松山日記。

現在の時刻はです。


1999年5月31日(月)

 今日で5月終わりよ。

 スポーツ選手が運動着に付ける「ゼッケン」。これはドイツ語のZeichenあるいはイタリア語のzecchinoからとったという説があるそうな。
 「週刊ゼッケン」という馬の雑誌があって(馬が雑誌を読むわけではない)、表紙に「Zeichen」と大書されていたから、オヤと思って調べてみたんっす。
 疑問に思ったことは調べてみる姿勢が大切である。


 asahi.com宛にリンクするよのメール出したら、返事がきた。
 この手のメールは、何か問題があるとき以外はほっておくものと思っていたが、なかなか律儀である。
 はじめに「朝日新聞およびasahi.comを御購読いただきありがとうございます」とある。ごめんなさい、朝日新聞はとってないんです。


 JavaScript勉強中。

 JavaScriptでは「オブジェクト」という概念が重要であり、自分でプログラムを書くにはこれをよく理解しておく必要がある。「独学JavaScript」にはオブジェクトのことがあまり触れられていないので、本を買って補った。

 宮坂雅輝「JavaScriptハンドブック」(ソフトバンク、1998年)、本の題目だけ見ると辞書みたいであるが、初学者の独学にもいい本である。
 はじめにオブジェクトを含めJavaScriptの基礎知識について丁寧に解説。続いて、JavaScriptでみんながやりそうな事ひとつひとつを項目にまとめ、スクリプトサンプルおよびJavaScriptの「文法」の解説を与えている。
 全体的に簡潔にまとめられ、よく出来たテキストという印象を持った。


1999年5月30日(日)

 日曜日の午後。

 今日は仕事部屋兼寝室を模様替えしようと思う。
 引越2ヶ月で模様替えとは時期尚早と思われかねないが、事情は斯くの如しである。部屋はコンセントが一つの壁に集まっているが、仕事机をその壁と反対側に置いてしまったのである。そのため、パソコンの電源コードが床を這いまわっている。

 まったく、私という男は先を読むことが出来ないのである。


 2日続けてうどんの夕食。そうそう、「うどん」を「饂飩」と書くとは知らなかった。
 うどんは香川県の名物であるが、松山でも意外とうどんを口にする機会が多いのである。

 大学入学のため福井から東京に出てきて、蕎麦屋でざるそばを注文したら、素麺を太くしたような白いそばが出てきたのに驚いたことがある。
 西日本で育った僕は、ざるそばは黒いものだという意識があった。それで松山に赴任が決まったとき、また黒いそばに再会できると内心喜んだ。
 しかし、現実は毎日のようにうどんを食べている僕がいるのである。

 でも、うどんはうまい。何よりも消化にいいのが嬉しい。太からず細からず、あの程度の太さと腰の麺をつるつるするのが気持ちいい。
 単純なだしだけで食べるのがよく、月見うどん、カレーうどんなどで汁を濁すのはあまりよくないようだ。物足りなければおいなりさんを追加すればよい。


 「知ってるつもり!?」で鳥浜トメさんを取り上げていた。

 戦時中、薩摩半島知覧で特攻隊員を親身になって世話した方である。営む「富屋食堂」が軍の指定食堂になったことから飛行兵を世話するようになり、全国から集まってきた隊員たちから「お母さん」と慕われていたそうである。
 戦争が終わって特攻兵士が戦犯扱いされ、冷たい視線が向けられるようになっても、飛行場の片隅に棒切れの墓標を立てて霊を弔っていたという。
 現在、知覧には特攻平和会館が建てられ、隊員たちの遺書・遺品が展示されている。僕も学生のとき訪れた。

 何度も泣きそうになるのをこらえて、酒を飲む。


1999年5月29日(土)

 時計をつけてみました。
 遅れ馳せながらJavaScriptを勉強し始めたので、その第1レッスンとして。先生は、「独学JavaScript」というサイトです。


 久し振りにリンク集にいろいろ追加してみた。
 asahi.com(朝日新聞)はみんなブックマークしているだろうからリンクするまでもないような気もするが、やっぱりリンクしました。さらに、asahi.comを見たら、リンクを設定した場合は御連絡下さいとあったので、webmasterにメールしたぜ。


 洗濯機が壊れたので新しいのを買う。ったく、携帯電話が欲しいと言いながら、もっと高いものを買っている。


 久し振りに「LOVELOVEあいしてる」を見たら、Hysteric Blueが出ていた。リードボーカルのTamaは、茶色に染めた髪が肩まで伸び、サングラスをかけているので、ドリアン助川みたいである。

 「春〜spring〜」、いい歌である。今更ナンですが。
 ちょうど、東京の生活に疲れきって松山に来たとき、いつも街角にこの曲が流れていた。流行歌は風景画でもあるような気がする。いつまでも思い出に残りそうな歌だ。


 もひとつテレビネタ。
 「お父さんのためのワイドショー講座」。野村沙知代ネタが2ヶ月に渡って1位をキープしている。世良公則&ツイスト「銃爪(ひきがね)」、寺尾聡「ルビーの指輪」みたいだ。わーわー。ブロードキャスターのスタジオに赤いソファーを置きたいな。
 我ながら連想力に乏しいと思う。

 最後に、お約束のsex MACHINEGUNS「みかんのうた」は86位(TBS CDTV)。
 検索ページでこのグループのファンのサイトを探し当てたら、彼らのレパートリーには「北町奉行」「桜島」なんてのもあるらしい。ナイスなバンドではないか。


1999年5月28日(金)

 「週刊文春」「週刊新潮」の新聞広告はいつも、記事になった渦中の人達の顔写真がずらり並んでいる。
 壮観だ。ビートルズのSgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandのジャケットみたいだ。でも、その顔ぶれは小渕首相や野村沙知代、華原朋美だったりする。


 地図というと時刻表のデフォルメされた巻頭地図ばかり見ているので、時々本物の(?)地図を見て自分の頭にあった距離感と実際との違いに驚くことがある。
 昼食のため近所のうどん屋に入ったら、何故か四国の地図が壁に貼ってある。それを見たら、しまなみ海道は瀬戸大橋(児島・坂出ルート)の倍ほどの長さである。僕は漠然と両者はほぼ同じ長さと思っていたので、驚いた。それに、瀬戸大橋は海をほぼ直角に横切っているのに対し、しまなみ海道は約45度の角度で斜めに渡っている。

 ところで、この前初めて渡ったしまなみ海道の印象を言うと、名前のとおり、いくつもの島を飛び石で渡っているような感じであった。1本の橋で渡っているような瀬戸大橋とは、ここが大きく違う。実際自動車道の未開通部分がまだ残っていて、そこは島の一般道を通る。
 考えてみれば、明石・鳴門ルートはほとんどが淡路島である。


 Yahoo!のテレビ欄を見たら、今日のFUNにSPEEDが出るらしいの、そろそろ帰ろう。
 結局テレビが普段の最大の娯楽なのである。


1999年5月27日(木)

 3時に寝て6時に目が覚める。

 TBS「エクスプレス」を見る。
 雑誌記事を紹介するコーナーの最中、画面の下に今日発売の雑誌一覧がスクロールで流れる。それが雑誌なら何でも出してやるぞという徹底ぶりで、「週刊文春」「週刊新潮」「女性セブン」はともかく、「電子情報通信学会誌」から「みこすり半劇場」まで網羅していた。

 最近テレビの話ばっかり書いているなぁ。もっと外に出て遊ばなきゃ。


 僕は鉄道が好きだけど、最近流行りの「電車でGO」は何故かやりたいとは思わない。
 運動神経が鈍くコンピュータゲーム全般に苦手だということもあるが、やはり汽車は乗客の立場で乗って、酒を飲んで居眠りしたりするのがいちばんであろう。


 この前の尾道の話に戻るが、旅先にせっかくノートパソコンを持って行ったのに、ホテルの電話からインターネットに接続できなかった。何故だ!?外線の0発信も設定した。ダイヤル方法もトーン、パルス両方試してみたのに。
 仕方がないので、パソコンを持って外に出て、灰色の公衆電話を探した。

 携帯電話/PHSが欲しい。携帯があれば楽にモバイルが出来るではないか。(同じことを何度も言っているような気がするなぁ…)
 最近流行りの着メロもやってみたい。宇多田、だんご、ラルクは言うまでもない。それ以外にも、鉄道ファンは名鉄のミュージックホーンを、労働者は「インターナショナル」を着メロにしている。
 楽しそうではないか。


1999年5月26日(水)

 広末涼子が大学に全然通わないことが、最近話題になっている。しかし、別に有名タレントでなくても大学に全然来ない学生もいるのである。

 さっ、今日は授業だ。


 帰省中で留守の女子大生宅に侵入、1ヶ月に渡って住み込んで家財道具を売り払い、さらにはダイヤルQ2をかけまくっていた男が逮捕されたそうだ。
 犯人は郵便受けに新聞がたまっていたのを見て、留守宅と判断したとのこと。みなさん、お気を付けを。


 職場のホームページをつくっていたら、疲れてしまった。今日はメールだけ読んで寝よう。。。


1999年5月25日(火)

 雨は一日で止んだ。
 東京などで真夏日を記録したそうである。当地はいい天気だったが、不快なほどの暑さはなかったと思う。もっとも、空調の効いた職場にこもっていると、外の天気は分からない。


 時々ネットサーフィンで、自分の同好の士のホームページを探してみる。

 水彩スケッチを嗜まれる方は中年からお年寄りぐらいのお歳であることが多い。僕ぐらいの歳の人はいないようである。もっとも僕も32歳で、若いといえる歳でもないが。
 そういえば、旅先で絵を描いていると、同じようにスケッチブックを広げている人に出くわすことがあるが、たいていお歳を召した方である。大学生や若いサラリーマン・OLは今までいなかった。
 スケッチは年寄りの趣味なのかなと思う。

 そんなわけで、お年寄りのスケッチギャラリーのサイトを見るのであるが、結構みんな立派なホームページである。JavaやJavaScriptの高度なテクニックを駆使しているものもある。
 一般にお年寄りはパソコンなどのメカは苦手と思われることが多いが、そうとは限らない。パソコンを自由自在に使いこなす高齢者も多いのである。しかも人生経験を積んでいるから、ホームページのコンテンツも充実している。

 我がホームページを振り返れば、Java/JavaScriptはおろかフレームさえも使ってない。初歩的なHTMLの知識だけで作っているのである。うわべの技術面だけ凝って中身が貧困なのは困るが、いい加減に新しいことを勉強せねばと思う。


 「タウン情報まつやま」の「ギャグシンポジウム」は意外と面白い。


 残念、北野武監督「菊次郎の夏」選外。
 帰国後の記者会見で、ベネチアのときみたいに、「トロフィー見せてください」と言われておもむろにポケットから土産物の小さいトロフィーを出すところを期待していたのに。


1999年5月24日(月)

 雨降り。
#こうやって毎日天気を書いておくと、小学生の夏休みの宿題に使えるかもしれないな。


 北海道の最北、稚内でようやくソメイヨシノが咲いたそうである。

 桜前線は約2ヶ月掛けて日本列島を駆け上ったのである。こう書くと、電波少年のヒッチハイクみたいだ。
 テレビでは稚内公園で焼き肉の火を囲んでいる花見客の映像が映っていた。火で暖をとっているのがいかにも北海道らしい。

 北海道の話が出たついでに。
 小さい頃、北海道に海水浴場はあるのかなぁ、と本気で疑問に思っていたことがある。
 北海道にも海水浴場があることをかなり後になって知った。ただし、道北の海水浴場ではたき火で暖をとりながら泳ぐそうである。

 日本は広い国なのである。


 多分みんなの頭に引っかかっていること。

 「Yahoo!」や「Becky!」(メールソフト)にはなぜ感嘆符「!」が付いているのだろう?他に、コンビニチェーン店「ココ」も確か「CoCo!」である。
 我が「松山日記。」もこれから「松山日記!」にするか。


 初心者向けのCGI解説ページがあったので、つい読み耽ってしまう。

 思えばHTMLも、Webの初心者向けページで初めて勉強したものである。本を読むのは労力が要るが、ホームページだとお気楽に勉強できるのは不思議である。
 この「松山日記。」を含めWebには「リアルタイム日記」が多いが、CGIの掲示板用プログラムを少し書き直して日記の更新をしているところもある。

 ああ、自分でも早くプログラムを書いて試してみたい。もっとも、今のWebサーバ(So-net U-page)ではCGI禁止なのだが。


1999年5月23日(日)

 今日も昨日に続いて尾道古寺めぐり。

 ある寺で、小さい山門をくぐろうとしたら、頭を思いきりぶつけた。目から火花が出た。
 僕は背が高い。身長が180cm近くある。だからといって、別にいいことがあるわけではない。バレーボールやバスケットボールをやっているならともかく。
 背が高いから得するわけでない、と言うと、贅沢だと言われるかもしれない。まぁ、これは、巨乳グラビアアイドルがインタビューで、「別にいいことないですよぉ。サイズ合うブラジャーないし、痴漢には触られるし、みんな胸ばっかりジロジロ見る…」と答えるようなものだ。


 尾道駅前の電光ニュースで、こんなニュースを見た。ピサの斜塔の補修工事で、基礎部分の土を掘り返したところ、傾きが5ミリ直ったそうである。
 あの工事、いっそのこと斜塔をまっすぐ建て直すと楽かもしれない。工事をしている人も、「ああ、まっすぐにしてー!」と思っているかもしれない。しかし、そんなことは許されないのであろう。かなりストレスの溜まりそうな仕事だ。
 もし何かのはずみで斜塔がまっすぐになってしまったら、職工達はミルクコーヒーをがぶ飲みしたくなるかもしれない。


1999年5月22日(土)

 いま、尾道。

 志賀直哉旧宅へ行った。丘の上の三軒長屋で、志賀直哉はよく縁側に寝転がって尾道の町並みを眺めていたそうだ。
 ちっぽけな家だが、こんなところに住んでみたいと思う。あー、自宅に縁側が欲しい。

 明日は午後から雨が降るらしい。九州から雨雲が近付いている。スケッチは午前中に済ますことにしよう。しかし、そう考えると仕事みたいでいやだなぁ。


 あ゛ー、sex MACHINEGUNS「みかんのうた」がTBS Count Down TVの50位以内に入っていない。SPEEDの新曲は覚えにくそうだし。

 冷蔵庫のビールを飲んで寝るとするか。


1999年5月21日(金)

 20日のヤクルト・巨人戦は結局、5対11で巨人が逆転勝利した。

 My Love Dollというホームページを見た。これは要するにダッチワイフを持っている人がダッチワイフとの日常を綴ったページなのである。愛する人形にいろんな服装をさせた画像を集めたアルバムもあったりする。エッチなコンテンツはないので念の為。
 今時のダッチワイフ、結構きれいでリアルなのである。丸い口を開けて陶然とした顔をしたチープな人形…といった従来のイメージとは全然違うのである。一瞬生身の人間かと思うくらい。つい見とれてしまう。
 世の中には知らないことっていっぱいあるんだなぁ。それにしても、こういうホームページ、いかにもインターネットだなと思う。
 勢いに乗って、オリエント工業のホームページも見た。ダッチワイフのメーカーである。人形1体の標準価格は28万円。上野にショールームがあるそうで、他の客と会わないように、完全予約制で1人ずつ入ることになっている。宅急便で送るときは、「健康器具」と書いておくそうである。


 ねむい。。。睡眠不足で下痢をしている。ぶっ倒れそうだ。華原朋美になりそうだ。昼休みに少し眠ろうと思う。
 聞くと、とび職は昼休みに昼寝をしてはいけないそうである。昼寝をすると寝ぼけて工事現場から落っこちるから。とび職にならないでよかった。


 新任教官説明会がやっと終わった。

 由利徹さんが亡くなったと聞く。いまわの際まで「一人裁縫」などのもちネタをベッドでやっていたという。たこさんとの14年ぶりの再会。合掌。
 子供の頃親しんでいた芸人さんが今頃になって次々と亡くなってゆくのは、寂しいものである。


 いま今治のビジネスホテルにいる。
 明日明後日としまなみ海道を渡って尾道を旅する予定である。観光の時間を少しでも多くする&早起きしなくてもすむよう、今日の夕方のうちに今治まで来ておいた。
 JTB大型時刻表(1999年5月号)にはあいにくしまなみ海道の高速バスの時刻が載っていない。時刻表原稿の締め切りに間に合わなかったのであろう。そこで、今治駅前でバスの時刻を調べておいた。バスは駅前から出ている。

 JR今治駅前発

 ちなみに今治←→東京間の夜行バスには「パイレーツ」という名前が付いている。かつて瀬戸内海を跋扈した「水軍」にちなんだ名前だろうが、どうしても「だっちゅーの」の方を思い出してしまう。


1999年5月20日(木)

 ホームページの英語版を作ろうかどうか、悩んでいる。作ったとしても、絵をならべて簡単なコメントを付けたものぐらいであろうが。

 深田恭子のCDデビューイベントに、3日前から並んでいたファンがいたという。おいおい、仕事大丈夫なのかよ!
 アメリカはもっと凄い。スターウォーズの公開40日前から劇場に並んでいた人がいたそうだ。同映画公開による経済損失は351億円という計算があるという(誰が計算したんだろう)。仕事をさぼって映画を見に行く人が多いということだ。さらには、会社ごと休みにしてしまったところもあったらしい。
 おいおい!でもいいなぁ...


 夕食のWとんかつ定食を全部食べきれず、敗北感に打ちひしがれて職場に戻る。ヤクルト相手に2対1とリードしていながらあっという間に2対5に逆転されてしまった巨人軍のような気持ちだ。

 仕事の最中、授業の最中、試験の最中etc.頭の中を突然音楽が流れて止まらなくなって困った事ありませんか。
 こういうことは、好きな歌手のCDを聴きながら勉強するので起こるのである。
 しかし、好きでもない歌手の歌がどういうわけか闖入してくることもある。僕の場合、それがモーニング娘。だったりする。


1999年5月19日(水)

 実はKiroro大好きです。9月19日(日)、香川・志度町野外音楽広場テアトロンの野外ライブ、ファンクラブ優先予約でチケット申し込みました。もし行かれる方おられましたらよろしくね。しかし、遠い未来のような話だなぁ。
 高松→松山の特急は22時10分発まであるから、明日の仕事にも支障を来さないぞ。


 「平成電脳女子校[GOO!]」という女子高生大集合のサイトがある。ここは検索サイトで有名なGooとURLをよく間違えることで有名であるそうである。
 ここの女子高生の自己紹介を見た。全員見た(ううむ…)。「嫌いな科目」で「数学」を挙げている人が多かった。あらま。僕は数学関連の研究をして教壇でも数学を教えているので、ちと寂しい。「数学やだー」なんて言われると、おじさんはさみしい。別に彼女達に好かれたいわけではないが。
 ついでに、「嫌いな男性タレント」は「江頭2:50」か「ルー大柴」ということでコンセンサスが得られているようである。おじさんは江頭もルーも大好きなんだけどなぁ。


 暇つぶしに外国のYahoo!を見てみることがある。
 天気予報なら語学力はさほど要らない。僕の兄がロンドンに赴任しているので、彼地の気候はどうなっているのかな、と調べることが出来る。
 イギリス&アイルランドのYahoo!で偶然、Anti Spice Girlsというカテゴリーを見つけた。ある歌手が嫌いな人達のカテゴリーなんて、Yahoo! Japanでは考えられないと思う。
 僕はSpice Girlsは名前しか知らないが、それ程凄い人達なのかな。


1999年5月18日(火)

 引っ越してから2ヶ月になろうとしている今頃、転任&転居のお知らせはがきを作っている。
 MS Wordでつくったが、実は僕、ワープロは使い慣れていない。あんちょこを片手にああでもない、こうでもないと試行錯誤し、ようやく満足なものが出来あがったら夜が明けようとしている。

 ところで、転居のはがきで定番の「お近くにお越しの際は是非お寄りください」、ある外国人がこの言葉を間に受けて新居へ訪ねに行ったら、奥さんに嫌な顔をされたという。
 この手の外交辞令、大嫌いである。心にも無い言葉を乱発して、それが人間関係の潤滑油になるという発想が理解できない。空しい言葉で静寂を埋めようなんてこと、もうやめようよ。


1999年5月17日(月)

 今日はちょっと涼しい。

 マピオンで北方領土を検索すると、ちゃんと地図が載っている。
 それがまた簡素な地図で、薄緑の背景に道路がひょろひょろと書いてあるだけである。これほど何も載っていない地図は初めて見る。現在は測量できるはずがないから、これだけのデータしか載せられないのであろうが。
 あてずっぽうに択捉島の一個所をクリックしてみると、神威岳というのが現れる。隣へ移動すると、陸地と海だけの地図になり、道路のひょろひょろさえない。海岸近くに「○○滝」というのが2つある。○○はアイヌ語の地名である。この辺りは断崖絶壁の急峻な地形なのかなと思う。
 海岸線に沿って少しずつ移動すると、やがて何とか漁場というのが現れ、「蕊取村」という所に辿り着いた。道に迷った登山者が無事に麓の集落に下りたような気持ちである。


1999年5月16日(日)

 sex MACHINEGUNS「みかんのうた」は36位だった(TBS, Count Down TV)。
 上原多香子(SPEEDのメンバー)「my first love」を作詞作曲したR.K.(「R」は本当は左右反転している)が実は河村隆一であることを初めて知った。

 今の住居に住み始めて、家の窓を開け放つ気持ち良さに気付いた。東京にいた頃は、ずっと窓を締め切ってエアコンをかけっぱなしにしていたのだ。
 ビルの最上階だから、そよ風が入りこんで心地よい。時々ベランダにハトが羽根を休めに来る。風の音、街のざわめき、車の音などに耳を傾け、まどろむ日曜の午後。
 まだ5月というのに暑く、Tシャツで過ごしている。少し冷房をつけてみたら、ぞくぞくっと骨から冷えるような寒気を感じ、気持ち悪くなって止めた。冷房がこんなに体に悪いとは思わなかった。もっとも、真夏になってもっと暑くなったら、冷房のお世話になるであろうが。


1999年5月15日(土)

 イヨテツ会館ビアガーデンでビールを飲み、脱力して帰ってきた。

 「ディック」でキッチュなものを見つけて買ってきた。
 日本地図が書ける定規だ。都道府県境も書けるようになっているぞ。
 これをどのように活用するのか?と聞かれても困るが、旅好きの男の子の心を捕えて離さない賞品に違いない。(なぜ日本地図と一緒に男女トイレの印もあるのかよくわからないが)

 「ディック」は家具・日曜大工用品を扱っている店。東急ハンズみたいなもの。


 酔って居眠りして目が覚めたら、下痢しているではないか。
 ビール飲み放題・料理食べ放題というもの、いまいち扱いかねる。
 僕は食が細い。一方、食べ放題というと沢山食って元を取らねば、という算段が働く。小さい胃袋と品性の卑しさの板ばさみになるのである。
 結局生ビール2杯(中ジョッキ)と料理をいくらか食べたところで引き上げた。元が取れたかどうか分からないが、一口ステーキを食べたところで満足かつ満腹した。
 ひところ流行ったカニ食べ放題ツアー、あれはカニと一緒に生ハムやジャガイモも並べてあって、足が出ないようにしてあるそうである。


 そろそろ、連休に行った小豆島のことを旅行記にしてアップせねばと思う。
 今回は、尾崎放哉(自由律俳句の代表的作家)ゆかりの地をいくつか訪ねたのであるが、尾崎放哉という人物、これがまた筆を重くさせるような人である。


1999年5月13日(木)

 今日も暑い一日になりそうです。

 エレベーターに乗っていてドアが閉まりかける時慌てて乗り込もうとする人がいると、少し戸惑う。
 エレベーターの「開」「閉」のボタン、あれはとっさの時区別がつかない。「ああ、どっち、どっち...」と慌てふためくうち、ドアは無常にも閉まってしまう。
 あるいは、「開」を押そうとしてつい「閉」の方を押してしまうこともある。後から乗り込もうとした人に「いじわる!」と思われたんじゃないかと、気が気でない。
 みなさん、いさぎよく諦めてください。


 レポートの採点が終わったから、飲みに行くとするか。

 近所の飲み屋でビールを飲んでから帰宅。
 テレビをつけて「ダウンタウンDX」を見ると、ゲストがそれぞれ今までに泊まったなかで「サイテーの旅館」を挙げていた。「大浴場」とあるが実際は3人しか入れない狭い風呂場の旅館…と、みんな凄い所泊まっているぞ。
 僕も挙げてみるか。


1999年5月12日(水)

 暑い。5月というのに夏のような陽射しだ。キャンパスでは、学生が木蔭の芝生の上で寝転がっている。

 TVのワイドショーを見ると、ずっとサッチーv.s.ミッチーをやっている。毎日同じことやってよくネタが続くものだと、却って感心してしまう。視聴者の方も半分は、またやってら、とニヤニヤしながら見ているに違いない。
 これは多分、マンネリの効用なのだろう。同じことをやり続けると面白い、見る方も同じことをやり続けるのを期待するということである。
 「8時だよ全員集合」では、♪カラスの勝手でしょー♪を、もうマンネリになるからと1回止めたら、子供が泣き出して抗議の電話がきたからまたやり続けたそうである。
 中京テレビ「お笑いマンガ道場」では、富永一朗さんが土管に入っている鈴木義司さんのマンガを描くのを楽しみにしていた方も多かったであろう。

 5月8日で「カウントダウンTV」をつい手がもつれて「Cownt Down TV」と書いてしまった。かたじけない。


1999年5月11日(火)

 全日空機で松山に帰ってきた。鉄道ファンの僕でも、(サンライズ)瀬戸&いしづちに何度も乗っていると飽きるんです。JRには申し訳ないですが。

 東京にいる間、ずっと風邪を引きずっていた。一日中ゲホゲホゴホゴホやっていると疲れる。睡眠も阻害される。
 医者にかかって薬を飲んだら少しはよくなった気がするが、ゲホゲホゴホゴホが喉の奥に押し込められたような違和感を感じる。
 ところで、風邪をひいたらビールが美味しくなくなった。せっかくジョッキを傾けても、胃の膨張感ばかり気になって、げっぷでガスを放出したりする。
 これは多分、風邪で喉がやられてビールの喉こし感が味わえなくなったからだと思う。「美味しんぼ」でも確か「総入れ歯にしたら歯ごたえ感がなくなって、食事をするのが楽しくなくなった」と言うシーンがあったように覚えている。


1999年5月10日(月)

 sex MACHINEGUNS「みかんのうた」は確か34位だった。

 今東京にいる。3月30日に松山に引っ越してからほぼ40日ぶりの東京である。
 松山は書店があまり充実していないので、神保町の書泉グランデに行って本を2万円ばかり買った。これだけ本を大量に買ったのは久しぶりだ。無料の地方発送サービス(1万5千円から)を初めて利用した。
 僕は携帯電話・PHSを持っていないので、電話線を持参して灰色の公衆電話につないでインターネットしている。ちょっともたもたして、人目が気になる。早く携帯買わなきゃ。


1999年5月8日(土)

 今夜はCownt Down TVがある。sex MACHINEGUNS「みかんのうた」が何位にランキングされているか、楽しみだ。

 「だんごは1串4個が正しい!」という和菓子製造業者が「元祖だんご4兄弟」というCDを出したそうだ(5月8日産経新聞より)。
 団子4個というのには歴史的根拠があるそうで、昔は1個1文で1串5個、5文で売っていたが、江戸時代4文銭が鋳造されてから1串4個になったとのこと(ほう…)。
 CDでは、4個目の団子は無理やり生き別れさせられた妹、という設定になっているそうである。

 普段僕は、歌がヒットしようが、団子を滅多に食べない。理由は単純で、コンビニでは和菓子はなぜかレジの前に置いてあり、つい買いそびれてしまうからである。品物を差し出し、レジを打ってもらっている最中に和菓子の存在に気付き、「あ、これも下さい」と言うのは、少し勇気を要するものである。
 何故コンビニでは和菓子はレジに置いてあるのでしょうか?御存知の方は教えてください。


1999年5月7日(金)

 また風邪をひいた。
 風邪の時は布団をかぶってあったかくして寝ると、汗で熱が下がって風邪が治るというが、僕は暑がりなので、寝ている間に無意識に布団をはねのけてしまう。その結果

  1. 風邪になる。
  2. 体が火照る。
  3. 暑い。
  4. 布団をはねのけて、裸で寝る。
  5. 1.へ戻る。
という悪循環を繰り返し、風邪がなかなか治らない。


1999年5月6日(木)

 僕の職場(研究室)のホームページ。研究室の学生がつくっている(と思う)。
 「当研究室でのイベント」というのがあるのでクリックしてみる。海水浴、クリスマスなどのスナップ写真が陳列してあるが、URLがhttp://***.ac.jp/ivent.htmlとなっていた。iventって「イベント」のつもりだろうか?
 あと、「研究の紹介(studys)」というのもあって、いやはや汗顔の至りである。ま、いいけど...


1999年5月5日(水)

 4度目の小豆島旅行から帰ってきた。
 1日目(5月4日)は大雨で散々だったけど、2日目(今日)は天気が好転、海もきれいでよかったよかった。北海道は大雨で大変なことになったそうで気の毒だが。

 ところで右の写真は帰りの土庄→高松間高速艇から撮ったもの。10分前に土庄港を発った、同じく高松行きフェリーである。
 僕は船が船を追い抜くところを初めて見た。まるで電車みたいだ。中央線快速が総武中央線緩行電車を追いぬくような感じである。
 瀬戸内に来ると水上交通が生活に密着していることを実感する。
オリーブライン


1999年5月3日(月)

 ゴールデンウィークは昼ごろ起き、1日中家にこもり、コンビニ弁当で食いつなぎ、「ミニスカポリス殉職ライブ」を見る(ケーブルテレビを見たらたまたまやっていた)。なかなか充実している。
 明日から1泊2日で小豆島に出かけるが、新聞社のホームページを見たら、5月4日から天気が大荒れになるではないか。これでは、小豆島に渡れるかどうかさえ覚束ない。
 6日から晴れになるそうで、嫌がらせみたいな天気だ。

 今日は僕の誕生日。32歳になった。めでたしめでたし。
 自分への誕生日プレゼントとして、デジタルカメラを買った(SANYO DSC-X100)。
 実はデジカメを手にするのは初めてである。ホームページに掲載している数少ない写真は、従来の写真をスキャナで読み取ったものである。
 旅先で人並みに写真を撮るが、ナマケモノの僕は家に帰ってから現像に出すのをつい怠ける。自宅には未現像のカラーフィルムがごろごろしている。1992年夏の北海道旅行のフィルムさえ、まだ現像に出してない。これには今はなきJR上砂川線(函館本線支線)の画像も含まれているはずだが、もう画質が劣化しているだろうな…
 というわけで、現像に出す必要のないデジカメを導入した次第である。何だかものぐさをするために買ったような感じだが、案外デジカメさらにはパソコンの本質をついているようにも思う。


1999年5月2日(日)

 昨日巣を作ったハトが、今日はいなくなっていた。卵も消えていた。
 卵は親鳥が別の場所に移したのか。そうであっても、どうやって2個の卵を運ぶんだろうと思う。
 なんだかハトにまで嫌われたような気がして、しょんぼりする。


1999年5月1日(土)

 最近J-POPが好きになって、TBSのCount Down TVを楽しみにするようになった。
 今夜も見たけど、印象に残ったのが、sex MACHINEGUNS(セックスピストルズを彷彿とさせる)の「みかんのうた」。なんか、グループ名と歌の題名との間のギャップが大きいんぢゃないか。せめて歌は「erotic orange」あたりぐらいにしたほうが…

 自宅のベランダに出てみたら、ハトがいつのまにか巣を作って、卵を産みつけていた。気になるので時々覗いて見ると、親鳩が卵を温めている。せいぜい頑張ってくれ。お前も頑張れよ(ジミー大西)


1999年4月30日(金)

 突然だが、Judy and MaryのJudy、Maryはいったい誰のことだろう?
 僕はてっきりリードボーカルはJudyかMaryのどちらかだと思っていた。しかし、彼女はYUKIという。
 他の3人はTAKUYA(G.)、恩田快人(よしひと)(B.)、五十嵐公太(Dr.)で、JudyさんMaryさんはどこにもいないのである。

 また突然だが、最近デビューしたrumania montevideo(ルーマニア・モンテビデオ)というグループ、何故こんな名前を付けたのだろう?ちょっと覚えにくい名前のような気がする。
 ちなみにモンテビデオは南米ウルグアイの首都である。
 一度このグループの演奏をテレビで見たことがあるが、リードボーカルの女性は歌いながらドラムを叩いていた。ドラムスのボーカルは、ドンジャンドンジャン…とやりながらア〜ア〜と歌うので大変そうだが、僕は結構好きである。カーペンターズ、チューリップの上田雅利を思い出す。


1999年4月29日(木)

 今日は「みどりの日」。
 むかしの「天皇誕生日」である。平成の時代となり、4月29日がみどりの日になった時、なんだかオフコースの歌みたいだなと思った(それは「緑の日々」)。

 今年の連休は海外へ出掛ける人が多いそうである。連休の海外旅行者数は史上3番目の多さである。
 「たまごっち」が流行ろうと、「だんご3兄弟」が流行ろうと、僕はとくに欲しいとも思わなかった。世間の流行り廃りには全然関心がなく、淡々と生きているのである。
 ただ、旅行となると話は別で、テレビニュースのインタビューで「プーケット行ってきます」と若い女性が国際空港で答えているのを見ると、ちょっとばかり羨ましく思う。
 夏休みはどっか外国へ行きたいよな気がする。パスポートの有効期限が切れてから長いこと経っている。せめて連休が明けたら、新しいパスポートを作ろうと思う。

 僕も連休は、5月4〜5日に小豆島へ旅行に行く予定である。連休の割りに日数が少ないのは、宿の予約がその日にしかとれなかったからである。
 天気予報では、連休は5月3日まで晴れで4〜5日は天気が崩れるとのこと。なんてこってい!(T T)

 休日なので、ホームページを少しばかり模様替えする。
 「パソコン恐怖から逃れるために…」というページがあったが、閉鎖した。これを読んでくださっている方もいるらしく、その方には申し訳ない。
 1年近く更新していないし、これからも更新できる自信がないのである。パソコン・インターネットについて、僕が覚えたことはほんの少しであるが、いざ自分でパソコンのことなぞ書こうとすると、あれもこれもといろいろ書くことがたくさん出てくる。
 次第に書くのが面倒になり、ついに書く手が止まった。世間ではWindows98がリリースされた、Linuxも普及してきた。僕がこれ以上書こうとすると、馬脚を露すことになりそうだ。
 …もう閉鎖するしかない。
 最近つくづく思うのは、ホームページはどれかひとつのテーマに特化して、それをとことん追及する方がいいだろうということ。


1999年4月25日(日)

 内子へ日帰りで出かけた。
 僕は内子の町が好きで、東京にいる間も何度か旅行した。松山に引っ越してから初めて訪れる。

 11時25分発特急「宇和海7号」で松山を発つ。四国の春の陽射しは暖かいというよりむしろ汗ばむほどで、車内にはもう冷房が入っている。11時49分内子着。

 まず、歌舞伎劇場「内子座」を鉛筆スケッチ。このスケッチは、「旅の絵日記」の「1997〜1998年冬、小豆島・内子」にも載せましたので御覧ください。スケッチを終えてから内子座の中を見学しようとすると、受付の係員に「絵、完成しましたか?」と聞かれる。
 その後は八日市護国の街並みを歩いたりした。

 今回は初めて「田丸橋」へ行ってみた。内子町郊外にある、全国的に珍しい屋根付き木橋である。
 駅前でタクシーを拾い、細い山道を走る。不意に視界が開け、山間の小さな盆地に出た。小川の上に細長い長屋のような木橋が架かっている。
 運転手と一緒に川辺へ下りる。地元のおじいさんとお喋りしたり、橋を何度も往復して木の感触を楽しんだりした。川岸に下りると川の水がきれいである。魚が泳いでいるのが見える。
 楽しい一時であった。


1999年4月23日(金)・24日(土)

 今日夕方から翌朝まで職場で「合宿研修」というものがある。学科の新入生と教職員が一緒に松山市郊外の宿に泊まって、一緒に酒を飲んで親睦を深めようというものである。

 ホテルの宴会場に一同集まって料理をつつく。が、人見知りの激しい僕、10歳以上も年下の学生にどう話しかければいいか思案に暮れる。彼らにビールをついで回るだけで、会話を切り出す勇気が出ない。
 その後教職員だけで2次会が開かれたが、僕は疲れていたので早めに引き上げて、シャワーを浴びて寝る。

 翌日、自宅に戻ってから異様に疲れを覚え、一日中寝る。


1999年4月17日(土)・18日(日)

 講習終了後はじめてのスキューバダイビング。場所は西海町、愛媛県の西端、松山から車で3時間の所である。
 だいたい四国というところ、端へ行くと移動に時間がかかる。松山・宇和島間だけ走る特急列車もあるのに、その1.5倍ほどの道のりがある。かなり遠い所のように感じる。

 メンバーは僕の他に、ダイビングショップの店長と上級者のダイバー2人。全員男である。
 店を夜9時ごろに出発、夜道を延々と走り、深夜12時ごろ1軒の民宿に到着。少しお酒を飲んで、1時就寝。

 起きてみると、天気は生憎の雨。海の中に潜るから関係ないかもしれないけど、やっぱり天気が悪いと気分も沈む。
 雨の海は、見ている限りは冬の日本海に通ずる情緒もあるが、中へ潜るとなると話は全然違う。何だか水死体の捜索のような気分。

 波音だけが単調に繰り返す寂しい海岸でいそいそと機材の準備。10時40分、1本目のダイブ。

 潜行して間もなくタツノオトシゴを発見。実際に見るのは初めて。他にもイソギンチャク、クマノミ…いろんな魚、生物を見た。
 水深10メートルを過ぎると、海底のあちらこちらにガンガゼが転がっている。針の長いウニで、よく見ると青い目(?)を光らせている。うっかり上にひざまづくと、スーツの生地を突き刺しそうで怖い。これはグロテスクな光景だった。
 結局水深18メートルまで潜って、それから少しずつ上昇。ところが、僕は経験が浅いせいかベテランより空気を早く消費してしまう。空気が残り少なくなったところで、店長さんから空気を貰う。かたじけない。

 一旦海岸に上がり、折り詰め弁当の昼食をかき込んで、1時30分、2本目のダイブ。飯の後のダイブなので、時々げっぷが出る。

 今度は50分、水深14メートルまで潜った。今度もまた途中で空気が足りなくなった。
 残圧が50気圧になったところで、バディ(ダイビングのパートナー)に知らせる。ところが、ダイブマスター志願者の彼は構わず潜り続けろと言う。仕方なくそのまま泳ぎつづけるが、残圧系の針はどんどん下へふれて行く。息苦しさを感じることはないが、不安はつのるばかり。

「これ、まじでやばいっすよー(T T)」

と思ったところで、海面へ上がりなさいと指示が出る。
 フロート(浮き)にしがみつき、気分が落ち着いたところで海面下を覗くと、ちょうど真下で他のメンバーがうろうろしていた。

 後で、中性浮力、つまり浮きも沈みもしない状態を保つことがまだ出来てなくて、それで息が荒くなるのだと指摘された。ついでに、中性浮力の補修コースもあるから受けるといいよ、と言われる。
 Cカード取った後も勉強することはいっぱいあるのー。
 初心者はどんどん潜ってスキルを高めるべし、といろんな所で言われているが、ツアーは1回1万5千円〜2万円ぐらいするし、月イチが限度かな、と思う。

 松山に戻ってからショップで「ログブック」をつける。潜ったスポット、深度、潜水時間などを記録するノートで、ダイビングのキャリアを証明する大事なものである。一通り記録してから、一緒に潜ったダイバー達からサインと「今日は楽しかったですね!」などといったコメントを貰う。これは楽しい。

 タクシーで自宅に戻る。
 疲れているが、スキューバ機材の洗浄という作業が待っている。風呂場でスーツや機材にジャバジャバ水をかけて、海水を洗い落とす。ダイニングルームの床一面に新聞紙を敷き詰め、その上に機材を置いて乾かす。
 ナマケモノには地獄のような作業である(かくいう僕もナマケモノである)。


1999年4月14日(水)

 朝6時過ぎに目が覚めた。胃も正常に戻り、風邪の症状もかなり緩和されたように感じる。

 今日はプラスチック類のごみの集収日。ごみ袋の中からビニール袋等を取り出して、選り分ける。東京でのごみ収集は、可燃/不燃ぐらいにしか分かれてなかったが、松山では、可燃、紙類、プラスチック類、金属・ガラス類などと細かく分かれている。

 新しい職場では数学の授業を週1コマ担当する。今日はその初日。一方通行的な授業で学生をノート筆記マシーンにしたくないので、時折小テストを出して、学生の理解度を確かめることにする。
 丁寧に講義をしていたら、あっという間に90分の授業時間が終わってしまった。

 夕刻、松山市駅近くのダイビングショップを訪れる。

 実は東京にいる間スキューバダイビングの講習を受けていた。去年の夏沖縄で体験ダイビングをやってみて、ダイビングの魅力にとりつかれたのである。ひどい運動オンチでスポーツ大嫌い、筋肉ゼロ中年太りの僕が初めて意欲的に取り組んだスポーツである。
 スポーツに才能がないせいか人より随分時間がかかったが、東京を離れる直前にめでたくCカード(Certification Card、ダイビングのライセンスカード)を取得した。3月28日(日)に伊豆で最後の海洋実習を終え、3月30日に自宅の引越しというハードスケジュールだった;;

 Cカードを取ってから一度も潜ってないので、早くどこかでダイブしたい。初心者はとにかく沢山潜るのがいいそうである。早速、今週末のダイブの申し込みをする。


1999年4月13日(火)

 出版社のセールスマンが、日本の国宝全集なる本を売り込みに来る。
 40年かかって、普段は人に見せないような秘宝も取材したりした渾身の作品だと言う。
 全30巻余り。1冊6千数百円というので、この手の本としては安いと思う。テレビのテレフォンショッピング番組なら、

 「今回は1冊6千○百円で提供させていただきます。」
 「ワー、パチパチパチ」

と観客席から拍手が起こりそうな感じである。
 しかし、断った。僕は美術展のカタログを買っても、その後家で広げることは滅多にないのである。

 午後、研究室セミナー(15:00-16:30)。
 主任教授が、4年生に就職の心構えなどを説く。僕等の同期が就職したのはバブル景気の最中で、就職を含め将来のことすべて能天気に考えていた。身の縮む思いである。

 夕方6時過ぎから、研究室での新人歓迎会。セミナー室に酒や食べ物を持ち込んで行なう。
 何の話をしていたのか忘れたが、僕が「みかんは木に実っているのを見るだけでも楽しい」ということを言ったら、どういうわけか4年生たちに笑われた。僕はまじめに思っているし、そんなに笑わなくてもいいだろう。

 家に帰り、少し眠って11時過ぎに起きる。風邪で胃が弱っており、トイレで吐いてしまう。続いて下痢、液体ばかり排出する。疲れた。


1999年4月12日(月)

 風邪を引いたので、午前中近所の内科医へ行く。少しばかり診察して、注射してもらう。ここの医者はパソコンが好きなのか、机にLinuxなどパソコンの本が置いてあった。
 夕方、職場の新人歓迎会。3番街の居酒屋にて。


1999年4月11日(日)

 松山城へ行った。
 城山のてっぺんまで上ると、天気がよく桜もきれいに咲いていた。花見宴会があちこちで開かれていた。シーツだけ広げて場所取りしている一角もあり、青年が退屈そうに漫画本を開いていた。
 松山に来てからあまり旅行などしたいとは思わなかったが、観光客の間に紛れ、頂上から海の景色を眺めているうち、衝動的に船に乗って本州か九州へ渡りたくなった。
 家に戻って、畳の間で居眠りしているうち、風邪を引いてしまった。


1999年4月5日(月)

 インターネットで、フォーク歌手西岡恭蔵さん(「プカプカ」などが有名)の死を知った。自殺だそうである。
 Yahoo!で西岡さんのホームページを見つけ、掲示板を見たら、多くのファンが追悼のメッセージを寄せていた。「…御冥福を祈ります」から「なんで、なんで死んじゃうの!」といったものまで。胸が痛む。合掌。
 この頃、自殺のニュースが多い。


1999年4月3日(土)

 四国に住み始めたばかりだが、一旦本州に舞い戻る。
 本州に渡ったのは、フォークソングのメーリングリストのオフ会に参加するためで、奈良・平城京跡に集まって歌会をするのである。

 マーチンのギターをかついで、松山→(四国特急)→岡山→(新幹線)→京都→(近鉄特急)、と列車を乗り継ぎ、午後1時半近鉄・西大寺駅に集合。みんなギターケースをかついで、平城京までえっちらおっちら歩いて移動。

 平城京跡は草原が延々と広がっている所で、奈良市民の憩いの場所であるらしい。
 適当な所にビニールシートを広げて、その上にみんなあぐらをかいて歌いはじめる。復元された朱雀門の向こうを時折近鉄電車が通り過ぎるのが見え、のどかな春の風景に味を沿える。

 早春の奈良は少し肌寒く、ギターを弾く手がかじかむ。遅れて参加した人がいたので、「熱燗買ってきて」と参加者のひとりが携帯で注文する。石灰に水を混ぜて温める、缶入りの日本酒である。とてもおいしかった。


1999年4月1日(木)

 新職場へ初出勤。学部長から直々に辞令を頂く。少し緊張。
 それから、講座の主任教授に連れられて、学科の先生方に挨拶回り。


1999年3月31日(水)

 松山YHをチェックアウト、不動産屋で鍵を受け取り新居へ。
 新しい住処は道後温泉へ徒歩5分の所にある。しかし、これだけ近いと却って、いつでも行けるという気になって、道後温泉には行かなくなりそうな気がする。東京に住んでいる間、結局東京タワーに上らなかった。観光地は遠きにありて思うかな。

 ところで、空っぽの部屋でコンビニ弁当を広げ荷物が来るのを待つが、いつまでたっても来ない。1階に下り、管理人さんと「荷物来ないんです、どうしたんでしょう」と途方に暮れ、引越し業者の本社に電話をかけ、広島支社の電話番号を聞いて、広島支社に電話をかけ直す。トラックは夕方までには到着するとのこと。
 僕は携帯電話・PHSを持っていないのだが、こういう時はあるといいなと思う(電話機は荷物の中に梱包してある)。

 夕方5時半頃やっと引越しのトラックが来た。書物を詰めた大量のダンボール箱、重くてすみませんです。


1999年3月30日(火)

 朝8時に引越し業者が来る。というより、業者がやって来てインタホンの音で目が覚めた。寝坊寝坊。僕は布団を片付け、一方で荷物の搬出作業が始まる。
 1時間ほどで搬出作業が終わり、トラックは四国目指して出発した。

 空っぽになった部屋に掃除機をかけて、最後のお掃除。
 夕方、住みなれたアパートを後にし、羽田空港へ。松山行きの最終便に乗る(飛行機のチケットは引越し業者が手配してくれた)。

 13年住んだ東京であったが、旅立ちの感慨といったものはあまり感じなかった。

 松山空港からタクシーで松山ユースホステル(YH)に向かう。荷物が到着するのは翌31日であるから、今夜はYHで待機するのである。このYHは建物がきれいでペアレントさんも面白い方で、居心地のいい所であったが、これからここに泊まることができないのは寂しい。
 泊まることが出来ないのは間違いで、頼めば泊めてくれるであろうが、新居はYHから歩いていけるところであるので、YHに泊まる大義名分がなくなってしまう。


1999年2月

 週末を利用して、愛知県の足助という町へ旅した。
 就職活動でゆっくり旅するチャンスに恵まれなかったので、突発的にどこかへ出かけたくなったのだ。

 足助はかつての「塩の道」、伊那街道の宿場町である。旅篭の建物や蔵などを久し振りにゆっくり眺めた。ただ、冬の山間の町は大変冷え込んだ。

 旅のことは「旅の絵日記」の「1999年冬、足助」に記したので御覧ください。

 次の就職先から正式に採用決定の通知が来たので、住居を探すため松山へ出掛ける。
 生協で民間の不動産屋を紹介してもらい、そこで条件:

  1. 二間あること(書物が多いので、ワンルームでは収まりきれない)
  2. 楽器が禁止されていないこと(趣味でギターを弾くので)
  3. 職場から近い所(寝坊だから;;)
を提示し、道後温泉にほど近い2DKのマンションに決めた。
 松山では1DK、3DKの部屋が多く、2DKはあまりないそうである。


1998年12月〜1999年1月

 突然就職先が決まった。
 僕の博士論文の指導教官であったかつての恩師から、ある日

「愛媛へ行く気ない?」

と電話がかかり、あっという間に松山市内の大学へ就職することに決まった。僕を採用したいという先生がおられたそうで、ありがたい話である。
 履歴書や論文別刷などの書類をわっせわっせと愛媛に送ったりして、慌しい日々を過ごす。

 年末年始は、小豆島で迎えた。「旅の絵日記」の「1997〜1998年冬、小豆島・内子」と同じ「小豆島オリーブユースホステル」で大晦日から正月3が日を過ごした。
 元日はみんなで車で御来光を拝みに行ったが、あいにく初日の出は見えなかった。宿に戻り、おせちの朝食を食べた後、前夜初詣に行ったりして睡眠不足なので、お昼まで寝てしまう。
 3日は島の札所めぐりのツアーを申し込んでいたが、お寺で火事があったらしく、あえなく中止になってしまう。
 というわけで、なんだかあまりさえない正月になってしまったが、海を眺めたりしてのんびり出来ただけでも良かった。


1998年11月

 妙な病気にかかった。
 全身の筋肉が硬直して、体が1日中だるいのである。起きているのが苦痛で、職場でも椅子を並べて寝転んでいずにはいられない。家に帰ればすぐ、テレビも見ずに布団を敷いて寝てしまう。
 何もする気にならない、というより、もう何も出来ない。僕自身は苦しくて苦しくてたまらないのに、他人には怠けているとしか見られないのがつらい。

「あなた、しっかりしなさいよ」
「体がだるいのは、夏バテのせいよ」

などと見当違いのことを言われる。誰も僕の苦しみを分かってくれない。

 医者に行き自分の苦しみを洗いざらいさらけ出したら、注射を1本肩に打ってもらった。すると、頭がぼんやりとして、みるみる全身の硬直感が抜け落ちていくのを覚えた。そうして、長い間の苦痛から解放された。
 あの病気は何だったろうと不思議に思う。


1998年9月

 少し前日本応用数理学会というところに出した論文が、1998年度論文賞に選ばれた。自分の興味のおもむくままに、計算用紙に数式を書き連ね、少々長い論文にまとめたものである。表彰の対象になるとは思ってもいなかったので、ありがたく思う。
 授賞式に出席するため、イトーヨーカ堂で慌ててジャケットを買い;;久し振りにネクタイを締める。

 その後、少し遅い夏休みをとって、沖縄へ旅行する。
 沖縄を訪れるのは初めてであった。理由は簡単で、僕が鉄道ファンだから鉄道のない沖縄に行く機会がなかったからである。北海道から鹿児島まで、沖縄をのぞく全都道府県を鉄道旅行で訪問したことがあるが。
 鉄道はないが、沖縄はいい所だった。琉球王国の名残を留める南の島は、日本本土とはどことなく異なったところがあり、もう一つの日本と呼びたい気がした。
 南国の強い陽射しを浴び、エメラルドグリーンの海で泳ぎ、ゴーヤ料理に泡盛…と、体にいい旅行だった。

 沖縄旅行のことは「旅の絵日記」の「1998年夏、沖縄」にまとめましたので、御覧ください。


1998年8月

 東京の夏は嫌いだ。
 ただでさえ熱いのに、道路を歩くとアスファルトから熱がはね返るし、エアコンの室外機から熱風が吹き出すし、車の排気ガス…と、消耗してしまう。
 子供の頃扇風機だけでひと夏を過ごせたのに、今はエアコンが欠かせないのは何故だろう?


1998年

 僕は都内の大学院(修士課程)を1992年に修了してから大学助手になり、そのまま研究生活を続けていた。
 今年3月に講座主任の教授が定年退職。僕は他の大学のポストを探さねばならなくなった。いくつかの大学の教員公募に応募したが、その度に落選の通知を受け、社会は厳しいと思い知らされた(1人の募集にだいたい20〜40人位応募してくる)。昨今の大学生の就職難が他人事でなくなった。

 大学生の頃はコンパの時ぐらいしかアルコール類を口にしなかったが、いつからだろうか、毎日飲まずにいられなくなった。酒は強くないし、日本酒は悪酔いするので、まずはビール、それにワインが加わる。ウイスキーは水で割らない、水で割ると味が分からなくなる。
 身近に気軽に喋れる友人がいないので、一人で居酒屋の暖簾をくぐるようになった。


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