二つの空、二つの心

<7>完

 
< 28 >

 翌日のパブで、ヴィエリはそっとコスタに手紙を見せた。
「というわけで、20万ポッチ、お借りしたいのですが」
「ちょっと待ってくれ、明日までにってことか?」
 コスタは紙巻き煙草をくわえながら、眉をしかめた。
「わたしはコスタ殿ほど金まわりはよくないので。
 国の方で捕えている一味の一人。彼の言動で、軍警察がどう動くかわかりません。この機会を逃すと、ロザリー殿の救出は難しいかと」
「・・・わかった、何とかしよう」
 コスタは煙と一緒にため息も吐き出した。ヴィエリは安堵したのか微かに微笑み、礼を述べた。
「当日、おつきあいいただけますか?」
「いいだろう」
「気分がすぐれませんので、わたしはお先に」と、ヴィエリは今日も先に席を立った。
 コスタは金色の髪を見送りながら、まだ吸いかけの煙草を、灰皿に無理矢理ねじ伏せた。それは悲鳴も上げずにぐにゃりと曲がり、息絶えた。
『小心者め。そろそろ邪魔になってきたな』

 相手は次々と繰り出してくるが、こちらは一人だ。一睡もしていないというのは、さすがにこたえた。
 取調官は、殴る蹴るなどは行わないが、フィッチャーが舟を漕ぎ始めると、激しく肩を揺すって起こした。掴まれた跡は、痣になるほどだった。
 二日間の絶食。空腹より渇きが深刻だった。喉ばかりでなく、胃の中までがヒリヒリ痛んだ。乾いてヒビが割れていそうだ。
 夕食が、床に落とされた後、最後の出番はパーンだった。
『嫌なヤツが来ましたねえ』
 彼は、個人的にもフィッチャーを恨んでいることだろう。ロザリーを救出したいという気持ちも、人一倍だ。只では済みそうにない。
 パーンは、フィッチャーの正面の椅子には座らず、そのまま隣に立った。表情の無い男だが、全身から立つオーラが怒りを表していた。
 パーンは物も言わずに、フィッチャーの襟首を掴んだ。『爪』、拳法家の武器を解除していないのに気づいた。嫌な予感がした。
 フィッチャーを持ち上げ、どすんと椅子に落とした。フィッチャーは背もたれに背中を強く打ちつけ、苦痛に顔を歪めた。
「今日のラストはパーンさんですか。取り調べに乱暴はナシですよ、勘弁してください。と言っても、御大が100万払ってくれなければ、わたしには何も喋ることはありませんけどね」
「・・・クレオの男を見る目の無さも、ここまで来ると神業だ」
 パーンはそう言うと、ガシッと両手を合わせて爪を鳴らした。
「金持ちの未亡人を三人も、ジゴロまがいに金を騙し取って殺していて、お尋ね者なのだそうだな。その娘も強姦して妊娠させたとか」
「・・・。」
 いったい、どこをどう巡って、そんな話に。
「おれは、取り調べ中に容疑者を怪我させて、処分を受けるのなんて、怖くもなんともない。大尉の地位など、惜しくもない。それほど、おまえを憎んでいる」
 フィッチャーは戦慄した。パーンは本気だ。
『顔を殴られる時は、歯を食いしばれ。でないと口の中を切るから』
 ジャンヌの忠告を思い出す。
「ロザリー様はどこだ?」
「・・・。」
 最初の一撃で、椅子ごと後ろに吹っ飛んだ。頬と同時に、床に打ちつけた後頭部が痛んだ。口の中は切れなくても、激痛に変わりはない。
「パーン殿!」「いけません!」まわりの警護兵達が走り寄ったが、彼の一瞥で彼らは凍りついたように動けなくなった。
「処分は怖くないと言っただろ」
 パーンは兵士達を睨み付けた。
「上に報告しに走ってもいいぞ。その勇気があればな」
 そして、フィッチャーに向き合うと、にこりともせずに言った。
「あれからあまり寝ていない。命まで取る気はないが、判断力が鈍っているかもしれん」
「・・・。」
「どのみち、大統領殿は金を出すつもりはない。5日たってもおまえが喋らなければ、おまえは裁判の後で処刑されるだろう。そしておまえは、絶対に喋らない。・・・今殺しても、同じことだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ〜」
 フィッチャーはあわてて起き上がった。
『腹を殴られる時は、衝撃を吸収するように。一緒に後ろに下がるといい。ボールを受ける時の要領だ』
「うわっ!」
 フィッチャーは殴られて5、6歩後ろによろけ、そして仰向けに倒れた。治りかけていた腹の傷がじんじんと痛んだ。
 パーンが足で額を踏みつけながら言った。
「謁見の時の偉そうな態度はどうしたんだ? え?」
「ロザリー殿は、あなたを好きだそうです」
 一瞬、パーンの足から力が抜けた。
「バカを言うな。おれを動揺させて、戦意を無くさせようとしても無駄だ」
 そう言って、フィッチャーの顔を蹴り飛ばした。
「お姉さんと同じ空気を感じるそうです。背中の後ろに立っていると、同じ感じがするとか」
「・・・。」
「立ち居振る舞いや、拳法家としての心構えや。色々なことが似ていると言っていました」
「・・・心構え・・・」
 大の字に伸びたフィッチャーの前で。パーンは立ちすくんだ。握った拳が震えていた。
 苦い表情がパーンの顔に浮かんでいた。
 パーンはぷいと後ろを向いた。フィッチャーから目をそらしたとも言っていい。
「今日の取り調べは終りだ。独房へ連れて行け」
 そう言うと、フィッチャーに背を向けた。パーンは取り調べ室から逃げるように立ち去った。
『ロザリーさん、すいませんねえ、ダシに使って。でも、すっごーく痛かったんですよ。これ以上やられたら、体が壊れちまいそうだったんで。勘弁してくださいね』
 三日間の受身の特訓ぐらいじゃ、全然ダメでしたねえと、ため息をついた。警備兵に手を借りて、やっと起き上がった。
『今夜は、部屋に何を入れられるんでしょうか。毒蜘蛛か、毒サソリか。やれやれ』
 ひっくり返した夕食の残りが、まだ床に散らばっていた。白身魚の切れ端のようだ。フィッチャーは起きる時にこれをそっと握りしめた。
『サソリなら、これで何とかなるでしょう』
 餌で誘導して便器に流すつもりだった。
『蜘蛛だったら・・・。ま、その時はその時』
 だいたい、自分は籤運が悪い。たぶん毒蜘蛛の番だろう。
 明日は、ヴィエリ達との接触がある日だ。うまくいってもいかなくても。明日の夜7時で、決着が着く。明日の夜にはぐっすり眠れるだろう。ただし『永遠に』って場合が来るのは勘弁してほしいものだが。


< 29 >

 レストランとは名ばかりの、飯屋だった。
 コスタは一歩入って、顔をしかめた。
「臭いな。どんな食事を出していることやら」
「グレッグミンスターにも、こんな場末の店があるんですね」
 ヴィスタも小声で同意した。
 薄暗い店内にわりに、ざわざわと小うるさい店だ。細い通路。小さなテーブルが所狭しと置かれ、労働者風の図体の男達が、ぎゅうぎゅうに押し込められて飯をかっこんでいる。
 軍人、しかも将校の軍服姿はこの店では目立った。二人は居心地の悪い思いで足早に奥に進んだ。
 こんな店で、テーブルに薔薇が置いてあったりしたら、嫌でも目についた。四人席の空のテーブル、脂ぎったプラスチックの板の上に、醤油や胡椒に混じって赤い薔薇が一輪、無造作に放り投げられていた。
 ヴィスタは椅子に座ると、「薔薇が泣きますね」と手に取り、軍服の胸に差した。
「剣を振り回すより、よほど薔薇の方が似合うな」
 コスタが、厭味とも賞賛ともわからぬセリフを吐いた。
 突然、二人の回りだけが暗くなった。大きな影がテーブルを覆った。
「ヴィスタ殿か?」
 熊のような大きな男が立っていた。この図体で、いつのまに近づいて来たのか。気配が無かった。
「こちらは? 付き添いか。まあ、いいだろう、お坊ちゃん」
 男は鼻で笑った。
「金は用意してあるな? では、案内しよう」
「待ってくれ。おまえらがロザリー殿を拉致しているという証拠はあるのか?」
「証拠ねえ。・・・これではどうか?」
 男は大きな掌を開いて、ターコイズのイヤリングを見せた。
「わかった。ロザリー殿は無事なんだな」
「金になるうちは、殺さねえよ。ま、監禁生活は心地よいってわけにはいかんだろうがな」
 男は先に立って店を出た。

 入り組んだ細い暗い道を進んだ。西の倉庫街のようだった。人通りもない路地、倉庫の間を迷路を解くように歩いた。倉庫の屋根が時々月を隠し、暗転にした。
 先を行く男は、肩に大きな両手剣を背負い、歩いていく。かなりの使い手のようだ。背中にまったく隙がなかった。
「あの倉庫だよ。一番北の端の。二階の窓が見えるか? 灯がついている窓だ」
「ロザリー殿・・・」
 黒い長い髪、漆黒の瞳の美女の横顔が覗いた。ガラス越しだが、月夜のおかげでかなりはっきりと顔だちも見ることができた。
 問題の倉庫に到着し、男が鍵を取り出したが・・・。
「おかしいな。扉が空いている・・・」
 男が倉庫に入ると、「うわぁ!」という悲鳴と、人が倒れる音がした。ヴィエリ達は顔を見合せ、剣を抜くと中に飛び込んだ。
 さっきの男が、血溜まりの中、入り口にうつ伏せに倒れていた。二人は、男を跨いで中に入った。
 所々に下がったランプと、大きなたくさんの窓からの月明り。中の様子は苦労せず知ることができた。壁際には、石鹸や洗剤の木箱がいくつも積み重ねられていた。洗浄剤などの倉庫らしい。
 先へ進むと・・・一人。血まみれで倒れていた。・・・もう一人。二人。・・・階段の下に、一人。さらに一人。床は血の跡で花が咲いたようだった。気をつけて歩かないと、靴が血で滑りそうになる。
 二人は、人影に剣を構えて立ち止まった。
「誰だ?・・・ヴィエリ殿か?」
「その声は・・・シルバーバーグ少佐か?」
 二人は構えのまま近づいた。窓から差し込む明りで、佇む人の姿が知れた。
 二階へ上がる踊り場。剣を杖にして、肩で息をしていた。髪は乱れ、着衣は返り血で汚れている。手負いのようで、効き腕から血が流れ落ちていた。
「なんだ、今ごろ。全部片づいたぞ」
「少佐が、これを全部一人で?」
「難儀した。剣は得意ではないのだ。・・・そちらは、コスタ殿か。二人とも、ロザリーを助けに来てくれたのか。
 ロザリーは、この上の端の部屋にいるようだ」
「わたしも、外からお元気な姿を確認しました」
「なんだ、身代金は不要だったようだな」
 コスタは内ポケットの封筒を覗き、肩をすくめた。
「誘拐団は、これで全員ですか? ロザリー殿の部屋にいるようなことは」
「わたしもここに捕えられていたのだ。敵の人数は把握しているよ。あなたたちを迎えに行ったリーダー格を含めて、六人。一番の使い手がいない隙に、五人倒した。雑魚五人なら、何とかなると思って」
 ジャンヌはそこまで言うと、膝をついた。
「医者を呼んでくれ。病院までは、ちょっと歩けんな」
「六人を一人で、ねえ。やれやれ。少佐殿を敵に回したくないね」と、コスタは剣を下に付き、煙草を出す為に片手でポケットを探った。
 ヴィエリの剣が、彼の背中を襲ったのは、一瞬だった。白皙の額に血が飛び散った。
「な・・・」
 コスタはそのまま倒れ、こと切れた。
「ヴィエリ殿?」
 ヴィエリはそのまま、今度はジャンヌに向かって剣を構えた。
「彼は、わたしを殺すつもりだったようです。考えることは同じですよ、共犯者同志なんて」
「しかし・・・背後から斬りつけるなどと。騎士ともあろう者が」
「わたしは養子です。元は平民ですので、何とも感じません。
 コスタ殿は、闘いの中で殺されたんです。そしてあなたは、自首を勧めたわたしを殺そうとしたので、わたしに斬り殺される」
「なぜ・・・。
 いや、正直に言って、確かにコスタのことは疑っていた。だが、ヴィエリ殿・・・」
「そう。コスタ殿は、武器の横流しを元帥に気づかれ、強請(ゆす)られていました。元帥の殺害を計画していることをわたしは知っていました。わたしには反対のことを言っていましたが。元帥の横流しを指摘して、暗殺者に狙われている、と。わたしは騙された振りをしていました。彼に利用された振りをね。
 わたしは、シルバーバーク家の家督が欲しかった。あなたが邪魔だった。コスタの殺人計画を利用して、あなたを嵌めたんです。
みごとだったでしょう?
 予想外だったのは、ロザリー殿の誘拐事件でした。ロザリー殿がいなくては、わたしの目的は果たせない。わたしはまだ『婿』ではなかった。こんなことなら、とっとと結婚しておくのだった。
 剣なら、わたしはあなたに負ける腕ではない。しかもあなたは手負いのようですね。あまり抵抗しないでください。一応女性です、きれいに殺してさしあげます」
「相当な自信だな、手合わせもしたことがないのに」
「まったくだ」
 背後の声にヴィエリは振り返った。ビクトールの剣が、手に決まった。ヴィエリは剣を落とした。
「・・・!」
「お坊ちゃん、後ろを向きな」
 ビクトールがヴィエリの腕を背後でひねり、背中に膝蹴りを入れた。ヴィエリは小さな呻きをあげて、膝をついた。
「あまり乱暴にしないでやってくれ。・・・パーン殿、ロープを」
 血まみれで倒れていた男達が、次々と立ち上がった。人夫の服は血で汚れているが、どこにも怪我はしておらず、ピンピンしていた。
「ヴィエリ殿。失礼します」
 一礼して、パーンがヴィエリの体をロープでぐるぐると巻いた。
「パーン殿まで・・・。なぜ・・・」
「さきほど、レパント大統領に呼び出された」
 パーンはそっけなく答えた。
「レパント殿に?」
「わたしの方は、ビクトールに呼び出されたのだがな」
 床に転がった汚れを払いながら、男が言った。
「レ・・・レパント殿!」
「豚の血っていうのは、思いの他、臭いものだな。気持ちが悪くなったぞ」
「申し訳ない。目の当たりで見ていただくのが、一番の証拠になると思いまして、こんな失礼な方法を」
 ビクトールは剣を肩に背負うと、笑ってみせた。
「いや。解決して何よりだ。まあ、わたしもビクトールに脅迫されたクチかな。シーナの無鉄砲さにも困ったものだ」
 残りの死人役の男達も、パーンの部下の軍警察の兵士だった。
 後ろ手に縛られたヴィエリは、気づいたように、「そういえばロザリー殿は?」と尋ねた。
「会っていくか?」
 ジャンヌは面白そうに笑うと、ロープを握ったビクトールと共にヴィエリを二階へ誘導した。そして端の扉を開けた。
 ランプが煌々といくつも灯った明るい部屋。事務所なのだろう、狭い部屋だった。虫が食ったようなデスクと、窓際に置かれた事務椅子。そこには、誰もいなかった。椅子の上に、脱ぎ散らかされた一枚のドレスと、黒髪のロングのウイッグがあった。
「・・・。」
「やっと気づいたか? あれは、わたしだよ。ロザリーじゃなくて。彼女は、安全な場所にいる。
 遠近感が無いと、大きさなんてわからんもんだ。
 みんな忘れているみたいだが、わたしとロザリーは一卵性双生児で、顔はそっくりなんだよ」
「忘れているわけじゃなくて、あまりに雰囲気が違うから気づかないんだろ」
 背後にいたビクトールは余計なことを言って、またジャンヌに睨まれた。

 軍警察の兵士達が、ヴィエリを引き立て、コスタの屍を運び去った。階下の血も拭き取られ、清掃も終わり、そろそろみんな引き上げるようだ。
 ジャンヌは、ガラス窓、夜の闇に映る自分の顔を見ていた。
『オデッサ・シルバーバーグに似ているせいで、つけられた頬の傷。ロザリーにそっくりの目鼻だち。
 しょうがない。わたしは、シルバーバーグ家の直系の血縁者なのだ』
「ジャンヌ? 引き上げるぞ」
 ビクトールがドアから覗いた。
「どうした、美女殿。自分の顔に見とれていたか?」
 ジャンヌ苦笑した。
「ヴィエリは愚かな男だと思ってな。シルバーバーグの家督など。欲しい奴がいたら、くれてやるものを」
「そういうわけにはいかんだろう。・・・欲しがっている奴がたくさんいるんだ、大事にした方がいいぞ」
「ロザリーは嫁に出す。決めたんだ。それも、政略結婚でなく、好きな男のもとに嫁がせる。弁護士のじじいどもが、何を言っても知らん。わたしがじじい達と闘って説得してやる。
 もう、家督とか家柄に振り回されるのはたくさんだ。そんなものの為に、策略が巡らされたり、人が殺されたり。哀しすぎる」
「・・・。」
「シルバーバーグ家は、わたしの代で終わりだ。もう、知らん。名前だけ残したければ、じじいどもは、わたしの死後にどこかからか優秀な養子を連れて来るだろうさ。
 家督なんて、クソくらえだ。
 家督付きだから、わたしをいらないと、惚れた男が言う」
「別にいらないとは言って無いだろう。すぐ絡むんだから」
「・・・。」
「だから〜。にらむなよ」
 ビクトールは、肩をすくめると、目をそらす。
「おまえは、ジャンヌ・シルバーバーグなんだよ。おまえは、いつか、国を動かすだろう」
 ビクトールは、視線をそらしたままでジャンヌの背に手をまわした。静かに、抱きしめる。
「愛していないわけじゃないんだ。何回言えば信じてもらえる?」
「疑っているわけじゃない。一緒にいられないのが・・・道がたがうのが、つらいだけだ。
 あのまま・・・一緒に逃げ続けていられたらと、何度も思った。でも、そんなわけにはいかない」
「ジャンヌ・・・」
 ビクトールの唇が、瞼に触れ、頬に触れ、そして唇に触れた。背にまわされた腕に力がこもった。
 まるで空の赤い星のように。何年かに一度近づき、そしてまた遠ざかる。でもジャンヌは、その星のことをずっと考え続けるのだ。
 唇が離れると、ジャンヌは苦笑した。目尻から一粒の涙がこぼれるのを感じ、あわててぬぐった。
「仕方ないな。遠距離恋愛してるとでも思うか」
「なんだよ、それ」と、ビクトールも笑顔を見せた。
 吹っ切れたわけではないが、ビクトールが自分を愛していてくれるのはわかっていた。それでいいのかもしれない。
 コツン! と窓に小石が当たった。窓の下を覗くと、軍警察の連中が、ぞろぞろと引き上げるところだった。小石はパーンが投げたようだ。珍しく笑っていた。こちらを見上げ、片目をつぶって、親指を立てた。
「あ・・・ここ、外から丸見えだったな」
 ビクトールは頭をかいて苦笑した。
「シルバーバーグ少佐殿。仕事に復帰したら、からかわれるぞ」
「これで、少しはわたしを女性だと認識してくれる部下が増えるだろう」
 そう言ってジャンヌは微笑んだ。


< 30 >

 昨夜は、もちろん、蜘蛛だった。
 蛇はあまり動かなかったから、まだよかった。毒蜘蛛は、カサコソと一晩中歩き回った。フィッチャーは、毒蜘蛛と睨み合って一定の距離を保ちながら、一緒に動き回らなければいけなかった。
 蛇と同じで、こちらが危害を加える様子を見せなければ、とりあえず攻撃はして来なかった。
 毛布にくるんで、上から踏み潰そうかと何度も思ったが、踏み潰した後に毛布をといて確認する時の恐怖を想像すると(もしまだ生きていて、腕や足をつたったら?)、無難にやり過ごすことにした。
 結局、また一睡もできずに朝だ。

 三日目は、フィッチャーに個人的恨みを持つ取調官はいないようだったが、日々日常のストレスをフィッチャーで晴らそうとする者が二人ほどいて、『起きろ』『寝るな』というセリフと共に、殴ったり蹴ったりされた。まあ、パーンのような殺気は感じなかったので、ジャンヌに教わった受け身で何とか切り抜けた。殴られたりすれぱ確かにちょっと痛くはあるのだが、睡魔のおかげで、痛みに鈍感になっていて助かった。
 昨日、パーンに殴られた頬と腹は、まだ痛んだ。特に頬骨、目の下のあたりが痣になって、ずきずきした。だが、これは、仕方ない。ロザリーを心配するパーンの痛みは、こんなものではないはずだから。
 今夜、決着が着くはずだ。計画の成功について、不安が無いわけではない。ジャンヌの命をエサにすることについても危惧はあった。ビクトールがいれば戦闘に負けることはないだろうが、ヴィエリが弓や投げナイフの名手であることも考えられる。炎系雷系の魔法を使えることだってある。剣を交える前に、ジャンヌが怪我などしなければいいのだが。

 独房に戻され、うとうとしていると、窓が開いた。今夜は何が投げこまれるのかと思って見ていると、窓から声が聞こえた。
「わたしはロザリー様の婚約者、ヴィエリの使いの者です。守衛は買収して、人払いました。身代金についてのお話をしたいのですが」
「大統領の代わりに、婚約者殿が払うというのですか?」
「そうです。話をさせてください」
 変な話だ。ヴィエリなら今頃、まさにその身代金についてビクトールと話をしているはずだ。買収までして、牢に使者をよこす必要は無い。
 小窓から覗く二つの目。薄い眉、細い切れ長の瞳・・・見覚えがあった。
『あの時の御者さんじゃないですか』
 いきなり目が醒めた。
「今から鍵を開けます」
 そう使者は言うと、ガチャガチャと賑やかな音をさせた。鍵束からここの鍵を探しているのだろう。
 フィッチャーは慌ててベッドから立ち上がったものの・・・逃げ場は無い。
 ガチャリと、鍵穴がひと回りした音がした。鉄の扉がゆっくりと開く。

「フィッチャーさんじゃないですか〜」
 蛇の目の男が頓狂声を挙げた。
「しっ。しっ。ここでは、パトリック・デュモンです」
「この前はよくもやってくれましたね。敵ながらお見事でした。
 というより、騙されたわたしが間抜けだったのでしょうね。勉強になりましたよ。任務に『紳士的』や『誠意』を持ち込んではいけないってね」
「そう言われると、わたしがすごく悪者みたいに聞こえます」
 御者は唇を開きかけたが、苦笑して言葉を発するのをやめた。たぶん、『だって悪者じゃないですか』とでも言おうとしたのだろう。
「バイトで誘拐なんてやってたんですか。公務員はバイト禁止でしょう」
「営利誘拐は、公務員以外だって、やる時は秘密でしょうが」
「そりゃそうだ。一本取られたな。相変わらず、口が達者なヒトだ」
 唇だけで笑って言った。目が相変わらず笑っていない。不気味な男だ。
「で、ヴィエリ殿の代理ですって?」
「50万ポッチでどうでしょうか」
「それ、半額じゃないですか」
「だって、大統領は払う気は無いですよ」
「せめて、70万になりませんか」
 どうせすぐに剣をちらつかせて脅迫してくるだろう。金など払う気は無いのだ。もっともこっちも、貰っても困るが。だが、なるべく、話を長引かせたかった。誰か軍警察の者が、牢が開いていることに気づいて、駆けつけてくるかもしれない。話し声を聞いて、慌てて降りて来る望みもある。
「原本付きなら、考えますが・・・。アレは、少佐がお持ちなのですか? 元帥が亡くなった部屋にも、グレッグミンスターの自宅にも無かったのでね」
 この男は、コスタの代理でさえもないだろう。コスタ以外の、武器の横流しをしていた男の代理人だ。元帥の帳簿の数ページ・・・シュウが握っているものを手に入れたがっている。
「そうです」
 違うと言ったら、殺される。ジャンヌの居所を知りたい者にだけ、今のフィッチャーの生存価値がある。
「少佐は、どちらにいらっしゃるのか? 本当にあなたたちが身柄を確保しているのか?」
 男は剣を抜いた。フィッチャーの喉に突きつけて来た。
「教えたら、すぐに殺すくせに」
 フィッチャーは、ずりずりと後ろに下がった。男は、愉快そうに、剣先を喉元に触れそうな状態で、そのまま前へ進んで来た。
「そんな、非紳士的なことはしません」
「任務に『紳士的』は持ち込まないって、さっき言ったじゃないですか」
「口の減らない人ですね」
 男は、剣先を下唇に突きつける。唇が切れて、血の味がした。フィッチャーの背中が、壁に触れた。これ以上後退はできない。
「すぐには殺しません。少しずつ、殺します」
『殺す』という言葉を口にして、嬉しそうに口もとをゆるめる。基本的に、こいつは、人殺しが好きそうだった。
「傷が少ないうちに、早く吐いた方がいいですよ。お金なんかじゃ、取り返しがつきませんから」
 男の剣が空を切り、フィッチャーの長すぎた前髪の一部をパラパラと床に舞い散らせた。
 コイツは、楽しんでいる。背筋が寒くなった。命さえ取らなければ、いくらでもフィッチャーを痛めつけることだろう。
「さあ。まず、どっちの国にいるんです? トラン? それともハイランド?」
「・・・。」
 答えようとしないフィッチャーの左の腕に、ひやりと剣の刃が押しつけられた。
「言ってくださいよ。次の諜報活動に支障があるほどに、傷を大きくしたくないんですよ。わたしはあなたのファンなんでね」
「あなたも、裏の仕事を生業にしているようだが。あなたなら、言うんですか?」
 男はむっとした表情で剣を引いた。軽い痛みが走り、腕には長い赤い線が残っていた。皮膚が切れて血が滲んでいるだけで、肉は切れていない。
「これは仕事じゃなかったが。でも、フィッチャーの意地です。諜報員が、脅しに屈して情報を漏らすわけにはいきません」
 フィッチャーは男を見据えた。いつもへらへらと相手をかわすのが自分のやり方だったが。フィッチャーは男の目から視線をそらさず、睨み付けた。
 挑戦を受けた男の方は、フィッチャーの胸に剣先を当てて、にやっと笑ってみせた。
「いつまで、強がりを言ってられますかねえ」
「・・・。」
 男は、ぐいと剣を胸に突きたてる。布が切れて、切っ先が直に肌に触れた。
「少佐はどこです?」
「わたしなら、ここにいるよ」
 男の後ろにジャンヌが立っていた。一瞬の下突きが男の精促(後ろ脇腹)に入った。カラランといい音がして、男は剣を落としてうずくまった。
「ジャンヌさん!」
「フィッチャー殿、ご無事か?」
「そちらこそ! 解決したようですね」
「おかげさまで」
 ジャンヌは、男の剣を手に取り、反対に彼の首に突きつけた。彼女は、右腕の袖が斬られた血まみれのシャツという、ものすごい姿だった。
「そのカッコでこの城の中まで来たんですか?」
 よく守衛に止められなかったものだ。
「大統領と一緒だったからな。まあ、彼も血だらけだったが」
 ジャンヌの後ろを、パラパラと軍警察の兵士が入って来て、男を縛り上げた。
「コイツは誰の刺客なんだ?」
「御者さんのことですか? さあ。たぶん、吐かないでしょうね。プロだから」
 フィッチャーが笑って言うと、男も視線を上げて、フィッチャーを見て、そしてやはりふっと笑ってみせた。
「『御者さん』はやめてくださいよ。名乗らせていただけるなら、わたしは『スコーピオン』と言います」
 スコーピオン。確かに、今夜は毒蠍の番だった。まさにスコーピオンだ。
「フィッチャーさんとは、また、どこかで会うかもしれませんね」
「おいらは、イヤですよ、あなたなんかと対決するのは」
「あなたは、剣を覚えないと。・・・ほう、絶対、持たない気ですか」
「まあね」
「よほど自信があるんですね。口に」
 そう言われたフィッチャーは苦笑した。
「いえ。全然自信が無いからですよ、剣の」
 切れた唇の血が固まってパリパリと粉のように落ちた。
 引っ立てられる男の背を見送る。
 嫌な男だった。だがきっと自分も、人にはそう思われているんだろう。
 横では、ジャンヌが、軍警察にあれこれ指示していた。彼女の反逆罪の容疑は晴れ、指名手配も解けたようだ。
 終わったのだ。
 安堵感が、睡魔を呼び寄せた。フィッチャーはそのまま、その場に崩れ落ちた。


<To Be Continued>


『二つの空、二つのこころ』 ★ 9 ★ <end>




< 31 >

「ほほう。ボランティアで人助けだと。しかもわたしの仕事の出張の『ついで』になあ。・・・きさまは救世主のつもりかっ!」
 腕組みしたシュウの姿は空を覆い、頭上には雲がかかっている。正規の人間の大きさでも十分怖いのに・・・。額の怒りマークは、家一軒ほどのでかさに見えた。
 フィッチャーも、夢だとはわかっている。でも、三日ぶりに寝れたのに、よりによって、なんでシュウの夢なんて。
「そうよ、私たち家族を置いて! いったいどこをほっつき歩いているのよ!」
 ジルの声が聞こえたので、あたりを見回すと。
 フィッチャーの掌の上。ネズミくらいの大きさのジルが、両腕を振って全身で怒りながら怒鳴っていた。
「どれだけ心配したと思ってるの! そしたら、よその女のコの為に、命張ってたですって? まあ、お優しいこと! まるで王子様ねえ」
 夢の中の声は、てのひらサイズな分、キーキーと甲高い。
「痛っ!」
 フィッチャーは指を噛みつかれた。このネズミのジルも、十分怖い。

「目がさめたか? うなされてたようだが」
 見覚えの無い立派な寝室だった。ベッド横の椅子の背もたれに、ジャンヌが寄りかかっていた。ロザリーの顔ものぞく。シルバーバーグ家の客室のようだ。
「顔の湿布、取り替えるぞ」
 ジャンヌの手が、一気に頬の膏薬を剥がした。
「いたたた」
「どうだ。起きられるか?」
 ジャンヌの問いに、恐る恐る上半身を起こす。
「大丈夫です。特に怪我をしたとか、そういうことは無いので。取り調べでは眠らさせてもらえなかっただけです」
「この頬の傷は・・・」
 新しい湿布をフィッチャーの頬に貼り付けながら、ジャンヌの眉が、すまなそうに歪んだ。
「ああ、たいしたことは無いです。アドバイス通り歯を食いしばったので、口の中は切れませんでした。
 おいらは、どれぐらい寝てたんです?」
「数時間ってとこかな。そろそろ日にちが変わる時間だ」
「お腹がへったでしょう? シチューを作ってあります。ここへ運んで来ますね」
 ロザリーが立ち上がった。
「ありがたいです」
 眠気の方が強くて忘れていたが、三日も何も食べていなかった。
「フィッチャー殿のおかげで、やっと家に帰ることができた。無実も証明できた。いくら感謝しても足りない。しかも、また怪我をさせてしまった」
 ジャンヌが律儀に礼と詫びを述べる。
「フィッチャー殿が無事だったからよかったものの。計画の時、もっと反対すればよかった」
「ははは。おいらの計略、ジャンヌさんだけが、私の身の安全を考えて反対してくれましたね」

「フィッチャー殿の負担が大きすぎる。軍警察の取り調べは、かなり厳しいと聞いている」
 傭兵養成所のビクトールの部屋での会議で、ジャンヌが真っ先に反対した。
「ヴィエリだけにロザリーの身代金を要求して、呼び出すわけにはいかないのか」
「ヴィエリ殿に、頭っから信じさせるには、世間を巻き込むことです。こっそり自分のところに、わけのわからない思想団体から紙っぺらの要求状が来ただけでは、そうそう信じません。
 国から取れれば100万。ダメそうな時は小物から20万。自然な要求です。『裏取引』であることで、かえって信用するんです。
 それに『5日』と期限を切ることで、焦りもするでしょう」
「・・・。おまえってやつは」と、ビクトールがあきれて天井を見上げた。
「シュウがおまえを手放さない理由がわかるよ」
「それ・・・褒め言葉にはどうしても聞こえません」
 フィッチャーは抗議の為に口を尖らせた。
「それより、ジャンヌさんだって、かなり危ないでしょう? ヴィエリ殿にあなたを殺させるように仕向けるんだから。おいらは、そっちの方に抵抗がある。どんな危険があるかわからない。
 ヴィエリ殿は、コスタ殿に協力したものの、ロザリーさんがいなくては困るんだ。かなりきわどいコトでもやろうとするでしょう。ロザリーさんの誘拐は、彼には青天の霹靂の事件だったはず。かなり焦っているはずです。奴に千載一遇のチャンスを与えれば、必ず動きます。
  苦境にある時、『一発逆転これしかない』という方法を目の前にぶら下げられると、絶対に人は飛びつくんですよ」
「・・・。」
 今度はジャンヌが絶句した。そして、あきれたように微笑んだ。
「わたしも、それ、よく覚えておくよ。肝に命じておこう」

「おいらは、軍警察相手ですから、一応法に守られていました。取り調べで乱暴されても、命の危険まではありません。
 反対に、あなたの方がずっと危なかったんだ」
 フィッチャーは、ベッドの中で思い出して寒けに襲われ、上掛けで肩まですっぽり覆った。
「戦闘でそうそう遅れは取らんよ。それにビクトールもいたことだし」
「あの人は、自分の命に代えても、必ずあなたを守るでしょうね」
 フィッチャーの言葉に、ジャンヌが「さあ、どうだか」と頬を染めて視線をそらした。今までの男っぽいしぐさが崩れて、娘の表情を見せる。鋭い視線がふわりと緩み、黒い瞳を縁取る長い睫毛が揺れた。
「ロザリーさんは、あのことは・・・」
 フィッチャーが、ロザリーが部屋の外にいるのを確認し、それでもなお小声で尋ねた。
「もう知っている。ショックはショックだったようだが。
 まあ、あんまりくよくよ考えることのない子だ。切り換えは早いと思う」
 それは、ジャンヌが、悲観的に考えがちの、気持ちの切り替えの下手な娘だということなのだろうと、フィッチャーは思った。
「ビクトールさんは?」
「マクドール家に帰った。彼は、ここの屋敷には足を踏み入れたくないだろうよ」
 ジャンヌはからかうような口ぶりで言った。
「フィッチャー殿には、明日の午前中にマクドール家にお越しいただくようにという伝言を頼まれた。明日、ハイランドに帰るそうだ。ビッキー殿の呪文で」
「明日、ですか」
「わたしは、城に出廷していて挨拶に行けないので、よろしく言っておいてくれ」
「お別れに行かないんですか?」
「瞬きの呪文で一瞬で消えるのなんて、見たくない。それに、もちろん、大統領命令が優先だ。
 フィッチャー殿。明日、やっと帰れるな」
「役場の仕事、ずいぶん休んじまいました」
 ロザリーがトレイにシチュー皿をのせて運んで来た。
「どうぞ。おかわりもいっぱいあるわ」
「かたじけないす」
「フィッチャーさん。これで、やっとジルさんに会えるわね」
 ロザリーの言葉に、フィッチャーは口に含んだシチューを吹き出しかけた。
「寝言で、何度も名前を呼んでたわ」
「・・・。名前だけですか?」
 あとは、余計なことは言わなかったろうか。
「ピリカさん。ベルさん。名前を呼んだのは、あとはこの二人かしらね。どの女性が本命なの? 噂通りに、女性関係が華やかなのねえ」
「は。・・・ははは」

 満腹になると、また眠気が襲って来た。
「ゆっくり休むといい。
 服を用意せんといかんな。明日、その囚人服でマクドール家まで行くわけにいかんだろう。
 わたしとサイズは同じだったよな。今度は、わたしのスーツを持って行ってくれ。普段は軍服しか着ないので、ろくなものは無いが、気に入るのがあるといいが。
 わたしは明日はもう出ているかもしれん。ロザリーに言っておく」
「いろいろ、ありがとうございます」
 少佐は、どこをどう取っても青年にしか見えない。だが、ビクトールの前だと、時々、ほんの一瞬、華奢で頼り無げな少女に見える時がある。
 フィッチャーは、この不思議なカップルが羨ましかった。自分に似て不器用なビクトールが、この娘にどんな愛の告白をしたのか、是非参考にしたいものだ。
「こちらこそありがとう、フィッチャー殿。おやすみ」
 ジルと同い歳の娘たちは、部屋を出て行った。
 静寂。再び睡魔がフィッチャーを襲った。

 翌朝は、遅い朝食を食べて、マクドール家へ向かった。
 ジャンヌはもう出勤した後だったが、ロザリーに厚い感謝の言葉をいただき、スーツも借りて屋敷を出た。
 マクドールの屋敷では、ビクトールもビッキーも待ちかねていて、あとは呪文を唱えてもらうだけだ。
「早く帰らんと。所長代理のスタリオンが悲鳴を上げてるな」
「おいらは、役場の席があるかどうかも心配です」
 続けて呪文を唱えると失敗することが多いので、二人一緒に傭兵養成所に飛ばしてもらうことになった。だが、そこからなら、馬を飛ばせば3日でキャロに着ける。
「フィッチャー殿。知らぬこととは言え、まことにすまなかった」
 パーンが、出勤を遅らせてフィッチャーを見送ってくれた。礼儀正しいこの男は、きっちりフィッチャーに頭を下げた。
「こちらこそ、どう謝罪していいか。パーン殿の心の痛みを考えると、おいらの傷なんぞ、軽いものです」
 フィッチャーこそ、本当のことが知れた時、彼に会わせる顔が無いと思っていたのだ。パーンが許してくれたことに、ほっとした。
「フィッチャー。元気でね」
 クレオが泣きそうな瞳をして、必死にエクボを作った。
「クレオさん、あの。色々、お世話になりました」
 フィッチャーを『男性として』認めてくれた、希有な女性だった。彼女の可愛らしいエクボのせいで、巻き込むことを悩んだっけ。
「いいのよ。ハイランドで幸せに暮らしてね」
 ジルの存在がなかったら、彼女の好意を受け止めたかもしれない。暖かくて強くて、すてきな女性だった。
「挨拶は済んだ? じゃ、行くわよ」
 ビッキーが『わわわワンド』を一振りした。
「・・・えいっ!」

* * * * * * * * * * * *

『息吸って、吐いたら、もう着いてる』
 以前スタリオンが言った通りだった。
 二人は、傭兵養成所の、食堂の机の上に飛ばされた。
「うわっ」
「いたたた・・・」
 テーブルは、硬くて痛い。もっとマシな場所は無かったものなのか。でもこれはビッキーの魔法では大成功の部類なのかもしれない。
 昼食までには時間があったので、生徒達はいなかったが、二人は遅い朝食を取っていた客人の目の前に振って落ちた。
「きゃっ!・・・フィッチャー!」
 ビクトールはテーブルから這いずり降りて、「いてて」と腰をさする。うずくまっていたフィッチャーは、席に座った女性とまみえて、発作的にテーブルに正座した。
「ジル殿! どうしてここにいるんです?」
「だって、役場に、白鹿亭ってところから、ズボンに血がべったりついたあなたのスーツが送られて来て。メモを見ると、『国立武道研究所所長』のビクトールさんって人が送付の依頼をしたみたいで。
 あなたはずっと帰って来ないし、ネクタイの引出し見たら、ピリカちゃんやベルの名義の通帳を見つけるし。あんなの見たら、生きて帰るつもりが無いのかと思うじゃない! 心配で、とにかくここまで様子を聞きに来たのよ。そしたら、トラン共和国まで出かけたって・・・」
 ジルは、食事中だったようで、ナイフとフォークを握りしめたまま、まくしたてた。
「あ、そういえば、ヒルダに頼んだっけ。ジャンヌが借りたスーツ、フィッチャーに返しておいてくれって」
 ビクトールがまだ腰を抑えながら言った。
 フィッチャーは笑顔になった。
「そのおかげで、少し早くジル殿に会えたってわけですね」
「いったい、何があったの? その頬の怪我はどうしたの?」
「うーん・・・。話すと長くなるんです。なにせ、臆病者フィッチャーの、一世一代の大冒険だったので。
 その前に・・・。ジル殿に会ったら、真っ先に言おうと決めていたことがあるんで。そっちを先に言わせてください」
「・・・?」
 大きな窓から、暖かな日差しが差し込んで、テーブルに桟の影を濃く映し出した。雲雀の鳴く声。窓にかかる木々が、微かな風に揺れて、テーブルの上にも蜃気楼のような淡い動きを作った。
 フィッチャーは、テーブルに正座したまま、軽い緊張に唇をなめた。ジルは小首をかしげて、不思議そうにちょっと微笑んでいる。フィッチャーは大きく息を吸い込む。
 唇の形が、今まさに『好きです』と動こうとしていた。


<END>



 

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