第22話 シャボンの夏 



  本格的な夏がやってきた。じりじりと焼きつける太陽の下、じっとして釣り糸を垂れるのはつらい。ヤム・クーは『肉弾戦』に切り換えた。つまり、銛を握って海に潜るのだ。
 群青の水、ダークグリーンや臙脂色の海草のゆらぎの中を、銀の鱗のサカナを追って泳ぐ。漁は名目だった。別に収穫などなくてもいいのだ。漂い流れる心地よさに、そのまま身をまかせてしまいたくなる。水の上の世界では戦争をしていることを忘れそうだった。
 水面を白い影がよぎった。桟橋に誰か来たらしい。ヤムは上昇し、水の鏡を破り出た。
「ヨシノさん」
 いつもヤムが座る釣り場に、浴衣姿のヨシノが胸に包みを抱いて立っていた。洗ってくれたヤムの着物を届けに来たのだろう。下駄の素足の白さが陽に映え、目にしみた。
「ヤムさんたら、入水なさったのかと思いました!」
 水面から顔を出したヤムを見つけ、おっとりした彼女が珍しく早口でまくしたてた。そういえば、脱いだ着物はきちんと畳んで置いてあったし、草履も揃えておいた。風で遺書が飛んだかと捜したかもしれない。ヤムは苦笑する。
「自殺する理由なんて、ありゃしません。それほど濃い生き方をしていませんから」
 水に浮きながら、銛を桟橋に放り上げる。上にあがろうとして、自分がさらし一枚の姿であることに気づいた。
「ヨシノさん。申し訳ないが、着物を投げてください」
「これですか? はい」
 ヨシノはかがんで、左手で柱に捕まって、右手に着物を握って手を伸ばした。投げてくれていいのに、手渡そうとしたのだ。
その時、メガネがずり落ちそうになって、ヨシノは左手でフレームを抑えた。左手? 柱を握っていたはずの? 『あら?』と思った瞬間、ヨシノは海に落ちていた。
 大きな水音と高い水しぶきがあがった。『やれやれ』と肩をすくめ、ヤムは再び潜った。たいして心配はしていなかった。ヨシノは泳げるはずだ。カナヅチが頻繁に桟橋を訪れるわけはないし、今までも水を恐れる様子はなかった。
 だが、実際は、水中で右往左往していた。メガネを無くして、見えないのだ。くるくる回って、どっちが上か見失っているようだった。ヤムは溺れた者にやるように、後ろから首に腕をかけて引っ張り上げた。水上に顔を出したヨシノは激しく咳き込んだ。
「大丈夫っすか?」
「ええ、ごめんなさい。少し水を飲んだだけ。『水使いのヨシノ』が溺れたら洒落になりませんわ」
 そう言って苦しい呼吸の下から笑顔を作ってみせた。メガネの無い顔はまるで少女のような素朴さで、濡れた長い髪は頬や首に張りついていた。
『水使い』。最近ヨシノは最強パーティーに呼ばれることが多くなった。彼女は水、つまり回復・治癒の魔法に大変な才能があるのだ。敵が強大になればなるほど当然危険も大きくなるし、ヨシノの負担も重くなる。
「でも、メガネが。困ったわ」
「ちょっと待っていてください」
 ヤムはヨシノを桟橋の柱に掴まらせると、三たび水の中へ戻って行った。細いフレームのメガネは、藻の間に紛れたのか水草が隠したのか、なかなか見つからない。長くヨシノを一人にするのも気の毒だ。視界がきかないから不安だろう。
「すみません、見つからなくて・・・。とりあえず上がりましょう。後でおいらが探しておきますから」
 ヨシノがここから桟橋によじ登るのは無理だった。数十メートル先に陸に上がる階段がある。ヤムはさっきヨシノが投げた(落した?)着物を、ぷかぷか浮きながら器用に羽織ると、ヨシノの手を取ってそこへ向かった。ヨシノは泳ぎは達者だったが、足が付く辺りになって難儀した。
「きゃあっ! 何かいますーっ」
 泳ぎにくいので下駄を水中に捨てたらしい。裸足の足の裏に、蟹やら貝やらなまこやらが当たる。それが気持ち悪いのだろう。踏むたびに大騒ぎし、ひどい時には泣きべそでヤムにしがみついた。見えていない分、余計に不安なのだ。
「うわっ」
 しがみつかれて、ヤムも足を滑らせて転んだ。かばって下敷きになったのがまずかった。後ろから抱きすくめるみたいなかっこになって、ヤムはあわてて手を振りほどいた。
「もうすぐ階段です。頑張ってください」
 なるたけ平気そうに声をかけたが、心臓が音をたてて暴走していた。水が膝当たりになると、ヤムは急いで着物を脱いでヨシノの肩にかけた。本人は見えないので気づいていないだろうが、白地の浴衣が濡れて、肌が透けていたのだ。こんなのは、今のヤムには目の毒以外の何物でもなかった。
 階段を昇り、陸に辿りつくとヨシノは膝をついた。気を張っていたのがぷつんと切れたらしい。
「誰か呼んで来ます。ここを動かないでくださいよ」
 走り出した途端、出会い頭にクライブに会った。彼は海へ降りる階段に向かっていた。
「ヨシノが落ちただろ? 窓から見えたんだ」
『ヨシノ』? 確かにクライブはいちいちメンツに『さんづけ』で呼ぶようなタイプではないが。呼び捨てた名前の響きには、親しげな匂いがあった。それに冷血そうなこの男が、城の窓からヨシノが落ちたのを見て、助けに飛び出して来たというのか?
「大事はありませんが、メガネを海に落して。一人で歩かせるのは不安な状態です」
「オレがフリードの部屋まで送っていこう。・・・・・・やあ、ヨシノ。派手に落ちたな」
 クライブは口の端で笑って言った。
「水の女神に呼び込まれたんですわ」
  ヨシノは拗ねてぷいと横を向き、軽口を叩いた。離れていても、クライブとわかるらしい。ま、夏に暑苦しいマントをまとっている奴などそう多くない。
「言ってろよ。・・・その元気があれば、大丈夫だ」
 クライブはマントを脱ぐと、ヨシノへと投げてよこした。
「ヤムに着物を返してやれよ」
 ヨシノは言われるままにはおった着物を脱いで、クライブの暗い色のマントを肩にかけた。「ありがとうございました」と、ヤムに着物を手渡す。
「早く着てくれ。下半身は正直だよな。ヨシノのメガネが無いことに感謝するんだな」
 クライブの言いぐさに、ヤムはむっとしながら素早く着物を着て帯を結んだ。
「こちとら健康な成人男子なんだ。こんな美人にぴったりくっつかれちゃ、仕方ねえだろう」
 言いながら顔がほてった。
 ちらとヨシノを盗み見ると、真っ赤になって下を向いている。クライブの奴、余計なこと言いやがって。
 クライブはふっと笑うと、「レベル60。HPは六百ちょっと。水魔法の能力はA。レンジはM。武器は薙刀・桜丸。・・・ヨシノに女を感じたことなんてない。バレリアもおんなじだ。雑念などあると、生き残れない」
 そういえば、クライブも最強パーティーの常連だった。ロックアックス城への突入という厳しい闘いが近づいていた。クライブが漂わせるピリピリ切り裂くような空気は、そのせいなのだろう。普段は、ぶっきらぼうだが嫌な奴ではなかった。
「生きて帰って来れたら、また会おう」
 クライブはそう言い残し、ヨシノの肩を抱いて城の宿舎へ戻って行った。
 
 そのあとヤムは、日没までかかってメガネを捜し当てた。軽いフレームのせいで少し流されていて見つかりにくかったのだ。
それをタイ・ホーに託し、ヨシノへ届けてもらった。
「いいのか、自分で届けないで」
 怪訝そうに尋ねる兄貴分の言葉には、ヤムの恋を知っている含みがあった。ヤムは唇だけで笑う。
「潜り疲れちまいました。とっとと眠りたいんです」
 そう、ヤムは眠りたかった。海中に漂うサカナのように、何も考えず、睡魔の流れに引き込まれてしまいたかった。
 朝が来れば、また気分も変わる。

   ☆おわり☆  


海、海って書いてありますが、すみません、知っています。湖なんです。水滸伝ですから。
でも、ビクトール主役の「その後」を書いた時から、 わざと「海」にしていました。
湖じゃ、ビクの決めゼリフが決まらないんだもの。
それに、ヤムの釣りゲームでは、イカも釣れる。イカは海の生き物だもん。


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