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1年という期間と、そのスピード。
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生きていれば、必ずといっていいほど訪れ、多くの人が大体むかえる新しい年。一般的には、それぞれ新たな気持ちになれる日。しかし、川のように止まることなく進んでいく人生においては、とある通過点に過ぎない。だが、或る程度の微量の緊張感を保って生きるには、休みなり、区切りが必要だと思う。そう考えると、365日はちょうどいいのかもしれない。ひとぞれぞれ365日のスピードは感じ方が違うかもしれないが・・・ 私はいつも思うのだが、クルマを速く走らせたいという欲求を持つ人は、日常生活のあらゆるスピードが遅く感じる事が多いと思う。考えだけが常に先に進んでいる。だから、普通に生活していると、自分が堕落しているんじゃないかという、被害妄想にさいなまれる。マシンを与えられ、それに乗り、走ることで、やっとリラックスできる空間が生まれるような気がする。いや、解き放たれるといったような感じか。動物のポテンシャルをはるかに超越したスピードで、クルマという、魂をもった鉄の塊のなかでそれが実現する。一般の人には理解できないかもしれないが、 我々にとって、その空間は、自分が、自分の名前すら忘れて、本能のみの、有機体になれる。というか、戻れる。クルマに乗ると、心肺機能はエンジンの燃焼室に、お腹はガソリンタンクに、口はエンジンパーツのすべてとマフラーに。手足はそれぞれ4本のタイヤと、サスペンション、ブレーキに、体内移動する。(それを知ってる人にとっては体外ではない。) そんな感覚をもてるというのは、至上の喜びだ。それは、クルマに限らず、人間という仮の姿から、魂の本能に戻れる場所を知っている、ということだからだ。その代わり、命はガソリンに代わり、燃やしつづけ、結果、生き急ぐことにもなり、神経をすり減らすというリスクからは、逃れられない。人間には、超えてはならないスピード領域があるということだ。いつもその領域から手招きを受けている人も、少なくないだろう。だが、どれだけドラマティックに語っても、それは交通事故の一言で終わる。クルマを愛するがゆえに、クルマと共に逝ってはいけない。一緒に、と思うならば、それは彼に対して甘えすぎだ。彼はそれを望んではいないかもしれないということだ。彼(マシン、機械)に魂があるということを忘れてはいけない。彼の魂と同調して初めてかなえられる領域なのだ。それに、彼は機械だから廃車になっても、時間とお金で再生はきくが、われわれにはそれができない。 高次元で、クルマを、スピードを、楽しもう。と、言いたい。 年明け早々、考えてしまいました。
2002/01/01(火)
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