砂時計を裏返して

 はじめに

「幻想水滸伝」には、「真の紋章」という設定があります。
それを宿した者は不老であるという紋章です。世界を掌握するとも言われている紋章らしいです。
真の紋章持ちは、怪我などで致命傷を負えば死ぬようですが、老いの為に死ぬことはありません。
『1』『2』の主人公は、宿したてのホヤホヤなので、不老の重さについて触れられる部分はありませんでした。
『3』では、この重さを背負って生きてきた大人の男が出てきました。これを『呪いのような』と言い、『何かの罰のよう』と思っているようでした。
『自分を取り残して時が過ぎて行く』という感覚がSFっぽい感じがしていいなと思っていたので、初めて主人公でシリアスもの、ちょい長いのを書いてみました。
『ウキウキ水滸伝』でクリスとゲドのシリアスな短編を書いた時に、「あ、この空気、好き。もっと書きたい」と思ったので。
『3』からしばらく経ってからの話なので、当時のクリスでなく、32歳のクリス。
ゲドはもう歳がよくわからない。『3』の時に114歳という設定資料を信用して書きました。

というわけで、どうぞ。

< 1 >

 あの頃に比べて、特に時間が早くすぎるとは思えない。砂時計の砂の落ちる時間。体感速度に変わりはなかった。
 最後の一粒が落ちるのを確認し、私はティーポットから紅茶の葉を取り出した。
 カップに注ぎながら、「酒の方がいいんだろうが、ここにはあいにく置いてなくてな」と客人に言い訳する。評議会の待合室の一つだ。茶器の用意だって、予約無しでできたのは運がいい。
「いや・・・」
 客人はぽつりと言うと、出された花柄のティーカップに口をつけた。
 その絵ヅラに思わず吹き出しそうになった。
「茶を出したのは私だが、しかし紅茶の似合わん男だな」
「・・・。」
 男は憮然としたまま、おとなしく紅茶をすすった。目が恨みがましそうに笑っている。
 私も紅茶で口を潤すと、足を組み換え笑った。会議室の折り畳み椅子は座りが悪くて、少し動いただけでキシキシ音を立てた。
 髪をかきあげようとして耳の後ろで指をすくと、手応えがなくてするりと抜けた。まだ、短くしたことに慣れない。真の紋章持ちになって10年。心機一転のような思いもあり、32歳の誕生日に短髪にしたのだが、2か月たってもまだ慣れることができずにいた。時々、無いはずの髪が肩に重い気がするのだ。
「ビネ・デル・ゼクセに来た傭兵部隊のリストは、今朝一番に司令部に届いたんだ。驚いたよ。あんたは、偽名も使っていないんだな、ゲド?」
「ありふれた名なんでな」
 視線を上げずに、かすかに笑みを作ってみせた。この笑い方、なつかしい。
 ゲドと最後に会ったのは、4年前、カレリアでだった。ちょうど彼がハルモニアの傭兵隊を抜けてデュナンへ行くと言っていた時だ。
『同じ傭兵部隊にいるのは、15年が限度だ。部隊のみんなは事情を知っていたからいいが、まわりの奴らは歳を取らない男を変に思うだろう』
 ちょうど、ジョーカー達も引退を考えていた頃で。頃合いが合ったのだろう。ゲドだけが独りで、南へ下ると言っていた。
 あの時私は私用でカレリアを訪れたところだった。
 あの再会も、風の紋章師の反乱から6年もたっていた。

 風の紋章師の反乱。他の地方は知らないが、ゼクセンではそういう言い方をする。
 あれから10年。たくさんの歴史書や文献も出ているので、あの戦争についてあれこれ説明する必要は無いだろう。私はあの時「真の水の紋章」というものを宿し、ゼクセン騎士の先頭に立って闘った。
 歴史書には書かれない物語がある。これも、その一つかもしれない。

 当時私は、ある男に懸想していた。私はまだ22歳だった。必死に気持ちをおし隠しているつもりだったが、本拠地のみんなは見て見ぬ振りをしていたらしい。惚れられた本人も含めて。まあ、子供だったのだ、私は。
 戦争には勝ったが、私の初恋は玉砕した。22歳で初恋だったのだから、奥手にもほどがある。剣しか能の無い女だった。大人になった今、私にだってわかる。あんな女、御免だ。
 彼は悪人ではないが、そう善人でもなかったと思う。お固い娘だった私の心を崩したくらいだ、かなり柔らかい男だった。忠誠心を競う騎士達には、絶対にいないタイプ。
 そしてもう一つ。狡猾な男だった。女にはだらしないという噂だったが、私には指一本触れなかった。私が「真の紋章持ち」でゼクセンの代表であった立場のせいなのか、それとも生真面目で余裕のない小娘に手を出すと、後で厄介だと思ったせいなのか。
 失恋した私を、六騎士達は腫れ物にさわるように扱った。だいたい、そのことには触れようともしなかった。
 本拠地で過ごす最後の夜。酒場の喧騒の中、私は独りで座っていた。「最後だから」と騎士達にも誘われたものの、みんなで騒ぐのが苦手で、どういう風に話に入っていけばいいかわからなかった。それに、私の好きな男は、もうここを去っていた。国も違うし、もう会うこともないかもしれない。そんなことも気分を沈ませていた。
 ゲドだけが私を慰めようとしてくれた。
 彼は私のテーブルにコトリと一本のボトルを置いた。鶏の絵が描かれたラベルの。それはゲドがよく飲んでいた酒だった。
「これ、持って帰っていいぞ。餞別だ」
「・・・え?」
 まだ封を開けていない、新品の一本だった。
「この味がわかるようになった頃には、惚れた男のことなんぞで泣くこともなくなる」
「・・・。」
 私は何度もまばたきをした。慰めの言葉、らしい。
「か、かたじけない。いただいておく」
 ゲドの背後でクイーンがくすっと笑ったようだった。
「大将、それ、女の子に言うセリフじゃないよ。まるで息子にでも言うみたいな」
「そうか・・・。すまんな」
 ゲドはぼそっと謝ると、そのまま傭兵隊の仲間の席に戻って行った。
 翌朝、傭兵隊組は、大袈裟に別れを告げることもなく、いつの間にかひっそりと居なくなっていた。だから、それが本拠地でのゲドとの最後のやりとりだった。

 ゲドと再会するより早く。その5年後、図らずもあの男と遭遇するハメになる。
 ゼクセン騎士とハルモニアの傭兵達が起こした乱闘事件の話し合いのため、私は遠くカレリアまで出向いた。ハルモニアの工作員である彼は、なぜかカレリアの宿屋の主人をしていた。
「ナ・・・」
『ナッシュ!』と名前を呼ぶ前に、「この宿の主人、アルカイドです」と釘を刺された。
 またどうせヤバイ仕事の最中なのだろう。
「お部屋にご案内します。ゼクセンの司令官様には、一番いいお部屋を用意しています」
 銀縁メガネを押し上げると、私の旅の荷物を抱えた。そして勝手にさっさと階段を上がっていく。私も慌てて追いかけるしかない。
 ナッシュは部屋に私をひっぱりこむと、急いで後ろ手にドアを閉めた。
「クリス、お願いがある。オレの名前はアルカイド。ルビークの出で、ガキの頃村を出て最近カレリアに戻って来た。歳は38。独身。5年前の戦争の時はデュナンにいたので、あの戦争のことは詳しくない」
 堰を切ったように自分のスパイ活動の設定をまくしたてた。
「・・・了解した。だから、その手を離せ」
「普通ならこのままキスしてもいいんだが。でかい声でオレの本名を叫ばれても困るか」
 声が私の前髪を揺らした。
 間近で5年ぶりに見たナッシュは、少し老けたものの相変わらずハンサムで、年齢を4つも若くごまかしたその設定も、十分に通用していた。メガネ越しに覗く青い瞳は、嘘を真実に変えてしまう事などいとも簡単そうだった。金色の髪は少し長くなって、後ろで無造作に縛っていて、まだ青年みたいだった。
 一瞬。ほんの一瞬だが、見とれた。古い傷がちくりと痛んだ。
「それなら私は、キャロラインとでも名乗ろうか。歳は22歳。イクセの村のお針子で、特技はダンス」
 私はやっとのことでそう言った。虚勢を張って、鼻で笑ってみせた。
「おい〜、クリス」
 握った私の手首を離し、ナッシュは苦笑した。

 乱闘事件の示談は簡単についた。それも予想していた以下の金額で。喧嘩は両成敗というのは、ゼクセン騎士と傭兵では成り立たない。騎士である以上、挑発に乗った者が悪い。
 私の護衛は若い騎士が3名。例の六騎士は、若いルイス以外はもう役職付きになり、それぞれの隊を率いている。今回の護衛達は5年前の戦争は知らず、だからナッシュの顔も知らない。
 4人で外で食事し軽く飲んでから宿に戻った。
 真の紋章持ちの私は、外見は歳を取らないのだそうだ。まだ5年しかたっていないので真偽のほどはわからない。まあ27歳相応だとしても、女だてらで一隊を率いるのは苦労が多かった。
 まず、酒が強くなった。そして、ハッタリをかますのがうまくなった。それから、時には「女」を使うことも覚えた。
ところが、少し年上の友人・ユミィやユイリに言わせると、「それは、別に一隊を率いても率いていなくても、22歳から27歳の娘の、普通の変化」なのだそうだ。そういうものなのか。
 酒は・・・大将に課せられた目標には、まだまだ遠い。食事の時に自然にビールを頼めるようになった程度だ。
 宿のフロントでは、ナッシュがブーツごとテーブルに足を投げ出し、本を読んでいた。
「やっとお帰りですか。これでフロントも閉めちまいますんで、何かあったら奥の私の部屋にお願いしますよ」
 ナッシュは体制を整えて立ち上がり、棚から人数分の鍵をチェックして一人ずつに手渡した。
「すまんな。そんなに遅くなったつもりはなかったのだが」
「カレリアがゼクセンに比べて田舎なだけでさあ」
 どこで覚えたのか、いかにも宿の主人のような口調でナッシュが答えた。そういえば、本拠地の劇場でも、この男は妙に芝居が上手だったっけ。
 階段を上がると、他の騎士達と疲労をねぎらいそれぞれの部屋にはけた。ナッシュ曰く『一番いい部屋』のドアに鍵を差し入れた。違和感があった。右にも左にも回らない。
『これ・・・違う鍵じゃないか』
 階下のフロントには、まだナッシュがいた。
「この鍵、私の部屋のじゃないぞ」
 ナッシュは顔色ひとつ変えずに返事した。
「そうだよ。オレの部屋の鍵だ。
 そっちの通路の奥が、オレの部屋。アイリッシュ・ウィスキーなら封が開いている。勝手に飲んでてくれ。オレはもう少し片付けがあるんで」
「あきれた・・・」私は大きなため息をついた。
 もう子供ではない私はその意味するところはわかったが、ナッシュの誘いには本気であきれていた。
 まったく。今さら!
「・・・おい。誰が行くって言った。私の部屋の鍵をくれ」
 言葉は厳しいが、私は怒ってはいなかった。いや、たぶん顔は笑っていたと思う。『ああ、この男は、こういう男だった』と、つくづくおかしかったからだ。
「いいじゃないか、どこのベッドで寝たって」
「そういうわけにはいかない。私は部屋代を払っているんだぞ」
「オレのベットに泊まれば、部屋代なんてタダにしてやる」
「別に部屋代を倹約する必要は無い。どうせ公費だし」
「仕事を無事終えてベッドで休む時、隣に暖かいぬくもりがあると心が休まるだろう?」
「そうだな、確かにそうだ」
「な、だろ?」
「だが、その相手があんたである必要は全然無い。それに、剣を抱いて寝た方が、あんたよりよほど暖かみがありそうだ」
 昔、散々泣かされたのだ。つれなく振ることで溜飲が下がった。
「ちぇっ、ヒドイな。・・・一応、言ってみただけだよ。
 いい女になったな、クリス。惜しいことした。・・・ほらよっ、鍵だ」
「よろしい、素直ないいコだ」
 鍵を受け取り、私は笑ってみせた。ナッシュは大袈裟に肩をすくめた。

 翌朝、ナッシュは新聞から顔も上げずに、フロントで私達を見送った。
「ありやとやした。またのおいでをお待ちしてますよ」
 誠意も何も無い接客態度だ。だがちらりと紙面から視線を上げ、こちらを見た。彼は、他の人間に気づかれずにウインクをするのがうまい。私は笑顔を返した。
『そうか。私は、いい男に惚れたんだ。目は高かった。それで良しとしよう』
 次に会ったら。どうなるだろう、私たちは。
 本当にそう思った。その時は。
『次』は無かった。
 ナッシュの消息を知ったのは、1年後。訃報だった。それも、死後10ケ月もたってからの。ナッシュはあの2カ月後に殺された。


< 2 >

 要人ならともかく、他国の騎士諸公の死亡報告など、一年に一度、一覧表で来るのがやっとだ。
 しかも、偽名。
 アルカイド、38歳。ルビーク出身。ハルモニア辺境警備所属。工作員。カレリアで任務中、死亡。
 私はブラス城の事務室で、実にお気軽にビスケットをくわえながらその書類に目を通していた。私は一度は読み飛ばし、途中で気づいてその欄を凝視した。
 ナッシュのことではないのか?
 かみ砕いて無理に口に入れたビスケットが水分を吸いすぎて、口の中をカラカラにした。ぼろぼろとカケラが無残に報告書に散らばる。
 ハルモニアのササライ殿に正式に問いあわせをすれば、正式に回答をくださることだろう。ただし、私の手元に届くまでに、3カ月はかかると思われた。
 幸いゼクセンは平和で事も無く、神は天にいた。つまらない事務仕事に追われて休暇を取りそびれていたが、5日ほど消化せねばならない分がある。
 確かめなければ、眠ることができそうになかった。

 翌日、夜も明けぬうちから馬を飛ばした。気が急いていたのだ。夕方にはカレリアに着いた。
 夢中だったので、何をどうすればいいのか考えていなかった。だいたい、私は何をしたかったのだろう。
 とにかく今夜の屋根を確保するために、あの宿を訪れた。
 受付にいたのは、50代くらいの男だった。接客業らしい愛想笑いが板についている。宿を予約した後、前任者について尋ねた。
「またですかい。・・・いやね、彼の死後、やたら女が訪ねて来るんでね。近隣の村中の若い女、全部にちょっかい出してたとしか思えねえ」
「・・・。」
 死んだのは、確かにナッシュのようだ。
「おいらは交代で雇われたんで、本人の人となりや事件のことは詳しく無いんでね。
 ちょっと待って。食堂のミーチェなら。彼女は3年ここに勤めているんで。ただ、そろそろ店も混んで来る時間だから、手短に願いますよ」
 フロントのおやじは、給仕の女を呼び止めてくれた。
「このお嬢さんが、アルカイドさんのことを聞きたいんだそうだ」
「いいよ。・・・あのおっさん、こんないいとこの嬢さんにまで手ぇ出してたのか」
 カレリアは傭兵の街。その食堂の給仕だ、きっぷのよさそうな年配の婦人だった。
「いや、私は、その・・・。単なる古い友人だ。
 まず、彼が私の知っているアルカイドかどうか確認したい。
 1年前にこの宿屋で受付の仕事をしていた。金髪碧眼の40歳位の男」
「ああ、そうさ。ハンサムなので、もう少し若く見えたけどね」
「伊達で銀縁メガネをかけていた?」
「ああ。伊達かどうかはしらないけど、時々かけてた。当たりが柔らかで口調も優しいし、私ら従業員には親切だったよ。でも、女にはだらしなくてよくトラブルを起こして逃げ回ってた。いつか女関係で刺されると思っていたがね」
「・・・殺されたのか?」
「発見されたのは、山道から外れた崖の下。目茶苦茶な死体だったが、服と髪で奴だと知れた。
 3日前、奴を訪ねて来た男がいた。そいつと出て行って、それっきりさ。致命傷は、『銃』って武器らしい。撃たれた後、足を滑らせたか、犯人が突き落としたそうだ」
 その時、どやどやと食堂に入って来た集団。騒がしさに、会話は中断された。
「客が増えた。もうそろそろいいかい?」
「ああ、ありがとう」
 私は彼女にチップを渡し、彼女の手を掌で握って感謝を伝えた。
 今入って来た客達の中に見覚えのある奴らがいた。ハルモニア辺境警備12小隊。
 オーバーな身振りで話に熱中するエース、何か文句を言っているらしいクイーン、大声で笑うジョーカー。ジャックの姿は無い。大将は、一番後ろに突っ立っていた。そう、また、彼だけが私に気づいた。
 早速酒を注文するのに夢中の仲間をそのままに、ゲドはテーブルにつかずに私の横に立った。
「久しぶりだな」
 まるで一月ぶりくらいの感じで、ぼそっと言った。にこりともしない。相変わらずの無愛想ぶりだ。6年ぶりだったが、彼の時間の感覚は普通の人と違うかもしれない。
「任務ってわけでも無さそうだが」
「どうも、あの男がこの街で死んだらしい。それを確認しに来た」
 私はそれだけ言った。『あの男』が誰かは説明しなかった。この街で『ナッシュ』という名前を出していいものかどうかわからなかった。
「・・・。そうか」
「知っていたのか」
「カレリアは傭兵隊の本部事務所がある。時々立ち寄るんだ」
 ゲドの『時々』が、どれくらいなのかも測りようもない。
「邪魔じゃなければ、ご一緒していいか? 飲まず食わずで馬を飛ばして来て、腹ぺこなのだが。外見はまだ若い娘なので、一人で酒を煽って食事するわけにもいかん」
「・・・。」
 ゲドは無言で私を見下ろした。目だけで笑うのはこの男の特徴だった。
「6年か。そうだな。大人になっていて当然か」
 あの頃、酒場で人の輪に入っていけないと落ち込んでいた私を覚えているようだった。
 初めて過ぎた年月に気づいたようにそう言うと、親指でテーブルを差して私を誘った。

「レディのプライベートな旅行だそうだ。ヤボな詮索はするなよ」
 ゲドの冗談は私にはわかりにくいのだが、みんなは爆笑していた。特にゲドが『レディ』って言葉を使ったのがツボだったらしい。が、とりあえず最初に釘を刺してくれたので、ここにいる理由は聞かれなかった。
 そして、驚くことに、12小隊は今夜で解散だと言う。
 ジャックとアイラは、一足早くカラヤクランで生活しているらしい。
「じじぃの歳を考えると、もうムリムリさ」
「何を言うか。わしはまだまだ元気じゃ。未熟なおまえを援護するのに疲れたんじゃ」
 ジョーカーは傭兵を引退し、故郷で酒場の親父にでも落ち着こうと思っているそうだ。
「オレもハルモニアで防具屋でもやるつもり」
 エースも傭兵を引退すると言った。
「あんたが釣り銭を間違えないように、あたしがよーく見張っといてやるよ。足し算引き算もあやしいんだから」
「よく言うよ、オレにずっと会計係を押しつけておいて」
 クイーンがソフトドリンクを飲んでいるので、体調でも悪いのかと思っていたが。
 だが、私はその疑問を口に出さなかった。あちらも私のプライベートに触れないと約束した。私が考えるような単純なハッピーエンドではないかもしれない。彼らも説明は面倒だろう。
 ゲドは、チシャ村へ立ち寄りサナ村長に挨拶した後、デュナン国へ行くと言う。
「次にチシャ村を訪れるとしたら、15、6年先の話だろうからな」
 サナ村長とも最後の別れになるかもしれず、それを覚悟しているような口ぶりだった。
「送別会に部外者が長居は無用だな。邪魔をして悪かった。食事も済んだし、私は退散するよ」
「うんにゃ。どうせここは食堂だから、早く閉まるんじゃ」
「そうそう。あたしらも早々に引き上げるつもりさ。いつもカレリアでは、傭兵宿舎で飲むんだ。酒瓶を各自で抱えてね」
 彼らは私に付き合って立ち上がった。
 店の出口で別れを惜しみ合った。エースが「ええと、ゼクセン式はこうだっけ?」と私を抱擁したので、「それはカラヤ式だ」とジョーカー達に非難轟々だった。エースは「このスケベ」とクイーンにぽかりと殴られていた。
 クイーンは小声で言った。
「一時、あたしはあんたに嫉妬したことがある。あんたとサナ村長は、大将にとって本当に特別な女らしい」
「クイーン・・・」
 それは、ワイアットと炎の英雄が、特別な存在だったということなのだろう。ワイアットの娘である私と、炎の英雄の妻だったサナ村長と。
 私も、あの無愛想なゲドがあまりにサナ村長に優しかったので、当時ゲドは彼女を密かに愛していたのでは?と思ったことがある。だが考えてみればその時のゲドはもう60歳を過ぎていたから、サナは娘みたいなものだったはず。クイーンのことも「孫か曾孫だ」と笑っていたくらいだ。
 私はもう30近いが、外見は20歳そこそこ。20歳の男を「若すぎる」と思い、25、6歳の女友達を妹のように感じる。だが世間は私を小娘として見る。その隔たりは、年々大きくなっていくことだろう。
 ゲドの精神年齢も、ごく普通に歳を重ねているはずだ。彼の外見が40歳くらいにしか見えなくても、枯れていて当然だし、仙人みたいに達観してる部分があるのも頷ける。
「今夜は、あんたも酒かっくらってさっさと寝るといい」
 ゲドはそれだけ言って宿舎に帰って行った。

 私はゲドに言われた通りにした。一日馬を走らせくたくただった私は、余計なことは考えずに、少しの酒で朝までぐっすりと眠れた。


< 3 >

 翌日は、カレリアの自警団事務所に、ナッシュの事件の書類を見せてもらいにでかけた。殺人事件であったなら、詳しい調書が残っているだろうと思った。
 書類によると、彼〔アルカイド〕を訪ねて来た人物が、重要参考人として手配はされていた。だがマントを目深に被ったよそ者のそいつの顔を誰も見ていない。男なのか女なのか、歳はどれくらいなのかもわからぬままだ。そいつに呼び出され、その夜にすぐ殺されたらしいが、死体が見つかったのは三日後。山道の獣道のそれは、狼や野犬に食い散らかされていたという。
 私は事務所で地図の写しをもらい、山道へ出かけた。ナッシュが撃たれた場所と、死体が見つかった場所を見ておかなければ気がすまなかった。
 印がついているのは、ルビークとの分岐点の少し手前。立ち止まって話せるくらいの広さがあった。彼はここで撃たれたらしい。
 足を踏み外したか突き飛ばされたかしたと言う足場は、きれいに柵がめぐらされていて、同じ事故が起こらないようになっていた。私は馬の手綱を道端の木に縛りつけ、周りに人がいないのを確認すると、柵を乗り越えて崖下へ降りた。
死体発見箇所は、この下10メートルくらいの場所だ。柵にロープを結びつけ、滑る泥に気をつけながら、急斜面を下った。途中で、口にくわえていた地図を取り、片手で確認した。ナッシュがいたのは獣道とぶつかるところ。もう少し下のようだ。
 こんなことをして、どうなるというのだろう。自分で自分をバカだと思った。何をしても死んだ人間は生き返らないのだし、なにせもう一年も経っているのだ。気も魂も匂いも、すべて消え去っているのはわかっているのに。何を探そうと言うのだ。
 これは、ナッシュの弔いでさえない。私の・・・勝手な、私の恋の葬式だった。
 草が踏み潰されて、平らになっている場所があった。上から落ちて死体が留まるとしたらここだろう。
 私は静かにそこに踏み降りた。ブーツに潰された草の汁の匂いがした。それに、陽が当たらないせいなのか、土も湿っていて滑るし、岩肌も苔でぬるぬるしている。むせかえるような苔臭さだ。
 ちゃちな雑草の花一輪咲いていなかった。
 こんなところで・・・。
『女を食い続けて、ついに自分の死体は食われて死ぬ、か』
 自虐的に呟いてみる。涙も出なかった。何の片鱗も無い。
 私は、粘土のようになっている土を踵で少し掘ると、護身用の短剣でわずかに前髪を切り、ぱらぱらとそこに埋めた。
 水分を含む土には、狼らしい足跡もいくつか残っていた。今もまさに獣道なのだろう。陽の高いうちに去った方がよさそうだった。

 ブーツを崖から出た岩の突起に引っかけ、ロープにかかる腕の力だけで昇って行った。しんどい作業ではある。だが、獣道から山道に出るルートがあるにしても、オオカミ男の死を悼みにきて本物の狼と遭遇するのは御免だった。
 柵が見えて、最後の数歩というところで、柵からすっと手が差し伸べられた。驚きで声が出そうになったが、見覚えのあるグローブだったので、信頼して手をあずけた。ぐいと強い力が、私を柵のところまで引き上げてくれた。
 あきれ果てた顔で、ゲドが立っていた。
「ありがとう。よくわかったな、私が降りていると」
「そこに馬があった。それに、こんなバカなこと、あんた以外にするか?」
 私は返事せず、首をかしげる振りをした。そしてパタパタと服の汚れをはたいた。
「サナ村長とは涙のお別れはすんだのか?」
「・・・泣かんよ、彼女は。そういう女じゃない」
「チシャ村に泊まるか、せいぜいルビークかと思っていた」
 ルビークの村は、虫達を使って旅人を運ぶ仕事で成功した。それまで遠回りしなければならなかったチシャとルビークなども最短距離で移動できるようになった。料金が安くないのと、空を飛ぶのが快適ではないのとで、使う人間は限られはしたのだが。
「・・・。」
 私を睨んでいるように見えた。私を心配して、カレリアまで足を伸ばしてくれたらしい。12小隊のメンツとは今朝宿舎で別れたのだろう。

 宿に戻り、風呂で泥を落として階下の食堂に行くと、ゲドはもう一人で飲んでいた。特に約束をしたわけではないが、別のテーブルに座るのも変なので、「いいか?」と断って座った。
「女の風呂は長いな」と笑った。もう勝手に私のグラスがおいてあって、ゲドは勝手に自分が頼んだボトルを握り、勝手に私のために注いだ。
「すまん、先に飲ってた」
 ゲドの好きな窓側の隅の席。彼は一人でグラスを揺らしながら、窓の外を見るのだ。
『・・・私に、この強い酒をいきなり飲めと言うのか?』
 ペロリと少しなめてみる。ビリッと刺激はあるが、両耳のうしろにふわりと広がる甘さがあった。
「飲めないことはないな」
「そういう言い方をするなら、やらんぞ」
 私は吹き出した。大将、あまり笑わせんでくれ。
「まだ、大将の薦める酒のうまさは、私にはわかりそうもない」
「・・・。そうか。まあ、初恋の男が死んだ時は、泣いていいんだ」
 ゲドは覚えていた。6年も前の本拠地でのやりとりを。
「そうなのか?」
「そうだ。オレだって、泣いたぞ。初恋の女が死んだと知った時には。声を出して泣いた。泣き明かした」
「・・・。大将が?」
 ゲドは笑っていたから、それは冗談なのかもしれなかったが。
「あの男に言いそびれた。言ってやりたいことがあったのに」
「なんだ? オレが代わりに聞いてやるぞ」
「謝罪を一つ、感謝を一つ。
 あんな旅では、誰が同行しても、私は惚れただろう。だから、『おまえのせいじゃない』とわびたかった。きっと嫌な顔をしたことだろうがな」
「ははは、『誰でもよかった』か、気の毒に。で、もう一つは?」
「あいつに惚れていなければ、ジンバを好きになっていたかもしれない。父と知るまで、心が揺れる理由がわからなかった。みっともないぞ、初恋が父親だったら」
「それは。オレもジンバ・・・ワイアットに代わって奴に礼を言わんと」
 それからは、気の毒なことに、死んだ男の悪口オンパレードだった。
 虫のルビに好かれて巣に連れて行かれた運の悪さを笑い物にされ、昔は長髪だったがハゲるといけないから切ったという噂や、油断ならない男は手が綺麗だという話や、手を出した女の亭主や恋人から逃げる為に街の裏道を熟知していることや。さんざん、あること無いこと言われ叩かれた。
 もちろん言うのは私一人だったが、ゲドの相槌も時々けっこう辛辣だった。ゲドにしては、かなり喋ってくれたのだと思う。

 食堂の閉店時間になり、ゲドは傭兵宿舎に戻って行った。宿舎にはデュークやニコルなど、顔見知りも数人残っているらしい。きっと飲み直すのだろう。
 食堂を出て、宿屋の親父に鍵を渡され、ふとあの時のことを思い出した。
「あれは騎士の私達の帰りが遅くて、さんざん待たされた嫌がらせだったのかもしれない」
 出口で「うん?」とゲドが振り返った。
「さっき話した、1年前の鍵の話さ。私をちょっとからかって、赤面させてオロオロさせて。私の反応を見て笑おうとしたんだ。意地悪な奴だった」
「いや・・・」と、ポツリと言った。
「奴は本気で誘ったと思う」
 ゲドがあまりに真顔で言うので、はからずも私は頬が熱くなった。唇を噛む。
「いいじゃないか。もう本当のことはわからない。奴はあんたを本気で誘った。そう思っておけばいい」
「ゲド・・・」
「まあ、あれだけ悪口を言ったんだ、化けて出られても知らんぞ」
「幽霊なんて、怖くない」
「そうか。頼もしいな。
 明日目が腫れていても、幽霊が怖くて眠れなかったという言い訳は使えんな」
「・・・。大将は意地悪だ」
「ははは。おやすみ」
 ゲドは、後ろ姿のまま手を振ってみせた。
 
 部屋に戻り、後ろ手にドアを閉めると、そのドアに背を貼り付けていたナッシュの姿が思い出された。
『クリス、お願いがある』
『普通ならこのままキスしてもいいんだが』
 ほんの目の前にあった、ナッシュのきれいなプルーアイ。
 軽口でからかっても、決して指一本触れようとはしなかった、用心深い男。
『幽霊でもいい。たった一度でいい。私を抱きしめて欲しかった』
 そういえば、まだ泣いていなかった。
 膝を抱えて。今夜は彼のことを想って泣いてあげよう。


< 4 >

 朝はゆっくりと宿を出た。帰路はゆるい下りだから馬も楽だ。
 ゲドに挨拶しに宿舎へ顔を出した。
 それに、デュナンに行くならビネ・デル・デクセから船だろう。途中まで一緒に行ける。徒歩より相乗りした方がずっと早く着く。
 傭兵宿舎は女性もいるが、私のような一見小娘が一人で人を訪ねることは珍しいらしく、容赦ない視線がたくさん飛んで来て、苦笑した。下品な口笛を吹く者さえいた。こういう扱いは、私の中身が40歳になっても80歳になっても、続くのだろう。何も知らずに、『おお、若い娘!』と、それだけで喜んで。野郎たちなんて、可愛いものだ。
 ゲドはもともと、寝ているのか起きているのかはっきりしない顔をしていると思う。大将にそんな失礼なことを言うのは私くらいかもしれないが、でも頷く者も多いはずだ。
 散々私を待たせて宿舎の入り口に現れたゲドは、髪に櫛も通していず顔も洗ってないだろうという趣だった。彼がいつもは櫛を通しているのかどうかも、疑問ではあるが。
「気を使ってだいぶ遅く来たつもりだが、起こして悪かったな」
「いや。来てくれてありがたい。あんたに話がある」
 ゲドは宿舎を出ると、紋章屋の建物の裏手にある階段に導いた。こんなところに上に上がる道があるのに驚いた。店屋の上は屋上になっていて、カレリアの商店街を一望できた。
 黄色い砂の舞う街。ターメリック色の石造りの建物たち。砂を防ぐ為だろう、白い布をかぶって暮らす現地の民。彼らは皮膚の色が濃い。すべてが、黄砂に入り込まれ、潜り込まれ、侵食されている。黄色い砂の街。
「オレがよく情報屋と接触した秘密の場所だ。そう誰かに話を聞かれることはない」
「・・・?」
 それは、これから、よほど極秘の話をしようということだろうか。
「昨夜は、だいぶたくさんの幽霊が出たようだが・・・」
 私ははっと腫れた瞼に手をやった。ゲドはニコリともせずに私をからかう。
「どれも本人の幽霊じゃないようだ」
・・・え?
 ゲドの言葉の意味が計れず、私はきょとんとして見つめ返した。
「死んでないみたいだからな」
 え? え? ・・・それは、ナッシュが生きているということか?
「昨日、宿舎の傭兵たちに聞いてまわった。首都のクリスタルバレーを行き来する奴らの中に、彼を見かけた者がいた。普通に、我々が知っているあの名前で生活していたそうだ。3カ月前のことだ」
「・・・。」
「事件の話を聞いた時からうさんくさいと思っていた。
 あいつは事件の半年前位にあの店にやってきた。そして『吼えたける声の組合』の暗殺者がやってきた。死体の顔は判別できなかったという。
 12小隊のみんなも、初めから死んだのはあいつではなく本物の『アルカイド』だと思っていたんだが。
 あんたが、あまりに頭から信じ込んで、悲しみに漬かっていたんで・・・。
 本当に死んでいる場合もありえるし、ぬか喜びさせてもいかんと思ってな。はっきりするまでその事には触れなかった」
 私は頬がかっと熱くなるのを感じた。
「ば・・・馬鹿ではないか、それでは、私は、まるっきりの」
 ナッシュの任務に関係ない私が、コロッと騙されて、必死に馬を飛ばしてカレリアまで飛んで来た。苦労して死体があったという場所にまで降りて行き、夜には泣いてまでやったのに!
 無表情だってゲドが、初めて唇の形を笑みに動かした。
「いいんじゃないか? 惚れたってことは、そういうことだろう」
 ぱん、と父親が息子にするように、私の肩を強く叩いた。
「だが、悔しい! ・・・悔しい! とことんアイツには食わされた!」
「ははは。今度逢った時にはあんたが翻弄してやればいいさ。まあ、たぶん・・・」
 ゲドはそこで言葉を切った。
「その時には、そんなことなど、もうどうでもよくなっているだろうがな」
 
 私の馬に同乗しないかという申し出を、ゲドは「いや、いい」とそっけなく断った。
「オレはのんびり行くさ。それに、途中カラヤクランにも寄るつもりでいる。鉄頭と一緒に行くわけにはいかんだろう」
「カラヤの村に。そうか。ヒューゴによろしく伝えてくれ」
 ゼクセンはカラヤクラン復興の資金援助はしたが、私はあれ以来ヒューゴ達とは会っていない。もちろん村にも足を踏み入れてない。
 敵ではないこと、同じ人間同志であること。分かり合えたことは、まだそれだけだ。ゼクセン人とカラヤの民族とが自然に交流できるようになるには、まだまだ時間が要りそうだった。カラヤの民の多くは相変わらずゼクセン人を『鉄頭』と忌み嫌い、援助の件も恥じてさえいるようだ。ゼクセンの司令官が、たとえプライベートでもふらりと立ち寄れる空気はまだ無い。
 だが、幸い、私にもヒューゴにも時間はたっぷりある。あの時闘った若い戦士たちも親になりつつある。子供の世代に文化を交流させることから、少しずつ始めることにしていた。
「幽霊になりそこなった男のおかげで、最後に大将の顔を拝めた。感謝せんといかんのかな」
 私の言葉にゲドは笑ったようだった。

* * * * * * * * * * * *

「実家に帰っていたのだろう? 休暇じゃないのか」
 紅茶のカップを置いて、ゲドが言った。思った通り、紅茶は好きでは無さそうだった。
「まあ、そうなんだが。貧乏性でな。つい仕事場に顔を出して、みんなに嫌がられてる」
「あんたのは若さでなく、そういう性分なのだろうな」
 だいたい、もう若くもなかった。
「紅茶じゃ、話もできんな」
 と言っても、今日は酒場は船で上がってきた傭兵でいっぱいだろう。
「ゼクセンの司令官殿が傭兵とサシで呑んでいたら、変な目で見られるぞ」
「そんなのは構わんが・・・。サロメやロランに見つかったらうるさい。私が酒場で呑むことを禁止している。私はゼクセンの象徴、『聖なる乙女騎士』なのだから、民の目に触れるところで酒を飲み交わすなと言うのだ。ふざけるな、30過ぎて聖なる乙女騎士でいてたまるか。
 まあ、この前傭兵とやりあったばかりなので、少しおとなしくする約束はしたのだが」
「喧嘩か」
「いや。私の顔を知らなかったらしくて。しつこく誘って来たので辛辣に振った。男が剣を抜いて暴れただけだよ。私はひたすら避けただけで剣も抜かなかった。だが、しばらくは酒場は出入り禁止だ」
「・・・美人は苦労が多いな」
「大将にそう言われて光栄だよ。・・・たいした酒は無いが、まだ封を開けずにあんたがくれたボトルもある。うちへ来るか?」

 実家の居間のソファに座ると、ゲドはすぐに肖像画に気づいて、見入っていた。母が20歳の時に描いてもらったものだという。同じなのは銀の淡い髪と白い肌だけで、私とは似ても似つかぬ楚々とした美人だ。女の私が見ても、女らしくて色っぽいと思う。
 この家は母の家だった。ワイアットは入り婿だったらしい。そして、当然だが、父の肖像画は、一枚も残っていない。
「母上か。似てるな」
「世辞を言うな」と私は苦笑して、テーブルにボトルを置いた。
 そういえば、ゲドは結婚はしなかったのだろうか。紋章を宿したのは40歳くらいなのだと思う。それまでは普通に生活していた男かもしれない。ゲドは過去の話は全くしないし、ゲドの過去を覚えている奴はもう生きている年齢ではない。
 親友の娘。だがゲドは私を『親友の息子』のように扱う。私が騎士のせいかもしれないし、女っぽくないからかもしれないが。しかし、彼には息子がいたんじゃないかと思う時がある。
 妻がいたとしても、息子がいたとしても。息子でさえ、もう生存している歳ではないだろうが・・・。
 そして私は、父のことは殆ど覚えていない。大きな背中と低い声。短く刈り上げた髪。想い出にあるのは、仕事に出かける後ろ姿だけだ。
 まだ青年と言えそうだったジンバが『父親』だという実感はない。ただ、彼の孤独な人生の中で、クリスという娘の存在が救いだったことを知り、私は自分が生まれて来たこと、生きていることに感謝した。
 私が短髪にしたのは、不老で顔が変わらないならせめて髪だけでもという思いが大きかったが、父の面影も心にあったと思う。今、父と同じような歳になり、同じ軍服を着て仕事に出かけて行く自分。
「まあ、どちらかと言うと、父親似か」
 ゲドに訂正されなくても気づいていた。気難しそうな眉の感じ。気の強そうな瞳。負けず嫌いを形にしたような唇。確かに私はジンバに似ている。
「あいつらは、強い男だった。オレにはできなかった、ひとところに落ち着くなどということ」
 ジンバと炎の英雄のことを言っているんだろう。
「怖かった。景色が・・・。街が、溶けて崩れ落ちていく感じがするんだ。目の前で、建物の壁や街路樹が朽ちて倒れていく。友人が、知人が、みるみる老いて痩せ細り縮んでいく」
「大将・・・」
 ゲドは苦笑した。私の戦慄の表情を見て、首を横に振る。
「今でも、街が溶けて崩れていく感覚はある。傭兵であちこち行く暮らしは気が楽だ。オレは弱い男なのだろうな、たぶん」

 一本目のボトルが空になり、私は、棚から自分のアイリッシュ・ウイスキーと、10年前にゲドにもらったバーボンのボトルを取り出した。
「いや、それはあんたにあげたんだ。オレが開けたら意味がない。オレがこっちをいただく」
 ゲドはアイリッシュ・ウイスキーの方を掴み、自分のグラスに勝手に注いでいた。
「今夜はあんたがそれを飲ればいい」
「しかし・・・」
『この味がわかるようになった頃には、惚れた男のことなんぞで泣くこともなくなる』
 10年前にこれをくれた時のゲドの言葉だった。
「封を開ければ、覚悟も決まるぞ」
 そしてゲドはまだそのことを覚えていた。
「・・・。いや、やめておこう」
 私は、ゲドが握ったボトルに向けてグラスを傾け、そっちを催促した。
「女が、惚れた男のことで泣く楽しみが無くなったら、寂しいかもしれん」
「そうか」
 ゲドはにこりともせず、ゆっくりと私のグラスに酒を注いだ。透明だが濁りのあるそれはグラスの中でゆるい流れを作って、光を包み込んだ。
「うらやましいな。男には酒しか楽しみがない」
 そして、いとおしむように、低いグラスに唇を触れた。愛想無しのくせに、情の深そうな厚い唇だった。
 10年後か、50年後か。
 私はこの男に惚れるかもしれない。そんな予感がした。
 今ではない。そう、50年後くらいに。私がもう少し大人になってから。
 
 ナッシュは今は40代後半になっているはずだ。相応に老けて、ハンサムな分少し若く見えて。あいかわらず調子のいいセリフを吐いて、女を追いかけまわしているんだろうか。
 きっと、気づかぬうちに、彼が生きているのかどうかわからないほどの年齢になっているのかもしれない。生死など確かめようもないほど、遠くへ。遥か彼方の人となって。

 もう二度と会いたくないのか、それとも再会したいのか。考えあぐね、私はグラスの液体を喉に流し込んだ。するりと口当たりのいい酒が胃に落ちていく。
「そろそろ、よせ。あまり強くないんだろう」
 大将は私からグラスを取り上げる。
「部屋は2階か? ほら、肩を貸すぞ」
 酔いが回っているのか。見慣れた手すりが違って見えた。今朝まで焦げ茶の木目だった手すりが、金属の柵に合わせた唐草を形どっていた。
 壁紙の色も違う。淡いクリーム色だった地模様。それが深い緑に代わっている。
 肩を貸す大将を振り向くと、見慣れた愛想の無い顔。相変わらず何を考えているのかわからない表情。
 自分の髪をかきあげようと耳の後ろに指を入れる。するりと抜けて、私の髪がショートになっていたことを思い出す。
「ほら、しっかり昇ってくれ」
 いつもと同じ大将の声。だが少し苦笑が混じっている。息が前髪を揺らした。既視感が襲う。
『これは、過去? 今? 未来?』
 幽霊になったナッシュは透明な手で私の手首をつかみ、「行くな」と囁く。
『連れないなぁ。オレの誘いには乗ってくれなかったくせに』
『相手にされないぞ。くすぐったそうに視線を落として困ったように笑って、それでオシマイさ』
 私はその手を柔らかく振り払った。
 慣れた自分の部屋の扉が見えて、私は大将を振り仰ぐ。
「なんだ?」
「うん・・・」
 私は言葉を探しながら、幸せな夢を見る。辿り着く言葉はわかっているのに。
「なんだ?」
 ゲドはまた尋ねる。
 私は、夢を反芻した後、しずかに現実に心を滑り込ませた。
「達者でいような。また一緒に飲んでくれ」
「ああ。そうだな」
 私より92歳年上のその男は、ゆっくりと頷いた。周りの世界は砂時計の砂のように落ちていく。壁は崩れ塗料ははげ落ち、友はみな死んで行くのだろう。
 私たちは、変わらない。私たちは、落ちる砂を見つめ続ける。
「短い髪も、似合うぞ」
 表情を変えずに、ゲドがぽつりと言った。


   ☆ END ☆   


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ラブストーリーとか期待した人、すみません(笑)。
一番書きたかったのは、クリスの女としての変化。
それから、それを『息子を見るように』見守る、父の親友の酒好きじじい。
あまりに地味くさい話になりそうだったので、回想シーンなどでナッシュをいっぱい出しときました。
彼が出ると話が華やかになるし、色っぽくなる。助かります。
何が女の幸せかは、色々意見の別れるところですが。
今の日本の多数決でいくと、クリス、どんどん『女の幸せ』から離れてきているようです(笑)。


 

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