家庭内ランキング

「ウィース」
 何語だ、それはという挨拶で相も変わらず家主に無断で上がり込んできた男に対して、庵は小さく息を吐いた。
 出て行け、嫌だという腕力に訴えるのも辞さない応酬は疾うにやり尽くして繰り返す気力もない。
 世の中、我を主張したもの勝ちかも知れないと近ごろの庵は諦観してしまっていた。
「よぉ、生きてっか?」
 挨拶にしては些か不謹慎な台詞で相手はリビングに現れた。
 そんなことは見て判れと庵は振り返ることすらしない。
 目下、庵が注意を割くべきは手元の五線譜であって、家宅侵入(半ば黙認だが)した男相手ではない。
 脳内で音を構築する作業は庵にとっては殊の外集中を必要とする作業のひとつだ。その作業中に邪魔されると殺人すら犯しそうな逆鱗に触れるのだが、それをまったく意に介さないたった一人がこの男だ。
 なんと間が悪い。
 意味もない敗北感とともに作業の中断をするべく、嫌々ながらに後のためにキーとなる言葉を庵は五線譜に走り書いた。
 当然ながら、作業の中断を余儀なくされた庵はとてつもなく不愉快な気分だった。
 過去に「なら作業続けりゃいーだろ」と言われたが、他人がいる場所では庵自身が集中できないのだ。それについて「修行が足んねーんじゃねーの?」と他人事のように言われ、本気で殺そうと思ったのだがそれは果たせなかった。
 苛立ちを自分のために沈めるため、ゆっくり深く息を吸う。
 すると豊かな香気が鼻をくすぐった。
 乱入者は勝手知ったるとばかりにコーヒーを淹れているらしい。
 庵はこの短時間で再び溜め息を落とすことになった。
「ほら、コーヒー」
 黒い水面を揺らめかせるマグカップが譜面の横に置かれる。
 だが、庵の注意は置かれたマグカップではなく、それを置いた手に注がれた。
「…オイ、その手はどうした」
 庵から本人も予期せぬほどぐっと低い声がでた。
 カップを口元に当てながら、相手はのほほんと微かに笑う。
「あー。これ?」
 ひらひらと振られた利き手には、掌から手首を覆うように包帯が巻かれている。
 何度も挑んだ相手でありながら、致命傷どころか負傷させることも難しい男だ。彼我の間に力の差があるわけではない。相手の力量もよく判っているから、自分以外が(本人の不注意に因るものだとしても)彼に怪我を負わせた事実はとてつもなく不快なことだ。
 無言で理由を問う視線に相手は苦笑を浮かべた。
「いや、それがさー。……うーん、絶対怒ると思うんだけど、言わないとダメか?」
 唯でさえ不機嫌に見える庵の三白眼が、すっと細まって本気の不機嫌を漂わせる。
「あー。…あのな、犬に噛まれた」
「………犬?」
「そう、犬。久しぶりに実家帰ったらさー、お袋がチワワ飼ってて」
「…静殿が?」
 訊ね返しながら庵はもの静かで小柄な和服美人を思い出して、彼女が小さな犬を抱いている姿を想像してみる。
 それは庵でなくとも様になっている姿だろうと思った。
「うん。なんか形が小っせー割に気がかなり強いらしくって、近所のおばちゃんが流行で飼ったのはいいけど持て余しちゃってたのをお袋が引き取ったんだと」
「……それで?」
「いや、それがよー。本当に気が強いっつーか、すでに凶暴って域でよ。お袋にはなんでかそーでもないらしーんだが、俺はガブリとやられた。この俺の皮膚貫通よ? どーいう牙してやがんだと思ったぜ」
 俄には信じられない話だ。
 どこがと言われれば全部と言いたいほどには。
 巷で話題になった小型犬は、庵の近くにいたらうっかり殺してしまいそうなほどか弱いイメージで凶暴という単語と結びつかない。何もかもが細く頼りない印象で、知人が連れていた折には服を着せられてすら寒さに震えていた。
 その見た目通りのあの細く小さい顎で、世界屈指と言える格闘家の鍛えられ厚くなった手の皮膚を貫通できるだろうか。
 なによりも、いくら犬が相手とはいえ噛まれるほど気が緩んでいた男がまず信じられないというか庵は認めたくなかった。
「………それで、噛まれて迂闊にも手を引いたのか?」
「んな訳ねーだろーが!」
 ムキになって言い返す様子に庵からはまた溜め息。
「……………馬鹿か?」
「お前ー! 一度、会いに行ってみろよ。アイツ、本当に侮れないんだぜ。うちの庭に放し飼い状態で駆け回ってたしよ」
 チワワというのは室内犬ではなかっただろうか。
 浮かんだ疑問に庵の眉間に皺が寄った。
「マジだって! 庭から縁側までも一度で飛び乗ってくるし!」
 旧家らしい家構えの建屋は見た目通りに歴史あるもので、地表と縁側の段差が今時の一戸建てのそれより大きい。件の小型犬の体高の倍はおそらくあるだろう。
 庵の眉間にますます深く皺が刻まれた。
「信じろって! これはお袋が念のためって手当てしたんだよ! 口ん中は雑菌が多いからって」
 力説する男になんだか真面目に相手にするのが急にバカバカしく感じられた。
「…そうか。そりゃ良かったな」
 庵の気分を現すようなどうでも良さげな声音で告げる。
「良くねーだろーっ!?」
 うららか秋の日に階下にも響き渡るような絶叫が響いた。
−終−
初出 : 2006.11.01
 京ちん、名前が1回も出てないじゃん。
 でも、京ちゃんです。
 庵の家に無断侵入して無事な人間なんて限られてるし、しようって人間はきっと八神家の人を除いたら京だけだよねー。(笑)
 うーん、これだと、静>チワワ>京>庵 だよねー。
 ……………。
 犬に負けるような京に負けちゃダメ!<庵

 チワワは凶暴なんです。(すくなくとも我が家のは)
 チワワは案外丈夫なんです。(すくなくとも我が家のは)
 50〜60cmくらいの高さなら軽々ジャンプできるしね。小っさい頃はハラハラしてたけど、近ごろは家人の誰もが注意を払わなくなった。そのうち飛び降りるときにポッキリ…とかがすこし怖いけど。注意しても止めないし。煙となんたらは高いトコが好きだそうだしねぇ?(そういう問題か?)
 流血沙汰になるのは最近は稀だ(決してゼロではない)けど、顎が小さい分、牙が細くて鋭いから刺さりやすいみたい。うふv
 本当に気が強いしねー。すこし気を緩めると直ぐに家内ランキング争いが勃発する勢い。(涙)
 手放そうとは全然思わないけど、うちの母上は一時本当に泣いてた。(苦笑) だから猫にしようって言ったのにさー。シンガプーラが欲しかったの! それかアビシニアンかソマリかノルウェジアンフォレスト。ちぇ!(今さら)
 まぁ、飼うなら絶対にオス!と思ってたのをねじ伏せた御姫の美貌だから、悔いはないけどねー。小っさい頃、そりゃもう可愛かったの、見た目だけは!!(笑) 今でも散歩中に可愛いモノ好きな人々のハートをゲットしまくって生きてます。ヤツは。(笑)

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