TROUBLE 〜Nike〜

「兄さま」

 猥雑な場所に不釣り合いな鈴を転がすような声が、庵に向かって放たれた。
 甲高い調子の異国語が溢れる街頭で、その声は余計に際だって庵の注意を引きつけた。
彼らしくなく俄に動揺を滲ませた動作で庵が振り向くと、その先には声同様に愛らしい人形のような少女が彼とすこし距離をおいて佇んでいる。

「…兄さま、起きていて?」

 柔らかく耳に心地よい口調は穏やかな日常に於いての庵の口調と似ていて、面影以外の雰囲気などの部分で彼と血縁関係であることを意識させる。驚きも露わに返事を返せずにいる庵へと確認するようにもう一度兄に声を掛けた彼女は、すこし悪戯っぽい表情をして庵の反応をじっと待っている。
 小首を傾げたままこちらを見ているその仕草は小動物じみて微笑ましいが、年齢のわりに幼い面差しを気にしている彼女としてはそれさえ不本意な意見であろう。
 薄茶の髪と瞳は流行りだった名残の模造品などではなく彼女生来の色彩である。そんな彼女が街頭で年を間違われたと怒っている事はよくあり、無理からぬ事と電話口で苦笑を浮かべつつ庵が妹を宥めたのはつい2〜3日前の話だ。

「……何でお前がここにいる?」

 驚きが去るまでの暫しの沈黙の後、庵は妹に向かってポツリと呟いた。
 傍目には庵が憮然としているように見えるが、生まれた時からと付き合いの長い人間にはそれも通用しない。漸く返された反応に彼女はもう一度にっこりと微笑み、庵の傍まで距離を縮めるためにとことこと近付いてくる。
 兄さまの試合を見せてもらおうと思って。自分を見上げながらそう告げる妹に、庵は一瞬顰め面をしたものの、結局は「仕方のない奴だ」と言わんばかりに苦笑するしかなかった。
 人懐っこくまとわりついてくる妹に庵もついいつも甘くなってしまう。
 それを庵の了承と受け取って彼女は嬉しそうに目を細めた。





 その翌日。

 庵は自分の試合は予定されておらず、気乗りしないながらも妹の「お願い」に折れて、関係者席に陣取ってその試合を観戦をしていた。
 見るともなく会場を眺めていた庵が不意に違和感を覚えて、隣に座って試合を見ている妹を視線だけ動かす。

 どこが…というわけでもない。

 だが、彼女の纏う空気が違う。先程までとは違う様子に見える。
 何が…と原因を訝って全く内容を見ていなかった試合に目を向けると、丁度見るのも忌ま忌ましい草薙京と存在自体が鬱陶しいと思うキム・カッファンの試合。お互いに連続技に持ち込めぬままに競り合うように小技の応酬をしている。これのどこが?と首を傾げずにはいられない。護身術の一環として、庵ほどではないが彼女も格闘技を一通りは修練させられてはいる。けれど、それは家の慣習のようなものという程度の認識で、彼女がそれ自体には熱心に取り組んでいなかった筈。
 それとなく嫌な予感がしてきて、それを突き詰めようと精神を一点に集中させる。
 妹と格闘とこの試合…。
 何かあと1つキーワードがあれば、簡単に手に入りそうなアルゴリズム。隣には兄の視線にも気づかず熱心に観戦中の妹。
 頭の中で手持ちのピースを弄んでいた庵の思考に、場内の喚声と勝者を告げるアナウンスが割って入った。


『KIM WIN!』


 それに呼応する彼女の様子。

 その瞬間、足りなかったキーワードが何だったのかが判った。
 庵の「嫌な予感」は確信へと変かり、導き出された予想に不快感と頭痛を感じて思い切り渋面を作る。
 どこまで行っても忌々しい男だ…。
 噛み締めた奥歯の軋みが内耳にきしりと響いてきた。





 庵は自分の想像できる許容範囲外の出来事に戸惑いと不快感を隠すことが出来ない。
既に色々な受難を設定されて世の不公平は身に染みていたが、更に後から追加が来るとは予定外だった。

「………」

 返答に困っているらしい庵を彼女も困ったというような微笑みを浮かべて見つめている。「別に兄さまを困らせに来たわけではないのだけど?」と言いながら、バツが悪そうに足下を見つめているのは、自分の家と兄の立場を十分に理解しているだけに、彼女としては居心地が悪いのだろう。「ただ、TVを見ていてカッコイイ方だなぁーと思って…」と告げる声もどんどん小さくなっていくようだ。
 最初は兄様の試合を見てたのだけど…と控えめに弁明をする姿に、自分の方が居心地が悪くなってくる。

「…京が、か?」

 理解に苦しむといった表情をしている庵に、こくりと頷いて上目遣いに庵の様子を伺う。

「…兄さまの言いたい事も分かってるし、別に兄さまを止めようとか、邪魔しようとかもなくって…、えーと…、ただ実物を見てみたいというミーハーな願望に勝てなかったの」

 最後の部分は恥ずかしそうに小声になっていた。古風な家に育ったという環境に反して、彼女は大変なミーハーでアイドル好きなのだ。
 実家の居間にあるTVの前にいる彼女の姿を思い出す。
 そこに思考が到って漸く大体の事情が飲み込めてきた。

「………つまり、草薙を見に来たんだな?」

 頭痛がすると言わんばかりに、庵は自分の額に指を添えて眉を顰める。
 庵の質問というよりは確認に近いそれに対して、彼の視線の先で頭痛の原因の一端は神妙にこくりと頷いた。思わず溜め息が庵の口から零れる。
 今、何かを考えるのは面倒くさい。
 そう感じて直面した懸案事項を放棄する。
 確かに人の目を引きつける引力の様なものが京に存在するのを感じないわけではないが…などと庵の思考は横道へ逸れていった。
 都合が悪い事から逃避する癖は、特殊な環境下で育った庵が身に着けてしまった習慣だった。


 その晩、ホテルの自室に妹を休ませると外に出て自分の影を呼び寄せる。
「あれが草薙を気に入ったらしい」と端的に事情を説明する主に、庵によく似た面差しが顰められる。影から問うような視線を向けられて「あれには悪いが、ヤツと直接接触させるな。近づけるなよ」と疲れた声で答えた。





 そして、数日後。

 庵と影が必ず連れて歩く少女が話題にならない筈もなく、それは京の好奇心を刺激するに十分な出来事だったし、当の話題の少女は対外的な口実はともかく、実際の理由は草薙の追っかけというのが実状。
 遭遇率が上がっているところで、庵にとってはちょっとした偶然の不幸が重なった。
 ホテルロビーで会話している二人の姿に目眩を感じながら、影に妹を連れて行くよう命じる。
 不愉快そうな表情の庵に京が向けた質の良くない笑顔は、庵の気分を益々と害した。

 悪魔の微笑みだ。
 どうも運を司る女神はヤツがお気に入りらしい…と思いながら、庵は黙って京を見ているとやけに馴れ馴れしい口調で京が庵に話しかけてきた。

「なー、あかりちゃんってゆーんだって? 兄貴に似てなくて、とっても可愛い子だよなぁ?」

 裏を読んでくれ…と言わんばかりの大袈裟な京の口調に庵の表情が益々憮然とする。
「…何が言いたい」と警戒心も露に口を開いた庵に対して、その答えを待っていた京が我が意を得たりと相手の警戒心を更に煽るように笑みが深まった。

「えー? このオレ様のファンらしいじゃんー、お前の妹。兄貴と違って見る目があるよなぁー? まぁ、ある意味、お前もオレ様の熱烈な追っかけだったケドー?」

 そう言って笑いながら必要以上に近付いてきた京が背を屈めて庵の顔を覗き込む。反射的に後ろへ退こうとした庵の腕を捕らえて、間近に迫った鉄錆色の瞳へと嫌味なほどにっこりと微笑んでみせる。

「………」

「つれないお前より好意的な彼女とのが、付き合いやすいとか思わねぇ?」

 不愉快さを隠そうともせず黙っている庵を気にもせず続けた京の台詞は、庵の動揺を引きずり出すのには十分な効果を持っていた。京が嫌がらせで言っているだけならまだしも、もし京が嫌がらせの一環で彼女に何らかの関わりを持とうとしたならと考えて、庵は怒りよりも深い憂慮の念に捕らえられる。
 京にはおふざけでも、その対象たる妹にはその意が通じると限らないだから。

「……………」

 思わず本当に困ったように眉を寄せた庵に、内緒話をするように京が耳元に口を寄せてくる。「取り引きしねぇ?」と囁く声には笑いを含んでいる。
 聞かずとも自分にとってメリットのない話なのは明白だったが、聞かずには済まされないような空気がそこにはあった。
 面白そうに庵を観察している京は彼の反応を黙って待っている。

「………何をさせたい」

 嫌々ながら口を開いた庵のセリフは京に脅迫されたものも同然だった。欲しかった通りのその返答に、京が満足げな様子を見せるのが庵の癪に障るのだがどうしようもない。

「先ずは、東京に戻った時に映画にでも一緒してもらおうかなー?」

「再来月のレース見に行くの付き合ってもらって〜…」

「…あ、お前、一人暮らしだよな。部屋の合い鍵、頂戴」

 次々に上がる理解不能な要求の最後に庵の我慢が切れる直前、「ま、別にどっちでも良いんだけど」と余裕綽々で京が肩を竦める。
 妹が可愛いというのもあるだろうが、庵の性格上では黙って京の好き勝手させるなど我慢が出来る筈がないという確信が京にある。

「KOF開催後まで、その命があると思うなよ…」

 唸るような低音の答えを了承と受けて、「出来るもんならやってみな」と京が傲岸に言い放つ。



 天が一物も二物も与えてしまった男は、自力で欲しいモノを手に入れる事にも余念がなかった。

「『千載一遇』…って、こういう事かー…。………ん〜? でも、こういう場合って、『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』でいいのかなぁ???」

 慣用句の意味を噛み締める感慨深げな口調が、庵の神経を逆撫で続けているのだが、京はそんな事にはお構いなしだった。

 勝利の女神も、幸運の女神も特定の者しか寵愛しない。
 その上、京は地上に住まう天使の心も射止めた。


 そして、獲物が目の前に迷い込んできたのを見逃すほど、肉食獣は情け深くも寛容な生き物でもなかったのだ。
−終−
初出 : 1999.10.31
 いおりんの明日はどっちだ!?(笑)
 庵の妹の話を思いついた。ほら、どんな子かなーってのは気になるじゃん、やはり?(笑)
 まぁ、人生、本人的にイレギュラーな出来事ってかなりあるしねー。京にはともかくとして、庵にも妹にも予想外の出来事な話。
 それにしても、彼女には悪い事をした。
 ダシにして、ごめん…。(苦笑)

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