さらば 愛しの熊オトコ

<6・完結>

☆ ☆ ☆

「ちょっとねえさん! いつまでグークー眠ってるのよ。あたし、いい加減帰るよ!」
 ぱこんと頭に軽い痛みを覚え、ジャンヌは片目をあけた。ロザリーがベッドの前に仁王立ちしているのが、ぼんやりと見えた。
「ロザリー、一応ジャンヌは病み上がり・・・」
 ビクトールの制止も聞かず彼女はまくしたてた。
「店を犠牲にして来てやれば、貧血のあたしから血は取るは看病させるは。もう命に別状はないっていうのに、無邪気な顔してずっと寝てるし。頭にきちゃうわよ」
「ロザリー・・・。
 そうか、あたしは死ななかったのか。助かったんだ・・・」
「なに大ボケ言ってるのよ。医者が太鼓判押してからもう二日もたってるわよ。
 それに一番アタマくるのは、ねえさん、かあさんに会ったこと、あたしに黙っている気だったでしょう?  なにさ、自分だけかあさんに会っちゃってさっ!」
「ロザリーは・・・」
 眠り過ぎて朦朧とした頭では、ロザリーの早いテンポに付いていくのは厄介だった。瞼を何度かしばたかせ、光に慣れようと試みた。
 回りをゆっくりと眺める。
フリック、ボブ。片肌脱いで右肩を包帯でぐるぐる巻きにされたキニスンまでが、心配そうに覗き込ん でいた。シェラもソファに座ってこっちを見ていた。壁に寄りかかったビクトールの姿も見えた。
 脳味噌をきゅっと絞って、意識を集中させた。
 血が足りなくてどうのと言っていたっけ。それで双子のロザリーが呼ばれたのだろう。
「ま、もうあたしもかあさんには会えたからいいけどね。
 ドレスやネックレス、たくさんもらっちゃった。いつここへ来てもタダで泊めてくれる って、しかも一番いい部屋に!」
 ロザリーは、会いたかったのか、母に。恨んでいなかったのか。
 いや、振り下ろしたナイフの意味を、きちんと把握していたのに違いない。
 自分が、信じられなかっただけなんだ、母親の愛情を。
 そんなことだったのか。自分が長い間いだいていたこだわり。憎まれ疎まれたのだという頬の傷の痛みは。
「意識も戻ったし、あたしは店をそうそう閉めてもいられないから、ほんとに帰るからね。
みんなも、あの大きい鳥?、フェザーっていうの?、あれに乗って一緒に帰っちゃうんだけど、かあさんがいるから平気だよね。あ、ビクトールさんも一応残ってくれるって」
「一応、な」
 やっとビクトールが口を挟んだ。彼は、すまなそうな情け無さそうな顔をして、「怒ってるか?」と、ジャ ンヌに訊ねた。
「・・・?」
「あれは、ジョークだよ、ジョーク。うちの砦は、戦死したらきちんと埋葬してやるから安心しろ。遺品も、 遺族に渡すか処分するかだから」
「・・・貧弱な裸体で悪かったな。見たこともないくせに」
「やっぱり根にもってたか」

 先に砦へ帰る者たちとも、次々に挨拶を交わした。ビクトールはベッドに近寄るみんなに、「疲れさせ るなよ」と念を押していた。
「砦に帰っても遊ぼうな」ボブは陽気にウインクして親指を立てた。キニスンはにこやかに「お大事に」と言って自由になる左手で軽く手を振った。自分もひどい怪我をしたのに、ジャンヌを気づかって穏やかに微笑んでいる。  自分に興味などないだろうと思っていたシェラまでもが、「わらわが、脚の爪の毒のことにまで気が回らず、すまないことをした」 と、ジャンヌの手を取った。
 フリックは、「オレが残りたいところだが、今回はビクトールに譲ろう」 と優雅な笑顔を見せた。そしてジャンヌの耳元に近づくと、小声で、「砦に戻れば邪魔がたくさん入る。 いっぱいビクトールに甘えておくんだな」と囁いた。
「ご助言、感謝する」
 ジャンヌは笑みを返した。フリックはベッドの脇にひざまずくと、ジャンヌの手を取った。そして、手の甲に、騎士が姫にほどこす口づけをした。
「あーっ!」
「こいつーっ」
「キザな男よのう」
 外野の騒ぎを無視して、フリックは何事もなかったように立ち上がった。
 ジャンヌは上がけをすっぽり被りたいほど恥ずかしかった。  こんな風な扱いをしてくれた男性は初めてに決まっている。フリックの唇が触れた手の甲が、ぽっぽと燃えるように熱い。
 ちらりとビクトールの横顔を盗むと、腕組みして壁に寄りかかったままだった。  目があった。笑っている。
 ジャンヌは動揺して、よっぽど情けない顔をしていたのかもしれない。

 ロザリー達が帰った後、ビクトールが残ってくれなければ、母親とどう接したらいいかわからなくてジャンヌは困惑しただろう。
ベッドに起き上がれるまでに回復したジャンヌは、ビクトールが運んでくれた夕食を食べていた。チーズの入った粥は、空腹も手伝ってうまかった。
「おかわり、なさいます?」
水差しを抱えて部屋に入ってきたおかみは、娘相手に敬語で訊ねた。
すがるようにビクトールを見上げる。彼は笑みを含んだ目で合図した。何か言うことはないのか、と。 「…お願い、します」
空の器をあずける時、指が触れた。
「あ、あの。・・・ ありがとうございました」
ジャンヌがぺこりと頭を下げると、
「いいのよ、いくらでも食べて下さいね」
おかみは目を細めて微笑んだ。
「…すみませんでした」
頷いて、「気にしないで」
おかみが部屋を出ていと、ビクトールがジャンヌの頭に手を置いた。
「礼も詫びもちゃんと言えたじゃねえか」
「今ので、通じてたのか?」
「通じてたよ。オレにさえわかったんだ、大丈夫だって」
そしてからからと笑った。
「おまえの体力が戻るまで、何日かいさせてもらえることになってる。安心して養生しろよ。どっちみちフェザーが行って帰って来るのに数日かかるしな」
食後に部屋にトレイを下げに来たのは、おかみだった。ジャンヌはちょっと戸惑ったが「ごちそうさまでした」と声をかけた。
「全部食べてくれてありがとう。食欲があるのはいいことだわ。すぐに回復しそうね」
おかみの言葉から敬語が消えていた。
「おいしかったから…」小声で、ジャンヌが照れくさそうに言うと、おかみは微笑んだ。
年月を経た感はあるが、懐かしい暖かい笑顔だった。 あまくて優しい香りは、あの頃のままだ。
「香水。昔とおなじやつだ」
「…。ええ」
おかみは頷いた。
五年の時間が無かったことのように消え失せていた。小さい少女のような甘えた気持ちになった。 バニラの匂いの食卓や、シャボンの匂いのかあさんのエプロン。繋いだ手のぬくもり。
でも、もう時が戻らないことも、二人の頬の傷が教えていた。
「そうね…。ロザリーには話したから、あなたにも直接言わないとね」
母が急に厳しい真面目な表情に変った。
「…?」
「あなた達のお父さまのこと」
「…! 今さら、別に…」
「で、済まされることではないわ。そんな相手ではないのよ、レオン・シルバーバーグ侯は」
「レオン・シルバーバーグ?」
オデッサの叔父で、継承戦争の際に国王軍を動かした軍師。解放戦争では国王を裏切って解放軍に付き、そこで勝敗が決まったほどの力の有る軍人。二年前のハイランド王国との戦いで戦死したと きいているが。
「あんな有名な男が、あたしの父親なのか?」
母親はゆっくりと頷いた。
「あなたはあなたとして生きてほしい。でも、父親の血が枷になることがあったら、かあさんを許して…」
「そんな。第一、急に言われても実感がわかない」
母は「そうね。そうよね」と再び深く首を垂れた。「でも、私が許しを乞うたわけが、きっといつかわか るわ」そう言うと、静かに部屋を出ていった。

廊下にビクトールが立っていた。ぺこりとおかみに頭を下げた。
「レオンと闘ったことがおありなのね?」
「敵となったことも、味方として一緒に闘ったことも」
「そう」
「オレは、二年前の戦争で、レオン殿を」
「誰が殺したのでも、そんなことは関係ないわ。戦争だったのですもの。彼は彼なりに納得して闘ったのだろうし」
「ご立派な最期でした」
「…おやすみなさい。ジャンヌをよろしくね」

☆ ☆ ☆

普段から鍛えているジャンヌの、回復は早かった。翌日には起きてストレッチをしていたし、昼食を食べに食堂へ降りてきた。二日後には練習着を着て庭で練習を始めた。
夕方にはフェザーも到着したので、明日帰ることになった。
「最後だし、少し飲みに行こうか。もうだいぶ良くなったみたいだしな」
「よおし。飲むぞぉ」
ビクトールの誘いに二つ返事で乗った。宿の食堂には軽いワインくらいしかないし、酒場のように酒ばかり飲むってわけにはいかない。母親の目もある。
「あら、お出かけなの?」
宿を出ようとして声をかけられた。母親とはすごいものだ。悪いことをする時にはめざとく見つけるのだ。
「ジャンヌをお借りします。軽く快気祝いを」
「ビクトールさんとご一緒? ジャンヌにあげようと思っていたものがあるの。今日着ていったらどう?」 母親が引っ張り出してきたのは、目も醒めもような鮮やかな青い色のドレスだった。
「…。これ、あたいが着るの?」勘弁してくれよー。目で助けを求めると、ビクトールは笑いをかみ殺している。
「だいたい、どこにどう手を通していいもんやら」
服をいじって覗きこむジャンヌに、
「あら、私が着せてあげますよ。お化粧もしてさしあげるわ」と、おかみはにっこり笑った。
ビクトールが肘でこずいた。
『親孝行だと思って、させてやれよ。きっとしてやりたいんだから』
『……。』
『それに、オレもちょっと見たいぞ、ジャンヌの女装』
「女装だとーっ!」
ビクトールはひょいとジャンヌの鉄槌をかわした。最近は慣れたものである。
「くそ、覚えてろ」
ジャンヌはおかみに引っ張られて店の中に消えて行った。

「では、初めての女装に乾杯」
ビクトールは面白がって、ジョッキを掲げた。ジャンヌはふてくされて一気に飲み干す。
「いいんだ。似合わないのはわかってたんだから」
ビクトールが好きそうな、にぎやかで雑然とした店だった。砦にある『レオナの酒場』に似ていた。材木の廃材を使ったような内装で、丸い大きなテーブルには大皿料理が並ぶ。酒は大ジョッキで運ばれ、お客はがなり立てながら食べたり飲んだりを楽しんでいた。
ふだんはジャンヌもこういう店の方が落ち着くのだが、化粧してドレスを纏った女にはちと居心地が悪い。
「似合わないとは言ってないだろ。ただ、キニスンが着た方が、まだもうちっと色っぽいだろうって…」
「よけい悪いっ!」
ジャンヌは手近にあった硬焼きのパンを投げつけた。それはビクトールの鼻に命中した。
「いてて…」
こんなごつい体型で、女性の着るドレスが似合うわけはないんだ。おまけにハイヒールというやつが極限の歩きにくさだ。こんなの履いて、どうやって追い蹴りや回し蹴りができる?
「でもおかみは涙ぐんで喜んでいたんだし、よかったじゃないか」
「あたいだって泣きたいよっ。こんな服、早く脱ぎたいっ!」
「おう、それならいくらでも協力するぜ。脱がせるのは大好きなんだ」
またパンが飛んできた。「おっと」今度はうまく手で受け止めた。
「だが、その青い色のドレスも、不透明のブルーの耳飾りも、おかみのお古じゃない。おかみの髪も目も茶だからな。黒髪で漆黒の瞳の二人の娘の為に、以前から用意していたものだろうよ。一生会えるかどうかもわからない二人の為に、な」
「……。」
「ま、サイズやデザインは、な。片方がこんなに育ってるとは思ってもみなかっただろうし」
「ふんっ」
荒っぽい造りの屋根が、雨音を直に伝えた。
窓ガラスに水滴がぶつかり、やがて線になって流れ始めた。
「雨だ。腰すえて飲めよってことかな」
窓に描かれ出した模様を見て、ビクトールがつぶやいた。
「レオン・シルバーバーグを…。あたいの父を知ってる口ぶりだったね?」
「オレが止めを刺したんだ」
「そう…。あたいは会ったこともないからピンとこないけど」
「そんなこと、言ってられなくなるぞ。レオン侯には実子はいなかったし、弟君は若く亡くなっている。その息子のマッシュも門の紋章戦争での傷が元で死んだ。妹のオデッサは家を捨てている。 シルバーバーグ家では、血縁者を必死に探しているところだろうさ」
「……。」
「オレは金で雇われて解放軍にいたから、オデッサやフリックのように志で闘っていたわけではない。 どうすれば国がよくなるかなんて、難しいことは今でもわからない。
 ただ、レオン侯は確かに、すばらしく頭の切れる人物だった。  共和制が敷かれた今でも、軍の頭脳として彼の弟子たちが活躍している。ただし、血縁の後継者がいない」
「たかが侍女に産ませた娘の、あたしにも関係してくるっていうのか?」
「今、侯爵家では、血縁者を必死に探しているところだろうさ。彼の二十年近く前のロマンスにしたっ て、覚えている側近がいないわけじゃないだろう。
 それに、これは、『たぶん』だけれど。おかみに確かめたわけじゃないからな。
 あの宿屋は、たった五年で女ひとりで築いたにしては立派すぎないか?
 オレはシルバーバーグ家から資金援助が出ていると思うぞ。ジャンヌがここを訪れたことで、チェ ックが入って当然だ」
「……。」
「ある朝、オレんとこの砦の前に、見た事もないような豪華な馬車が止まるんだ。そこから正装した執事だか弁護士だかが降りて来る。
『ジャンヌ様はこちらにいらっしゃるかな』
…そしておまえは出て行くんだ」
「いやだっ! あたいは出ていかないっ。シルバーバーグなんて知らない。ビクトールのそばにいる! あの砦でみんなと気楽に暮らすんだ」
「マッシュもレオンも一流の軍師だった。オデッサも戦略家だったな。国を動かす頭脳だよ。 軍隊は手足に過ぎん。そしてオレやフリックなんざ、爪くらいのもんだな」
「爪だって、手足だって、必要なものじゃないか」
「だがアタマの方がもっと必要だろ。おまえはそれになるんだよ。一流の教育を受けて、いろんな事を学んで、な」
「……。」
「オレら傭兵は、所詮人殺しに過ぎん。何の罪も無い兵士を、主義主張の違う相手に与しているという理由だけで斬り殺す。違う相手から給金が出ているって理由だけで殺すんだぜ。正義なんて、そこにはない」
「…ビクトール」
「頭脳はな、いいか、戦略によって被害を数百人数千人減らすことだってできる。味方だけじゃない、 敵の死者もだ。戦争を回避することさえできるんだ。
家柄がいいから勧めているわけじゃない。おまえがそこの頭脳になる意義があると思うから言うんだ。そうじゃなきゃ。砦に・・・ずっと・・・・・・いてほしいに決まってる」
最後の言葉を言うと、ビクトールは残りの酒をぐいと飲み干した。ジャンヌは顔を上げることができなかった。その言葉はさよならと同じだった。この男に涙など見せたくなかった。
「さ、行くか。小降りになったみたいだ」

店の前はぬかるみが出来て、泥をこねくりまわしたような靴跡がたくさんくっついていた。「綺麗な靴が汚れちまうな」と、ビクトールはひょいとジャンヌを抱え上げた。
「おい、降ろせよ。いいよ、靴なんて」
「何言ってるんだ、おふくろさんからいただいた、大切な靴だろ」
ビクトールは小雨の中、自分の靴とズボンは泥まみれになりながら走り抜けた。いつも思うのだ、この男はなんでこんな風に走れるんだろう、と。
雨の線が斜めになって、横を通り抜けていく。銀のような青いような雨の線。あの恐ろしい狼の美しい毛並みのような雨。
「ちょっとひと休み」
ビクトールは言って、閉じた店の軒先にジャンヌを降ろした。
「また降ってきたかな。少し待つか」
「銀毛狼の毛みたいな雨だな」
思ったことをそのまま口にすると、「ほんとだ。綺麗なもんだ」と彼も雨を見上げた。
彼も、あの妖獣を美しいと思いながら闘っていたのだろうか。
「雨になるなら、普段着で来ればよかった」
『いいのじゃよ、こいつはおぬしを抱きかかえて走る係なんじゃから』
からからと星辰剣が笑った。 「えっ?」
「なんだよジジイ、その『係』ってのは!」
『荷車や馬だとでも思えばいい。ただしすけべな荷車だがな。抱えるたびに「ジャンヌはけっこうグラマ ーだな」と鼻の下伸ばしておるわい。おぬしはこの阿呆をよい方に誤解しすぎておるぞ』
「黙れ黙れ黙れっ!」
「……。」
ジャンヌの方があきれて黙ってしまった。
『この阿呆は、自分が惚れた女はみんな死んでしまうんだと堅く信じておるんじゃな。自分が特別な存在だとでも自惚れているんじゃろうよ、で、もう女には惚れないと勝手に決めている』
「うるさーいっ!」
『おぬしが毒で倒れた時、ベッドの横で祈っておったわ、「オレはジャンヌに惚れてなんかいません、絶対好きじゃありません、だから連れていかないでください」。まるで子供じゃ』
「ば、馬鹿やろう!」
ビクトールは鞘に手をかけた。雨の中へ放り出す心づもりだ。
『なにをする! 錆びても知らんぞ』
「錆びるもんか、風の洞窟で三年も雨ざらしで平気だったんだ。ふんっ!」
渾身の力で刀を放り投げた。星辰剣は雨の中を放物線を描いて飛んで行った。
『一生自分からは言えんくせ…に…』声も次第に遠くなっていく。
「ビクトール・・・」
「気にするな、じじいの戯れ言だ」
「……。」
「雨、降ってるな」
「……。」
「何か喋れ」
「……。」
雨音が言葉より雄弁に想いを語った。二人とも黙ってつっ立って、暗い空から落ちて来る白く細い線を眺めていた。
「…さっき、星辰剣が言ってたこと…」
「…バレちまったもんはしょうがないか」 ビクトールはジャンヌを抱きしめようと、腕を肩にかけた。
「…!」
ジャンヌの裏拳正面打ちが頬に入った。
「痛っ!」
まともに顔にくらったビクトールは、手を頬に当てた。
「あ。すまない、当てるつもりじゃ。 柔道か何かの組み技をしかけてきたろ。だから、つい…」
「……。」
ビクトールは、手を自分の頬からジャンヌの肩へ置き換えて、もう一方の腕をジャンヌの背中に回した。
「これが技に見えるのか」
「…?」
「抱きしめたつもりだったんだが」
「えっ?」
「…。もういい」
ビクトールは腕をほどいた。あれはビクトールの一世一代の意思表示だった。
「気にしなくていい。どうせもてるタイプじゃあない。慣れてる。根にもったりしないから大丈夫だ」
ビクトールはくるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと待てよ」
勝手に決めないでくれよ。
「あたしは・・・初めて会った、海賊の話のところから、あんたが好きだよ」
「いい。気を使うな」
気をつかうなって…。
『あんたが好きだよ』って言ったのに、『気を使うな』っていうのはなんだよ、『気を使うな』とは!
「あたしは、ビクトールのこと、好きだよ」
「無理しなくていい」
むっかーっ! 人が好きだって言ってるんだよっ!
「無理だとーっ!」
「うわっ」
ビクトールが前蹴りを交わしたのは、奇跡と言ってよかった。しかし続けて体を回しての猿臂(肘打ち)を入れて来た。しゃがんで両の掌で受けたが、それでも後ろへ飛ばされ建物の壁に背中を打った。
「なんで信じないんだーっ!」
さらに蹴りを入れようと踏み込みをするジャンヌに、ビクトールは思わず叫んだ。
「わかった! 信じる! 信じますっ」
ジャンヌは構えを解いて、肩を落とした。 壁に寄りかかって座ったままのビクトールは、「しょうがねえ なあ」と、長い息を吐いた。
「わかったよ。…わかってるってば。悪かった」
そして笑って立ち上がった。
「ずっとお前の事が気になって仕方なかったんだ。なんであんなに頑ななんだろう。なんて愛想のないヤツなんだろう、って。でも、なんとなく放っておけなくて。
気づくとおまえのことを考えていた。なんでおまえのことを考えているんだろうって不思議で、それでまた気になって」
「ビクトール…」
「でも、おまえさんはシルバーバーク家のご令嬢の身だからな。だから、この話はこの場所だけでおしまいだ」
「どうして? あたいの家系なんて、関係ないじゃないか」
「おまえのそばでうろうろしてたら、関係者に殺されちまうよ。オレはレオン侯を殺した男なんだぜ。
いや、そうじゃない。恥ずかしいからかもしれん。思想や信念があったわけじゃない。報酬を貰うために…金で雇われた戦争の為に、オレはあんな有能な男を殺したんだ。『風来坊のビクトール』なんて、 ムシのいい通り名さ。責任を取れない、ずるい奴のね」
「……。」
「だから、これでおしまい、だ」
そしてビクトールはジャンヌの肩を抱いて、歯がかちりと鳴るような不器用な口づけをした。初めての抱擁で…たぶん最後の…。
「行くぞ」
ビクトールはジャンヌを抱えると、再び雨の中に飛び出した。走りながら言った。『おまえは死ぬなよ』、と。

『迎えに来るのは朝かと思っておったぞ。ジャンヌと二人きりで過ごさなくていいのか』
宿にジャンヌを届けた後、星辰剣を拾いに来たビクトールに、彼はそう軽口を叩いた。
「じじいが風邪引いて、肺炎でも起こすと可哀相だと思ったんだよ」
『嘘をつくな、嘘を。宿で一人でいられなくなったんじゃろう』
「…。くそお! おまえはホントにヤな野郎だなっ」
『飲み屋にでも行くか、それとも部屋に戻って一人で飲むのか? どちらにせよ、付き合ってやらんでもないが』
「もう一軒行くか」
ビクトールは鞘を腰に納めると、雨の中に消えた。

翌朝、何度もおかみに礼を言って、二人はフェザーで飛び立った。風邪を引いたビクトールは、空でもさかんにくしゃみをしていた。
『馬鹿は風邪ひかんというが、例外もいるらしいのう』
「うるせいっ。ふぁぁぁくしょーん」
コーアンの建物も道も木もどんどん遠ざかり、過去のものとなっていく。風が頬や髪を心地よくくすぐ り、フェザーが飛んで行くのは未来なのだという確かな実感があった。
「なあ、ビクトールは今の傭兵生活に正義は無いと言ったな? 昨夜の口ぶりでは『勝った方が正義』 とも思っていないようだ。
おまえにとって、正義とはなんだ?」
真顔で訊ねるジャンヌの、鼻の頭を軽く摘んだビクトール。
「いたた、何すんだよっ」
「…人の死ぬ数が最小限なこと」
彼はぽつんとそれだけ答えた。

夕方には懐かしい砦に着いた。門を入るなりビクトールは『隊長』の顔になった。ジャンヌの一歩前を歩く。
「おかえりなさい、隊長、ジャンヌ」
「ご苦労」と、受付のエミリアに声をかけると、ビクトールは舎屋へ向かった。
「ジャンヌは部屋に戻って休んでいいぞ」
ぺこりと頭を下げて、ジャンヌは退いた。なんだか、へんな感じだ。コーアンの村へ行くまで、どんな風にビクトールと接していたのかわからなくなってしまった。あの村でいろんなことがありすぎた。母に会ったり、銀毛狼と闘って死にかけたり、父のことを聞いたり…。雨の中で抱きしめられたり。
気持ちを切り換えないといけない。浮ついた気持ちは捨てないと。ここは戦う者たちの砦なのだから。
部屋をノックしたが、答えはなかった。ワカバはたいてい部屋にいる。遊びに出ているのは珍しい。
「…?」
部屋に入ると、半分はもぬけの空になっていた。ジャンヌのベッドや机はそのままなのだが、ワカバのベッドはマットレスも掛け物も片づけられていた。ごてごてとネコやアヒルの人形を並べ立てていた机も、きれいさっぱり物が無くなっていた。
廊下を歩いて来たローレライをつかまえて訊ねた。
「ワカバは? やめてしまったのか?」
「…ああ。死んだよ」
歴戦の美女は何でもないことのように言った。
「…死、んだ?」
「先日国境警備に回されたんだよね。ルルノイエ皇国といざこざがあったんだ。ワカバの他にギジムも死んだし、ザムザは片腕を無くしたそうだ」
「……。」
がくっと膝が折れた。死んだ。ワカバが死んだ。ショートカットのくりくりとした瞳。人なつつこそうに笑 う、明るいあの子が。
「平気か? 真っ青だぞ。おまえも死にかけたそうじゃないか。まだ完全ではないんだろう」
ローレライは肩を貸してジャンヌをベッドに座らせた。
『字が書けるなんて、すごいですねえ。あたし、自分の名前しか書けないんですぅ』
『とぉぉぉぉぉ!…いたた、面目無いです』
涙が止まらなかった。後から後から頬を伝った。母親に顔を斬られた時も、ロザリーと逃げ回ってつ らかった時も、こんなに泣いたりしなかったのに。胸が苦しい。なぜ、あんないい子が。
「この部屋で寝るのがつらければ、隊長に言って部屋を変えてもらうといい。とりあえず今夜はあたし の部屋へ来るかい」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
死は、となり合わせに居る。
『人の死ぬ数が最小限のこと』。ビクトールの言葉が耳に残っていた。

結局ほとんど眠れなかった。夜明けを待って、砦の墓地へ来た。中二階の階段から裏口へ抜ける、 目立たない場所にそれはあった。だが、夕方みんなが集う酒場よりも広い土地だった。ひっそりと、重なり合うように、粗末な十字架の群れが黒い土に刺さっていた。
まだ靄がかかるほど早い時間だったが、先客がいた。
「ビクトール…」
「妙なところで会うな。そうか、ジャンヌはワカバと同室だったな」
「ああ。いい子だったのに」
「ギジムには、ネクロード退治の時に出会った。山賊のかしらで、男気のある奴だった。…オレがルルノイエの動きに気づいてさえいれば!」
ビクトールは拳を幹に叩きつけた。肩が震えている。
「見ろよ。こんなせこい『ビクトールの砦』に、何十本の十字架があると思う? 既にこんなに仲間が死 んでいるんだ。オレにできるのは、気をつけて行って来いって言う、ただそれだけだ」
「……。」
「こんな傭兵の砦、早く必要なくなる時がくればいいと思う。だが、闘いのない国なんて、おとぎ話なのかな」
ジャンヌも星辰剣も、ビクトールの問いに答えることができなかった。

そして、ひと月。いや、ふた月近くたっただろうか。
ビクトールの砦の門に、黒塗りの馬車がゆっくりと停まった。馬車にはシルバーバーク家の鷹の紋章が彫り込まれていた。みごとな彫刻だ。降りてきた紳士もみなりがよく、頭の切れそうな男だった。馬車の中には既に一人の少女が座っていた。黒い長い髪を肩に垂らした、色白の美少女だ。
男は受付のエミリアに訊ねる。よく通る朗々とした声で。
「こちらにジャンヌ・ココヤマ嬢はいらっしゃ るかな」

来た時同様、荷物は少なかった。ジャンヌは親しい仲間たちと握手を交わし、笑顔で舎屋を出た。ボブには肩をどつかれ、ローレライには抱きつかれた。フリックは目に浮かんだ涙をごしごしとぬぐい去ると、静かにジャンヌの手を取り、想いをこめて握った。唇を噛みしめ、ジャンヌは頷く。
そして、最後の挨拶の相手。
「ビクトールは?」
「そういえば、朝から見ないな。倉庫にでもこもって、一人で泣いてるんじゃないか」
フリックの言葉に、緊張でこわばっていたジャンヌの頬がゆるんだ。
受付嬢のエミリアが「ビクトールさんなら、手紙を預かっていますよ。ジャンヌさん宛」と、愛想のない白い封筒を取り出した。
「へええ、ラブレターかもな。あいつもキザなことするじゃないか」
茶々を入れるフリック。
「…。『オレも砦を出ることにする』」
「えーっ!」
ジャンヌよりフリックの方が驚いていた。
「なんだって!」
『あの時おまえに言ったのは本心だ。傭兵は金で雇われた人殺しだということ。 次におまえと会う時には、もっと恥ずかしくない自分でいたいと思う』

『とりあえずオレは、殺された村人の墓だらけの故郷を、元どおりの港町に作り変えたいと思う。その資金づくりのために、結局暫くは、旅から旅への用心棒家業ってことになるだろう。
砦は、フリックに任す。フリックの砦とでも青雷の砦とでも勝手に名前を変えていいって言っといてくれ』
「ええーっ! そんなの聞いて無いぞ!」
「フリックさん宛にも、ほら別に一通」
エミリアはにっこりと白封筒を差し出した。

黒塗りの馬車が砦を遠ざかっていくのを、峠からビクトールは見下ろしていた。 グレッグミンスターへ向かって、長い旅になるんだろう。陽の光に反射しながら、 馬車はやがて景色に溶け込んで見えなくなった。
「行くぜ、星辰剣」
『なにを偉そうに』
ビクトールは反対の道をゆっくりと降り始める。いつかこの道がどこかで触れ合うことがあるかもしれない。それまでは…。

「ビクトールさんからの最後の手紙なのに、たったそれだけしか書いてないの? そんな連絡事項みたいなの。ほんとに気が効かない男ねえ」
馬車で隣に座ったロザリーは、相変わらず容赦が無い。
「マイハニーとか、愛よ永遠にとか、甘い言葉は書いてないわけえ?」
「ないよ、そんなの。それに、もし書いてあったら、あたしの方でも何かの暗号かと思うさ」
ジャンヌはそう言って笑った。
手紙はこう締めくくられていた。
『おまえのめざす道と、オレの道が、いつか一瞬でも交差することを祈って』
手紙を胸に抱きしめる。ジャンヌは声に出さずに呟いた。
その時まで、さらば。愛しの熊オトコ殿。

 ジャンヌの顔面を塩からい波が叩いた。
「ゴホッ、ゴホッ」
 飲み込んでしまった。波は続けてジャンヌを襲い、苦しい呼吸が続いた。
「司令官どの大丈夫か? ちゃんとつかまってろよ!」
 嵐の中、二人乗りの小型艇を操る大きな背中は懐かしい男のものだったが、そうだった、 甘い感傷にひたっている余裕などあるわけがなかった。
 船は、港町キーロフへ向かう。
「港の灯は見えてる。あと少しだ」
 舵を取るビクトールの方が、ジャンヌを励ましていた。
「そうだ、あの美人の妹はどうした」
などと、世間話までする余裕だ。
「ロザリーは元気だよ。式はまだ先だが、大臣の息子と婚約して、花嫁修行中だ」
 口を開くと横なぐりの雨が襲う。気管に入ると厄介だ。
「…ジャンヌ、泳ぎは達者か」
 嫌な予感がした。
 ジャンヌは両手で船の縁にをきつく握り、「達者というほどではないが。普通には泳げる」
 雨としぶきを飲み込まないよう気をつけて答えた。舌をかみそうになる。
「そりゃあよかった。舵がいかれたよ。このまま乗っているより、泳いだ方が港に早く着く」
「生きて辿りつければの話だろう」
「まあな」
 ビクトールの帽子はとうに突風に吹き飛ばされ、濡れてほとんど黒に見える灰色の髪がばさばさと揺れた。ジャンヌのマントもどこかへ行ってしまった。軍服はしっかりした布地だったが、海で泳いだのと ほとんど変わらないくらいに濡れてくたくたになっていた。雨を含んで鎧のように重かった。泳ぐなら、軽い方がマシだ。ジャンヌは軍服を脱いで下着になった。ビクトールはヒューと口笛吹いたが、怒濤の波音でかき消される。
「なんだ。色気のない下着だな」
「当たり前だ。軍服の下に着るやつだ」
 半袖の首無しシャツという代物だった。
「海に飛び込んだら、オレから離れるなよ。しっかり掴まっていろ」
ぐらりと船が傾いだ。

☆ ☆ ☆

 砂浜に足が着いた時は、鉛を背負っているように体が重かった。息なんかもうしていないような気が した。
 ほとんどビクトールに引きずられるようにして、ジャンヌは波の来ない砂の上に倒れこんだ。
 「司令官どの、生きてるか?」
 息が苦しくて声が出せないので、何度もしっかりと首を振ってみせた。正直言って、途中で何度も諦めかけた。ビクトールが海中を抱きかかえるように運んでくれた。
「無事みたいだな。気絶でもしてたら、口うつしで息を吹き込んでやろうと思ったのに」
 「ばかもの!」
ジャンヌは寝ころがったままでビクトールを殴る真似をした。まったくこいつは、 今でもこんなことばかり言う。
 やっとのことで起き上がると、首も胸も腹も、全部が砂まみれだった。この格好で軍の宿舎まで行くのか。あまり偉い人物がいないといいが。
「おう。復活したか」
 ビクトールが体の砂を払いながら言った。
 風の向きが変わった。雨が、陸から海へと吹き込んだ。
「歩けるか?せっかく命がけで海を渡ったんだ。早く行かないと甲斐が無いぞ」
「わかってる」
ジャンヌは苦しい息の下から答えた。
「だが、私が軍の宿舎に行ってる間に、またどこかへ消えてしまうのじゃないのか?」
ビクトールの濡れたシャツを握りしめる。彼はかすかに笑ってみせた。
「……。早く行けよ」
「ビクトール!」
「今回、少しでもジャンヌ司令の役に立てたのかな」
「…すべて、おまえのおかげだ」
「また、いつか会えるさ。オレだって、海賊で終わるつもりはない。だが、今夜会えてよかったと思ってる」
照れ屋のビクトールが、珍しく真面目な口調で言った。彼の気持ちは動かない。ビクトールは、また、去って行くのだ。
闇の中で、粉砂糖のような細かい雨が舞っていた。小さな粒だが、冷たさが心地よかった。
ビクトールは掌を広げて、落ちて来る雨粒を計っていた。
 ・・・また終わってしまった。
「わたしも、おまえの回りにまとわりつく、一粒の雨にすぎない」
「…ほら、もう行けよ」
ビクトールは、大きな掌で、ジャンヌの背中を押した。
「またどこかで、道が重なるよな?」
振り返らずにジャンヌが尋ねる。冷えたカラダに、手のぬくもりが滲みた。
また、いつかどこかで。
それまでは、前へ進んで行こう。前へ進むことが、きっと奴につながる道なのだと信じて。
ビクトールの手が離れ、ジャンヌは砂の中に足を踏み出した。闇夜の砂浜が、雨に濡れて銀に輝いていた。
次に会う時まで、さらば。愛しき熊オトコ。

 

★ END ★

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