の腕が必要だ。残念ながら、部下にも全く頼みに出来ない。
―― 憑魔覚醒。侵蝕開始。半身異化状態に移行。
紫は意を決して前に出る。身体能力が極限まで向上した。軽やかな風のような動きで魔人の内に飛び込んでいった。
航空機の操縦には自信がある。下士官として指揮戦術の勉強もした。だが射撃術・白兵戦術・徒手格闘術には自信はない。ましてや相手は完全侵蝕された魔人が2体。
「それでも! 時間稼ぎは出来ます! 柔よく剛を制す! 一撃は軽くても、それを補う技と、あと根性!」
鳩尾を的確に狙って、肘で打つ。前のめりになったところで、その顎に頭突きを食らわす。
身体能力が強化しているとはいえ、関節や急所等、どうにもならない箇所は幾つも存在する。異形系でなければ怖れるに足りず。のけぞる魔人。
だが、やはり一撃一撃が軽過ぎる。そして高い技を繰り出せる能力はあっても、それを活かす術がない。
不敵に笑った魔人は虫を払うかのように紫を打ってくる。小柄な身体を活かして、辛うじてすり抜けていくも、相手は2人掛かりで、しかも紫よりは徒手格闘術に秀でていた。フェイントに引っかかり、ついに捉えられる。重い一撃で紫の身体は宙に吹き飛んだ。
背中から地面に叩きつけられ、息が出来ないほどの衝撃と痛みが襲う。肋骨だけでなく、臓腑が悲鳴を上げた。胃液が逆流するが、吐くにも吐けない。萎縮して、咽喉が詰まる。昏倒する紫に、魔人が止めをさそうと近寄ってきた ――。
( …… 私、ここまでかな? ああ、もう一度トム猫に乗って、大空を駆け回りたかったなぁ )
―― だが紫の奮戦は無駄ではなかった。
薄れいく意識の中で、最後に、微かな銃撃音を耳にしたからだ。
増援の銃撃音を子守り歌代わりにして、紫は闇に落ちていった ……。
同じ頃。藤崎台球場跡の三塁側ベンチ残骸で、みゆは擬装パターンが施されたシーツの下で震えていた。
「 ―― せ、せめてこうたいよういんだけでも〜欲しいですよ〜」
本命と思しき場所で独り寂しく待ちの姿勢。かくれんぼは得意だが、いつも最後まで見つけてもらえず、泣きたくなるのがオチだった。
そんな時は、妄想 ―― もとい夢みる事で寂しさを紛らす。とはいえ、ドリームランドを旅して、幻夢峡カダスへと向かう訳には行かず、今回の事件についての情報を反芻するしかない。
「ええと、先月下旬は、超常体 ―― 燕尾服自体の表立った行動が無かったんだよね? あれから、藤崎八旛宮に異変 …… 猫さんとか鶏さんとか、小動物が儀式的に殺されていないか様子を伺ってもらったけど、そんな様子もなく。本当に何をしてるのかなぁ?」
知らず小声で呟く事で、勇気を奮い立たせている。
「でも本当に、藤崎八旛宮での儀式の意味とその影響も未だ解っていない訳だし。―― 熊本を守る八幡様の力が未だ働いていて、それを無力化したい?」
可愛いらしい眉を八の字にして、唇を尖らす。
「うん、でも …… あれ? あたし、前に変なオジさんに何て言っていたっけ? そのうち1つは正解って ―― 超常体の目的は『 神州結界の破壊 』或いは『 縄張り争い・九州で自由に活動する為の儀式 』。…… 八幡様の力を無効化するというのは、自由に活動する為という事だよね? じゃあ十字の意味は何? 縄張り争いだとしたら ―― 陣地を得たというマーキング!?」
犬と本質的に変わらないのか超常体は!? いや、でも、縄張りを主張する為に、名前や印章を刻み込むのは人間だってやる事だ。
「じゃあ十字の印章って!? 変なオジさんはヴードゥー教を持ち出したけど …… 」
携帯端末にダウンロードしていた情報を、みゆは検索し直す。
「ヴードゥー教の話は、アフリカの土着信仰と混ざって変質したキリスト教 …… 確か、黒いマリアとかそんなのの事を指しているのか、ヴードゥーの中のアフリカ土着信仰部分に注目すべきなのか……。ダンバラーウェイドという神性は蛇がシンボルだそうだから、堂屋敷警部が襲われた時の『毒蛇に噛まれた様な激痛』というのに当てはまるかも。でも、十字、十字架、十字路 …… あった、これだ!」
――ヴードゥー教において、死者が神々の住処であるギネーに向かう途中にある“ 永遠の交差点 ”。希臘神話や、中世欧羅巴においても、交差点は逢魔ヶ地であった。古くは三叉路であるが、十字路を意味する事も多い。ヴードゥー教において十字架を象徴とし、“ 永遠の交差点 ”に立っているのは ――。
「 …… 死神 ゲーデ。またの名を“ サムディ男爵 ”」
呟いてから、球場へと何かが近付く気配を感じ、みゆは顔を上げた。
月光が照らすマウンドに、黒い人影が踊り込む。
黒い燕尾服に黒い山高帽、サングラスを掛けた貧相な小男 ―― 携帯情報端末に挙げられている、死神ゲーデの姿がそこにあった。
ゲーデは死の神であり、かつて生きていた全ての人間に知っているとされ、最も賢明な神と言われる。この点、印度神話で最初の死者とされるヤーマ(閻魔天)が、死者を裁く神として奉られているのと集合無意識的に関係あるのかも知れない。無いのかも知れない。…… どっちだ? どうでもいい事だが。
さておき、ゲーデはまた生の支配者でもあり、男根の神である。愛の神であり、非常に猥褻で、ラム酒を何よりも好む。
そういえば、堂屋敷・助五郎[どうやしき・すけごろう]三等陸尉 …… もとい警部に誘惑されそうになったのは、そういう理由からか!
「 ―― つまり、セクハラ大魔神!」
携帯情報端末からSOSの発信を流すと、擬装シーツを被ったまま、みゆは脚使用で設置していたBUDDYを向ける。伏射ちで、切換えレバーを連発の『レ』に。
「 ―― 乙女の怒り!」
照星頂を照準点たるゲーデに置くと、照門の中心に見た。闇夜に霜の降る如く、掛けた人差し指に力を入れ、引鉄を絞った。
発射された5.56mmNATOが、燕尾服に命中する。30発弾倉が空になっても、すぐに予備弾倉と交換して、連射を続ける。
銃弾を受け続けた燕尾服は、宙で奇妙な舞踏をしているようだった。だが、それも弾が尽きると共に崩れ落ちる。
ホルスターからP220を抜くと、銃口を向けながらみゆは慎重に近寄ってみる。5.56mmNATOを60発全弾命中させたとはいえ、相手は高位の超常体だ。油断は出来ない。
襤褸と化した燕尾服が、突然の風に攫われた。黒い影が星空を横切る。穴の空いた山高帽を手に、憎々しげにこちらを見詰めるゲーデの姿。致命傷には足りなかったらしい。
声にならぬ悲鳴を上げながらも、みゆは躊躇無く撃ち払った。銃身を横に寝かせてのタランティーノ撃ち。みゆの腕力では、ハンドガンとはいえ、反動を完全に押さえ込む事は出来ない。ならば、むしろその反動を利用し、正確な射撃よりも広範囲に弾をバラ撒く方が合理的だ。
横振れした9mmパラペラムがゲーデに迫る。だが、ゲーデは何処からかステッキを取り出すと、映画の如く回転させて打ち払った。跳弾のように弾があらぬ方向へと飛び回る。
ゲーデが跳躍。その身体が2つに分かれたばかりでなく、分裂を続けていく。
「ちょっと待てー! そんなのアリー!?」
無数のゲーデがみゆの周囲に散らばる。さながら1人の姫君にダンスを申し込む取巻き達のようだ。だが悪夢の舞踏会への申し出は、固くお断りさせてもらいたい。
撃ち尽くしたP220を右掌の内で器用に回し、棍棒代わりにする。焼けた銃身がちょっと熱い。
四方から突き出されてきたステッキを、身を屈めてかわすと、空いた左手でM16A1閃光音響手榴弾のピンを弾いてみせた。滑るように足下を転がって、包囲を抜ける。
直後に爆発。
閃光と衝撃音が治まった後に残っているゲーデは1体だけ。先ほどの分裂は、祝祷系の眩惑か!?
怒りに顔を歪ませたゲーデがステッキを振り上げた。横這い状態のみゆは慌てて飛び起きると、P220での受けを試みる。用心鉄部分に喰い込んで止まった。
「き、騎兵隊は未だですかー!? 片山士長ーっ!」
泣いても叫んでも、コブラは来ない。いつもなら五月蝿いだけの爆音も、聞こえて来ないとなると、不安どころか見捨てられたという情けない思いが込み上げてきた。精神が折れ、また力負けした。折れた膝が地に付く。上体を反らしたみゆの顔を覗き込むように、覆い被さりながらゲーデが顔を近付けてきた。
みゆと視線が合い ―― 金縛りにあった!
―― 縦に細長く開かれた瞳孔。
蛇のような冷たくも鋭い視線。…… 邪眼、凶眼。魔眼。
力が抜けていく。金縛りにあったかのように身体は硬直しているのに、だが動悸は早鐘の様に鳴り響いていった。
顔が火照る。身体が熱くなる。成熟していく途上の雌の奥の花弁が潤っていく。息が荒い。息が荒い。
ステッキを持つ手とは別の、空いた手がみゆの首筋を撫でるように触れてきた。
―― 瞬間、下腹部の内から強い衝動と興奮が鎌首を上げて、脳の頂きへと昇り上がってきた ……!
…………。
……………………。
真っ白になっていたらしい。
我に帰った自分は、口をだらしなく開け、端から涎が毀れ落ちていた。顔の筋肉は弛緩し、自然と満面の笑みになっていたようだ。目から歓喜の涙が止め処も無く流れ、鼻からもみっともなく体液が出ているようだった。何よりもズボンが暖かいもので濡れており、地面に染みを作り出している。
「 …… い」
忘我の状態から目覚めたみゆは、羞恥で顔を真っ赤にした。そして熊本城全てに響き渡るような音量で、喚き散らす。
「 ―― いっやぁーっ!!!!!!!!!!!!」
P220を放り出して、うずくまって泣き叫ぶ。
「犯されたー! 未だ、男の人と、まともに交際した事も無かったのにー!」
しかし後になってみゆは、この時までに経験がなかったのが幸いだったのかもしれないと述懐している。もしも、経験していたならば、ゲーデから与えられる最高の悦楽に抗う気など起こらなかっただろう、と。
さておき、恥辱に、悦びよりも怒りを爆発させたみゆは、激情に任せて拳を振り上げた。
「 ―― 乙女の純情&怒りパーンチ!!」
怒りの氣が満ちた拳が、ゲーデの顎を下から撃ち抜く。まさか反撃されると思わなかったのだろう。直撃を受けたゲーデの身体が、宙高く舞い上がった。
立ち上がったみゆは、ゲーデが地面に叩き付けられる直前に肉薄すると、
「 ―― くたばれ、セクハラ大魔神!!!」
怒りの氣を乗せた右回し蹴りを放った。ゲーデは綺麗に真横に吹き飛んでいった。壁にぶつかっただけでなく、そのまま向こう側へと貫いていった。
荒く息を吐くみゆ。今ごろになって、毒蛇に噛まれたような激痛が身体を走る。触れられた首筋には、蛇に噛まれたような傷痕と、うごめく肉腫。
「 ―― 憑魔」
そして憑魔に侵蝕されている身体組織。皮膚が鱗状に硬化を初めている。
「 …… という事は、さっき、セクハラ大魔神を蹴り飛ばした異常な力は ―― 憑魔能力だったんだ。自分が与えた力で、自分を足蹴にされるとは、とんだお馬鹿な話だよね」
9mmパラベラム弾倉を交換して、みゆはゲーデが激突して破損した壁を睨みつける。
正直、9mmパラベラムよりも、憑魔能力の方がゲーデに対して効果的な損害を与える事が出来るだろう。だが憑魔能力を行使を続けた事で、超常体に侵食されて、最後には味方から“ 処理 ”されていった隊員達の話も、みゆはよく聞いていた。
ましてや堂屋敷の件や、人吉からの報告によれば、高位の超常体は、強制的に憑魔の侵蝕率を上げる事が出来るらしい。それに相手の意識を乗っ取る事も出来るとなれば ……。
息衝く憑魔を抑え込みながら、みゆは銃口を向けて様子を伺う。
壁の崩壊が収まり、沈黙が場を支配した。
―― 長い、長い沈黙の後、強いライトが藤崎台球場跡を、マウンド上に立つみゆを照らし出す。
『 ―― 無事か!? 有坂陸士!』
観客席を降りて、銃列を並べる普通科数個分隊。味方の到来に、みゆは緊張の糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちてしまった。
そして、慌てて駆け寄ろうとする男性隊員を、
「すっ、すみません。近寄らないでー! それと厚手のタオルを用意してー!!」
真っ赤な顔で怒鳴って制止したのだった。
北熊本の第8師団駐屯地より増援が呼ばれ、藤崎台球場跡は厳重な警戒網が敷かれた。
衛生科の1トン半救急車 ―― 通称アンビの中で、タオルに包まったまま、みゆは呆けた顔のまま座っていた。ちなみに着替えは済ましている。
女性隊員に声を掛けられ、差し出すカップを慌てて受け取る。中身は、いつも啜る泥水のような珈琲で無く、気を落ち着かせる効果を狙ったハーブ茶。気遣いが妙に嬉しい。
「 ―― そちらも災難でしたね」
車内に設けられたベッドに横たわったまま、紫が声を掛けた。みゆは力無く笑い返す。
「 …… もう、お嫁さんに行けませんよぉ」
幸いにして、堂屋敷の後を追って、拘禁状態にされる事は無かったが。
「あたしよりも、紫さんの方はどうなんですか?」
「ありがとう。私の方は大丈夫ですよー。今は横になっているけれど、検査の結果、骨にも内臓にも異常は無いみたいですから。ただ疲労が祟ったみたい」
「お大事にお願いしますよぉ」
微笑みを交し合う。ハーブ茶で咽喉を潤した。薫りが気持ちを和らげてくれるみたいだ。
「 ―― セクハラ大魔神。今後も、しつこく襲って来ますかね?」
結局、ゲーデには逃げられたままだ。乙女の純潔を守り通す為にも、あのセクハラ大魔神は赦しちゃおかねぇ。必ずぶち殺す!
「 …… どうでしょうね? ただ、2回も目的を邪魔された訳だから、なりふり構ってられないかも知れません。あの手、この手で迫ってくるでしょうねー」
つい軽い口調で返したものの、紫にしても他人事では無い。相手は知恵ある異生(ばけもの)だ。何をしてくるか判らない。
「 ―― このまま、受け身というのが1番辛いですよ。せめて奴の潜伏地が絞り込めれば、こちらが先手を打つ事も出来るんでしょうけど」
みゆの溜め息は、紫も同感だ。しかし、
「 …… 悪いけど、エロ魔神が好みそうな場所なんて、私は知らないですよ?」
2人揃って、深い溜め息を吐いた。
■選択肢
C−01)藤崎台球場跡で迎撃準備
C−02)熊本城本丸にて待機行動
C−03)熊本城周辺域を見敵必殺
C−04)健軍駐屯地での調査中心
■作戦上の注意
本作戦において、敵・超常体との交戦は、憑魔に寄生される危険性がある。消息不明の追撃チームもまた既に侵蝕されている可能性がある。発砲並びに射殺を許可する。