憂鬱という名の夢
そのことに気付かなければ、こんなに根深い感情も生まれずに、もっと普通に接するこ
とが出来たはずだった。
一時の子供染みた拘りにもケリを付けて。
士官を目指す人間として相応しさを示すことが。
「ヴァクス」
うんざりしているのが声に滲まないように努力しているのがありありと判る口調で名を
呼ばれる。
「何だ、『ニッキー』?」
口の端を心持ち上げ皮肉を込めるように彼が嫌う愛称で返事を返せば、規則に煩い先任
士官候補生の柳眉がキリキリと怒りにつり上がる。その判りやすい反応が面白いと思うの
は我ながら性格が悪いと思う。
「ミスタ…」
「ミスタ・シーフォート?」
言いかけた彼の言葉を遮って渋々という体で言い直す。けれど、飽くまでも馬鹿にした
ような態度は崩さない。
彼が思っているのと違い、別に呼び方に対して拘りを持ってはいない。単に嫌がらせの
ひとつの方法に過ぎないだけで。自分ではそう思っているのだから。
嫌いな人間との長話は好まない。そんな態度が相手にも伝わったのか、今その件を追求
することは諦めて本題を切り出した。
怒りのために白磁の肌に赤味が差したまま、視線が真っ向から自分を睨み上げている。
恐らくこの身長差も彼の気分を害しているのだろうと思うと口元がせせら笑うような形に
なった。
愉快で堪らない。
「サンディが体育室で腕立て伏せをしていた」
それがどうしたと片眉をコミカルに上げてみせると自分を見る瞳が更に険を帯びる。
「罰点を与える権限は私にしかない」
「…そんな事は判っている」
イライラとしながら言われた台詞に過敏に反応しそうになる。殊更、自分が先任である
ことを鼻先に突きつけられたようで不愉快で堪らなかった。
なら何故サンディが体育室で罰点を消化しているのかと問い質す声に、
「そのままなんじゃないのか? 罰点なんかそのまま持ってても仕方がないしな」
肩を竦めてそう返した。
実際問題として、罰点は10点貯まる前に消化しておかなければ、自分が痛い目を見る
ことになるのだから。
自分は単に「罰点は早く消化するべきだ」と注意しただけだ。相手がそれをどう受け取
ろうが自分の知ったことではない。
暗に自分は何もしていないとアピールすると、話は終わったと視線を外して立ち去ろう
とする。
「ヴァクス」
「…何だ?」
まだ用があるのかとうんざりした顔を隠しもせずに振り返れば、それ以上の追求を諦め
たのか行けと手の甲で追い払うような仕草を軽くされた。
それが癪に触って鼻を一つ鳴らすと彼に背を向けた。
アレクセイ・タマロフ。
サンディ・ウィルスキー。
自分と同じく士官候補生であるこの二人がニックに向ける態度と、自分に向ける態度に
大きな差があることに、ヴァクスが気付いてしまってから彼と先任士官候補生との軋轢が
一段と深くなった。
何ひとつ不自由したことも、大きな挫折を経験したことのなかったヴァクスにとって、
それは耐えられない屈辱感を伴った。
あの金髪のひ弱野郎と自分のどこが違うのか。
勤務している姿を見ても取り立てて自分より優秀には見えなかった。
それが、実際には二人の尊敬と憧れはニック一人に集まり、自分に対しては上位者へ対
する儀礼的な敬意と恐怖感しか見せない。
士官学校時代の自分の級友達の姿がフラッシュバックして、ある事実に気付かされてし
まった。
愕然とせずにはいられなかった。
記憶の中の周囲にいた者たちが自分に向けていた態度と、アレクセイとサンディのそれ
と大差ない事に。当時の級友たちの態度の方がもっとオブラートに包まれていたとはいえ、
振り返ってみればそれは間違いではないように思える。
確かに気兼ねのいらない友人も中には居たが、それ以外の殆どの者は…。
裕福な家庭の出身で、父親の経済的な影響力も多少はあったのかも知れない。
ただ憧れの宇宙軍士官になりたかっただけなのに。
自分のアイデンティティを根底からひっくり返されたような衝撃を人知れずやり過ごす
と、怒りの矛先が一点に集約されるのを止める気は起きなかった。
子供染みていると思わないでもなかったが、それでも危うくなりそうな自己に対する矜
持を保つためには必要なことだった。
いつまでもこんなことは続かないと予測しながら、危うい均衡を保ちながら毎日を送る。
きっと、もうすぐ。
ヴァクスはそんな予感を振り払うようにひょいと肩を竦めた。
今更ニックの下に収まるなど真っ平なことだった。
−終−
初出 : 2000.01.30
----- 2006.11.02 -----
「深淵」の続きは…?と自分に首を傾げる。
でも、確か、原作で愛しのヴァクスがアレな展開でちょっと無気力気味だった憶えが…。(苦笑)
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