第21話 シャボンの香り・2』


 夏が近かった。桟橋で釣り糸を垂れるヤム・クーは、暑さにもろ肌を脱ぎ、麦わら帽子をかぶっていた。背には阿修羅王の絵が彫ってある。ストローハットのヤクザが釣りをする図・・・。たぶん背後から見たらマヌケな姿なのだろう。
「暑いですわね。スイカをおすそ分けして回ってますの。ヤムさんも食べませんか?」
 こういう姿に限って、一番見られたくない人に目撃されるものなのだ。ヤムはヨシノの声に振り向いた。彼女は浴衣姿で、手にカットスイカの皿を支えて立っていた。桟橋の風は強く、ヨシノの長い髪と浴衣の裾をはためかせていた。
「ありがたくいただきます。浴衣着たんですね」
「フリードに、袴姿じゃ見ていて暑苦しいと叱られました」
 ふふっと鼻の頭に皺を寄せて笑った。白地に朱と紺で花火が描かれた浴衣は涼しげで、そこだけ違う色の風が吹いているようだった。
「初めて間近で見ますけど、入れ墨って随分綺麗なものなんですのね」
 スイカに手を伸ばしかけて、ヤムは赤くなった。裸なのを忘れていた。
「すいやせん、着ます。ご婦人の前っすね。暑さで少しぼうっとしてやがる」
 ヤムは肩を抜いていた着物をあわてて羽織った。そして照れ隠しのようにガブリと大きな口でスイカに噛みついた。冷たい果汁が歯にしみた。
「よく熟れていて甘いですね。うまいっす」
「トニーさんの畑の試作品なのですって。
 ヤムさんの背中の絵って、宗教画ですか? 観音様かマリア像みたいでしたけど」
「・・・。阿修羅王の像です。ガキん頃、いきがって入れたんです。お恥ずかしい」
「阿修羅って、闘いの神様ですわね」
「喧嘩に強くならなきゃと思ってたんでね。でも、あの頃も今も闘いは苦手っす。女のヨシノさんでも闘いに出ることがあるのに、おいらは、ここで日がな一日釣りしてる臆病者ですよ」
「そんなこと・・・。私はお肉よりおサカナの方が好きなんです。ハイ・ヨーさんのレストランでサカナ料理が食べられるのは、ヤムさんのおかげですもの」
「・・・怖くないんですか?」
「えっ?」
「おいらの背中を見た女の九割は、後ずさりする。兄貴やアマダさんと違って、おいらは彫り物をしてるようには見えないらしいですね。でも、背中を見て『こいつはヤクザだったんだ』ってことを思い出すんだ。残りの一割は、急にすり寄って来たりしますけどね」
 ヤムは鼻で笑った。前髪でその表情はほとんど見えない。
「そうねえ。人柄を知る前にそれを見たら怖かったかもしれませんけど。でも、ヤムさんはいいひとですから」
 ヨシノの言葉に苦笑する。『いいひと』のヤクザ。毒にも薬にもならない。存在価値さえないかもしれない。ヤムはスイカの汁にまみれた口許を、乱暴に腕でぬぐった。
「あら、気づきませんで。これ、使ってください」
 ヨシノが、淡いピンクのガーゼハンカチを、浴衣の胸元から取り出した。
「いいっすよ。せっかくの綺麗なハンカチが、汚れちまいます」
「汚れたら、また洗濯しますから」
 ヨシノは、ヤムの手にガーゼを押しつけて戻って行った。それは触れると、スイカで冷えた唇にはふんわりと暖かく感じられた。
石鹸と、そして少し甘いようなおしろいの匂いがした。

   ☆おわり☆ 

 

タイ・ホーは博打打ちですが、一応は職業は漁師です。
限りなくヤクザに近いですが、ヤクザじゃありません(だから子分のヤムも、ほんとはヤクザじゃないんですけどね)。

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